【南アフリカ】写真展

写真展「南アフリカ」について
日時 2023年4月6日(木)~9日(日) 10時~16時
ご来場ありがとうございました。


  
国旗
  
国の位置
 
【正式国名】: 南アフリカ共和国・Republic of South Africa
【首都】 (行政府:プレトリア(各国大使館はここに置かれ、実上の首都の役割をしている)
【首都】(立法府):ケープタウン
【首都】(司法府):ブルームフォンテーン
【人口】約5,800万人
【人種】
バントゥー系民族(黒人) 79.4%
白人 9.2%
カラード 8.8%
アジア人 2.6%

 南アフリカに白人が上陸したのは、大航海時代1488年に、ポルトガル人がアフリカ大陸最南端に到達したのが始まりであった。
 これを契機にオランダの東インド会社が、喜望峰を貿易の中継基地として以後、オランダ人の移民が増加し、ケープ植民地が成立した。
 オランダ人喜望峰開拓者の子孫で、ボーア人と呼ばれる人々と、先住アフリカ人やオランダ領東インドから連れて来られた、インドネシア系諸民族との混血が進み、 「カラード」と呼ばれ、後に黒人とともにアパルトヘイトの対象となる民族集団が生まれた。
 18世紀末には、金やダイヤモンドの鉱脈を狙いイギリス軍が到来して、ケープタウンを占領した。 19世紀初頭に、ケープ植民地はオランダから正式にイギリスに譲渡された。これ以後はイギリス人が増加し、 英語を解しないボーア人は「アフリカーナ」と呼ばれた。
 1834年イギリスの司法制度により、奴隷労働が廃止され、アフリカーナ農業主はこれに反発し、 1839年にナタール共和国、1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ共和国などを建国した。 そのために第一次、第二次ボーア戦争、またその他の先住アフリカ人諸民族の抵抗によるズール戦争も勃発し、 全て抗争に敗れ、南アフリカはイギリスの支配下に置かれることになった。


年表

1910年5月31日 ケープ州、ナタール州、トランスヴァール州、オレンジ州の4州からなる南アフリカ連邦として統合され、イギリス帝国内の自治領として、アフリカーナの自治を確立した。
1911年鉱山・労働法制定(白人労働者保護のための最初の人種主義法)
1913年原住民土地法制定(黒人が白人から土地や家屋を買い取ることが禁止された)
1927年背徳法(白人と黒人・カラード・インド系の恋愛関係の禁止)
1948年アフリカーナの農民や都市部の貧しい白人を基盤とした「国民党」が政権を握り、南アフリカの「アパルトヘイト」政策の本格的な始まりであった。
1950年集団地域法制定(人種別に居住区が割り当てられ、それ以外での居住が禁止)
1950年共産主義鎮圧法制定(南アフリカ共産党が非合法化された)
1953年隔離施設留保法制定(道路を除いて、白人と黒人の生活上の施設の利用区分を設定した。
1953年バントゥー教育法制定(白人生徒の教育予算は黒人生徒の10倍だった)
1956年暴動的集会法制定(法務大臣の判断で、公共の場での集会が禁止された)
1959年バントゥー自治促進法制定(民族や部族単位で自治区を分けた)
1959年大学教育拡張法制定(白人と黒人の共学が禁止された)
1967年テロリズム法制定(警察が持つ情報をもとに、逮捕状や裁判なしで拘留可能)
1970年当時平均して白人の工業労働者は黒人の労働者に対して6倍、鉱業労働者においては黒人労働者に対して白人労働者は何と21倍の給料を得ていたとされる。
1980年国内各地でアパルトヘイト反対運動が激化、国際社会からも経済制裁が強化
1987年国際社会が文化交流禁止、経済制裁に動く中、日本が最大の貿易相手国となり、国連の批判を受ける(ガバル声明)
1984年国民党の、ピーター・ウィレム・ボータ政権は、白人・インド人・カラードによる人種別三院制議会を開設した。
1985年雑婚禁止法、分離施設法が廃止された。
1986年バス法廃止。
1986年アメリカで反アパルトヘイト法が成立。
1987年北欧三か国が対南ア貿易禁止法を制定。
1989年9月に次期大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークは国民党政権の方針転換を行い、アパルトヘイト関連法の撤廃に向け改革の推進を開始
1990年2月、アフリカ民族会議(ANC)やパン=アフリカ会議(PAC)、南ア共産党を合法化し、ついにネルソン・マンデラを釈放した。
1991年2月に国民党デクラーク大統領による、アパルトヘイト政策廃止の宣言。
1994年全人種参加による選挙が行われ、5月ネルソン・マンデラが大統領となり、新政権が樹立された。
1996年新憲法採択、国民党が政権を離脱。


『南アフリカとネルソン・マンデラ

 ネルソン・マンデラ(正式名:ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ)を抜きにして、南アフリカ共和国の歴史を語ることはできない。
マンデラは1918年7月18日、トランスカイのクヌ村に生まれた。首長の子として育つ過程で、反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップ、また人として必要な寛容の精神などを学び育った。メソジスト派のミッションスクールを卒業後、フォートヘア大学に入学し、1940年学生ストライキを主導したとして退学処分となった。しかし、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び学士号を取得した。また、その後はウィットワーテルスランド大学で法学の学士号を取得した後、1944年、アフリカ民族会議(ANC)に入党した。そこで青年同盟を創設し執行委員に就任し、本格的にアパルトヘイト運動に取り組んだ。
 1948年に、ダニエル・マラン率いる国民党が政権を取ると、この新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していった。これに対して、アフリカ民族会議は政府に対して、より強硬な対決姿勢を強め、その急先鋒を務めたのが青年同盟の有力メンバーのマンデラその人だった。1949年以降アフリカ民族会議は、穏健政策からストライキやデモを行うなどして、政府に圧力をかける方向にかじを切った。1950年にマンデラは、アフリカ民族会議青年同盟議長に就任するとともに、アフリカ民族会議を構成する、南アフリカ共産党にも入党し、その中央委員も務めた。
 1955年6月25日及び26日に、アフリカ民族会議はヨハネスブルグにおいて、南アフリカの全人種が参加する人民会議を開催し、「南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人々に属する」という文言で始まる自由憲章を採択して、自由民主主義を旗印として掲げた。
このような活動において、1956年アフリカ民族会議の主要メンバーは、国家転覆罪の名において、逮捕され裁判にかけられたが、この時は無罪となっている。しかし、1961年に「民族の槍」という準軍事組織を作りマンデラが初代司令官となった。その後政府施設へのテロ行為を行ったということで、民族の槍はテロ組織と認定されマンデラは、1962年8月逮捕された。
 1964年マンデラは国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。しかし彼は収監中にも勉学に励み、1989年に南アフリカ大学の通信課程を修了し、法学士号を取得した。

 獄中にあっても、マンデラはアパルトヘイトからの解放運動の、象徴的な存在とみなされ、全世界から釈放の声が上がるようになった。1982年ロベン島から、ポールスモア刑務所に移送され、1989年7月に時の大統領ピーター・ウィレム・ボータと会見が行われた。ボータは、マンデラとは政治的な立場を超え個人的な友好関係を築いていたとされる。さらにマンデラは、1989年12月に次の大統領となった、F・W・デクラーク(彼は、黒人たちとの交渉によって、南アフリカの将来を決めてゆくという、現実的な民主改革路線を標榜していた人)と会談したが、獄中から釈放されることはなかった。1990年2月2日、デクラークは、アフリカ民族会議や他の政治団体の活動許可とマンデラ釈放の約束をして、ついに2月11日釈放された。釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーから、10万人もの人々が祝福して見守る中行われた。実に27年間の投獄からの解放であった。解放後は、マンデラはアフリカ民族会議代表として、政府国民党と政治犯の釈放や、アパルトヘイト諸制度の廃止を新憲法制定の前提として要求した。マンデラ釈放後も、反政府勢力の抗争は続いていた。
 1991年6月、ついに国民党政府は、アパルトヘイトの根幹法である人口登録法、原住民土地法、集団地域法などを廃止した。1991年7月にはマンデラが、アフリカ民族会議の議長に選出され、マンデラの後継者の暗殺事件による暴動や政府国民との交渉の継続を根気強く行うことで、1993年11月合意が成立し、暫定憲法が国会で採択され、1994年4月全人種参加の制憲議会選挙が行われ、選出された新議会において新憲法を作成することが定められた。これらの成果を受けてマンデラは、1993年12月10日にデクラークとともに、ノーベル平和賞を受賞した。

 1994年4月27日、南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施され、アフリカ民族会議は得票率62.65%、252議席を獲得勝利し、マンデラはついに大統領に就任した。その時彼は76歳であった。
 それ以後も、南アフリカはアパルトヘイト時の抗争に使用した武器の放置や、貧困層による治安悪化や、移民対策、エイズへの対応など問題は山積したまま、現在に至っている。
 しかし、歴史上稀にみる人権問題の解決に、その人生を捧げたマンデラの功績は、今も南アフリカの人々の心に深く刻まれている。
 私は、ネルソン・マンデラの人生を考える時、中国前漢時代の歴史家、司馬遷の「史記」に登場する、匈奴の捕虜となった、蘇武という漢の武将を思い出す。
 蘇武に遅れて匈奴の捕虜となった、漢の武将李陵が、苦悶の末匈奴への服属を選んだのに対して、蘇武は最後まで漢帝国への忠誠を貫き、考えを翻すことなく牢獄生活に耐え抜いた。その結果、後日、漢と匈奴の和平が締結されたおり、何のわだかまりもなく、蘇武は故郷漢に帰ることができた。
 祖国へ帰る蘇武を見送る時、李陵は「ああ、やはり天は見ていたのだ。」と思ったに違いない。
 命をかけて、国を思う純粋な思いを、生涯持ち続けた蘇武に、天が与えた大きな償いであり、同じく、ネルソン・マンデラも、間違いなくその一人なのである。

出典:ウィキペディア、講談社現代新書「新書アフリカ史」、峯洋一:世界史の窓、中島敦「山月記・李陵」、司馬遷「史記」他


〒868-0431 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北字宮野892−1

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