【ポルトガル】写真展

国名:ポルトガル(Portugal)  
言語:ポルトガル語
政体:大統領制
人口:約1,000万人
面積:日本の約4分の1

国名由来:ポルトガルの国名は、古代のポルトスガレ伯領が変化したものです。ポルトスガレは、ラテン語の「ポルトゥス」(港)と「ガレ」(温暖な)から派生しており、「温暖な港」を意味

ポルトガルについて】
 15世紀半ばから始まった大航海時代に、当時の西洋列強の国々は、世界の海に進出をはじめた。 16世紀になると、ポルトガルも日本近海に活動領域を広め、ポルトガル船(あるいは明船)が、1541年豊後国神宮寺浦に漂着し、その船に乗っていたのがポルトガル人であった。 これが日本とポルトガルの最初の接触とされている。
 その後、1543年種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲を所持していたことから、新しい武器として日本に広がっていった。
 ポルトガルの主要目的は、アジア地域での、貿易商圏及び植民地の拡大であった。その貿易商人は、キリスト教布教による民心支配を戦略とした、 多くのキリスト教宣教師を伴っていた。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本での布教活動を始める。 その後ポルトガルは九州を拠点として、西洋の製品や文化を紹介し、日本からは多くの銀が輸出された。
 九州を中心とした、キリスト教布教活動によって、キリシタン大名も現れ、1582年に天正遣欧少年使節団の派遣も行われた。 しかし、その後の1587年豊臣秀吉による、『バテレン追放令』が九州筑前において発令された。 しかしこの『バテレン追放令』は、まだ弾圧を目的としない形式的なものであった。 さらに1596年の『禁教令』では、同年発生した「サン=フェリペ号」の船員の、「宣教師は領土征服の尖兵である」との発言に豊臣秀吉が反応して、国策として強制力をもった政令となった。 この時、フランシスコ会、イエズス会修道士及び日本人を含む二十六人ものキリスト教徒が処刑されている。
 江戸時代にも、徳川幕府はスペインとポルトガルの連合勢力を退け、オランダを主力海外貿易先として、長崎の出島を拠点に公認した唯一の相手国とした。
 現在ポルトガルが、日本の歴史に残した足跡としては、タバコ、ボタン、コップ、パン、シャボン等の語彙や、金平糖、カステラ、丸ボーロ、エッグ・タルト等のお菓子類、またバテレンと呼ばれた人々を描いた南蛮屏風などがある。




人吉新聞に掲載されました。




〒868-0431 熊本県球磨郡あさぎり町岡原北字宮野892−1

写真展の歩み

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