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『アレクサンドロス大王/ 第5章
ディアドコイ戦争』

 「最強の者が帝国を継承せよ」。
 アレクサンドロス大王は、紀元前356年マケドニアに生まれ、紀元前323年その遺言を残し32歳でこの世を去った。彼は特定の継承者を選んでいなかった。というか、選ぶ時間もなかったというのが正確かもしれない。この遺言の信憑性は別として、実際にアレクサンドロスの死後、彼の部下たちの権力闘争が始まった。
 アレクサンドロスは遠征先のバビロンで亡くなったため、マケドニアの軍人や地元の人々は深い悲しみに包まれた。また、ペルシア帝国のダレイオス3世の母親シシュガンビスは、アレクサンドロスの死を悲しみ、食を断ち数日後に亡くなっている。彼女はペルシア帝国の王母としてマケドニアに捕らわれたが、アレクサンドロスの庇護のもと丁重に扱われ、バビロンで平穏に暮らしていた。アレクサンドロスは、部下の裏切りで殺害され放棄されたダレイオス3世の遺体を回収し、丁重に葬った。その母親であるシシュガンビスも丁重に扱い、生活の保護をしてくれた。そのアレクサンドロスの優しさと好意に深く感謝していたからである。彼女はアレクサンドロスを「息子」と呼んでいた。シシュガンビスにとって、アレクサンドロスは家族の一員だったのである。
 アレクサンドロス大王の死後、彼の広大な帝国は分裂し、ディアドコイ(後継者たち)の支配地域が広がった。この過程は、静かな湖に石が投げ込まれ、その波紋が広がるように、ギリシア文化が東方の地に広がり、新たな文化が生まれる時代を象徴していた。「ヘレニズム時代」の始まりである。ディアドコイ戦争は、歴史的に第一次から第五次までの区分があるので、それに基づいて書いてゆくことにしよう。
 ギリシア語で「ディアドコイ」は継承者という意味である。マケドニア軍の将軍たちによる「ディアドコイ戦争」の始まりである。
 「第一次ディアドコイ戦争」が始まった。紀元前323年「バビロン会議」と呼ばれる、将軍たちによって帝国の今後を決定する会議が開かれた。この会議で。病床のアレクサンドロスから指輪を委ねられたペルディッカスが摂政に選ばれた。そして後継者を誰にするのかが議題となり、アレクサンドロスには血縁で後継者にすべき者は見当たらず、しかもこのとき正妻のロクサネは妊娠中であった。そこでアレクサンドロスの異母兄弟であるアリダイオスが候補にあがった。アリダイオスは、フィリッポス2世とラリサ出身の踊り子ピリンナの子供として生まれた庶子であった。彼は幼い頃、フィリッポス2世の正妻オリンピュアスに、毒を盛られ知的障害が残ったと言われている。そのため政務や軍務に携わることはなかった。そうした経緯から、王位継承者争いから外されていた。しかし協議の結果、フィリッポス3世として即位させることが決まった。また当時妊娠中のロクサネの出産が男子であれば、その子をフィリッポス3世との共同統治王として即位させることが決定した。この会議の後、ロクサネが男子を出産し、その子もフィリポス3世と共にアレクサンドロス4世として即位した。
 バビロン会議において摂政となったペルディッカスは、大王死後の帝国全体の統治を始めた。しかし、彼のその後の行いそのものが、後のディオドコイ戦争の原因を作ったのである。そのことがわかる内容を書いた本の抜粋をしてみよう。
 「後継者戦争のきっかけを作ったのは、摂政ペルディッカス自身である。彼は反対派の人物を裏切り者として排除した上、自己の地位を固めるために、マケドニア本国の統治者アンティパトロスの娘を娶った。ところがその後、彼は大王の実の妹クレオパトラと結婚することを望み、妻とは離婚しようとする。これを知ったアンティパトロスは激怒し、他の将軍たちも彼の野心を警戒して、ここに反ペルディッカス連合が形成されたのである。たしかに王族女性との縁組は、自己の威信を高めるのに格好の手段である。しかし反面、それは王位への野心を抱いているとの疑惑をよび、王権への挑戦すら意味することになる。いまだ王国の統一が保たれているこの段階では、王族女性との結婚はこの上なく危険な選択だった。
 前321年、包囲されたペルディッカスは軍を2分し、一方を小アジアに派遣してアンティパトロス派の軍勢にあたらせる一方、彼自身はプトレマイオスを討つためにエジプトへ向かった。ペルディッカスのエジプト信仰には、次のような背景がある。アレクサンドロスは生前に、自分がシーワ・オアシスのアモン神殿の埋葬されることを望んでいた。彼の遺体は摂政ペルディッカスの監督下、バビロンで防腐処理が施され、豪華な霊柩車が二年もかけて作られた。同年、ペルディッカスは、王の遺体をシーワではなくマケドニアの古都アイガイに埋葬しようと考え、本国へ向けて送り出す。ところが霊柩車がシリアを通過する時、プトレマイオスが軍を差し向けてこれを奪い取り、遺体をエジプトに持ち帰ってしまった。彼は首都メンフィスで大王の葬儀を行って埋葬し、後に遺体をアレクサンドリアに移した。大王の遺体を自分の総督領に確保することで、プトレマイオスは他の後継将軍にはない大きな威信を手にすることができたのである。大王の遺体を奪われるという屈辱を受けたペルディッカスは、今やプトレマイオスを宿敵と見なし、討伐に向かったのだった。」『興亡の歴史 アレクサンドロスの征服と神話』著者:森谷公俊
 こうしてペルディッカスは、エジプトのプトレマイオス1世を討とうと遠征を行ったが、失敗に終わった。この遠征の失敗はペルディッカスの権威を大きく失墜させ、さらに部下の不満をつのらせた。特に、ペイトン、アンティゲノス、セレウコスなどの将軍が彼の統治に反旗を翻し反乱を起こした。紀元前321年6月、ペルディッカスはこのエジプト遠征中に部下たちによって暗殺された。摂政であるペルディッカスによって新しい統治が始まった矢先での彼の暗殺は、帝国の統一への道のりをさらに遠のかせる結果となったのである。ペルディッカスの死後、帝国はさらに分裂し、各地のディアドコイたちは独自の王国を築くなど、統一への道は混迷を極め、ヘレニズム時代の幕開けのきっかけとなった。
 紀元前321年秋になって、シリアのトリパラディソスで会議が開かれた。この会議で暗殺されたペルディッカスの後任の摂政にアンティパトロスが選ばれ、帝国の軍総司令官にはアンティゴノスが選ばれた。彼は小アジアの広範な地域、フリュギア、リュカオニア、パンヒュリア、リュキアの統治を任された。
 そして、各ディアドコイに新たな領地が割り当てられた。バビロニアはセレウコス、エジプトはプトレマイオス、へレスポントスはアリダイオス、リュディアはクレイトス、カッパドキアはニカノル、バクトリアとソグディアナはスタサノル、アレイアとドランギアナはスタサンドロス、キリキアはフィロクセノス、メソポタミアとアルベラ地方はアンフィマコス、スシアナはアンティゲネス、ペルシスはペウケスタス、インドのパラパミソス山付近(ガンダーラ)はペイトン、パラパミソスはロクサネの父親オクシュアルテス、パルティアはピリッポスなどである。一方で留任された領土もあった。帝国の領土は非常に広大で、多様な地域に分かれているために、新たな統治者を派遣するよりも、既存の統治者を留任させることがその地の安定化を図るには有効だとされたからである。エジプトのプトレマイオス、シリアのラオメドン、カルマニアのトレポレモス、メディアのペイトン、アラコシアとゲドロシアのシビュルティオス、カリアのアサンドロスなどである。こうしてトリパラディソスの会議では、ディアドコイたちの間で広範な領土の再配分が行われ、その支配が強化されたのであった。そして、最初の摂政であったペルディッカスは権力の集中と独裁的な統治を行ったため、他のディオドコイの反感をかっていた。ペルディッカスはエジプト遠征でプトレマイオスに敗れ、権威を失墜し、部下に暗殺された。新しく帝国の総軍総司令官に選ばれたアンティゴノスは、この会議の総意においてペルディッカス派の残党であるエウメネスらの討伐を命じられた。
 紀元前320年または紀元前319年に、アンティゴノスとエウメノスの間で「オルキュニアの戦い」が行われた。
 アンティゴノス軍は、歩兵およそ10,000、騎兵およそ2,000、戦象およそ30。  エウメネス軍は、歩兵およそ20,000、騎兵およそ5,000。  エウメネス軍の方が圧倒的に戦力は多かった。がしかし、アンティゴノスは戦いの前からエウメネス軍の騎兵司令官アポロニデスを買収し、裏切りを画策していた。しかもエウメネスは騎兵が戦いやすい平地を選択したが、アンティゴノスはエウメネス軍を見下ろす丘に布陣した。この戦いの先端は裏切り者の騎兵司令官アポロニデスが自軍への戦いを始めたことで開かれた。この裏切り行為で戦いの勝敗決まり、エウメネス軍はおよそ8,000の戦死者を出し完敗した。
 オルキュニアの戦いでエウメネスを討ったアンティゴノスは、ディアドコイの中で最も強力な存在となった。アンティゴノスの支配領域はアジアの広範囲に及び、他のディアドコイに対抗する経済基盤を盤石にする力を持っていた。また、アレクサンドロスの側近だったアンティパトロスは、帝国の摂政としてマケドニア本国の統治を任されていたが、紀元前320年に病となり、紀元前319年にポリュペルコンに帝国の摂政と全軍の最高司令官の地位を譲った。この決定にアンティパトロスの息子カッサンドロスが不満を抱き、彼はポリュペルコンに対抗するために、有力者のアンティゴノスやプトレマイオスと同盟を結び、新たな戦争の火種となった。この年、アンティパトロスは亡くなった。
 「第二次ディアドコイ戦争」の始まりである。
 紀元前317年の夏ごろ、カッサンドロスはエーゲ海でポリュペルコンの艦隊と戦った。この海戦で、カッサンドロスの艦隊がポリュペルコンの艦隊を壊滅させ、アテナイをカッサンドロスの同盟者であるデメトリオスの支配下に置いた。また、カッサンドロスはポリュペルコンの同盟者であったクレイトスをトラキア地方での戦いで破り、ポリュペルコンの軍事力を大きく削いだ。
 紀元前317年、ベルディッカス派のエウメネスがアンティゴノスとパラエタケネ(現在のイラン中央部)で戦ったが、決着がつかず引き分けに終わった。年が明けて紀元前316年の1月あるいは2月ころ、次はガビエネ(パラエタケネの近くで、イラン中央部)で戦いが行われた。エウメネスと同じベルディッカス派として活動していたペルシス太守のペウケスタスが、戦闘中に積極的な指揮をとらず、その怠慢から重要な戦闘の局面が変わり、アンティゴノス軍に敗れてしまった。その結果、エウメネスは捕らえられて処刑された。しかし、ペウケスタスは戦後も生き残ったが、この戦闘での裏切り行為が評判となり、その後のディアドコイ戦争においても重要な活躍は記録されていない。
 紀元前317年秋ごろ、ポリュペルコンと同盟を結んでいたアレクサンドロスの母オリュンピアスがカッサンドロスの不在を突いて、ポリュペルコンとエピロス王アイアキデスの支援を受けマケドニアに進軍し、帝国共同統治王の1人フィリッポス3世とその妻エウリュディケを捕らえ処刑した。さらにカッサンドロスの兄弟や支持者の多くも殺害された。オリュンピアスは、アレクサンドロス大王とその正妻ロクサネの間に生まれた嫡子アレクサンドロス4世の後見人でもあった。
 カッサンドロスはオリュンピアス連合軍がマケドニアに進軍し、フィリッポス3世を捕らえ殺害したという知らせを聞き、遠征を終えマケドニアに戻った。オリュンピアスがピュドナに籠城していることを知り包囲し孤立させた。これで降伏を余儀なくされたオリュンピアスは捕らえられ、紀元前316年処刑された。それは彼の権力を確立するための重要な手段だった。さらに彼はオリュンピアスの庇護していた、アレクサンドロスの正妻ロクサネと嫡子アレクサンドロス4世も捕えて処刑した。この事はアレクサンドロス大王の直系の家系を断絶し、自身のマケドニアにおける地位を確固たるものにするための方法だった。この1連の行動は、カッサンドロスがギリシア全土とマケドニアを掌握するための軍事行動として、ディアドコイ戦争に大きな影響力を与える結果となった。カッサンドロスはこの後も、他のディアドコイとの戦争を継続した。特にプトレマイオス、セレウコス、リシュマコスと同盟関係を結び、当時大きな勢力を誇るアンディゴノスに対抗した。
 紀元前316年、アンティゴノスはガビエネの戦いでエウメネスを破り、カッパドキア、パフラゴニア、メソポタミア地方などもその支配領域に加え、アジアの大部分を掌握したことで、ディアドコイの中でも最大級の勢力を誇り、他のディアドコイとの対立が鮮明になった。この状況から、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リシュマコスらが同盟を結ぶことで、アンティゴノスに対抗しようとした。
 これが「第三次ディアドコイ戦争」の始まりであった。
 紀元前312年、「ガザの戦い」があった。
 この戦いは、アンティゴノス1世の息子デメトリオスとエジプトの太守プトレマイオス1世がシリアの支配権をめぐり戦った。
 兵数を見ることにしよう。
 プトレマイオス軍の兵力は、歩兵およそ18,000、騎兵およそ4,000、戦象の数は不明。その布陣は、右翼にプトレマイオス自身が騎兵およそ3,000,戦象、投石兵、弓兵、軽装歩兵を配置。中央に歩兵およそ18,000。左翼は騎兵およそ1,000であった。
 デメトリオス軍の兵力は、歩兵およそ12,500,騎兵およそ4,400,戦象およそ43。その布陣は、右翼に騎兵およそ1,500,中央に歩兵およそ11,000、左翼にデメトリオス自身が騎兵およそ2,900、戦象およそ30を配置した。
 戦端はプトレマイオス軍が開いた。プトレマイオス軍はこの戦いで、明確な戦術をもって戦っていた。先ずプトレマイオスは自身の率いる騎兵部隊でデメトリオス軍の騎兵部隊に突撃し、他の騎兵部隊をデメトリオス軍の中央軍の側面を攻撃させた。さらに、プトレマイオス軍は一部の部隊を偽装退却させてデメトリオス軍に追撃をさせ、待ち伏せ部隊が追撃してきたデメトリオス軍を包囲して攻撃を加えた。
 またプトレマイオス軍は戦象対策も考えていた。戦象の進路には鋭い杭や障害物を置き、戦象に対して徹底的に足を狙って攻撃するように指示を出した。さらに、戦象は火を恐れることから、火で驚かせてデメトリオス軍内部での混乱を招くように仕向けた。目論見通りにデメトリオス軍の戦象は障害物や火に驚いて混乱に陥り制御不能となり、自軍の兵士を踏み潰すに至った。この戦いでデメトリオス軍は大敗し、およそ500の戦死者とおよそ8,000の捕虜を出した。このガザの戦いにおけるデメトリオスの大敗は、アンティゴノスの戦略に大きな影響を与えたが、彼の勢力は依然として大きく、ディアドコイ戦争は継続して行われた。一方でアンティゴノス1世の息子デメトリオス1世を破ったプトレマイオスはシリアの支配権を手にした。この戦いで敗れたデメトリオス1世は、アゾストに退却した。
 紀元前312年に「バビロン奪還戦」が行われた。
 プトレマイオスの統治するエジプトに一時避難をしていたセレウコスが、プトレマイオスの支援を受け、少数の兵士と共にバビロン(現在のイラク)に戻り、「バビロン奪還戦」を成功させた。セレウコス軍は歩兵およそ800,騎兵およそ200であった。対するアンティゴノス側の守備隊の数は不明である。セレウコスはバビロンに到着後、彼のかつての善政を懐かしむ現地の支持を得てバビロンを奪還した。
 これに対して、アンティゴノスの配下であるメディア太守ニカルノとアレイア太守エウアグロスが大群を率いて攻め込んで来た。この時の兵力は、セレウコス軍は、歩兵およそ3,000,騎兵およそ400だった。対するアンティゴノス軍のニカルノとエウアグロス連合軍は歩兵およそ10,000,騎兵およそ7,000の大軍であった。セレウコスはこの大軍をティグリス河畔で待ち伏せた。連合軍が野営をして油断している隙をついて夜襲を仕掛けた。この夜襲が大成功し、セレウコス軍は勝利した。アレイア太守エウアグロスは戦死した。メディア太守ニカルノは戦死したという説と、敗走したという説があり、明確ではない。しかし、セレウコスはこの戦いに勝利しバビロニアの支配を確立し、さらにスシアナとメディアも併呑したことで、後のセレウコス朝の基盤を築いた。この後、アンティゴノスの勢力は次第に減退して行った。
 紀元前311年、ディアドコイたちによる和平交渉が開始された。その背景はアンティゴノス1世の勢力拡大に対して、プトレマイオス1世、セレウコス1世、カッサンドロス、リュシマコスらの同盟軍が戦争を行い、各地で激しい戦いを繰り返したが、最終的には膠着状態に陥ったことが理由であった。この和平交渉で行われたのは、領土の再確認であった。
 アンティゴノスはアジアの大部分を支配し続け、プトレマイオスはエジプト、セレウコスはバビロニア、カッサンドロスはマケドニア、リシュマコスはトラキアをそれぞれ支配することを確認した。この時、名目上マケドニア帝国の共同統治王の1人であったアレクサンドロス4世は、その母ロクサネと共に、カッサンドロスによってアンフィポリスの要塞に軟禁され外部との接触が禁じられていた。成長したアレクサンドロス4世が、王位の主張をすることを恐れていたのだ。彼は紀元前309年に2人の毒殺を命じている。カッサンドロスのこの決意が、アレクサンドロス大王の血統を断ち切り、自身の支配力の強化となった。
 しかしこの和平の合意は、結局一時的な戦闘の停止の効果はあったが、完全な対立の解消とはならず、再び戦争が開始されることになる。
 「第四次ディアドコイ戦争」の始まりである。
 紀元前306年、「サラミスの海戦」がキプロス島のサラミス沖で行われた。この海戦はアンティゴノス1世の息子デメトリオスとエジプトのプトレマイオスの間でおこなわれた。
 デメトリオス軍はおよそ180隻、プトレマイオス軍はおよそ140隻での海戦である。船艦は両軍ともにトリレメース(三段櫂船)であった。デメトリオス軍は艦数の有利性だけではなく、巧みな操艦技術でプトレマイオス軍を包囲し、多くの船を撃破した。この大勝利によって、アンティゴノスは自らをマケドニア王と宣言するだけではなく、息子のデメトリオスも共同統治者とした。しかし、この宣言も次の戦いにおいて決着がつくのである。
 紀元前301年、小アジア(現在のトルコ)、シリア、フェニキア(現在のレバノン)、ユダヤ(現在のイスラエル南部、パレスチナの1部)、メソポタミアというこの広大な地域を支配するアンティゴノスと、同盟軍とのディアドコイ戦争の中で最も重要な「イプソスの戦い」が行われた。
 両軍の指揮官と兵力数をみてみよう。アンティゴノス軍の指揮官は、アンティゴノス1世とその息子デメトリオス1世。アンティゴノス軍の兵数は、重装歩兵およそ45,000、軽装歩兵およそ25,000、騎兵およそ10,000、戦象およそ75。
 セレウコス・リシュマコス連合軍の指揮官はそれぞれセレウコス1世、リシュマコス、セレウコスの息子アンティオコスである。セレウコス・リシュマコス連合軍の兵数は、重装歩兵およそ40,000、軽装歩兵およそ20,000、騎兵およそ15,000、戦象およそ400であった。
 それでは両軍の布陣状況はどうだったのだろうか。
 アンティゴノス軍の布陣は、右翼にアンティゴノスの息子デメトリオス、中央にアンティゴノス自身、左翼に軽装歩兵とその他の補助部隊であった。
 セレウコス・リシュコマス連合軍の布陣は、中央の歩兵部隊をセレウコス1世、右翼の騎兵部隊をリュシマコス、左翼騎兵部隊はセレウコスの息子アンティオコスが指揮していた。
 戦端は、セレウコスの息子アンティオコス率いる左翼騎兵部隊およそ15,000に対して、アンティゴノス軍右翼のアンティゴノスの息子デメトリオス1世の騎兵部隊およそ10,000が攻撃を始めたことから開かれた。この騎兵部隊の戦いは、デメトリオスの騎兵部隊が、逃げるアンティオコスの騎兵部隊を追撃し、深追いする形になり、お互いの騎兵部隊は戦場から遠ざかって行った。
 残る歩兵戦ではどうなったのだろうか。セレコウスとリシュマコスの連合軍は、アンティゴノスの中央軍と左翼軍に攻撃を集中した。戦象およそ400の部隊が、デメトリオスの騎兵部隊とアンティゴノス本隊の間に進出し、デメトリオスが帰還して支援できないように防御線を築いた。この結果、セレウコス・リュシマコス連合軍が勝利し、戦いの中でアンティゴノス1世は戦死した。デメトリオスは残存兵力を率いて退却した。
 この戦いにおけるセレウコス・リュシマコス連合軍の勝因は、過去のアレクサンドロスの戦術において、勝因の要となる騎兵部隊に対するアンティゴノス軍のこだわりが敗戦を招いたのではなかろうか。デメトリオスはアンティオコスの騎兵部隊の戦力を戦場から外すことが、アンティゴノス軍を優位に導くと判断したのではないか。歩兵部隊の兵力では、アンティゴノス軍がおよそ10,000多かったのだ。しかし、セレウコス・リュシマコス連合軍の戦術はそこにはなかった。戦術の要は戦象にあった。騎兵部隊を戦闘に加わらせない作戦をとったのは、むしろセレウコス・リュシマコス連合軍のほうであった。そのために多くの戦象を投入して、デメトリオス騎馬部隊の防衛線に使ったのである。セレウコス・リュシコマス連合軍の戦術が、アンティゴノス軍の戦術を上回ったのである。
 ちなみに、イプソスの戦いに敗れ退却したデメトリオスは、ギリシアに戻り、アテナイや他の都市を開放して、兵力の回復を行った。しかし彼は再起を目指して多くの場所を転戦したが、最終的にはセレウコスと小アジアで戦い、敗北し捕らえられて紀元前283年にシリアで獄死している。
 イプソスの戦いが終わるとセレウコス1世は、戦死したアンティゴノスの領土であった、シリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリア(現在のアフガニスタンとその周辺地域)などの多くを支配し、大帝国セレウコス朝を築き、大きく勢力を伸ばした。
 リュシマコスは、トラキアと小アジアの1部を支配し、リュシマコス朝を築いた。
 プトレマイオス1世はエジプトを支配し、プトレマイオス朝を築いた。
 カッサンドロスはマケドニアを支配し、アンティパトロス朝を築いた。
 これでわかるように、イプソスの戦いの後、アレクサンドロス大王の築いたマケドニア帝国は完全に分裂し、ディアドコイたちが築いた王朝が新しく生まれて、王位継承の争いのために混乱が続いた。
 紀元前288年から紀元前285年にかけて、「第5次ディアドコイ戦争」が行われた。この戦争は主に、セレウコス1世、プトレマイオス1世、リュシマコス、デメトリオス1世の間で繰り広げられた。
 紀元前285年、リシュマコスとプトレマイオス連合軍に敗れたデメトリウス1世が捕虜となり、獄中で2年後に亡くなっている。デメトリオス1世の敗北後、リュシマコスがマケドニアとギリシアの1部を支配下に置いた。
 紀元前281年に行われた「コルペディオンの戦い」が、実質的には第5次ディアドコイ戦争の最後の戦いとなった。この戦いは、セレウコス1世とリュシマコスの間で行われた。戦闘の詳細は資料がなく、具体的な兵数や戦況は不明であるが、現在のトルコのサルディス近郊にあるコルペディオンで行われたことが分かっている。この戦いは、軍の規模における兵力の数、アレクサンドロスの下で多くの戦闘を経験し、またディアドコイ戦争を通じての戦闘能力・装備などの差で、セレウコス軍が圧倒的に有利であった。セレウコス軍が勝つべくして勝った戦いだった。この戦争でリュシコマスは戦死している。しかし、この戦いで勝利したセレウコス1世も、思わぬ形で天に召されることになるのである。
(最終章に続く)
(セレウコス朝が支配したソグディアナ地方にある「ペンジケント遺跡」/タジキスタン)
(アレクサンドロス大王像/スコピエ/北マケドニア)
「帝国の崩壊 上 歴史上の超大国はなぜ滅びたのか」編者:鈴木薫
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫
「歴史 下」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著
「逆説の世界史[3]ギリシア神話と多神教文明の衝突」著者:井沢元彦
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊
「地中海世界の歴史③白熱する人間たちの都市」著者:本村凌二
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館
「驚きの世界史」著者:尾登雄平
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二
「筆者撮影画像」