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『アレクサンドロス大王/ 最終章』

 紀元前281年コルペディオンの戦いで勝利したセレウコス1世は、思わぬ形で天に召されることになる。その理由には、プトレマイオス朝とリュシマコス朝の「お家騒動」が絡んでいた。
 最初にプトレマイオス朝のお家騒動を語ろう。
 プトレマイオス1世とその妻エウリュディケ(アンティパトロスの娘)には、4人の子供がいた。プトレマイオス・ケラウノス(息子)、リュサンドラ(娘)、メレアグロス(息子)、リュシマコス(息子)である。プトレマイオス1世は自分の後継者にプトレマイオス・ケラウノスを据えていたが、途中で別の妻ベレニケとの息子プトレマイオス2世を後継者に変えたことで対立が起きた。怒ったプトレマイオス・ケラウノスは家を出て、リュシマコスの妻となった異母姉妹アルシノエ2世、リュシマコスの息子アガトクレスと結婚した妹のリュサンドラのいる、リュシマコス朝を頼り庇護された。
 次にリュシマコス朝のお家騒動があった。
 リュシマコスの妻アルシノエ2世が、自分の息子を王位につけるために陰謀をたくらみ、リュシマコスとその妻ニカイエの子でリュシマコスの後継者とされていたアガトクレスを讒言した。紀元前284年、これを信じたリュシマコスはアガトクレスを処刑したのである。一説ではアルシノエ2世が毒殺したという説もある。いずれにしろアルシノエ2世が別の王妃の息子アガトクレスの排斥に動いたということである。このアガトクレスの処刑(又は毒殺)によって、その妻リュサンドラの兄であるケラウノスは、アルシノエ2世と対立し、紀元前283年又は紀元前282年、自分の身の危険を感じて素早く動いた。彼は次にリュシコマスが対立する、セレウコス1世のもとに庇護を求め飛び込んだ。セレウコス1世は、敵対するリュシマコス朝の領土を併合する際、ケラウノスの知識や影響力を利用できることや自分の同盟者として受け入れることを決めた。しかもセレウコスはケラウノスを、自分の側近として受け入れている。このプトレマイオス朝とリュシマコス朝のお家騒動が、セレウコス1世の運命を変えることになったのである。
 ケラウノスはセレウコス1世の庇護のもと、彼の側近として仕え、自分がマケドニアの王位獲得の機会がないことを憂えていた。ケラノウスがマケドニア王に即位することに対して、セレウコスは支援する意思を全く見せなかった。しかし、ケラノウスは今の立場を利用すればセレウコスの命を奪うことが可能だと考えた。そしてケラウノスはセレウコス1世の暗殺を決意した。
 紀元前281年の秋、ケラウノスは現在のトルコに位置するトラキア地方で、側近の立場を利用してセレウコス1世の暗殺に成功した。ケラウノスはこの暗殺を、リュシマコスの敵討ちとしてアピールすることで、マケドニアの王位を宣言した。そして、リュシマコスの寡婦である異母兄弟アルシノエ2世と政略的な結婚をした。しかしアルシノエ2世は、ケラウノスの権力の増大を抑えるために、息子たちと図りケラノウスに対し反乱を起こした。この反乱はケラウノスに露見し、アルシノエ2世の息子リュシマコスとピリッポスは殺害され、長子のプトレマイオス1世エピゴノスはダルダニア人の王国に逃亡した。母親のアルシノエ2世も、紀元前283年エジプトの王に即位していた弟のプトレマイオス2世のもとに、庇護を求めて逃亡を図った。こうしてケラノウスは紀元前281年リュシマコス朝の王位を簒奪した。しかし、ケラノウスには次の試練が待ち受けていた。
 紀元前279年、古代ヨーロッパにおけるケルト人の1派(現在のフランス、ベルギー、スイス、北イタリアなどに居住していた民族)ガリア人が、バルカン半島に侵入してきたのである。彼らは略奪と征服を目的としていた。ガリア軍は機動力と奇襲が得意で、戦闘の前に奇声を発し、戦車や騎兵で相手の陣形を崩して戦うなど、独自の戦術を持っていた。この時ケラノウスには、バルカン半島に住むダルダニア部族から援軍の提供があったが、彼はその援軍を待たずにガリア人と直接戦闘を行った。この軍事力への過信から、リュシマコス朝の王位を簒奪したプトレマイオス・ケラノウスは戦いに敗北し戦死した。
 さて、ここで紀元前323年から紀元前281年までのおよそ42年間にわたって続いたディアドコイ戦争が、「コルペディオンの戦い」で終わりを告げたことを述べてきた。
 そして、継承戦争に明け暮れた結果、いくつかの王朝がその後も衰亡の歴史を辿って行くのである。
 プトレマイオス朝エジプトは、プトレマイオス5世の頃から衰退がはじまった。内乱や周辺国からの侵攻などにより国力を落とし、ローマ帝国の力に寄りかかるように近づき、最終的には紀元前31年の「アクティウムの海戦」でアントニウスが敗北し、クレオパトラ7世の自害で幕を閉じたのである。
 セレウコス朝シリアは、多民族国家の統合を図ったが、支配地には多くの民族や文化が混在しており、複雑な政権運営をまとめ切れずに失敗に終わった。またセレウコス朝は、台頭してきたローマやパルティアなどの圧力に対する軍事的力の保持や、広大な領土を維持支配することの経済的な負担も大きく、統治能力の限界があった。その結果紀元前250年頃、バクトリアが独立しグレコ・バクトリア王国が成立、同じくパルティアも独立しアルサケス朝パルティア王国が成立した。これらの国々の独立はセレウコス朝の東方支配の終焉を物語っており、王朝の衰退を加速させた。
 アンティゴノス朝マケドニアは紀元前288年、リュシマコスとエピロス王ピュロスが共同してデメトリオス1世を破りマケドニアを分割統治した。しかしそのリュシマコスは、紀元前281年のコルペディオンの戦いでセレウコス1世に敗れて戦死している。リュシマコス朝の事実上の終焉であった。
 その後紀元前279年バルカン半島に侵入したガリア人は、前述の通りプトレマイオス・ケラノウスと戦い彼を戦死させている。また彼らはギリシアの各地で戦いを行った。しかしギリシア軍の、各地での激しい抵抗に合い戦力を消耗しながら転戦を続けた。最終的にはマケドニアの優れた戦略家である、アンティゴノス2世ゴナタスとギリシア軍の共闘によって撃退された。この戦いで勝利したアンティゴノス2世ゴナタスは、紀元前276年マケドニア王国を再建した。そのマケドニア王国も、その後の多くの戦争を経験しながら、最終的には台頭してきたローマ帝国の侵攻によって紀元前168年に滅亡する。
 こうしてディアドコイ戦争を戦い続けたこれらの王朝は、栄枯盛衰のはて最終的には陰謀や内紛や外的圧力などの原因によって滅亡していったのである。
 ここで、そろそろ『アレクサンドロス大王』ついて、生涯のまとめを書く必要があるだろう。アレクサンドロス大王の東方遠征は、歴史にどのような役割を果たし、どのような足跡を残したのか、幾つかの項目を上げて検証してみたい。

(コイネー・ギリシア語による言語の統一)
 最初に彼はこの遠征において、ペルシア帝国の広大な領土を支配下に置き、効率的な統治をおこなうために「コイネー・ギリシア語」を行政の共通語として採用した。コイネー・ギリシア語とは、アッティカ方言とイオニア方言を基盤にして形成された言語である。
 古代ギリシア語と異なり、より簡略化された文法を持ち、広範囲で通用するために標準化された。地中海東部や中東など、広範囲で使用された言葉であり、現代ギリシア語の基礎となった。音韻や文法の多くが現代に引き継がれている。コイネー・ギリシア語を行政の共通語として採用したことで、異なる文化や言語を持つ地域で統一的な行政運営が可能となった。コイネー・ギリシア語は、ペルシア帝国の広大な交易路を利用し、商取引の共通語としても機能し、異なる地域の商人たちが円滑に商取引することが可能となった。さらに、ペルシア帝国の各地にギリシア風の都市が建設され、ギリシア文化が広く行き渡るようになり、教育や学問の分野においても使用され、様々な学術書や文献がコイネー・ギリシア語で書かれるようになった。コイネー・ギリシア語の普及は、ギリシアだけではなく、ペルシア領でも広く使われ、ギリシア文化と東方文化の融合を促進し、新しいヘレニズム文化の発展に寄与した。このコイネー・ギリシア語は当時の地中海世界の共通語であったために、紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリアに住むユダヤ人コミュニティのために、ヘブライ語旧約聖書がコイネー・ギリシア語に翻訳され、「70人訳聖書」としてユダヤ人への普及に貢献した。さらに、ローマ時代になって、紀元1世紀から紀元2世紀にかけて書かれた「新約聖書」もコイネー・ギリシア語で書かれている。新約聖書の福音書や書簡などの文章をコイネー・ギリシア語で書くことで、広範な地域の人々にキリスト教を伝えることが可能だと考えられたからである。こうして、アレクサンドロスの遠征は死後も歴史に大きな影響を与えた。

(古代世界における最大の領土を獲得)
 さらに彼の遠征が果たした役割は、古代世界における最大の領土を獲得したことである。アレクサンドロスが遠征において征服した領土は、エジプトからインドに至る広大な領域であり、その軍事的な才能や戦略・戦術の優秀さがこれを可能にした。マケドニア帝国が支配した領域は、ギリシア全土、小アジア(現在のトルコ)特にアナトリア半島全域、エジプト、イラン、イラク、シリア、レバノン、イスラエル、アフガニスタン、パキスタン、インドの北西部一帯、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンなどである。この広大な領域を短期間で征服し、当時の世界では最大の領土を支配する国家であった。

(無敗の戦績)
 アレクサンドロスの軍事遠征は、「無敗の戦績」を上げ得たことで知られている。軍事遠征における最大の実績を示す戦闘として、「ガウメラの戦い」がある。アレクサンドロスの戦術の1つである「ハンマーとアンビル」という戦術がある。アンビル(鉄床)とは重装歩兵部隊(ファランクス)の役割を指す呼称である。このアンビルが敵の正面を押さえ、その動きを制限し、前方からの攻撃に対してまるで鉄床のように強固な防御を築くのである。さらにハンマー(槌)とは機動力の高い騎兵部隊の役割を指している。このハンマーが敵の側面や背後に回り込んで突撃するのである。正にハンマーの役割である。つまり、この戦術をとることで、重装歩兵が敵の動きを抑止し、その間に騎兵部隊が迅速に背後や側面などを攻撃することで、挟み撃ちにする戦術を指している。この「ハンマーとアンビル」は、紀元前331年に行われたアレクサンドロス率いるマケドニア軍と、ダレイオス3世率いるペルシア軍で行われた「ガウメラの戦い」で実行された戦術であった。この戦いで勝利したアレクサンドロスは、広大な領土を征服する手がかりを確実にしたのである。この戦術は後世のローマ帝国にも大きな影響を与えた。

(ヘレニズム文化の創出)
 ギリシア文化と東方文化の融合によって生まれた「ヘレニズム文化の創出」であろう。この新しい文化は、科学、哲学、芸術の分野において、後世に大きな影響を与えている。アレクサンドロスの死後、帝国はディアドコイ(後継者)たちが分裂し、幾つかの王朝が成立した。この王朝はその地域において長期にわたり政治的影響力を持ち続けた。例えば、プトレマイオス朝エジプトは、その首都であるアレクサンドリアが学問と文化の中心地となった。アレクサンドリアには巨大図書館やムセイオ(学術研究所)が創られて、古代世界の知識の集積地の役割を果たしていた。また、ナイルデルタ地帯では、その肥沃な土地で収穫された農産物が国を潤し、地の利を生かした地中海貿易の拠点としての役割を担い、経済的な繁栄をもたらした。
 セレウコス朝シリアはシリアからメソポタミア、ペルシア、インドに至る広大な領土を支配し、東西の文化交流の役割を果たしていた。またセレウコス朝は多くの都市を建設することで、ギリシア文化と現地の文化の融合を果たす役割を担った。例えばシリアのオロンテス川沿いに位置する「アンティオキア」がある。セレウコス1世が父親アンティオコスを記念して建設した都市である。この地域のヘレニズム文化の中心地として栄えた。
 「セレウキア」は紀元前305年頃に、チグリス川西岸にセレウコス朝最初の首都として建設された都市である。後世に「クテシオン」として知られるようになり、パルティア帝国やサーサーン朝ペルシアの首都として栄えた街である。「ラオディキア」は、セレウコス1世が母親のラオディケにちなんでつけた名の都市である。現在のトルコ南部に位置し、商業とヘレニズム文化の中心地として栄えた。「アパメア」は現在のシリアに位置する、軍事上の重要な都市として栄えた。「エデッサ」は現在のトルコ南東部にある都市で、当時は宗教とヘレニズム文化の中心として栄えた。「セレウキア・ピエリア」はセレウコス1世が建設した現在のトルコ南部にある港湾都市である。地中海沿岸に位置しており、アンティオキアの外港として機能し、貿易と軍事の拠点として重要な役割を果たした。これらの都市群は、ギリシア文明と現地文化の融合によるヘレニズム文化を創出しただけではなく、政治的、経済的にも後世に大きな役割も果たしたのである。

(アンティゴノス朝マケドニアの影響)
 アンティゴノス朝マケドニアは、強力な軍事力を維持することで、ギリシア本土を支配しギリシアの都市国家への政治に大きな影響を与えた。特にギリシアの主要国家であるアテナイやスパルタとの関係が深まった。その影響力が政治の安定化をもたらし、内乱や外部勢力の侵入を防いだ。また、この支配下においては、貿易や商業が活発化し、経済的な安定から都市の繁栄をもたらした。さらに、アンティゴノス朝はギリシア文化の保護や発展を推進し、科学、哲学、芸術などがさらに発展を遂げた。台頭してきたローマとの対立を繰り返していたが、最終的に第3次マケドニア戦争に敗北するまでは、ギリシア本土の都市国家群に大きな影響を与えた。

(政治的な安定化)
 アレクサドロスは広大な領土を統一し、1時的ではあるが紛争地域であった国々に政治的安定性をもたらした。彼は征服で得た広大な帝国領を効率的に運営するために、征服地の有力者や現地の支配者を有効活用した。それが現地の文化や慣習を尊重しながら、反発や反乱を防ぐ有効な手段でもあったからである。現地の支配者たちも、自分たちの身分が保証されることで、マケドニア帝国の支配に積極的に協力した。特にペルシア帝国の支配地においては、ペルシアの行政システムである「サトラップ制度」を有効活用した。占領後にサトラピー(各州)で現地のサトラップ(州総督)をそのままの地位に留め、行政機構をスムーズに引き継ぐことが出来た。ただし、彼はサトラップに完全な政治権力を渡したわけではなかった。サトラップには、その行動を監視するためのエピスコポイ(監察官)を派遣し、権力の乱用や反乱の防止のリスクを軽減させる役割を持たせた。さらに、サトラップの下にはマケドニア軍の指揮官や官僚を配置することで、アレクサンドロスの指揮系統が守られるようにした。このサトラップ制度は、必要に応じてサトラップの支配領域の再編を行い、権力の集中による独立した権力基盤の構築を防ぐようにした。

(神格化による統治)
 統治の正当性を強化するために、アレクサンドロスは自らを「神格化」し、ギリシアの「アモン神の息子」を自称した。この出来事は、かつて彼がエジプトを征服した後、エジプトの西部砂漠地帯にある古代からアモン神の神託が行われる場所「シワ」を訪れ、神官から「アモンの息子」の神託を受けたことに由来している。アレクサンドロスは自分が「神の子」であることを宣言することで、統治の正当性を強化するための重要な手段とした。この「神託」を利用したことで、彼はエジプトでは「ファラオ」の地位を確立し、ギリシアでは「ゼウスの子」として崇められ、ペルシアにおいてはアケメネス朝ペルシアの後継者として伝統的な称号「シャーハンシャー(王の中の王)」を名乗り、特別な神格化を受けた。彼はペルシアの主要宗教であるゾロアスター教に対して、個人的な宗教観から一定の敬意を払ったが神格化を行うことはせず、ペルシアの宮廷儀礼を行うことで現地の文化を受け入れ、最高権力者としての正当性を示した。これらの彼の権威が、統治者としての「絶対的地位」を確保し、異なる文化圏でも統一の正当性を維持する確実な武器となった。以上のようにアレクサンドロスの東方遠征は、歴史上計り知れない様々な影響を与えた。
 次に、このように歴史を変える偉業を成し遂げた、アレクサンドロスの人格に影響を及ぼした人々がいる。次はそのことについて探って見よう。

(マケドニア国王フィリッポス2世)
 アレクサンドロスの父親であるマケドニア国王フィリッポス二世がその筆頭にあげられるだろう。彼の父は、アレクサンドロスが幼いころから教育に力を注ぎ、当時第一流の学者アリストテレスを家庭教師として、科学、哲学、政治学、文学などの幅広い分野で知識と視野を広げるべく選び、そして学ばせた。このことは後年のアレクサンドロスの人格形成に大きく影響し貢献した。さらに父はアレクサンドロスに対し、軍事訓練を目的に実際の戦闘にも参加させている。紀元前338年に行われた「カイロネアの戦い」では、当時18歳だったアレクサンドロスは、マケドニア軍の左翼を指揮し、テーベ軍の中でも最強とされた「神聖隊」を破り、初陣を飾ることで父の信頼を勝ち取っている。この活躍は彼の軍事的才能を証明し、さらに将来に向けた自信を持つきっかけにもなった。
 また、フィリッポス2世はアレクサンドロスを自身の側近として、帝国の重要な会議や様々な交渉に同席させ、政治の実務を経験させた。この経験はアレクサンドロスが政治的な判断力を養う場として、その後の遠征に大いに役立った。
 さらに、父親の側近として付き添うことで、有能な政治家であり軍事指導者でもある父の失敗や成功の内容を確認できる理想的なモデルだった。そこで学んだことが、将来の自分の統治と遠征活動に大いに生かされたのである。さらにフィリッポス2世は、ギリシア文化を重視してマケドニア帝国の運営に居りいれていた。その教えはアレクサンドロスにも影響し、彼はギリシア文化を広めるために努力をした。その影響からギリシア文化は遠征先においてヘレニズム文化の創出に貢献している。
 父親、フィリッポス2世のアレクサンドロスに対する養育や教育方針は、彼の人格形成や才能の開花に大きく貢献している。この父親無くしてアレクサンドロス大王の偉業の達成は無かったと言っても過言ではない。

(アリストテレス)
 哲学者アリストテレスは、アレクサンドロスが13歳のときから、彼の家庭教師として哲学、科学、政治学、文学などの幅広い知識を教えた。哲学については、アリストテレスの哲学の中心的な考えである「徳」や「中庸」の重要性を説いている。「徳」を持つことが人間の最高の目的であり、幸福に至る道であると説いたのである。中庸とは、極端を避け、適度なバランスを保つことを意味し、勇気は無謀と臆病の中間にあり、節制は放縦と禁欲の中間にあると説いた。この「中庸」の概念は、バランスの取れた行動が最も徳に近いと説いたのである。軍事遠征において、最高指揮官であるアレクサンドロスが判断を必要とする場合に、極端に走らずバランスの取れた判断を下すことの重要性を学んだ。このアリストテレスの哲学の概念である「徳」と「中庸」の概念が、アレクサンドロスのリーダーシップの根底に深く根付いていた。
 また政治学についても、アリストテレスは様々な政治体制の利点や欠点について分析を行い、最良の統治形態についての議論を行った。この議論を行うことで、アレクサンドロスは異なる文化や政治体制があることを理解し、征服地において統治に生かすことを学んだのである。
 自然科学と医学については、アレクサンドロスが特に医学に興味を示したので、彼の友人や兵士たちの治療を行い実技で学んだ。この知識は遠征では大いに役立っている。
 アリストテレスは、アレクサンドロスに文学と修辞学も指導した。特にアレクサンドロスはホメロスの「イリアス」に興味を示し愛読した。彼はギリシア軍のアキレウスの勇敢さや英雄的行動を理想と考えていた。このことから、実際の遠征において彼は優れた演説家であり、兵士を鼓舞する能力を身につけたのである。
 前の章にも紹介しているが、アレクサンドロスがアリストテレスに学んだのは、ギリシア北部にあるミエザという場所だった。その意図は宮廷から離れた場所で、静かに集中して学ばせることが目的だった。これらのアリストテレスの教育は、アレクサンドロスの人格の形成と統治者としての資質に大きな影響を与えた。
 アリストテレスは紀元前343年頃から紀元前340年頃までの3年間アレクサンドロスを教え、その後は宮廷に留まって引き続き彼の相談相手としての関係を維持した。なお、アレクサンドロスは遠征中も、アリストテレスに手紙を書いて、植物や動物についての情報を求めたりして、子弟の関係を続けていた。

(オリンピュアス)
 アレクサンドロスの母親である。フィリッポス2世との結婚で男の子を産み、その子がアレクサンドロス3世として王位継承権を得た。それは彼女にとって息子を無事に王位につけるという、大きな目標と希望となったのである。彼女は酒と狂気の神ディオニソス教団の熱心な信者であった。この教団は神秘的な儀式や祭りを行い、そこで神との一体感を追求した。オリンピュアスはこの教団の熱心な信者で、アレクサンドロスも一緒に参加させて、神秘的な体験を共有していた。その内容は、夜通し続く祭りや、神との一体感を感じるための舞踏や音楽の演奏会などに積極的に参加したのである。そのために、アレクサンドロスは幼少期から、神の存在を身近に感じていた。またこの母親は、非常に野心的で、フィリッポス2世が暗殺された際に、その背後に彼女がいたとされる説もある。フィリッポス2世暗殺後、彼の新しい妻エウリュディケ・クレオパトラとその子を殺害し、自分の子供アレクサンドロス3世の王位就任を確実のものとした。また、彼女はアレクサンドロスの東方遠征中も定期的に連絡を取ることで、軍事や政治的な決断に影響を与え続けていた。オリュンピアスはアレクサンドロスが大神ゼウスの子どもだという噂を広め、彼の神聖性を高めようとした。アレクサンドロスの統治の正当性や、カリスマ性を高めるために行ったものである。アレクサンドロスが自分を神の子と信じて疑わなかったのは、オリュンピアスが自分の子にはゼウスの血が流れていると信じており、その影響を強く受けた本人もそう信じて疑わなかったからである。そのためにアレクサンドロスの行動や政策には、神の子としての自覚が色濃く反映されていたと言われる。その証として、アレクサンドロスは彼の神格化に反対し、その行動を批判したアリストテレスの甥である宮廷歴史家カリステネスを反逆者として処刑している。自分の神聖性を疑うものには厳しく対処したのである。当時の文化や宗教的な背景からすれば、特に珍しいことではなかった。母親オリュンピアスの存在は、アレクサンドロスの生涯と業績に大きな影響を与え、その功績の一部は彼女が創り上げたと言っても過言ではないだろう。

(ミエザの学友たち)
 アレクサンドロスと共に、アリストテレスが教鞭をとったミエザの学院で学んだ貴族の子弟として、へファイステオン、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコス、ペルディッカスらがいる。アレクサンドロスと、後述する通り若干の年齢の差はあるが、これらの貴族の子弟たちが共に学ぶことで、マケドニア国内の有力者同氏の結びつきを強化することや、アレクサンドロスの王位継承後を見据えて、将来の統治の安定化を図るという目的があった。事実彼らは、アレクサンドロスが即位し、東方遠征に向かい多くの戦いを行う中で、官僚やマケドニア軍の将軍として、アレクサンドロスの軍事組織において重要な役割を担ったのである。
 へファイステオン(アレクサンドロスと同年齢)は紀元前356年頃にマケドニアの首都ベラで生まれ、アレクサンドロスの最も仲の良い親友で、ミエザの学園を卒業した後、アレクサンドロスの側近護衛官となった。信頼される友人として個人的にも軍事的にも、生涯を通じて彼に仕えたが、紀元前324年遠征中のエクバタナで病に倒れ亡くなった。アレクサンドロスは彼の死を非常に悲しんだという。
 またプトレマイオス(アレクサンドロスより約10歳年上)は、後のアレクサンドロス軍の将軍となり、ディアドコイとして重要な役割を果たした。最終的にはエジプトにプトレマイオス朝を建国し、エジプトの繁栄を築いた。またアレクサンドロスが建設したアレクサンドリアを文化や学問の中心地にするなど、文化の発展に寄与している。アレクサンドロスは死後、エジプト北西部リビア国境に近くにある、シワ・オアシスに葬られることを願った逸話がある。このシワ・オアシスのアメン神殿で、彼はアメン神(ゼウス)の息子であるという神託を受けたとされている。しかし、アレクサンドロスはバビロンで亡くなり、摂政ペルディッカスの監督下防腐処理されて、豪華な霊柩車でマケドニアの古都アイガイに向かう予定であった。この霊柩車がシリアを通過する際に、プトレマイオスは軍を差し向けこれを奪い、メンフィスに移送した。そして最終的にはアレクサンドロスの遺体は、アレクサンドリアに埋葬されたのである。大王の遺体を自分の管轄領に埋葬することで、他のディオドコイに対しての威信を手にした。しかし、現在アレクサンドリアにおいてこの埋葬場所は不明となっている。
 カッサンドロス(アリストテレスより約2歳年上))も、アレクサンドロス軍の将軍の1人であった。彼はアレクサンドロスの死後、マケドニアの王となった。彼はもともとアレクサンドロスの東方遠征には直接参加していなかった。しかしアレクサンドロスの死後、カリアの太守及び近衛長官に選ばれ、その後始まったディアドコイ戦争で他の将軍たちと戦った。彼は権力を握るために父アンティパトロスの死後、摂政の地位を巡りポリュペルコンと対立し、プトレマイオスやアンティゴノスと同盟を結び最終的に摂政の地位を確保した。さらに、カッサンドロスはその争いの中で、王位確保のためにアレクサンドロスの正妻ロクサネやその子アレクサンドロス4世、そして母親オリュンピアスを殺害している。紀元前305年から紀元前297年まで王としてマケドニアを統治した。
 リュシマコス(アレクサンドロスより約4歳年上)も、アレクサンドロス軍の将軍の1人であった。彼はアレクサンドロスの死後、紀元前323年に行われた「バビロン会議」で、トラキアとケルソネソスの太守に任命された。その後のディアドコイ戦争を経て紀元前306年にトラキアと小アジアの王を名乗った。紀元前281年、コルペディオンの戦いでセレウコスと戦い戦死している。その後リュシマコスの王国はセレウコスに併合された。
 ペルディッカス(アレクサンドロスより約9歳年上)もアレクサンドロス軍の将軍の1人である。彼はアレクサンドロスが最も信頼をした将軍の1人であった。東方遠征において、グラニコス川の戦い、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いなどで、重装歩兵部隊の指揮を執り、「ハンマーとアンビル」のアンビルの実行役として、戦いの要の役割を果たした。その信頼の証しとして、アレクサンドロスは死の床で、彼に指輪を残し後事を託したとされている。また、他の将軍たちもその信頼関係を良く知った上で、「バビロン会議」において彼を摂政にしたのであろう。しかし、摂政となったペルディッカスは、その後権力欲に執り付かれた。アンティパトロスの娘を妻にした後、離婚してまでもアレクサンドロスの実妹クレオパトラとの結婚を望んだのである。この事から他のディアドコイの反発を招き、権威を失墜することで部下の反発まで招き、最終的にはエジプト遠征中に暗殺されてしまう。
 以上が、幼い頃アレクサンドロスと共に席を並べ、高名なアリストテレスに教育を受けた仲間たちの盛衰の記録である。

 ここまでに、アレクサンドロスのマケドニアでの出生、幼年時、東方遠征そしてバビロンで亡くなるまでを書いてきた。また彼の生涯に影響を与えた人々、そして幼い日に席を並べ共に学んだ学友についても書いてきた。
 これらの総合的な内容から判断して、歴史上類を見ないほどの大帝国を築いた彼の偉業は、アレクサンドロスという、まぎれもない天才的な資質と恵まれた環境で育った英雄は、それを支え大きく影響を与えた人々との、共同作業によって築き上げられた賜物であったことが判る。20歳で王位に就き、32歳でこの世を去った英雄は、僅か12年でこの偉業を成し遂げたのである。アレクサンドロスの最終的な目的は、父親が為し得なかった「ペルシア帝国」の征服であったが、それを達成したのである。その先のインドへの遠征は中断せざるをえなかった。その理由も色々な説が出されている。しかし、結局は最終目標であるペルシア帝国の征服は達成され、その先は企業の経営で言うと「事業計画」外の「挑戦という名の賭け」であった。しかしこの若き英雄が下した新しい「挑戦という名の賭け」、インド遠征は兵士たちの拒否に遭い、それを考慮した結果中断された。この判断は、アレクサンドロスが若き日にアリストテレスに教わった、「中庸」の精神が生かされていたからであろう。バランスの取れたリーダーシップの表れである。こうして、アレクサンドロスの第二の挑戦インド遠征は潰えたが、父の意思を貫いたペルシア征服の目標は、多くの人々の命を懸けた共同作業によって達成されたのである。その達成後すぐに英雄はこの世を去ったのである。「神の子」アレクサンドロスは、神の手に戻ったのである。
(アレクサンドロスを身籠ったオリュンピアス/スコピエ/北マケドニア)
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫
「歴史 下」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館
「驚きの世界史」著者:尾登雄平
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二
「著者撮影画像」