『アレクサンドロス大王/ 第4章
ペルシア遠征』
エジプトを安定させた後、アレクサンドロスはペルシア帝国の他の地域への進軍を計画していた。彼の当初からの最終的な目標は、ペルシア帝国全体を征服することが悲願であった。その思いを抱いて、アレクサンドロスはエジプトをマケドニアの帝国の一部としての支配を固め、ついにペルシアへの遠征を開始するのである。
紀元前331年の春、アレクサンドロスは満を持してエジプトを出発した。
そしてついに紀元前331年10月1日、イラクの北部チグリス川の上流に位置するガウメラにおいて戦端が開かれるのである。
「ガウメラの戦い」である。その戦況をみてみよう。
指揮官は、マケドニア軍はアレクサンドロス大王、ペルシア軍はダレイオス3世である。両軍の兵数は、マケドニア軍がおよそ47,000,ペルシア軍はおよそ100,000から250,000(古代歴史家は100万とも)とされる。
ペルシア軍の布陣は中央にダレイオスとその精鋭部隊、左翼には指揮官ベッソス、右翼には指揮官マザイオスの騎兵部隊を配置、そして戦車隊が前面に配備された。さらにペルシア軍は戦象も連れてきていた。ペルシアのダレイオス3世は、戦場をここガウガメラの平坦地を選ぶことで、戦車部隊を生かし勝利に導くことを考えていた。
マケドニア軍は中央にファランクス部隊(ファリッサの部隊)、右翼はアレクサンドロスの騎馬隊、左翼を副総司令官のパルメニオンが受け持った。アレクサンドロスは、中央軍のファランクス部隊の前衛に、実はペルタスト(軽装歩兵)部隊を配置していた。これが彼の大きな戦術の1つだったのである。
戦端はペルシア軍の戦車部隊の突撃で開かれた。
マケドニア軍は、このペルシア戦車部隊の突撃を交わして通過させた。そして戦車が通りすぎた背後から、ジャベリン(なげ槍)やロンバイア(湾曲刀剣)で攻撃し、その攻撃力を削いだ。この後、マケドニア軍は中央軍のファランクス部隊が楔形隊形をつくり、ペルシアのダイオレスが布陣する中央軍に突撃を開始したのである。さらにそのファランクス部隊の突撃の間隙を縫って、アレクサンドロス自身が直接率いるおよそ2,000の騎馬隊もペルシア軍中央のダレイオスめがけて突進した。この戦術で、戦車部隊の活躍はおろか、ペルシア軍の両翼は中央のダレイオス本陣の崩壊状況を見て、左翼のベッソスは退却を始め、右翼のマザイオスも退却を決意した。退却の際に中央にいたペルシアの騎兵とインドの騎兵は、マケドニア軍の宿営地での物資の略奪を行っている。中央軍本陣のダレイオス3世は戦場を離脱し、イラク北部に位置するアルベラ(現在のアルビール)まで敗走した。しかし逃走中に、紀元前330年の夏ごろバクトリア総督ベッソスに捕らえられた。そしてこのベッソスに最終的には殺害されたのである。
アレクサンドロスはガウガメラの戦いを制し、すぐにバビロンに向かった。バビロンはペルシアのサトラップ制度に組み込まれた都市であったが、サトラップ(総督)も、守備隊も抵抗することなく無血開城して、アレクサンドロス率いるマケドニア軍を受け入れたのである。
マケドニア軍は、バビロンにおいて統治と今後の軍の計画を練り、さらに物資の補給及び兵士に休養を取らせた。
ここでアケメネス朝ペルシアの首都について触れておこう。
ペルシア帝国では、いくつかの主要な首都があった。現在の南アフリカ共和国のようなものであろうか。南アフリカ共和国では首都機能が司法府はブルームフォンテーン、行政府はプレトリア、立法府はケープタウンとそれぞれ違う都市に置かれ機能している。ペルシア帝国でも、「ペルセポリス」は新年祭(ノウルーズ)の儀式を行い王権の神聖性を確認する場所であり、他にも公式行事などが中心に行われる都市として、ダレイオス1世が建設した壮大な宮殿群があった。ここは支配地である諸民族からの貢納金を受領する場所でもあった。
「スーサ」には、やはり壮大な冬の宮殿があり行政の中心地として重要な政治的決定が行われ、帝国の統治をおこなう場所でもあった。
さらに「エクバタナ」にも夏の宮殿があり、王の避暑地として栄え行政活動も行われていた。
そしてこの「バビロン」は、副都として皇帝が行政や統治をおこなう役割を果たしていた。ダレイオス1世は、冬はスーサ、夏はエタバタナ、春はこのバビロンで居住することが多く、宗教的・文化的な中心都市でもあったことから、多くの学者や芸術家も集まり、皇帝はこれらの活動を奨励し、ペルシア文化の中心的な役割も果たしていた。またかつてはバビロニア帝国の首都として栄えたことから、宮殿跡や神殿跡などの遺跡が残っている。かつてはその宮殿には「空中庭園」があったことでも知られている。
以上のように、ペルシア帝国では、ペルセポリス、スーサ、エタバタナ、バビロンの各都市がそれぞれの役割と機能を果たしていたのである。
このバビロンには多くの財宝が残されており、アレクサンドロスは、今後の軍事活動の資金として確保した。またバビロンはペルシア帝国の、重要な拠点でもあったことから、ペルシアの行政機構を生かしつつ、ギリシアの文化とペルシア文化の融合を図ることで統治の円滑化を目指したのである。
そして冬になる前に、バビロンを発ち次の目的地であるス―サに向かった。そのスーサでも、アレクサンドロスは無血入城を果たしている。
スーサはエラム王国の時代から栄え長い歴史のある都市で、紀元前4.000年頃から人々が定住していたとされる。アケメネス朝ペルシアにおいても、冬の宮殿として使用され「アパダーナ」と呼ばれる壮大な宮殿があった。また、スーサはペルシア帝国全土に向かう「王の道」の起点であり、交通や通信網の中心地として知られていた。アレクサンドロスはここでも莫大な金銀を手に入れることが出来た。そして、彼はこの都市で「スーサの合同結婚式」を行い、マケドニア軍の兵士とペルシアの女性を結婚させることで、両国の融和を図る政策の一つとした。アレクサンドロス自身も、ダレイオス3世の娘であるスタテイラと結婚したのである。そして、彼はスーサでもペルシアの行政機構を再編して、自身の統治の安定化のために、現地の官僚や貴族の継続的な任用を図ることにした。
スーサにおよそ1か月程度滞在した後、アレクサンドロス軍はペルセポリスに向けて出発した。途中でウクシオイ人の領域であるザグロス山脈の山岳地帯を通過する際に、マケドニア軍は彼らから通行料の支払いを求められた。ウシクオイ人はペルシア帝国にも属さない山岳地帯の民族である。アレクサンドロスは彼らの要求を拒否したため、戦闘が避けられず交戦となった。マケドニア軍はウシクオイ人の集落に夜襲をかけたが、彼らは地の利を生かして抵抗した。しかし、アレクサンドロスはウシクオイ人が逃げ場を失い撤退する可能性のある場所を先に占拠し、逃げ場を与えないで周囲を完全に包囲し、彼らを降伏に追い込んだ。降伏の条件として、毎年100頭の馬、500頭の牛、30,000匹の羊をマケドニアに貢納することで戦闘を終えた。
さらにこの戦闘の後、マケドニア軍は紀元前330年の冬、ペルセポリスに向かう途中、その北方にあるペルシス門(現在のザグロス山脈の一部)で、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍と「ペルシス門の戦い」を行った。
マケドニア軍はおよそ17,000の兵、ペルシア軍はおよそ40,000の兵と700の騎兵部隊で戦った。アリオバルザネス率いるペルシア軍は、ペルシス門の狭い山道で待ち伏せを行い、マケドニア軍の通過を待ち受けていた。山道に入ったマケドニア軍に対して、ペルシア軍は高所から投石や矢を射かけ、大きな損害を与えた。しかし、アレクサンドロスは現地の羊飼いやペルシア軍の捕虜から得た情報をもとに軍を二分し、一軍は正面からの攻撃し、もう一軍をペルシア軍の後方に回り込ませて挟み撃ちにし、ペルシア軍を包囲して勝利した。この戦いに勝ったマケドニア軍は、防御線を破りペルセポリスへの道を切り開いた。
このペルシス門の戦いで、ペルシア軍のアリオバルザネス軍が敗北したことで、ペルセポリスの防衛力が削がれた結果、マケドニア軍がペルセポリスに到着した際に、都市の守備隊や住民は殆ど抵抗しなかった。こうして紀元前330年1月、ペルシア帝国の首都の1つであるペルセポリスは、比較的容易に占領された。アレクサンドロスは、このペルセポリスの占領を祝う宴会で、かつてギリシアのアテネがペルシア軍によって破壊された報復として、壮大なペルセポリスの宮殿に火を放ち、都市の1部が消失したといわれている。この放火の動機について、報復説ではないとする詳細を記した書があるので紹介しよう。
「残る問題は放火の動機である。これまでに四つの説が提出されている。第一は、遠征の大義名分に従ってペルシア戦争の報復を果たしたという説。しかしそれなら何故ペルセポリス占領後の一月でなく、出発目前の五月なのか。滞在中に宮殿を温存したという事情はあるにせよ、これでは随分気の抜けた報復劇ではなかろうか。
第二は、ペルシアペルシア人の支配が終わったことを東方諸民族に示す政治宣言であったという説。しかしアレクサンドロスはペルシア人貴族のマザイオスをバビロニア総督に任命するなど、すでにペルシア人支配層との協調路線に踏み出していた。アカイメネス朝の旧体制を継承しながら、その象徴であるペルセポリスを焼き払うことは矛盾している。
第三が、前331年にギリシアで起きた反マケドニア蜂起の拡大を防ぐため、遠征の目的があくまでもギリシアのための報復戦争であることを、とりわけアテネに示そうとしたという説。確かにギリシアの反乱拡大は阻止せねばならない。しかしペルシア人との協調という新しい路線を犠牲にしてまで、遠く離れたギリシア人に遠泳の大義を改めて訴える必要があっただろうか。この時点でアレクサンドロスがギリシア人への配慮を最優先させたという解釈は疑問である。
第四が、ペルシス地方の住民が大王の支配を受け入れず、アレクサンドロスも彼らを帰順させることに失敗したために、彼らへの懲罰として放火したとする説。私はこの説が最も整合性があると考えている。幾つかの大王伝によると、宮殿周辺での略奪の結果、地元のペルシア人はマケドニア人の支配を決して受け入れようとせず、王自身も住民に深い悲しみを抱いたという。四カ月という長期にわたるペルセポリス滞在の理由もここから説明できる。アレクサンドロスはペルシア帝国の中心であるペルシス地方を何とか帰順させようとするが、住民たちは断固として帰属を拒否した。王は解決策を求めるが、時間ばかりが過ぎる。遂に彼は頑強なペルシス住民への懲罰として宮殿に放火し、彼らの民族的誇りを打ち砕いて力ずくで屈服させようとした。ただし公式発表はペルシアへの報復とされた。」『興亡の歴史 アレクサンドロスの征服と神話』著者:森谷公俊
また、アレクサンドロスはここペルセポリスでも、アケメネス朝ペルシアの莫大な財宝を摂取し、軍費にあてた。さらに、ペルセポリスの行政をマケドニアの統治下に置き、ペルシア帝国の既存の政治機構を利用して都市の安定化を図った。
ペルセポリスにおいて、アレクサンドロスは軍の再編成を行うとともに、次の遠征に備え兵の休息と軍需物資の調達を整えた。
紀元前330年夏(おそらく7月)ごろ、アレクサンドロスはペルシア帝国の残りの地域の1つ、エクバタナに向かった。この遠征の目的はエクバタナの占領と、ガウガメラの戦いで敗れ敗走しているダレイオス3世を追撃し捕らえることであった。マケドニア軍は、その年の秋(おそらく9月)ころエクバタナに到着したが、ダレイオス3世は既に逃亡していた。エクバタナは前述したが、ペルシア帝国の夏の首都として栄えた都であり、イランの西部ハマダーン州ザグロス山脈の麓に位置していた。ペルシア帝国が首都にする以前は、メディア王国の首都でもあった。マケドニア軍はエクバタナの総督や市民からの抵抗を受けることなく、比較的容易にこの町を占領した。それほどエクバタナの守備隊は弱体化していた証でもあった。アレクサンドロスは、エクバタナにおいて兵の休養と、物資の補給、そして財宝の摂取保管を行った。また、この街の新しい総督を任命し、都市の安定化を図るとともに、逃亡を続けているダレイオス3世の追撃のために、次の目的地をバクトリアに定めた。
アレクサンドロスは、紀元前330年秋(おそらく10月)エクバタナからバクトリアの占領と、そこに逃亡中のダレイオス3世を捕らえるべく出発した。
マケドニア軍は紀元前330年秋にバクトリアに到着した。バクトリアはペルシア帝国が支配した現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどの地域を指す1州にある都市である。ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に広がった地域にあり、古代から重要な交易路として栄え、様々な交易品が集まり取引がなされ、ペルシア帝国の経済を支える重要な支配地であった。マケドニア軍がバクトリアに着いたときは、追撃していたダレイオス3世はこの街の総督ベッソスの裏切りで捕らえられ、既に殺害されていた。バクトリアでは首都であるバクトラで市街戦があり、狭い通りや建物の中での戦闘が中心となった。さらに、バクトリアのソグディアナの要塞は「翼を持った兵士でなければ攻略できない」といわれるほど難攻不落の要塞だった。アレクサンドロスはこの要塞を、過去の包囲戦で山登りの経験のある兵士を集めて、夜間に崖の上に登らせた。そして「翼を持った兵士」の証しとして白い布切れを使い信号を送った。それを見た要塞の兵士たちは「翼を持った兵士」の出現を信じ士気が落ち、マケドニア軍に降伏した。アレクサンドロスの心理戦による勝利であった。バクトリアでは他にも地元の反乱軍やペルシアの残存勢力との戦いがあったが、アレクサンドロスは地元の有力者との同盟や、政治的な戦略も駆使して地域の安定を図った。そして、アレクサンドロスのもう一つの目的であった、ダレイオス3世の追撃については、マケドニア軍がバクトリアに到着した後、アレクサンドロスはバクトリア総督ベッソスの裏切りにより捕らえられ処刑されたとの報告を受けた。そして捜索の結果ダレイオス3世の遺体は、バクトリア地方パルティアとの境界付近(イラン北東部)で、殺害された後放置され、荒れ果て損傷した状態で発見された。それを確認したアレクサンドロスは、ペルシア王としてのダレイオス3世の威厳を保つために、丁重に葬儀を行った。この行動は、アレクサンドロスの帝王としての偉大なる資質を物語っている。
アレクサンドロスはバクトリアでの戦闘が終了し、支配を確実なものにすると、新しい総督を任命し、地域の行政と治安の維持を強化した。また、兵士の休養と物資の補給を行い、次の遠征地への準備を整えた。バクトリア地域の安定のために、地元の有力者の娘ロクサネと結婚した。この結婚は政略的な意味もあったが、アレクサンドロスはロクサネの美しさに一目惚れしたとされている。アレクサンドロスは結婚後の遠征先にもロクサネを帯同し、彼女もそれを望んでいたため、アレクサンドロスの心の支えになっていた。二人の間にはアレクサンドロスの死後間もなくアレクサンドロス4世が生まれた。
アレクサンドロスはこのバクオリアを制圧後、およそ3年間この地でソグディアナも含めて、マケドニア軍の支配に対する反乱の鎮圧や、地域の安定を図るための時間を費やした。その間、次の遠征に向けた軍の再編成や、現地での兵士の採用による軍の規模の拡大と戦力の強化を行った。また、彼はバクトリアにいくつかの都市も建設し、ギリシアの統治体制を導入することで現地の文化との融合も図った。こうしてアレクサンドロスが、ペルシア遠征において最終目標としていた帝国の支配領域の、ほぼすべてが彼の手中に落ち、目的は達成されたかに思われた。
紀元前327年、アフガニスタンの北部のバクトラから、インダス川流域への遠征に出発した。マケドニア軍は紀元前326年4月から6月にかけて、パキスタンのヒュダスペス川(現在のジェルム川)で「ヒュダスペス川の戦い」を行った。当時、インドには地域ごとに異なる王国や領主が存在し、独自の防衛組織を持っていた。主な王国としては、パンジャーブ地方のポロス王国、パキスタンのタキシラのアンビ王国、インダス川流域のマラヤ王国などがあった。マケドニア軍のヒュダスペス川の戦いの相手は、ポロス王国であった。
その戦いの兵力や戦況について語ることにしょう。
アレクサンドロス軍の兵力は、歩兵およそ34,000、騎兵およそ7,000であった。
対するポロス軍の兵力は、歩兵30,000、騎兵2,000、戦車300,戦象200であった。ちなみに、ポロス王はこの戦象に乗って戦いに挑んでいた。
アレクサンドロスはポロス軍の警戒を避けるために、夜間激しい雷雨の中5,000以上の騎兵と歩兵を引き連れてヒュダスペス川を渡る作戦を取った。
渡河したアレクサンドロス率いるマケドニア軍が早朝にポロス軍の前に現れ、ポロス軍は奇襲に驚き急いで戦闘準備を整えた。最初にポロス王の息子の部隊がマケドニア軍に接触し迎撃したが、マケドニア軍が勝利した。その初戦でポロスの息子は戦死した。その後、両軍の主戦闘となり、別の場所から渡河したマケドニア軍がポロス軍の背後から襲いかかり、さらにアレクサンドロス率いる騎兵がその左翼を突き、戦闘の勝敗は決した。また、ポロス軍は戦象を多く率いていたが、マケドニア軍のファランクス部隊は戦象の足や象使いを狙い攻撃を加えたことで、象が暴れ戦いの効果は発揮されなかった。この戦いは、マケドニア軍の大勝利となった。しかし、アレクサンドロスはポロスの王の勇敢さを称え、この戦いの終戦処理において今まで以上の領土を彼に与えた。
ヒュダスペス川の戦いを勝利した後、アレクサンドロスは勝利を記念して2つの都市を建設した。1つは彼の愛馬の名を冠した、「アレキサンドリア・ブーケファリア」、もう1つは勝利の女神ニケの名を冠した「アレキサンドリア・ニカイア」と名づけられた。しかし、ヒュダスペス川の戦いの後、アレクサンドロスはさらに東方へ進軍する指示を出したが、部下たちの間で大きな対立が生じた。その理由は、マケドニアを出てから長い遠征の旅と度重なる戦闘で、故郷を離れた兵隊の不満は極度に高まっていたからである。
マケドニア軍の東方遠征は、紀元前334年に始まり、ヒュダスペス川の戦いまで8年の年月が過ぎていた。激しい戦闘や遠征の疲れもさることながら、長期にわたって故郷や家族と離れていることが、兵士の肉体のみならず精神的な面でも大きな負担となっていた。また、インドへの進軍は、兵士たちが今まで経験したことのない熱帯の気候や山岳地帯の過酷な自然環境に直面し、肉体的な疲労だけではなく精神的な理由から病気を併発する者も多くいた。さらに、異国の文化や宗教の違いからの摩擦が戦闘に発展することもあった。遠征が進むにつれて補給線が伸びることで、食料や軍需物資が滞ることもあり、飢餓や物資不足が常態化していた。このヒュダスペス川の戦いも激しい戦いであったため、そのような状況が複雑に絡まり、兵士の気力を削ぐ要因となっていた。
マケドニア軍のこのような問題を多くかかえた状況で、さらに東方への遠征を試みることをアレクサンドロスは冷静に考えた結果、部下たちの意見を聞き入れて帰還することを決断した。この決断は故郷への帰還ではなく、遠征をいったん中止してバビロンに引き返し、そこで新たな計画を練るというものだった。マケドニア軍は紀元前326年に遠征を中止し、インドのパンジャーブ地方から西へ進み、ペルシアを経由してバビロンに向かった。このバビロンへの旅は砂漠を通過するために非常に過酷で、多くの兵士が命を失っている。そして紀元前324年、ようやくバビロンに到着した。
バビロンに着いたアレクサンドロスは、ここを新たな拠点にして新たな遠征計画を練っていた。
紀元前323年5月末、アレクサンドロスは軍を慰撫するために宴会を開いた。その後、友人である将官のメディウスと飲酒し、その翌日に発熱して寝付いた。その後、症状は急速に悪化し、「蜂に刺されたような痛み」を背中に感じるようになった。数日後にはベッドから離れることができず、横たわったままで指示をだしていた。6月5日にはアレクサンドロスの命が危険だということが明らかになり、兵士たちが最後の面会に訪れたが、彼は言葉を発すことができず、目礼で挨拶を交わしたという。そして6月11日の午後、若き英雄アレクサンドロス大王はこの世を去った。
遺言は「最強の者が帝国を継承せよ」だった。
(第5章に続く)
紀元前331年の春、アレクサンドロスは満を持してエジプトを出発した。
そしてついに紀元前331年10月1日、イラクの北部チグリス川の上流に位置するガウメラにおいて戦端が開かれるのである。
「ガウメラの戦い」である。その戦況をみてみよう。
指揮官は、マケドニア軍はアレクサンドロス大王、ペルシア軍はダレイオス3世である。両軍の兵数は、マケドニア軍がおよそ47,000,ペルシア軍はおよそ100,000から250,000(古代歴史家は100万とも)とされる。
ペルシア軍の布陣は中央にダレイオスとその精鋭部隊、左翼には指揮官ベッソス、右翼には指揮官マザイオスの騎兵部隊を配置、そして戦車隊が前面に配備された。さらにペルシア軍は戦象も連れてきていた。ペルシアのダレイオス3世は、戦場をここガウガメラの平坦地を選ぶことで、戦車部隊を生かし勝利に導くことを考えていた。
マケドニア軍は中央にファランクス部隊(ファリッサの部隊)、右翼はアレクサンドロスの騎馬隊、左翼を副総司令官のパルメニオンが受け持った。アレクサンドロスは、中央軍のファランクス部隊の前衛に、実はペルタスト(軽装歩兵)部隊を配置していた。これが彼の大きな戦術の1つだったのである。
戦端はペルシア軍の戦車部隊の突撃で開かれた。
マケドニア軍は、このペルシア戦車部隊の突撃を交わして通過させた。そして戦車が通りすぎた背後から、ジャベリン(なげ槍)やロンバイア(湾曲刀剣)で攻撃し、その攻撃力を削いだ。この後、マケドニア軍は中央軍のファランクス部隊が楔形隊形をつくり、ペルシアのダイオレスが布陣する中央軍に突撃を開始したのである。さらにそのファランクス部隊の突撃の間隙を縫って、アレクサンドロス自身が直接率いるおよそ2,000の騎馬隊もペルシア軍中央のダレイオスめがけて突進した。この戦術で、戦車部隊の活躍はおろか、ペルシア軍の両翼は中央のダレイオス本陣の崩壊状況を見て、左翼のベッソスは退却を始め、右翼のマザイオスも退却を決意した。退却の際に中央にいたペルシアの騎兵とインドの騎兵は、マケドニア軍の宿営地での物資の略奪を行っている。中央軍本陣のダレイオス3世は戦場を離脱し、イラク北部に位置するアルベラ(現在のアルビール)まで敗走した。しかし逃走中に、紀元前330年の夏ごろバクトリア総督ベッソスに捕らえられた。そしてこのベッソスに最終的には殺害されたのである。
アレクサンドロスはガウガメラの戦いを制し、すぐにバビロンに向かった。バビロンはペルシアのサトラップ制度に組み込まれた都市であったが、サトラップ(総督)も、守備隊も抵抗することなく無血開城して、アレクサンドロス率いるマケドニア軍を受け入れたのである。
マケドニア軍は、バビロンにおいて統治と今後の軍の計画を練り、さらに物資の補給及び兵士に休養を取らせた。
ここでアケメネス朝ペルシアの首都について触れておこう。
ペルシア帝国では、いくつかの主要な首都があった。現在の南アフリカ共和国のようなものであろうか。南アフリカ共和国では首都機能が司法府はブルームフォンテーン、行政府はプレトリア、立法府はケープタウンとそれぞれ違う都市に置かれ機能している。ペルシア帝国でも、「ペルセポリス」は新年祭(ノウルーズ)の儀式を行い王権の神聖性を確認する場所であり、他にも公式行事などが中心に行われる都市として、ダレイオス1世が建設した壮大な宮殿群があった。ここは支配地である諸民族からの貢納金を受領する場所でもあった。
「スーサ」には、やはり壮大な冬の宮殿があり行政の中心地として重要な政治的決定が行われ、帝国の統治をおこなう場所でもあった。
さらに「エクバタナ」にも夏の宮殿があり、王の避暑地として栄え行政活動も行われていた。
そしてこの「バビロン」は、副都として皇帝が行政や統治をおこなう役割を果たしていた。ダレイオス1世は、冬はスーサ、夏はエタバタナ、春はこのバビロンで居住することが多く、宗教的・文化的な中心都市でもあったことから、多くの学者や芸術家も集まり、皇帝はこれらの活動を奨励し、ペルシア文化の中心的な役割も果たしていた。またかつてはバビロニア帝国の首都として栄えたことから、宮殿跡や神殿跡などの遺跡が残っている。かつてはその宮殿には「空中庭園」があったことでも知られている。
以上のように、ペルシア帝国では、ペルセポリス、スーサ、エタバタナ、バビロンの各都市がそれぞれの役割と機能を果たしていたのである。
このバビロンには多くの財宝が残されており、アレクサンドロスは、今後の軍事活動の資金として確保した。またバビロンはペルシア帝国の、重要な拠点でもあったことから、ペルシアの行政機構を生かしつつ、ギリシアの文化とペルシア文化の融合を図ることで統治の円滑化を目指したのである。
そして冬になる前に、バビロンを発ち次の目的地であるス―サに向かった。そのスーサでも、アレクサンドロスは無血入城を果たしている。
スーサはエラム王国の時代から栄え長い歴史のある都市で、紀元前4.000年頃から人々が定住していたとされる。アケメネス朝ペルシアにおいても、冬の宮殿として使用され「アパダーナ」と呼ばれる壮大な宮殿があった。また、スーサはペルシア帝国全土に向かう「王の道」の起点であり、交通や通信網の中心地として知られていた。アレクサンドロスはここでも莫大な金銀を手に入れることが出来た。そして、彼はこの都市で「スーサの合同結婚式」を行い、マケドニア軍の兵士とペルシアの女性を結婚させることで、両国の融和を図る政策の一つとした。アレクサンドロス自身も、ダレイオス3世の娘であるスタテイラと結婚したのである。そして、彼はスーサでもペルシアの行政機構を再編して、自身の統治の安定化のために、現地の官僚や貴族の継続的な任用を図ることにした。
スーサにおよそ1か月程度滞在した後、アレクサンドロス軍はペルセポリスに向けて出発した。途中でウクシオイ人の領域であるザグロス山脈の山岳地帯を通過する際に、マケドニア軍は彼らから通行料の支払いを求められた。ウシクオイ人はペルシア帝国にも属さない山岳地帯の民族である。アレクサンドロスは彼らの要求を拒否したため、戦闘が避けられず交戦となった。マケドニア軍はウシクオイ人の集落に夜襲をかけたが、彼らは地の利を生かして抵抗した。しかし、アレクサンドロスはウシクオイ人が逃げ場を失い撤退する可能性のある場所を先に占拠し、逃げ場を与えないで周囲を完全に包囲し、彼らを降伏に追い込んだ。降伏の条件として、毎年100頭の馬、500頭の牛、30,000匹の羊をマケドニアに貢納することで戦闘を終えた。
さらにこの戦闘の後、マケドニア軍は紀元前330年の冬、ペルセポリスに向かう途中、その北方にあるペルシス門(現在のザグロス山脈の一部)で、ペルシス州総督アリオバルザネス率いるペルシア軍と「ペルシス門の戦い」を行った。
マケドニア軍はおよそ17,000の兵、ペルシア軍はおよそ40,000の兵と700の騎兵部隊で戦った。アリオバルザネス率いるペルシア軍は、ペルシス門の狭い山道で待ち伏せを行い、マケドニア軍の通過を待ち受けていた。山道に入ったマケドニア軍に対して、ペルシア軍は高所から投石や矢を射かけ、大きな損害を与えた。しかし、アレクサンドロスは現地の羊飼いやペルシア軍の捕虜から得た情報をもとに軍を二分し、一軍は正面からの攻撃し、もう一軍をペルシア軍の後方に回り込ませて挟み撃ちにし、ペルシア軍を包囲して勝利した。この戦いに勝ったマケドニア軍は、防御線を破りペルセポリスへの道を切り開いた。
このペルシス門の戦いで、ペルシア軍のアリオバルザネス軍が敗北したことで、ペルセポリスの防衛力が削がれた結果、マケドニア軍がペルセポリスに到着した際に、都市の守備隊や住民は殆ど抵抗しなかった。こうして紀元前330年1月、ペルシア帝国の首都の1つであるペルセポリスは、比較的容易に占領された。アレクサンドロスは、このペルセポリスの占領を祝う宴会で、かつてギリシアのアテネがペルシア軍によって破壊された報復として、壮大なペルセポリスの宮殿に火を放ち、都市の1部が消失したといわれている。この放火の動機について、報復説ではないとする詳細を記した書があるので紹介しよう。
「残る問題は放火の動機である。これまでに四つの説が提出されている。第一は、遠征の大義名分に従ってペルシア戦争の報復を果たしたという説。しかしそれなら何故ペルセポリス占領後の一月でなく、出発目前の五月なのか。滞在中に宮殿を温存したという事情はあるにせよ、これでは随分気の抜けた報復劇ではなかろうか。
第二は、ペルシアペルシア人の支配が終わったことを東方諸民族に示す政治宣言であったという説。しかしアレクサンドロスはペルシア人貴族のマザイオスをバビロニア総督に任命するなど、すでにペルシア人支配層との協調路線に踏み出していた。アカイメネス朝の旧体制を継承しながら、その象徴であるペルセポリスを焼き払うことは矛盾している。
第三が、前331年にギリシアで起きた反マケドニア蜂起の拡大を防ぐため、遠征の目的があくまでもギリシアのための報復戦争であることを、とりわけアテネに示そうとしたという説。確かにギリシアの反乱拡大は阻止せねばならない。しかしペルシア人との協調という新しい路線を犠牲にしてまで、遠く離れたギリシア人に遠泳の大義を改めて訴える必要があっただろうか。この時点でアレクサンドロスがギリシア人への配慮を最優先させたという解釈は疑問である。
第四が、ペルシス地方の住民が大王の支配を受け入れず、アレクサンドロスも彼らを帰順させることに失敗したために、彼らへの懲罰として放火したとする説。私はこの説が最も整合性があると考えている。幾つかの大王伝によると、宮殿周辺での略奪の結果、地元のペルシア人はマケドニア人の支配を決して受け入れようとせず、王自身も住民に深い悲しみを抱いたという。四カ月という長期にわたるペルセポリス滞在の理由もここから説明できる。アレクサンドロスはペルシア帝国の中心であるペルシス地方を何とか帰順させようとするが、住民たちは断固として帰属を拒否した。王は解決策を求めるが、時間ばかりが過ぎる。遂に彼は頑強なペルシス住民への懲罰として宮殿に放火し、彼らの民族的誇りを打ち砕いて力ずくで屈服させようとした。ただし公式発表はペルシアへの報復とされた。」『興亡の歴史 アレクサンドロスの征服と神話』著者:森谷公俊
また、アレクサンドロスはここペルセポリスでも、アケメネス朝ペルシアの莫大な財宝を摂取し、軍費にあてた。さらに、ペルセポリスの行政をマケドニアの統治下に置き、ペルシア帝国の既存の政治機構を利用して都市の安定化を図った。
ペルセポリスにおいて、アレクサンドロスは軍の再編成を行うとともに、次の遠征に備え兵の休息と軍需物資の調達を整えた。
紀元前330年夏(おそらく7月)ごろ、アレクサンドロスはペルシア帝国の残りの地域の1つ、エクバタナに向かった。この遠征の目的はエクバタナの占領と、ガウガメラの戦いで敗れ敗走しているダレイオス3世を追撃し捕らえることであった。マケドニア軍は、その年の秋(おそらく9月)ころエクバタナに到着したが、ダレイオス3世は既に逃亡していた。エクバタナは前述したが、ペルシア帝国の夏の首都として栄えた都であり、イランの西部ハマダーン州ザグロス山脈の麓に位置していた。ペルシア帝国が首都にする以前は、メディア王国の首都でもあった。マケドニア軍はエクバタナの総督や市民からの抵抗を受けることなく、比較的容易にこの町を占領した。それほどエクバタナの守備隊は弱体化していた証でもあった。アレクサンドロスは、エクバタナにおいて兵の休養と、物資の補給、そして財宝の摂取保管を行った。また、この街の新しい総督を任命し、都市の安定化を図るとともに、逃亡を続けているダレイオス3世の追撃のために、次の目的地をバクトリアに定めた。
アレクサンドロスは、紀元前330年秋(おそらく10月)エクバタナからバクトリアの占領と、そこに逃亡中のダレイオス3世を捕らえるべく出発した。
マケドニア軍は紀元前330年秋にバクトリアに到着した。バクトリアはペルシア帝国が支配した現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどの地域を指す1州にある都市である。ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に広がった地域にあり、古代から重要な交易路として栄え、様々な交易品が集まり取引がなされ、ペルシア帝国の経済を支える重要な支配地であった。マケドニア軍がバクトリアに着いたときは、追撃していたダレイオス3世はこの街の総督ベッソスの裏切りで捕らえられ、既に殺害されていた。バクトリアでは首都であるバクトラで市街戦があり、狭い通りや建物の中での戦闘が中心となった。さらに、バクトリアのソグディアナの要塞は「翼を持った兵士でなければ攻略できない」といわれるほど難攻不落の要塞だった。アレクサンドロスはこの要塞を、過去の包囲戦で山登りの経験のある兵士を集めて、夜間に崖の上に登らせた。そして「翼を持った兵士」の証しとして白い布切れを使い信号を送った。それを見た要塞の兵士たちは「翼を持った兵士」の出現を信じ士気が落ち、マケドニア軍に降伏した。アレクサンドロスの心理戦による勝利であった。バクトリアでは他にも地元の反乱軍やペルシアの残存勢力との戦いがあったが、アレクサンドロスは地元の有力者との同盟や、政治的な戦略も駆使して地域の安定を図った。そして、アレクサンドロスのもう一つの目的であった、ダレイオス3世の追撃については、マケドニア軍がバクトリアに到着した後、アレクサンドロスはバクトリア総督ベッソスの裏切りにより捕らえられ処刑されたとの報告を受けた。そして捜索の結果ダレイオス3世の遺体は、バクトリア地方パルティアとの境界付近(イラン北東部)で、殺害された後放置され、荒れ果て損傷した状態で発見された。それを確認したアレクサンドロスは、ペルシア王としてのダレイオス3世の威厳を保つために、丁重に葬儀を行った。この行動は、アレクサンドロスの帝王としての偉大なる資質を物語っている。
アレクサンドロスはバクトリアでの戦闘が終了し、支配を確実なものにすると、新しい総督を任命し、地域の行政と治安の維持を強化した。また、兵士の休養と物資の補給を行い、次の遠征地への準備を整えた。バクトリア地域の安定のために、地元の有力者の娘ロクサネと結婚した。この結婚は政略的な意味もあったが、アレクサンドロスはロクサネの美しさに一目惚れしたとされている。アレクサンドロスは結婚後の遠征先にもロクサネを帯同し、彼女もそれを望んでいたため、アレクサンドロスの心の支えになっていた。二人の間にはアレクサンドロスの死後間もなくアレクサンドロス4世が生まれた。
アレクサンドロスはこのバクオリアを制圧後、およそ3年間この地でソグディアナも含めて、マケドニア軍の支配に対する反乱の鎮圧や、地域の安定を図るための時間を費やした。その間、次の遠征に向けた軍の再編成や、現地での兵士の採用による軍の規模の拡大と戦力の強化を行った。また、彼はバクトリアにいくつかの都市も建設し、ギリシアの統治体制を導入することで現地の文化との融合も図った。こうしてアレクサンドロスが、ペルシア遠征において最終目標としていた帝国の支配領域の、ほぼすべてが彼の手中に落ち、目的は達成されたかに思われた。
紀元前327年、アフガニスタンの北部のバクトラから、インダス川流域への遠征に出発した。マケドニア軍は紀元前326年4月から6月にかけて、パキスタンのヒュダスペス川(現在のジェルム川)で「ヒュダスペス川の戦い」を行った。当時、インドには地域ごとに異なる王国や領主が存在し、独自の防衛組織を持っていた。主な王国としては、パンジャーブ地方のポロス王国、パキスタンのタキシラのアンビ王国、インダス川流域のマラヤ王国などがあった。マケドニア軍のヒュダスペス川の戦いの相手は、ポロス王国であった。
その戦いの兵力や戦況について語ることにしょう。
アレクサンドロス軍の兵力は、歩兵およそ34,000、騎兵およそ7,000であった。
対するポロス軍の兵力は、歩兵30,000、騎兵2,000、戦車300,戦象200であった。ちなみに、ポロス王はこの戦象に乗って戦いに挑んでいた。
アレクサンドロスはポロス軍の警戒を避けるために、夜間激しい雷雨の中5,000以上の騎兵と歩兵を引き連れてヒュダスペス川を渡る作戦を取った。
渡河したアレクサンドロス率いるマケドニア軍が早朝にポロス軍の前に現れ、ポロス軍は奇襲に驚き急いで戦闘準備を整えた。最初にポロス王の息子の部隊がマケドニア軍に接触し迎撃したが、マケドニア軍が勝利した。その初戦でポロスの息子は戦死した。その後、両軍の主戦闘となり、別の場所から渡河したマケドニア軍がポロス軍の背後から襲いかかり、さらにアレクサンドロス率いる騎兵がその左翼を突き、戦闘の勝敗は決した。また、ポロス軍は戦象を多く率いていたが、マケドニア軍のファランクス部隊は戦象の足や象使いを狙い攻撃を加えたことで、象が暴れ戦いの効果は発揮されなかった。この戦いは、マケドニア軍の大勝利となった。しかし、アレクサンドロスはポロスの王の勇敢さを称え、この戦いの終戦処理において今まで以上の領土を彼に与えた。
ヒュダスペス川の戦いを勝利した後、アレクサンドロスは勝利を記念して2つの都市を建設した。1つは彼の愛馬の名を冠した、「アレキサンドリア・ブーケファリア」、もう1つは勝利の女神ニケの名を冠した「アレキサンドリア・ニカイア」と名づけられた。しかし、ヒュダスペス川の戦いの後、アレクサンドロスはさらに東方へ進軍する指示を出したが、部下たちの間で大きな対立が生じた。その理由は、マケドニアを出てから長い遠征の旅と度重なる戦闘で、故郷を離れた兵隊の不満は極度に高まっていたからである。
マケドニア軍の東方遠征は、紀元前334年に始まり、ヒュダスペス川の戦いまで8年の年月が過ぎていた。激しい戦闘や遠征の疲れもさることながら、長期にわたって故郷や家族と離れていることが、兵士の肉体のみならず精神的な面でも大きな負担となっていた。また、インドへの進軍は、兵士たちが今まで経験したことのない熱帯の気候や山岳地帯の過酷な自然環境に直面し、肉体的な疲労だけではなく精神的な理由から病気を併発する者も多くいた。さらに、異国の文化や宗教の違いからの摩擦が戦闘に発展することもあった。遠征が進むにつれて補給線が伸びることで、食料や軍需物資が滞ることもあり、飢餓や物資不足が常態化していた。このヒュダスペス川の戦いも激しい戦いであったため、そのような状況が複雑に絡まり、兵士の気力を削ぐ要因となっていた。
マケドニア軍のこのような問題を多くかかえた状況で、さらに東方への遠征を試みることをアレクサンドロスは冷静に考えた結果、部下たちの意見を聞き入れて帰還することを決断した。この決断は故郷への帰還ではなく、遠征をいったん中止してバビロンに引き返し、そこで新たな計画を練るというものだった。マケドニア軍は紀元前326年に遠征を中止し、インドのパンジャーブ地方から西へ進み、ペルシアを経由してバビロンに向かった。このバビロンへの旅は砂漠を通過するために非常に過酷で、多くの兵士が命を失っている。そして紀元前324年、ようやくバビロンに到着した。
バビロンに着いたアレクサンドロスは、ここを新たな拠点にして新たな遠征計画を練っていた。
紀元前323年5月末、アレクサンドロスは軍を慰撫するために宴会を開いた。その後、友人である将官のメディウスと飲酒し、その翌日に発熱して寝付いた。その後、症状は急速に悪化し、「蜂に刺されたような痛み」を背中に感じるようになった。数日後にはベッドから離れることができず、横たわったままで指示をだしていた。6月5日にはアレクサンドロスの命が危険だということが明らかになり、兵士たちが最後の面会に訪れたが、彼は言葉を発すことができず、目礼で挨拶を交わしたという。そして6月11日の午後、若き英雄アレクサンドロス大王はこの世を去った。
遺言は「最強の者が帝国を継承せよ」だった。
(第5章に続く)
(ギリシア神話・勝利の女神「ニケ」/エフェッソス遺跡/トルコ)
(エーゲ海)
出典: | 「Wikipedia」 |
「Wikiwand」 | |
「Hitopedia」 | |
「Historia」 | |
「AZ History」 | |
「Weblio辞書」 | |
「世界史の窓」HP | |
「やさしい世界史」HP | |
「世界図書室」HP | |
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫 | |
「歴史」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫) | |
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック | |
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック | |
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著 | |
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊 | |
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭 | |
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明 | |
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研 | |
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館 | |
「驚きの世界史」著者:尾登雄平 | |
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二 | |
「エフェッソス遺跡・勝利の女神ニケ像」筆者撮影画像 |