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『アレクサンドロス大王/ 第3章
マケドニア王国』

 マケドニア王国が紀元前338年の「カイロネアの戦い」で、ギリシアのスパルタを除く都市国家統一を果し、コリントス同盟を結成するまでには、ギリシアの内戦という長い戦いが続いた。その歴史をここで語る必要があるだろう。
 紀元前499年から紀元前449年までの50年間続いた「ペルシア戦争」が「カリアスの和約」によって、漸く終結したかに思われた。しかし今度はペルシア戦争中でもくすぶり続けていた火種である、ギリシアのアテナイを盟主とする「デロス同盟」とスパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の戦争が始まった。
 その戦争の原因は、カリアスの和約でギリシアの主導権を握り、経済力及び軍事力を拡大し勢力をのばすアテナイに対して、スパルタが脅威を感じたことで緊張感が高まり、ギリシア全土を巻き込んだ同盟国同士の大規模な内戦へと発展したのである。
 「ペロポネソス戦争」の開戦である。
 紀元前431年、スパルタがアテナイに対して宣戦布告を行った。スパルタ軍は、ボイオティア地方のプラタイアを紀元前429年に包囲し、長期にわたる攻防戦が繰り広げられた。プラタイアの守備隊は勇敢に抵抗を続けたが、紀元前427年に降伏した。スパルタはこのアテナイの同盟都市であるプラタイアを陥落させたことで、アテナイへの物資や援軍の供給を妨げることが可能となったのである。
 紀元前429年には「リオンの海戦」があった。
 この戦いはアテナイの将軍フォルミオン率いるアテナイ艦隊と、ペロポネソス連合軍の艦隊とで行われた。スパルタ艦隊は同年の夏にアテナイの同盟国であるアカルナニアを離反せるために、1,000の重装歩兵を夜間に47隻の船に乗せ運ぶ予定だった。しかしアカルナニアへ向かう途中カルキスとエウエノス川の近くでアテナイの艦船20隻と遭遇し、撃破されてしまったのである。
 紀元前428年には「ミュティレネの反乱」があった。
 レスボス島の都市ミュティレネがアテナイに対して反乱を起こしたのである。目的はミュティレネがレスボス島を統一するために、スパルタやボイオティアと連携してアテナイに反旗を翻した。当初アテナイは外交交渉で反乱を鎮めようと試みたがミュティレネがこれを拒否したため、スパルタからの援軍が来る前に軍事行動で鎮圧し、反乱の首謀者たちは処刑され街の城壁は破壊された。しかし、後にこのレスボス島の都市国家は再びアテナイに反旗を翻すことになるのである。
 紀元前426年、ギリシアのボイオティア地方にある都市での「タナグラの戦い」があった。実は紀元前457年にもこの地で、アテナイとスパルタが戦っている。この時の戦いはスパルタ軍の勝利に終わった。そして紀元前426年2回目の戦いはアテナイ軍とタナグラ・テバイ連合軍が戦ったが、この戦いはアテナイ軍の勝利となった。
 紀元前424年「デリウムの戦い」があった。デリウムとはギリシアのボイオティア地方の都市で、アテナイ軍がこの都市を要塞化しようとしたのである。これに対してボイオティア軍が激しく反撃に出た。そのためにアテナイ軍は要塞化を諦め退却した。
 紀元前422年「アンフィポリスの戦い」があった。ギリシア北部の中央マケドニア
 地方にあるアンフィポリスはもともとアテナイによって建設された戦略的に重要な都市であった。このアンフィポリスを、スパルタのブラシダス将軍が占領したために、アテナイのクレオン将軍が奪回するため戦った。ブラシダス将軍の巧妙な采配でスパルタ軍の勝利に終わったが、この戦いで両将軍ともに戦死している。
 紀元前421年「ニキアスの和約」が成立する。アテナイもスパルタもこのペロポネソス戦争が長期化し、特にアテナイは今回のアンフィポリスでの戦いにおける敗北や、これまでの戦闘における兵の消耗、さらに戦費の増大、貿易の停滞などの複合的な要因で、アテナイ市民や政治家からの戦争継続への不満が噴出していた。この状況は、スパルタにとっても同様であり、ニキアスの和約の内容も戦闘の一時的な停止という内容になっている。この戦いによって得た占領地の返還、捕虜の交換、両国の同盟国との関係の維持、そして戦闘行為の停止と平和維持などが盛り込まれた。
 紀元前418年「マンティネイアの戦い」があった。この戦いはスパルタとその同盟国の兵数およそ10,000に対して、アテナイ・アルゴス・その他同盟国の兵数8,000の戦いであった。スパルタはスパルタの王であるアギス2世が、ホリプタイ(重装歩兵)によるファランクス(密集隊形)で、アテナイ軍の中央を突破して、両翼から囲い込む戦術で敵方の連携を崩し、更に戦場の地形を利用するなどして混乱を起こすことでスパルタ軍が大勝したのである。この戦いに勝利したスパルタは、ギリシア全土での軍事的優位を確立し、アテナイへの影響力も増すこととなった。一方でアテナイはこの戦いの敗北で、今後の自国の戦略的な立場において後退するとともに、同盟国との信頼関係にも悪影響を及ぼすこととなった。しかし、このマンティネイアの戦いでスパルタが勝利したとはいえ、まだ決定的な勝利とは言えなかったのである。
 その数年後紀元前416年「メロスの包囲戦」があった。
 アテナイ軍は、クレオメデスとテイシアスの指揮下、重装歩兵1,200、弓兵300、騎馬弓兵20、同盟軍の重装歩兵1,500、自国船30隻、キオス船6隻、レスボス船2隻を動員して、エーゲ海のキクラデス諸島のメロス島を包囲し降伏を求めた。これに対して、メロス島の人々はこれを拒否し抗戦を選んだ。それに対してアテナイ連合軍は、メロス等を攻撃し占領した後、成人男子をすべて処刑し、女子供をすべて奴隷にしたのである。この苛烈な処置は、アテナイ軍の残酷さを後世まで語り継がれることとなる戦となった。
 翌年紀元前415年から紀元前413年にかけてアテナイが「シケリア(現在のシチリア島)遠征」を試ている。この遠征は、アテナイがシケリアの都市国家シュラクサイを攻略することで、地中海での影響力を拡大することが目的であった。その目的を果たすために、アテナイは大規模な軍事作戦として位置づけ、重装歩兵5,100、軽装歩兵1,300、騎兵30、三段櫂船134隻、増援部隊として重装歩兵およそ5,000、軽装歩兵(数不明)、騎兵1,200,三段櫂船73隻を準備して、攻城戦に及んだのであった。当初アテナイはシュライクサを封鎖する堡塁を完成させて攻城戦を進めた。しかしスパルタからギュリッポス将軍が到着し、シュライクサの防衛が強化され状況が一変した。しかも、アテナイ軍では遠征初期から指揮を執った将軍は解任され、後任の指揮官ニキアスとラマコスが意見の対立で指揮系統が乱れ、士気の低下や円滑な軍の統率に悪影響が出て、多くの攻略の機会を逃してしまった。特にエピポライ高地の重要な防衛線を破られたことや、シュラクサイ軍とスパルタの連合艦隊に海上封鎖を破られ、補給路を回復されたことが決定打となった。これらの失策により、アテナイ軍は撤退を試みたが、シュラクサイ軍とスパルタ軍の激しい追撃に遭い、アソナルス川の戦いで壊滅させられ、多くの兵が捕虜となった。このシケリアでの敗北は、アテナイのデロス同盟の盟主としての政治的な地位を揺るがし、同盟都市が反旗を翻し、スパルタ側に寝返る結果をもたらしたのである。さらにこの遠征はアテナイの経済を深刻な状況に追い込み、市民の士気を下げ、今後の戦争遂行の戦費調達が困難になったのであった。
 そして数年後の紀元前411年、「シュメの海戦」があった。前述したが、スパルタとアテナイのギリシア全土を巻き込んだ内戦を静観していたペルシアは、スパルタを支援し、資金や軍需物資の提供でアテナイの力を削ぐ作戦に出ていた。このシュメの海戦は、エーゲ海南東に位置するシュメ島近海で行われ、戦闘時は嵐に見舞われて視界が非常に悪く、スパルタの艦隊は旗艦を見失い散り散り状態にあった。そこをアテナイの艦隊に狙われ、スパルタ艦隊の左翼部分から攻撃を仕掛けて、3隻が撃沈させられた。しかし、スパルタ艦隊は再び集結することでアテナイ艦隊を包囲し、攻撃を開始した。この海戦でアテナイ軍は6隻の艦船を失い、アナトリア半島のハリカルナッソスに撤退した。
 さらに紀元前405年、「アイゴスポタモイの海戦」があった。
 この海戦はスパルタが、紀元前431年にアテナイに対して宣戦布告を行ってから続いたペロポネソス戦争最後の海戦となった。当時のエーゲ海ではペルシアの支援を受けていたスパルタが強力な海軍力でエーゲ海の制海権を握っていた。しかしアテナイはどうしても黒海からエーゲ海を経由して、アテナイに到る穀物輸送のルートを確保する必要があったのである。この戦いは現在のトルコ領ゲリボル半島を流れるアイゴスポタモイ川の河口付近で行われたので、「アイゴスポタモイの海戦」と呼ばれている。海戦の兵数はアテナイ艦隊がおよそ180隻の艦船、スパルタの艦船数は不明である。戦いはアテナイの艦隊が数日にわたりスパルタの艦隊を挑発したが、スパルタの指揮官リュクサンドロスは応戦しなかった。そして5日後彼はアテナイ軍が油断したのを見逃さず、その隙をねらい奇襲をかけたのである。この奇襲が成功してアテナイの艦船のほとんどが拿捕され、逃げ延びたのは数隻だったと言われている。アテナイの艦隊の惨敗であり、3,000から4,000の兵士が捕虜になった。この勝利は、スパルタにとってペロポネソス戦争の勝敗を決定づけた戦いとなった。つまり、アテナイはこの海戦に敗れたことで、都市機能の生命線である重要な輸送ルートを失い、黒海方面からの食料の供給を断たれることになった。この結果アテナイは翌年にはスパルタに降伏を余儀なくされるのである。
 こうして紀元前404年アテナイがスパルタに降伏し、戦争が終結した。
 以上がペルシア戦争後、紀元前449年に結ばれた「カリアスの和約」以後起きた、ギリシアの内戦の歴史であった。
 さて、ここから再びカイロネアの戦い後の時代に戻ることにしよう。
 このカイロネアの戦いが後世に残したものは、マケドニア王国がギリシア全土を統一したという結果の他に、将来に向けた若き統治者の人生に大きな影響を与えた。この戦いのつい数年前まで学生として、アリストテレスという偉大な教育者の下で、数々の知識を積み上げて来た若者が、初めての大きな戦いで父であるマケドニア国王と、新しい戦術を改革し、勝利を得たという事実は、彼の未来への大きな自信となったはずである。机上の論理を見事に実践で生かし得たという、この軍事的才能が、これから始まるアレクサンドロスの遠征事業に大きく花を開かせることになった。
 そして歴史はまた大きく動いたのである。
 前述の通り紀元前336年、ギリシア諸ポリスを統一し、次のマケドニア王国の戦略の一つである、ペルシアへの遠征事業を目の前にして、アレクサンドロスの父フィリッポス2世が暗殺されたのだ。
 この時アレクサンドロスは20歳になっていた。彼は父の死をどう捉えたのだろうか。そしてマケドニアの今後の方向性についてどのように考えたのであろうか。若き王の将来への展望ともいうべきものである。マケドニア王国は、ギリシアの都市国家連合軍を、カイロネアの戦いで勝利し形式的な統一したとはいえ、まだ完璧な統一とは言えなかった。何故なら。コリントス同盟の盟主の死は、彼らの意識を吹き替えらせ、燻っていた火種に火が付き始めたのである。
 早速フィリッポス2世の死後、アレクサンドロスはマケドニア王国の政権の掌握に動いた。幸いにもこの動きをサポートする人物がいた。
 母親のオリュンポスである。彼女の動きは早かった。アレクサンドロスの即位と権力基盤確保のために、フィリッポス2世の新しい妻であるクレオパトラ・エウリュディケとその子供を捕らえ処刑したのである。彼女は非常に野心的な女性であり、フィリッポス2世がクレオパトラ・エウリュディケと結婚したことで、夫との関係は完全に破綻していたのである。さらに、当時の信仰の対象であったギリシア神話も利用し、アレクサンドロスは絶対神ゼウスの子であると噂を流すなど、彼の神聖化を促してマケドニア王国の即位に力を注いだ。
 また、他にもフィリッポス2世の側近であったアンティパトロスがいた。アンティパトロスは前国王フィリッポス2世の有能な将軍でもあったが、アレクサンドロスの即位を支援し、さらに即位後も権力基盤の強化や国政を取り仕切り「摂政」として彼を長年にわたり支え続けた一人である。
 アレクサンドロスはマケドニア王国の国王に即位し、フィリッポス2世の死による国内情勢の混迷や、若き国王を軽視する勢力などが引き起こした支配国内の反乱に対して迅速に対応した。ここでも彼の統治能力や迅速な決断力は国内外にその能力を明確に示したのであった。
 そして、彼はさらに、父親から受け継いだ強力な軍隊の改革を行い、強化し訓練を重ねることで、それらを背景に国内基盤の安定化や遠征による覇権の拡大を図ったのである。そのアレクサンドロスが率いることになった、マケドニア王国の軍隊は当時では最強の軍隊であったことがうかがえる。
 その概要を述べてみよう。
 マケドニア王国の兵力総動員数は、およそ40,000から50,000とされている。
 「ファランクス」と呼ばれる重装備歩兵がおよそ16,000、装備はサリッサと呼ばれる6mもある長槍と、盾、鎧である。彼らは最前線を維持する役目を担っていた。ファランクス戦術は、前列の盾と後列の槍が密集陣形によって敵の攻撃を防ぎ戦うことであった。突撃戦では敵に対して大きな衝撃を与えるのを目的としている。さらに、「ヘタイロイ」と呼ばれる近衛騎兵がおよそ1,800~2,000。装備は軽装鎧と槍又は剣。彼らの役割は、戦闘における決定的な打撃力で、例え大部隊であっても突撃を行い、相手の戦闘力を削ぐ目的を持っており、アレクサンドロスがこの「ヘタイロイ」を指揮することで、数々の戦争を勝ち抜いた部隊でもある。
 「テッサリア(場所の名前)騎兵」が、およそ1,800、装備は槍又は剣、軽装鎧で敵の側面や後方を攻撃する役目を担う。
 「ヒパスピスタイ」と呼ばれる盾持ち兵がおよそ3,000、装備は短槍、盾、軽装鎧で主に騎兵の戦闘を支援する部隊。
 「軽装歩兵と散兵」がおよそ数千人程度で、装備は弓、投槍、軽装鎧、騎兵の戦闘支援や、敵のかく乱、追撃などを担当。
 「工兵部隊」人数は不明、攻城戦での城壁の破壊、攻城用の塔の設営や道路の整備、橋の設営など多岐にわたる後方での戦闘支援。
 これを見てもわかる通り、戦争における役割の明確化や周到でマルチな軍編成の内容が散見される。
 さて、ついに紀元前334年、この軍隊を率いてアレクサンドロスの東方遠征が開始されるのである。
 当時のアケメネス朝ペルシアの支配領域を見てみよう。
 その支配域は、ペルシア本土、メソポタミア、エジプト、アナトリアと呼ばれた小アジア、レバント(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダンなど)、中央アジア(現在のアフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなど)、インダス川流域(現在のパキスタンなど)などの広範な領域を、高度な行政システムを導入して支配していた。これらの広大な支配領域を円滑に統治した高度な行政システムというのは、ダレイオス1世であった。おそらく有能な側近がいたであろうことが推測される。彼は帝国を20の州に分割している。この州にはサトラップと呼ばれる、総督が配置され、その地の行政や徴税や治安の維持に努めた。さらに、そのサトラップの監視体制も怠らなかった。「王の目」とか、「王の耳」と呼ばれる監察官が各州を巡回し、サトラップの監視体制が築かれていた。さらに、各支配地域に通じる道路網の整備や、通信網の整備がなされ、情報の取得や戦争時の移動などが迅速に行われるような整備もなされた。また、その道路には宿駅が整備されて、各宿場に備えた馬による迅速な情報伝達の制度も導入されていた。この当時における最新のシステムは、アケメネス朝の統治の円滑化に大きく寄与していたのである。
 アレクサンドロス率いる遠征軍は小アジアを経由してシリアに向かった。小アジアには、多くのギリシア人が住んでいた。しかし、その実際の支配はアケメネス朝ペルシアが行っていた。
 紀元前333年、アレクサンドロス率いるマケドニア軍はイッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世を破った。
 イッソスの戦いは、現在のトルコのイスケンデルン湾沿岸にあるイッソス平原で行われた。アレクサンドロス軍と戦うべく、ダレイオス3世率いるペルシア軍がこれを迎え撃った。ピナルス川の近くで戦闘が開始された。マケドニアは軍を3部隊に分散し、両翼に騎兵と軽装歩兵を配置して、アレクサンドロスは右翼にいた。
 一方ペルシア、ダレイオス3世は中央に本陣を置き護衛部隊に守られ、両翼に騎兵と弓兵を配置した。軍の兵数ではペルシア軍がマケドニア軍を圧倒していた。しかし、地形から戦いの勝敗は兵の数では決められない状況にあった。戦端は両軍の中央部隊から開かれた。ペルシア軍は弓兵が弓矢で応戦したが、マケドニア軍はこれを盾で防ぎ善戦した。その間にアレクサンドロス率いる右翼の騎兵部隊で突撃し、ペルシアの左翼を攻撃突破した。その後彼の騎兵部隊はペルシアの後方に回り込んで、ペルシア軍を混乱させ、その時を逃さずマケドニアの中央軍がペルシア軍の中央軍を突破して、ダレイオスの本陣は崩れ彼は戦場を離脱した。マケドニアの左翼はペルシアの猛攻を受けたが、ペルシアは中央軍を突破され、指揮官が離脱したことで混乱に陥りそして崩壊した。
 このイッソスの戦いに関する、アレクサンドロスの戦術は、彼の公式歴史家であり、アリストテレスの甥でもある、カリスティニーズの記録によって、軍事行動や政治的な決定、文化的影響などが記録され残っている。その点では、このイッソスの戦いでも、アレクサンドロスが戦いの前にその戦地を選択するために、情報を取集し戦術を練ったことが記されているようである。余談になるが、後世にこのカリスティニーズは、アレクサンドロスが自分自信を神格化することに反対し処刑されている。
 イッソスの戦いに勝利したマケドニア軍は、次にエジプトに向けて遠征を開始した。当時のエジプトは紀元前525年にカンピュセス2世が、古代エジプト王朝を倒してから、ペルシアの統治が始まった。紀元前404年から紀元前343年までの第28王朝から第30王朝まで一時的にエジプト王朝が回復し独立しているが、その後再びアケメネス朝の支配下に入った。エジプトは、ペルシアの支配する20のサトラピー(州)の1つであった。よってエジプトはアケメネス朝ペルシアが派遣するサトラップ(総督)が支配する国だった。
 マケドニア軍は、エジプトでは最初にガザの要塞を包囲した。ペルシアの駐留軍は強固な防御態勢でこれを迎えた。マケドニア軍は攻城塔や投石機で攻めたが、激しい抵抗にあって、アレクサンドロスも脚に矢を受け負傷した。しかし最終的には数か月の戦いの後ガザは攻略されたのである。
 ガザを攻略したマケドニア軍は、次にメンフィスの攻略に向かった。メンフィスではほとんど抵抗を受けずに、彼らは解放者として受け入れられた。エジプトにおけるサトラップの支配体制は宗教的な干渉や、重税を課すことで、エジプトの国民には激しい反感を抱かせていて、しばしば反乱も起きていたようである。そこにアレクサンドロス率いるマケドニア軍が侵攻し、アケメネス朝ペルシア軍を追い出し、彼が寛容な政策を行い、さらに宗教的な尊重を示したことが、エジプトの人々には救世主のように思われたのではなかろうか。
 そのエジプトの国民の思いをくみ取ったアレクサンドロスは、エジプト占領後に課税を緩和する経済政策や、エジプトの文化や宗教を尊重する政治政策をとることで、エジプト人から解放者として受け入れられたのである。特に宗教においては、アメン神殿での儀式を通じ、エジプトの宗教の伝統を尊重する姿勢を示すことが、今後の支配統制においても重要であると考えたのである。
 アレクサンドロスは、メンフィス征服後いくつかの政策を打ち出した。
 彼は地中海沿岸に新しい都市を建設することを決定した。その1つが、ナイル川のデルタ地帯が、地中海から紅海や、インド洋への交易ルートとして最適な場所だと考えたからである。つまり、東西の交易の拠点としての利便性や、彼が山岳地帯出身だということもあり、この地中海沿岸に要塞を築くことで、エジプトの支配強化や海上からの攻撃に対する防御だけではなく、陸・海からの出撃も可能となり、軍事的・政治的な重要拠点として最適な場所と考えたのであろう。彼はその町に「アレクサンドリア」と、自分の名前をつけたのである。つまり、彼は自分の名前を冠した都市の建設で、自身の名声を高めることも意図したのである。次に彼はエジプトの文化を尊重するために、エジプトの神殿においてマケドニアの王国のファラオとしての宗教儀式をとり行っている。この姿勢はエジプト人に受け入れられた。また、彼は自分が東方遠征の前に立てていた、戦略の実行に向けて着々と準備を進めていた。それがペルシアへの遠征である。
 このようにエジプトを占領支配したアレクサンドロスは、ペルシアに向けて遠征を開始するべく計画を練っていた。
(第4章へ続く)
(アレクサンドロス大王騎馬像/スコピエ/北マケドニア)
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫
「歴史」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館
「驚きの世界史」著者:尾登雄平
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二