『アレクサンドロス大王/ 第2章
ペルシア戦争』
ここで少し時代をさかのぼり、ギリシア諸都市国家(以下は単にギリシアと書く)とアケメネス朝ペルシア(以下は単にペルシアと書く)の敵対関係およびその戦争の歴史について述べておくことが必要だろう。ギリシアとペルシアとの「ペルシア戦争」と呼ばれる戦いは、このエッセイを書くうえでも、ギリシアの実情を良く知るという意味でも重要なことであり、少々長くなるが書くことをお許し願いたい。
もともと、ギリシアとペルシアはこの当時、長い対立の歴史を引きずっている。その原因は紀元前499年~紀元前449年までのおよそ50年間も続いたペルシア戦争である。このペルシア戦争については、分かりやすく第1次、第2次と分けて書くことにしよう。
第1次ペルシア戦争と呼ばれるのは、紀元前492年にペルシアがギリシアに対して行った遠征から始まった。
この遠征の前に、小アジア(現在のトルコ西部辺り)にある、イオニアが紀元前499年から紀元前493年にかけてペルシアに対し反乱を起こした。その原因はペルシアの支配への不満が原因であった。当時ペルシアは、イオニアの都市国家に僭主(独裁者)を置き、その内政に干渉するばかりではなく、重税による経済的困窮を招いていたのだ。さらに、イオニアの都市国家はもともとリュディア王国の支配によって、ギリシア文化を受け入れていたために、ペルシア文化の支配に対しての不満を抱いていたからである。
イオニアはリュディア王国との経済的なつながりが深く、そのリュディア王国もまた、ギリシアの都市国家と密接な関係が深く、文化的な交流も盛んであった。しかし、紀元前547年にアケメネス朝ペルシアのキュロス大王によって征服された。それ以降はペルシアの支配下にあった。イオニアの反乱に対して、ギリシアのアテナイ軍やエレトリア軍が支援をした。しかも、イオニアの反乱はキプロスやカリアにも波及した。しかしこれらの反乱は、結局ペルシア軍によって鎮圧された。このイオニアの反乱に対する報復措置としてペルシア帝国が、ギリシアに最初の遠征を行ったのである。
紀元前492年ギリシアに対して、ダレイオス1世の娘婿であるペルシアのマルドニオス将軍が遠征を行った。その時のペルシアの軍編成は、陸軍と海軍で構成されていた。陸軍は歩兵、騎兵、そしてメディア人、バビロニア人、エジプト人などの傭兵部隊で構成されていた。海軍は、2段漕ぎ船バイレーメスを中心に構成され、この戦いでは兵士や物資を戦地へ輸送することが主な役割だった。ペルシア艦隊はエーゲ海を北上して、その最北部にあるギリシア領のタソス島に陸軍を上陸させその島を制圧した。その後再び陸軍を乗せてバルカン半島に向かい、ハルキディキ半島の海岸線に沿って航行し、アトス岬を迂回する途中で暴風に遭遇しおよそ300隻の艦船を失った。そのためにペルシア軍は海路を断念し、陸路でトラキアとマケドニアに向かったのである。この遠征の初期段階では、ペルシア軍はトラキアとマケドニアを一時的に占領し支配を維持しようとしたが、現地のブリュゴイ族の夜襲を受け、さらに指揮官のマルドニオス自身も負傷したため、ペルシア軍の士気は大きく低下し、遠征を中止して本国への帰還を余儀なくされたのである。
そして紀元前490年に、ギリシア同盟軍とペルシア軍との「マラトンの戦い」があった。ペルシア軍の兵数およそ20,000、その内容は重装歩兵、軽装歩兵、騎兵の混成部隊で構成されていた。
一方ギリシア同盟軍は、アテナイ軍がおよそ10,000、プラタイア軍がおよそ600の重装歩兵(ホプリタイ)で構成されていた。
この戦いではギリシアのアッティカ半島東部にあるマラトンで、ギリシア軍がペルシア軍を迎え撃つ形での戦いとなった。ギリシア軍は中央の軍を薄くし,鶴が羽根を広げたような形で、ペルシア軍を包み込むようにして闘い、兵数ではおよそ2倍のペルシア軍を撃退し勝利している。
第2次ペルシア戦争(紀元前480年~紀元前479年)は、ギリシア中東部に位置する「テルモピュライの戦い」(紀元前480年8月)である。
ペルシア軍は、ペルシア王クセルクセス1世が直接率いていた。ペルシア戦争開戦時からかかわったダレイオス1世は、紀元前486年8月に亡くなり、クセルクセス1世がペルシア戦争を王位と共に引き継いでいたのである。
対するギリシア軍は、スパルタ王レオニダス1世が率いるスパルタ・ギリシア連合軍であった。ギリシアの連合軍は、スパルタの重装歩兵やテスピアイ兵、テバイ兵など7,000であった。
クセルクセス1世率いるペルシア軍は、推定100,000以上という大軍団だったとされている。ペルシア軍も連合軍であり、ペルシア人を中心に、メディア人、キッシア人、アラビア人、リビア人、エジプト人、バビロニア人、インド人などの多民族で構成されていた。
戦いの火蓋が切られたのは、ギリシア中東部に位置するテルモピュライという山間の狭い道を利用して、ギリシア連合軍がペルシア軍の進撃を食い止める作戦を取ることから始まった。初日、2日目は狭い地形を利用して、ギリシア軍が数でまさるペルシア軍の進撃を防ぎ切った。3日目は、ペルシア軍はギリシアのマリス地方出身のギリシア人エフィアルテスという裏切り者の道案内によって、善戦をしていたギリシア軍の背後に回り込み包囲することで、最終的にはレオニダス1世を含めギリシア連合軍は死闘のあげく全滅を遂げた。
この戦いで、ギリシア連合軍は破れたが、スパルタ軍や同盟国の兵士たちは、圧倒的兵数を誇るペルシア軍に対し、勇猛果敢な戦いをした彼らの勇姿は、その後のギリシア全土の兵士たちに、大きな希望や勇気を振るい起こす結果をもたらすことになったのである。
次の戦いは、紀元前480年8月の「アルテミシオンの海戦」であった。
その海戦の初日の艦船数をみてみよう。ギリシアの艦隊はおよそ333隻のトリレーメス、ペルシアの艦隊は当初はおよそ1,200隻であったが、ペルシアの戦艦はアトス岬の暴風でおよそ300隻以上を失った結果、戦闘に参加した船数はおよそ900隻、ギリシア軍と同じトリレーメスが主力であった。
ここで第2次ペルシア戦争時代の、戦艦について少し触れてみよう。この時代は両軍ともに、「トリレーメス」と呼ばれる、全長およそ35m、全幅およそ6m、総乗員数はおよそ200人で、上下3段の階層別に漕ぎ手が配置され、およそ170名の力で漕ぐ高速船が用いられた。第一次ペルシア戦争時代はこれが2層の船で、「バイレ―メス」と呼ばれ、全長およそ25m、全幅およそ5m、総乗員数およそ150人で、上下2段の階層別に漕ぎ手が配置され、およそ100名の力で漕ぐ戦艦である。第2次ペルシア戦争になって、時代の推移と共に戦艦は改良されて3段階層と大型化し、速度も高速化している。
戦いの状況は、当初ギリシア艦隊がペルシア艦隊に突撃することで互角に渡り合った。ギリシアの戦闘艦は、先端に衝角(ラム)という青銅製の武器がついており、3層櫂の漕ぎ手の力によって、高速で敵船に衝突し破壊するという手法がとられた。また高速船の特徴を生かし、ペルシア艦隊がギリシア艦隊を包囲する作戦に出たがギリシア艦はペルシア艦の間をすり抜けるなど、ギリシア海軍は操船技術も磨いていたことから、ペルシア艦隊の目立った戦果は得られなかった。
海戦2日目は、暴風雨という悪天候の中で始まった。ペルシア艦隊はエウボイア島の北側近くの開けた海域に位置していたために、暴風雨の影響を直接受け、しかも艦船が密集していたことや、それに加え異国の地における気象情報不足や経験不足などの悪条件が重なり、およそ400隻の艦船が被害を受けたのである。これに反して、海域の状況を知悉していたギリシア艦隊は、エウボイア島の北端の風の影響が少ない場所に位置取りしていたことで、暴風雨の影響を受けずに済んだ可能性があった。しかも地元の海域の形状などに精通しているだけではなく、気象条件や海戦の経験も豊富であったことなどから、ほぼ無傷の状態で戦うことが出来たのである。また、ギリシア艦隊はこの日パトロール中のキリキア船団(トルコ南部のペルシア艦隊の1部隊)を発見し、これを殲滅させている。この事はペルシア艦隊の情報収集網を削ぎ、海戦を有利に導く一助となったのである。
3日目の海戦は、同時期に行われていたテルモピュライの戦いにおいて、ギリシア軍が破れたことを知り、海戦の戦略上の意義を失ったことからサラミス島へ撤退した。
そして、「サラミスの海戦」(紀元前480年9月)が行われた。
その船数をみてみよう。ギリシア軍は、アテナイ軍180隻、コリントス軍40隻、アイギナ軍30隻、その他のギリシア都市国家の船艦がおよそ120隻程度。
対するペルシア軍の船艦は、フェニキアの船艦やイオニアの船艦、その他の民族の船艦を含めおよそ500隻ないし800隻といわれている。ギリシア軍は、アテナイの軍人テミストクレスの指揮のもと、狭いサラミス海峡にペルシアの艦隊を誘い出すことに成功した。ギリシア艦の特徴である三段櫂船の軽快な運動能力の活用と狭い海域での巧みな戦術で、ペルシア軍の機動力を制してその撃破に成功し勝利したのである。このギリシア連合軍の圧勝により,ペルシア軍は撤退を余儀なくされたのであった。この戦いの様子が映画「300 ~帝国の進撃~」のラストシーンに描かれているので、是非ご覧いただきたい。アテナイ軍の指揮官テミストクレスと、当時ハリカルナッソス(現在のトルコのボドルム)を統治していた女王で、ペルシアの女性指揮官として参戦したアルテミシア1世の、壮絶な激闘シーンで終わる。彼女はテミストクレスに殺害されてしまうのだ。このアルテミシア1世役を好演したのが、映画「007 カジノ・ロワイヤル」の、ヴェスパー・リンド役のエヴァ・グリーンである。しかし、歴史上における実際の彼女は、この海戦後も生きぬきペルシア帝国の重要な指導者として、特に海軍の戦略家として、クセルクセス王に信頼され徴用されたようである。
この海戦については、ヘロドトスがその著書「歴史」で触れているので紹介しよう。
「中略・・・敵の状況がどのようになってゆくか、私の考えるところを申し上げましょう。もし、殿(クセルクセス:筆者注)が功を急いで海戦を開くようなことをなさらず、ここをお動きにならずに水軍をこのまま陸地の近くに留めておかれるか、あるいはペロポネソスへ進出なさいますならば、殿よ、ことは易々とはじめの御計画どおりに運びましょう。ギリシア軍には長期にわたって抵抗する力はありません。殿が彼らを分散せしめられますならば、彼らはそれぞれ国許へ逃亡いたしましょう。私の聞いておりますところでは、この島には彼らを養う食料はないとのことであり、またもし殿が陸上部隊をペロポネソスにお進めになれば、同地出身の部隊が動揺せずにおるとは考えられず、もはやアテナイのために開戦を行うことなどはその念頭から消え失せましょう。しかしもし殿が功を急がれて海戦をなされますならば、私の恐れますのは、水軍が敗れた場合陸軍にも累を及ぼすことでございます。・・・後略」『歴史 下』著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
これが。アルテミシアが、サラミスの海戦の前に、ペルシア王クセルクセスの諮問に答えたものである。正に海戦の結果を予測するような指摘であり、その予測に従うようにペルシア軍はアテナイ軍に敗れたのである。映画ではアルテミシアが海戦を積極的に押しすすめたような描き方であった。しかし実際はクセルクセス1世が、アルテミシアの助言を受け入れず、海戦が実行され敗戦という結果を招いたのである、彼女は海戦の結果を予測できるほどの冷静で優れた戦略・戦術家であったことが、ヘロドトスの著作に記されているので紹介をした。
次に、「プラタイアの戦い」(紀元前479年8月)は、ペルシア戦争の中でも両国の雌雄を決する戦いともいうべき戦争であった。
この戦いのギリシア連合軍の兵数は、ホプリタイ(重装歩兵)およそ38,700、軽装歩兵73,000の合計110,000。
対するペルシア軍の総兵力は、ペルシア人、メディア人、ギリシア傭兵、バクトリア人、サカイ人、インド人などの多国籍の民族から構成されたおよそ300,000からなる大規模軍団であった。
この戦いの戦端はペルシア軍騎兵隊の、ギリシア軍への挑発から始まったが、ギリシア軍がこの騎兵隊を撃退した。さらに、ペルシア軍は大軍の力でスパルタ軍に集中攻撃を加えたが、スパルタ軍は戦闘前の占いの結果が出るまで防戦に努め、占いが勝利するという結果が出たために、司令官が一斉反撃の命令を下し猛攻を仕掛けたのである。スパルタ軍のホリプタイは、密集隊形を組み、盾と長槍を使い規律正しく連携して攻め、ペルシア軍に対して圧倒的な強さを見せたのであった。スパルタ軍の統制の取れた猛攻で、ペルシア軍は大混乱に陥り多数の死者を出し、戦場からの離脱者も出て撤退を余儀なくされた。この時ギリシア軍を指揮していたのは、スパルタの王族出身のパウサニアスであった。この戦いは数で劣ったギリシア軍の大勝利となったのである。
紀元前479年8月、同時に別の場所で行われていた戦いがあった。現在のトルコ西部イオニア地方の「ミュカレの戦い」である。ギリシア連合軍の指揮官はスパルタの王であるレオテュキデス、率いる兵数はおよそ40,000、対するペルシア軍はおよそ60,000であった。ギリシア連合軍は、海軍の船を使いイオニア本土に上陸し、ミュカレの海岸沿いからペルシア軍の野営地を攻撃した。ペルシア軍はギリシア軍の接近を察知し野営地を放棄して戦闘に備えたが、ギリシア軍は戦闘の前からペルシア軍内のイオニア人に、反旗を翻すように誘いかけていた。その誘いが現実のものとなったのである。イオニア人がペルシア軍の内部で反乱を起こし、ペルシア軍は混乱を起こし、内・外から二重の攻撃を受ける形となり、戦闘力が低下し敗北につながった。ペルシア軍の兵士はほぼ戦死し壊滅状態となり、ギリシア軍の全面勝利となったのである。
紀元前478年、「ビュザンティオン(現在のトルコのイスタンブール)の戦い」が行われた。ペルシア軍は、ビュザンティオンをエーゲ海や黒海へのアクセス拠点とすることで、交易による経済的利益を得ることや、ギリシアへの攻撃の拠点とすることなど、戦略的に重要な場所と意義付けていたのである。ギリシア連合軍のビュザンティオンの攻略は、スパルタの将軍パウサニアスが司令官となり、ペロポネソス同盟、デロス同盟からのおよそ50隻の艦船と、陸上(兵数およそ10,000)から攻撃することで、ビュザンティオンを守るためのペルシアの守備軍(兵数はおよそ10,000とされた)を包囲し、攻城戦と合わせ完全に補給路を断ち最終的には攻略に成功した。この戦いに勝利したギリシア軍は、ビュザンティオンがトラキア支配の中心的拠点としての役割も担っていたことから、トラキア全域のペルシア帝国の支配権を削ぐ結果となった。
紀元前466年、「エウリュメドンの戦い」があった。ギリシア軍は、アテナイの将軍キモン率いるデロス同盟軍とペルシア軍との海陸両面での戦いであった。
ギリシア軍の兵数はデロス同盟軍三段漕ぎ船トリレーメスがおよそ250隻、陸軍の兵数は不明で、海軍・陸軍の共同作戦である。
対してペルシア軍は同じ三段漕ぎ船トリレーメスがおよそ340隻、陸軍は兵数不明でペルシア人を中心にした部隊であった。
戦闘の開始は、先ずギリシア軍(デロス同盟軍)の指揮官キモン将軍の判断で、キュプロス島に駐屯するペルシア軍の援軍を恐れ、その援軍の到着前に戦闘を仕掛ける作戦に出たのである。さらにキモン将軍は、海戦においてペルシア軍を奇襲攻撃することで、激闘の末に、ついにペルシア艦隊をギリシア陸軍のいる場所へ追い込んだ。キモン将軍率いる部隊と陸軍の猛攻で、ペルシア軍を陸海において撃破、ペルシアの指揮官フェレンダテスは捕らえられて処刑された。デロス同盟軍(ギリシア)の勝利により、エーゲ海の制海権がギリシア側に移ったことで、アテナイは全ギリシアの覇権国としての地位を確立したのであった。
アテナイはデロス同盟の盟主として、同盟諸国(およそ200都市)からの貢納金を増加することで財政基盤を強化し、軍事力の増強を行った。この戦いによる、アテナイの海軍力の優位性が、エーゲ海での制海権の確保によって、交易や航海の安全、さらにペルシアとの和平交渉も可能にしたのである。その結果、紀元前449年ペルシアとの「カリアスの和約」が締結された。この和約によって、ギリシアとペルシアの戦争は一時的にではあるが戦争が終結した。和約の内容は、小アジアにおけるギリシアの諸都市は、ペルシアの干渉を受けない自治管理が認められること。また、ペルシアの政治管理方式の「サトラップ(太守)」は、ギリシアの都市から、3日旅程以上離れること。さらにペルシアの艦船は、ファセリスやキクラデス諸島より内側を航行しないこと。逆にアテネ軍はペルシアの支配領域に軍事行動を行わないことなどが和約に盛り込まれた。この和約によって、ペルシアの軍事力がエーゲ海から排除されてことで、ギリシアの諸都市国家は一定の自治権を確保することが出来るようになった。
しかし、漸く長く苦しい「ペルシア戦争」が終結したかに思われたが、今度は紀元前431年から紀元前404年にかけて、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の戦争が始まるのである。その原因は、アテナイのエーゲ海域での支配力が拡大したことへの反発。アテナイの商業的成功がもたらした海上貿易の支配力への反発。そしてデロス同盟内においても、アテナイへの不満が起きスパルタへの支援の動きがみられたことなどから、スパルタを中心としたペロポネソス同盟との緊張状態が生まれたのである。このギリシアの内部的な緊張状態を静観していたペルシア帝国が、ギリシアの勢力争いを利用してアテナイの軍事力を削ぐ目的で、スパルタ側に資金援助や軍需物資の提供を行う裏工作を行うことで、ギリシア領域への復権を狙い始めたのである。
(第3章へ続く)
もともと、ギリシアとペルシアはこの当時、長い対立の歴史を引きずっている。その原因は紀元前499年~紀元前449年までのおよそ50年間も続いたペルシア戦争である。このペルシア戦争については、分かりやすく第1次、第2次と分けて書くことにしよう。
第1次ペルシア戦争と呼ばれるのは、紀元前492年にペルシアがギリシアに対して行った遠征から始まった。
この遠征の前に、小アジア(現在のトルコ西部辺り)にある、イオニアが紀元前499年から紀元前493年にかけてペルシアに対し反乱を起こした。その原因はペルシアの支配への不満が原因であった。当時ペルシアは、イオニアの都市国家に僭主(独裁者)を置き、その内政に干渉するばかりではなく、重税による経済的困窮を招いていたのだ。さらに、イオニアの都市国家はもともとリュディア王国の支配によって、ギリシア文化を受け入れていたために、ペルシア文化の支配に対しての不満を抱いていたからである。
イオニアはリュディア王国との経済的なつながりが深く、そのリュディア王国もまた、ギリシアの都市国家と密接な関係が深く、文化的な交流も盛んであった。しかし、紀元前547年にアケメネス朝ペルシアのキュロス大王によって征服された。それ以降はペルシアの支配下にあった。イオニアの反乱に対して、ギリシアのアテナイ軍やエレトリア軍が支援をした。しかも、イオニアの反乱はキプロスやカリアにも波及した。しかしこれらの反乱は、結局ペルシア軍によって鎮圧された。このイオニアの反乱に対する報復措置としてペルシア帝国が、ギリシアに最初の遠征を行ったのである。
紀元前492年ギリシアに対して、ダレイオス1世の娘婿であるペルシアのマルドニオス将軍が遠征を行った。その時のペルシアの軍編成は、陸軍と海軍で構成されていた。陸軍は歩兵、騎兵、そしてメディア人、バビロニア人、エジプト人などの傭兵部隊で構成されていた。海軍は、2段漕ぎ船バイレーメスを中心に構成され、この戦いでは兵士や物資を戦地へ輸送することが主な役割だった。ペルシア艦隊はエーゲ海を北上して、その最北部にあるギリシア領のタソス島に陸軍を上陸させその島を制圧した。その後再び陸軍を乗せてバルカン半島に向かい、ハルキディキ半島の海岸線に沿って航行し、アトス岬を迂回する途中で暴風に遭遇しおよそ300隻の艦船を失った。そのためにペルシア軍は海路を断念し、陸路でトラキアとマケドニアに向かったのである。この遠征の初期段階では、ペルシア軍はトラキアとマケドニアを一時的に占領し支配を維持しようとしたが、現地のブリュゴイ族の夜襲を受け、さらに指揮官のマルドニオス自身も負傷したため、ペルシア軍の士気は大きく低下し、遠征を中止して本国への帰還を余儀なくされたのである。
そして紀元前490年に、ギリシア同盟軍とペルシア軍との「マラトンの戦い」があった。ペルシア軍の兵数およそ20,000、その内容は重装歩兵、軽装歩兵、騎兵の混成部隊で構成されていた。
一方ギリシア同盟軍は、アテナイ軍がおよそ10,000、プラタイア軍がおよそ600の重装歩兵(ホプリタイ)で構成されていた。
この戦いではギリシアのアッティカ半島東部にあるマラトンで、ギリシア軍がペルシア軍を迎え撃つ形での戦いとなった。ギリシア軍は中央の軍を薄くし,鶴が羽根を広げたような形で、ペルシア軍を包み込むようにして闘い、兵数ではおよそ2倍のペルシア軍を撃退し勝利している。
第2次ペルシア戦争(紀元前480年~紀元前479年)は、ギリシア中東部に位置する「テルモピュライの戦い」(紀元前480年8月)である。
ペルシア軍は、ペルシア王クセルクセス1世が直接率いていた。ペルシア戦争開戦時からかかわったダレイオス1世は、紀元前486年8月に亡くなり、クセルクセス1世がペルシア戦争を王位と共に引き継いでいたのである。
対するギリシア軍は、スパルタ王レオニダス1世が率いるスパルタ・ギリシア連合軍であった。ギリシアの連合軍は、スパルタの重装歩兵やテスピアイ兵、テバイ兵など7,000であった。
クセルクセス1世率いるペルシア軍は、推定100,000以上という大軍団だったとされている。ペルシア軍も連合軍であり、ペルシア人を中心に、メディア人、キッシア人、アラビア人、リビア人、エジプト人、バビロニア人、インド人などの多民族で構成されていた。
戦いの火蓋が切られたのは、ギリシア中東部に位置するテルモピュライという山間の狭い道を利用して、ギリシア連合軍がペルシア軍の進撃を食い止める作戦を取ることから始まった。初日、2日目は狭い地形を利用して、ギリシア軍が数でまさるペルシア軍の進撃を防ぎ切った。3日目は、ペルシア軍はギリシアのマリス地方出身のギリシア人エフィアルテスという裏切り者の道案内によって、善戦をしていたギリシア軍の背後に回り込み包囲することで、最終的にはレオニダス1世を含めギリシア連合軍は死闘のあげく全滅を遂げた。
この戦いで、ギリシア連合軍は破れたが、スパルタ軍や同盟国の兵士たちは、圧倒的兵数を誇るペルシア軍に対し、勇猛果敢な戦いをした彼らの勇姿は、その後のギリシア全土の兵士たちに、大きな希望や勇気を振るい起こす結果をもたらすことになったのである。
次の戦いは、紀元前480年8月の「アルテミシオンの海戦」であった。
その海戦の初日の艦船数をみてみよう。ギリシアの艦隊はおよそ333隻のトリレーメス、ペルシアの艦隊は当初はおよそ1,200隻であったが、ペルシアの戦艦はアトス岬の暴風でおよそ300隻以上を失った結果、戦闘に参加した船数はおよそ900隻、ギリシア軍と同じトリレーメスが主力であった。
ここで第2次ペルシア戦争時代の、戦艦について少し触れてみよう。この時代は両軍ともに、「トリレーメス」と呼ばれる、全長およそ35m、全幅およそ6m、総乗員数はおよそ200人で、上下3段の階層別に漕ぎ手が配置され、およそ170名の力で漕ぐ高速船が用いられた。第一次ペルシア戦争時代はこれが2層の船で、「バイレ―メス」と呼ばれ、全長およそ25m、全幅およそ5m、総乗員数およそ150人で、上下2段の階層別に漕ぎ手が配置され、およそ100名の力で漕ぐ戦艦である。第2次ペルシア戦争になって、時代の推移と共に戦艦は改良されて3段階層と大型化し、速度も高速化している。
戦いの状況は、当初ギリシア艦隊がペルシア艦隊に突撃することで互角に渡り合った。ギリシアの戦闘艦は、先端に衝角(ラム)という青銅製の武器がついており、3層櫂の漕ぎ手の力によって、高速で敵船に衝突し破壊するという手法がとられた。また高速船の特徴を生かし、ペルシア艦隊がギリシア艦隊を包囲する作戦に出たがギリシア艦はペルシア艦の間をすり抜けるなど、ギリシア海軍は操船技術も磨いていたことから、ペルシア艦隊の目立った戦果は得られなかった。
海戦2日目は、暴風雨という悪天候の中で始まった。ペルシア艦隊はエウボイア島の北側近くの開けた海域に位置していたために、暴風雨の影響を直接受け、しかも艦船が密集していたことや、それに加え異国の地における気象情報不足や経験不足などの悪条件が重なり、およそ400隻の艦船が被害を受けたのである。これに反して、海域の状況を知悉していたギリシア艦隊は、エウボイア島の北端の風の影響が少ない場所に位置取りしていたことで、暴風雨の影響を受けずに済んだ可能性があった。しかも地元の海域の形状などに精通しているだけではなく、気象条件や海戦の経験も豊富であったことなどから、ほぼ無傷の状態で戦うことが出来たのである。また、ギリシア艦隊はこの日パトロール中のキリキア船団(トルコ南部のペルシア艦隊の1部隊)を発見し、これを殲滅させている。この事はペルシア艦隊の情報収集網を削ぎ、海戦を有利に導く一助となったのである。
3日目の海戦は、同時期に行われていたテルモピュライの戦いにおいて、ギリシア軍が破れたことを知り、海戦の戦略上の意義を失ったことからサラミス島へ撤退した。
そして、「サラミスの海戦」(紀元前480年9月)が行われた。
その船数をみてみよう。ギリシア軍は、アテナイ軍180隻、コリントス軍40隻、アイギナ軍30隻、その他のギリシア都市国家の船艦がおよそ120隻程度。
対するペルシア軍の船艦は、フェニキアの船艦やイオニアの船艦、その他の民族の船艦を含めおよそ500隻ないし800隻といわれている。ギリシア軍は、アテナイの軍人テミストクレスの指揮のもと、狭いサラミス海峡にペルシアの艦隊を誘い出すことに成功した。ギリシア艦の特徴である三段櫂船の軽快な運動能力の活用と狭い海域での巧みな戦術で、ペルシア軍の機動力を制してその撃破に成功し勝利したのである。このギリシア連合軍の圧勝により,ペルシア軍は撤退を余儀なくされたのであった。この戦いの様子が映画「300 ~帝国の進撃~」のラストシーンに描かれているので、是非ご覧いただきたい。アテナイ軍の指揮官テミストクレスと、当時ハリカルナッソス(現在のトルコのボドルム)を統治していた女王で、ペルシアの女性指揮官として参戦したアルテミシア1世の、壮絶な激闘シーンで終わる。彼女はテミストクレスに殺害されてしまうのだ。このアルテミシア1世役を好演したのが、映画「007 カジノ・ロワイヤル」の、ヴェスパー・リンド役のエヴァ・グリーンである。しかし、歴史上における実際の彼女は、この海戦後も生きぬきペルシア帝国の重要な指導者として、特に海軍の戦略家として、クセルクセス王に信頼され徴用されたようである。
この海戦については、ヘロドトスがその著書「歴史」で触れているので紹介しよう。
「中略・・・敵の状況がどのようになってゆくか、私の考えるところを申し上げましょう。もし、殿(クセルクセス:筆者注)が功を急いで海戦を開くようなことをなさらず、ここをお動きにならずに水軍をこのまま陸地の近くに留めておかれるか、あるいはペロポネソスへ進出なさいますならば、殿よ、ことは易々とはじめの御計画どおりに運びましょう。ギリシア軍には長期にわたって抵抗する力はありません。殿が彼らを分散せしめられますならば、彼らはそれぞれ国許へ逃亡いたしましょう。私の聞いておりますところでは、この島には彼らを養う食料はないとのことであり、またもし殿が陸上部隊をペロポネソスにお進めになれば、同地出身の部隊が動揺せずにおるとは考えられず、もはやアテナイのために開戦を行うことなどはその念頭から消え失せましょう。しかしもし殿が功を急がれて海戦をなされますならば、私の恐れますのは、水軍が敗れた場合陸軍にも累を及ぼすことでございます。・・・後略」『歴史 下』著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
これが。アルテミシアが、サラミスの海戦の前に、ペルシア王クセルクセスの諮問に答えたものである。正に海戦の結果を予測するような指摘であり、その予測に従うようにペルシア軍はアテナイ軍に敗れたのである。映画ではアルテミシアが海戦を積極的に押しすすめたような描き方であった。しかし実際はクセルクセス1世が、アルテミシアの助言を受け入れず、海戦が実行され敗戦という結果を招いたのである、彼女は海戦の結果を予測できるほどの冷静で優れた戦略・戦術家であったことが、ヘロドトスの著作に記されているので紹介をした。
次に、「プラタイアの戦い」(紀元前479年8月)は、ペルシア戦争の中でも両国の雌雄を決する戦いともいうべき戦争であった。
この戦いのギリシア連合軍の兵数は、ホプリタイ(重装歩兵)およそ38,700、軽装歩兵73,000の合計110,000。
対するペルシア軍の総兵力は、ペルシア人、メディア人、ギリシア傭兵、バクトリア人、サカイ人、インド人などの多国籍の民族から構成されたおよそ300,000からなる大規模軍団であった。
この戦いの戦端はペルシア軍騎兵隊の、ギリシア軍への挑発から始まったが、ギリシア軍がこの騎兵隊を撃退した。さらに、ペルシア軍は大軍の力でスパルタ軍に集中攻撃を加えたが、スパルタ軍は戦闘前の占いの結果が出るまで防戦に努め、占いが勝利するという結果が出たために、司令官が一斉反撃の命令を下し猛攻を仕掛けたのである。スパルタ軍のホリプタイは、密集隊形を組み、盾と長槍を使い規律正しく連携して攻め、ペルシア軍に対して圧倒的な強さを見せたのであった。スパルタ軍の統制の取れた猛攻で、ペルシア軍は大混乱に陥り多数の死者を出し、戦場からの離脱者も出て撤退を余儀なくされた。この時ギリシア軍を指揮していたのは、スパルタの王族出身のパウサニアスであった。この戦いは数で劣ったギリシア軍の大勝利となったのである。
紀元前479年8月、同時に別の場所で行われていた戦いがあった。現在のトルコ西部イオニア地方の「ミュカレの戦い」である。ギリシア連合軍の指揮官はスパルタの王であるレオテュキデス、率いる兵数はおよそ40,000、対するペルシア軍はおよそ60,000であった。ギリシア連合軍は、海軍の船を使いイオニア本土に上陸し、ミュカレの海岸沿いからペルシア軍の野営地を攻撃した。ペルシア軍はギリシア軍の接近を察知し野営地を放棄して戦闘に備えたが、ギリシア軍は戦闘の前からペルシア軍内のイオニア人に、反旗を翻すように誘いかけていた。その誘いが現実のものとなったのである。イオニア人がペルシア軍の内部で反乱を起こし、ペルシア軍は混乱を起こし、内・外から二重の攻撃を受ける形となり、戦闘力が低下し敗北につながった。ペルシア軍の兵士はほぼ戦死し壊滅状態となり、ギリシア軍の全面勝利となったのである。
紀元前478年、「ビュザンティオン(現在のトルコのイスタンブール)の戦い」が行われた。ペルシア軍は、ビュザンティオンをエーゲ海や黒海へのアクセス拠点とすることで、交易による経済的利益を得ることや、ギリシアへの攻撃の拠点とすることなど、戦略的に重要な場所と意義付けていたのである。ギリシア連合軍のビュザンティオンの攻略は、スパルタの将軍パウサニアスが司令官となり、ペロポネソス同盟、デロス同盟からのおよそ50隻の艦船と、陸上(兵数およそ10,000)から攻撃することで、ビュザンティオンを守るためのペルシアの守備軍(兵数はおよそ10,000とされた)を包囲し、攻城戦と合わせ完全に補給路を断ち最終的には攻略に成功した。この戦いに勝利したギリシア軍は、ビュザンティオンがトラキア支配の中心的拠点としての役割も担っていたことから、トラキア全域のペルシア帝国の支配権を削ぐ結果となった。
紀元前466年、「エウリュメドンの戦い」があった。ギリシア軍は、アテナイの将軍キモン率いるデロス同盟軍とペルシア軍との海陸両面での戦いであった。
ギリシア軍の兵数はデロス同盟軍三段漕ぎ船トリレーメスがおよそ250隻、陸軍の兵数は不明で、海軍・陸軍の共同作戦である。
対してペルシア軍は同じ三段漕ぎ船トリレーメスがおよそ340隻、陸軍は兵数不明でペルシア人を中心にした部隊であった。
戦闘の開始は、先ずギリシア軍(デロス同盟軍)の指揮官キモン将軍の判断で、キュプロス島に駐屯するペルシア軍の援軍を恐れ、その援軍の到着前に戦闘を仕掛ける作戦に出たのである。さらにキモン将軍は、海戦においてペルシア軍を奇襲攻撃することで、激闘の末に、ついにペルシア艦隊をギリシア陸軍のいる場所へ追い込んだ。キモン将軍率いる部隊と陸軍の猛攻で、ペルシア軍を陸海において撃破、ペルシアの指揮官フェレンダテスは捕らえられて処刑された。デロス同盟軍(ギリシア)の勝利により、エーゲ海の制海権がギリシア側に移ったことで、アテナイは全ギリシアの覇権国としての地位を確立したのであった。
アテナイはデロス同盟の盟主として、同盟諸国(およそ200都市)からの貢納金を増加することで財政基盤を強化し、軍事力の増強を行った。この戦いによる、アテナイの海軍力の優位性が、エーゲ海での制海権の確保によって、交易や航海の安全、さらにペルシアとの和平交渉も可能にしたのである。その結果、紀元前449年ペルシアとの「カリアスの和約」が締結された。この和約によって、ギリシアとペルシアの戦争は一時的にではあるが戦争が終結した。和約の内容は、小アジアにおけるギリシアの諸都市は、ペルシアの干渉を受けない自治管理が認められること。また、ペルシアの政治管理方式の「サトラップ(太守)」は、ギリシアの都市から、3日旅程以上離れること。さらにペルシアの艦船は、ファセリスやキクラデス諸島より内側を航行しないこと。逆にアテネ軍はペルシアの支配領域に軍事行動を行わないことなどが和約に盛り込まれた。この和約によって、ペルシアの軍事力がエーゲ海から排除されてことで、ギリシアの諸都市国家は一定の自治権を確保することが出来るようになった。
しかし、漸く長く苦しい「ペルシア戦争」が終結したかに思われたが、今度は紀元前431年から紀元前404年にかけて、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の戦争が始まるのである。その原因は、アテナイのエーゲ海域での支配力が拡大したことへの反発。アテナイの商業的成功がもたらした海上貿易の支配力への反発。そしてデロス同盟内においても、アテナイへの不満が起きスパルタへの支援の動きがみられたことなどから、スパルタを中心としたペロポネソス同盟との緊張状態が生まれたのである。このギリシアの内部的な緊張状態を静観していたペルシア帝国が、ギリシアの勢力争いを利用してアテナイの軍事力を削ぐ目的で、スパルタ側に資金援助や軍需物資の提供を行う裏工作を行うことで、ギリシア領域への復権を狙い始めたのである。
(第3章へ続く)
(大王の父親・フィリッポス2世像/スコピエ/北マケドニア)
出典: | 「Wikipedia」 |
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「AZ History」 | |
「Weblio辞書」 | |
「世界史の窓」HP | |
「やさしい世界史」HP | |
「世界図書室」HP | |
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫 | |
「歴史 下」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫) | |
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック | |
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック | |
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著 | |
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊 | |
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭 | |
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明 | |
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研 | |
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館 | |
「驚きの世界史」著者:尾登雄平 | |
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二 |