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『アレクサンドロス大王/第1章
出生から初陣まで』

 かのフランスのナポレオン・ボナパルトも彼を深く敬愛していた。
 マケドニアの若き王アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)その人である。彼は紀元前4世紀に、故郷マケドニアを出発し遠征を続けながら大帝国を築いた。
 アレクサンドロス大王の出自である、マケドニア王国・アルゲアス朝は紀元前808年から紀元前323年の彼の死までおよそ390年間続いた。そして彼の父親である「フィリッポス2世」と「アレクサンドロス大王」親子の時代に最盛期を迎えた。先ずこの親子の時代背景について述べることにしよう。
 「マケドニア」という名前の由来は、古代ギリシア語の「高地の人々」を意味する言葉である。その位置はバルカン半島の中央部にあって、ギリシア北部のエーゲ海に面した地域(主要都市はテルメ湾に面したテッサロニキがある)や、現在の北マケドニア共和国(首都はスコピエ)、それにブルガリア南西部の辺りを含む地域で、ピリン山脈、リラ山脈、ロドピ山脈などの山岳地帯がその面積の多くを占める領域を指している。この地域は歴史的・文化的に、様々な国々の影響を受けて来た。特にギリシアや東方の文化の影響は大きく、マケドニアの歴史上の発展に大きく関与している。
 マケドニアでは上流階級の人々はギリシア語を話し、ギリシアの英知を学ぶことに努めていた。特にフィリッポス2世が、アレクサンドロスの教育にアリストテレスを招請したことでも分かるように、ギリシアの文学、哲学、論理学、政治学、自然科学、医学、兵学(おそらく含まれていた)などの、当時第一級の学問が好んで学ばれた。またギリシアの都市国家制度(ポリス)を参考にして、政治制度や都市計画を取り入れ実行されていた。他にも建築様式においては、ギリシア風の神殿が建てられ、さらにはギリシア神話も信仰されるなど、様々な分野においてギリシアの影響を受け入れて国家の運営がなされていた。
 また、東方の文化の影響も大きく、紀元前499年から紀元前449年の間続いたペルシア戦争から、ペルシアの軍事技術やその戦略・戦術、フェニキア人との交易による様々な交易品の流入、エジプトやメソポタミアの美術や建築スタイルの取り込み、宗教や神話についての影響を大きく受けていた。
 アレクサンドロス大王の父である、フィリッポス2世(紀元前382年―紀元前336年)は、マケドニア王国アルアゲス朝18代目の王である。さて、このフィリッポス2世の時代を数代さかのぼって、王位の継承状態はどのような状況であったかを見てみることにしよう。マケドニア王国の王朝はアルゲアス朝である。アルゲアス朝は紀元前約700年頃から紀元前310年までの、およそ390年間続いた王朝である。そしての王朝の歴史をたどると分かるのは、権力闘争と陰謀によって何人かの王が暗殺されている。その血の歴史も辿って見ることにする。
 紀元前399年アルゲアス王朝の王であるアルケラオス1世(紀元前413年~紀元前399年)が、狩猟中にクラテロスによって暗殺された。アルケラオス1世は紀元前413年に即位して、行政、軍事、経済において改革を行うことで、マケドニアの国力を強大にしたが、一方でその改革や王への権力集中が、一部の貴族や軍部の反感を招き暗殺されたと言われている。しかしもう一つの説として、アルケラオス1世とクラテロスは愛人関係にあり、個人的な動機による暗殺説もあるが、いずれも確固たる証拠はなく、どちらの説が真実であるかは明確に分かっていない。
 そしてアルゲアス朝の王である、アレクサンドロス2世(紀元前372年~紀元前368年)は、紀元前368年に、義兄であるアロロ(マケドニアの地名)のプトレマイオスに暗殺された。その理由としては、彼がアレクサンドロス2世の権力への脅威を感じ、己の地位の確保のため暗殺を実行したとされる。その後継者はアレクサンドロス2世の弟、ペルディッカス3世が即位したが、まだ幼少であったために、アロロのプトレマイオスが摂政として政権を担った。
 またアルゲアス朝の王である、フィリッポス2世(紀元前359年~紀元前336年)が暗殺されている。彼は、紀元前336年その娘クレオパトラと元妻であるオリュンピアスの弟エピロス王国の王アレクサンドロス1世の結婚式において、フィリッポス2世自身の護衛官であったパウサニスに暗殺された。この暗殺に関してはいくつかの説がある。フィリッポス2世と暗殺者パウサニスは愛人関係にあり、二人の三角関係がもつれた暗殺者パウサニスの恨みによる犯行であるという説。また、王の元妻であるオリュンピアスが、王の新しい妻クレオパトラ・エウリュディケに子が生まれると、フィリッポス2世と自分の子であるアレクサンドロス3世の、王位継承を脅かす恐れがあるために暗殺したとする説。さらには、フィリッポス2世の政策や、個人的な行動に対する不満によって暗殺されたとする説などがあるが、いずれも確たる証拠はなくどの説が真実であるかは明確に分かっていない。
 そしてこのフィリッポス2世の暗殺後に王位に就いたのが、このエッセイの主人公である、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)その人である。
 アレクサンドロス3世は、紀元前368年父が暗殺された時20歳の若者であった。
 彼は紀元前356年、マケドニア王国の首都であった「ベラ」で生まれた。父は前述の暗殺されたフリッポス2世、母も前述の通り夫の暗殺に関わっていたとされるオリュンポスである。
 アレクサンドロス3世(以下はただ「アレクサンドロス」と呼ぶ)は、父の教育方針でもあり、幼少から王子としての高等教育を受けている。
 最幼少期は母親オリンピュアスの縁者でスパルタ出身のレオニダスの教育を受けた。人としての規律や、ギリシア神話や英雄思想などが幼い心に植え付けられたのである。
 さらにリシュコマスという、信仰心の篤い教師から教育を受け、彼はアレクサンドロスに対して、ギリシア神話や英雄に関する教育を行ったとされている。
 そして紀元前342年アレクサンドロスは13歳になると、父親のフィリッポス2世によってギリシア北部に位置するミエザに送られ教育を受けることになった。そこで彼に教えることになった家庭教師は、父がギリシアから招請した、かの著名な哲学者である「アリストテレス」だった。アレクサンドロスが彼から学んだ分野は、ギリシアの文化、哲学、論理学、政治学、自然科学、医学、軍事戦略など多岐にわたっていた。フィリッポス2世が、マケドニアの首都ベラから離れた場所であるミエザに、アレクサンドロスを教育に出したのは、母親のオリュンポスから遠ざける意味もあったとされている。しかも、このミエザは環境も静かで、学問を納めるには理想的な場所だった。アレクサンドロスは結局このミエザの学園で、他の貴族の子弟たちと共に、13歳から16歳までの3年間じっくりと、幅広い学問を学びその知識と教養を深めたのである。
 この期間は彼の人生の形成に大きな影響を与えた。特に、アレクサンドロスが、後世に大遠征で軍事組織を統率し動かすための、リーダーシップ、戦略・戦術の企画立案や実行などは、アリストテレスから学んだ、哲学、論理学、倫理学、おそらく兵学などが大きく影響し役立ったことであろう。さらに、彼が人生における知識の重要性を理解したことで、後の海外への遠征先に様々な分野の学者や科学者などを帯同して、新しい支配地において文化の研究や情報の取集などを行わせたことにもつながっている。余談ではあるが、この海外遠征に学者を帯同する考えは、後世にナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征の際に同じことを行っている。彼は尊敬するアレクサンドロスと同じ行動を取ることで、同一線上に遠征の価値をとらえていた。この発想が、150人以上の様々な分野の学者を帯同したことで、後のエジプト考古学の発展に計り知れない大きな寄与をしたのである。
 また、アレクサンドロスは、遠征先における異文化を尊重し、ギリシア文化と支配地の文化の融合を推進し、そのことが征服後の混乱を防ぐ役割も果たした。またアリストテレスの教えである、治世における政治学や政治倫理を理解していたことで、支配地域での公正な統治を目指す寛容な政策を実施することができたのである。
 ミエザの教育を終えて、アレクサンドロスは父であるフィリッポス2世のもとで、王子としての実務に就いたようだ。
 若きアレクサンドロスが、将来の彼の軍事的才能を垣間見せるような戦争があったので、少し詳しく語ることにしよう。
 紀元前338年、彼が18歳の時「カイロネアの戦い」があった。この戦いは彼の父フィリッポス2世にとって、非常に重要なギリシア統一という野心に満ちた戦いであった。当時のギリシアの時代背景は、独立したポリスと呼ばれる諸都市国家群に分かれていた。それぞれが独立した政府組織と軍事力を保有していた。中でも有力国であるアテナイ、スパルタ、テーベなどの国々は、自国の利益を優先し、しばしば対立色を鮮明にしている時代であった。それに合わせて、ギリシアの北部に位置するマケドニアも、ギリシアの諸都市国家の情勢を伺いながら国力の増強に努めて来た。このマケドニアの勢力拡大の野望に対して、ギリシアのアテナイとテーベその他ギリシア諸都市国家が、連合を結成し軍事行動を開始した。これに対してマケドニア王国のフィリッポス2世も軍事行動を開始し、ギリシア中央部のカイロネアにおいて先端が開かれた。
 フィリッポス2世率いるマケドニア軍は、およそ30,000の歩兵、2,000の騎兵で構成された軍隊であった。一方、ギリシア・アテナイ・その他ギリシア都市国家連合軍は35,000の兵士で構成されていた。そのうちアテナイの兵士は10,000、少数の騎兵、テーベの兵士は8,000、少数の騎兵、そして中でもテーベの「神聖隊」と称される、150組の同性愛者のペアで組織した最強の精鋭部隊がいた。
 ギリシア式ファランクス戦術という戦い方がある。この戦い方は重装備歩兵が密集陣形で鎧を着け、盾でお互いを守りながら槍で攻撃する戦術をいう。この戦術はギリシアの都市国家で広く使われた戦術であった。
 マケドニアはこのギリシア式ファランクス戦術にさらに改良を加え、兵士は軽装の鎧と首掛け式の盾で装備し、長さ6mのサリッサ(長槍)を両手で持ち、16列×16列の密集陣形で進むようにした。このマケドニア式改良型のファランクス戦術は、ギリシア式ファランクス戦術よりも、かなり機動力にとみ敵が接近する前に長い槍で攻撃を可能にするという戦術であった。
 さて、戦場の配置はどうだったであろうか。
 マケドニア軍は、本陣を構えるフィリッポス2世が右翼に布陣し、中央に歩兵、アレクサンドロス(当時18歳)率いる騎兵部隊が左翼に陣を張った。
 対するアテナイ・テーベ・諸国連合軍は、アテナイ軍が左翼、諸国連合軍が中央、テーベ軍が右翼に布陣した。
 先端は両軍の中央軍から開かれた。マケドニアの中央軍がギリシア諸国連合の中央軍に圧力をかけ後退させた。さらにフィリッポス2世率いるマケドニア右翼軍は、意識的に後退し連合軍の左翼軍を誘い込む作戦に出た。これで連合軍全体の陣形が崩れ始めたところで、アレクサンドロスの左翼騎兵部隊が、テーベ軍右翼に猛攻を仕掛けた。その勢いにテーベ軍がひるみ、ついにその右翼を突破したのである。突破したアレクサンドロスの騎兵部隊は、その勢いのまま連合軍の背後に回り込み包囲したのである。こうなるとギリシア諸国連合軍の中央軍も左翼軍も崩壊し、マケドニア軍の一方的な勝利に終わった。ギリシア連合軍は壊滅的な打撃を受け、多数の戦死者を出すとともに大勢が捕虜となった。
 この勝利によってフィリッポス2世は、ギリシア全土の統一を成し遂げ、将来に向けた統治の安定のために、このカイロネアの戦いの翌年紀元前339年に「コリントス同盟」を結成することにした。この同盟には、スパルタを除くギリシアの都市国家の全てが加盟したのである。なお、この同盟の趣旨は、諸ポリス間の相互平和及び自治権の維持、政体の変更や土地再配分や奴隷の解放の禁止、マケドニアの連合国として対ペルシア戦争への派兵協力などであった。こうしてコリントス同盟が成立したことで、形式的にはマケドニア王国の国王であるフィリッポス2世は、コリントス同盟の盟主として、最高軍事指揮権を掌握したのである。 (第2章へ続く)
(アレクサンドロス3世を身籠ったオリュンピアス/スコピエ/北マケドニア)
*北マケドニアのスコピエとアレクサンドロス大王との直接的な関係はない。
(幼少期のアレクサンドロス大王を抱く母/スコピエ/北マケドニア)
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
「アレクサンドロス大王物語」著者:伝カリステネス・訳:橋本隆夫
「歴史 下」著者:ヘロドトス、翻訳:松平千秋(岩波文庫)
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック
「最強の帝国 覇者たちの世界史」ナショナルジオグラフィック
「地中海世界ギリシャ・ローマの世界」弓削進著
「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」著者:森谷公俊
「世界の歴史を変えた 名将たちの決定的戦術」著者:松村劭
「全世界史(上下)合本版」著者:出口治明
「学研まんが世界の歴史3ヘレニズム文明」学研
「世界の歴史 ギリシアとヘレニズム」小学館
「驚きの世界史」著者:尾登雄平
「1冊で読む 世界の歴史」著者:西村貞二