『 ハンニバル・バルカ /
第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越え 』
この章の冒頭に、もう一人新たな歴史家を紹介したい。ティトゥス・リウィウス(以下「リウィウス」と記す)である。リウィウス(紀元前59年頃~紀元17年頃)は共和制ローマ末期から帝政ローマ初期の古代歴史家である。彼もまた前章で紹介した、ファビウスの現存しない著作を読み原資料とすることが可能であった人である。ポリュビオス同様に、その内容を引用し現代に伝えている。前章において、サグントゥム攻城について触れたが、改めてリウィウスの著作から、ハンニバルが陥落させるのに8カ月もかかった、その攻城戦の様子を紹介することにしよう。
「サグントゥムへのさらなる攻勢 ローマ人が使節の派遣で時間を費やしている頃、ハンニバルは戦闘や攻城戦で兵士たちがすっかり疲れはてたのを見て取った。そこで彼は屋台と他の攻城器具を監視するために見張りを置いた上で、彼らに数日の休養を与えた。この間に彼は敵に対する怒りや戦利品への期待でもって兵士の士気を鼓舞した。軍の集会で彼が、都市攻略のあかつきには戦利品は兵士たちのものとなろうと宣言したところ、全員が大いに熱狂した。もしこの直後に出撃命令が下されていれば、どんな軍勢も彼らに太刀打ちできないように思われたほどだった。一方サグントゥム人は戦闘から一息つき、相手を挑発されることもされることもないまま数日を過ごした。しかし彼らはこの間、壁が崩れて町が露わとなった部分に新たな壁を作るため、昼も夜も作業にいそしんだ。その後彼らを襲った攻城戦は、前にも増して激烈なものだった。いたるところでさまざまな物音が鳴り響き、守り手は一体どこへ真っ先に、また重点的に応援を送れば良いのかよくわからなかった。ハンニバル自身は攻城機櫓(それは都市のあらゆる防塞をしのぐ高さだった)を押し動かしている場所で兵士たちを鼓舞激励した。櫓が前進し、すべての階に配置された投矢器と投石器でもって、市壁から守備兵が掃討された。ハンニバルはこれを好機と考え、壁を根元から掘り崩すために、つるはしを手にした約500人のアフリカ人を送り込む。これはさほど難しい仕事ではなかった。なぜなら石垣はモルタルで固められておらず、古い工法に従い、泥で繋ぎ合わされていたからである。このため、打撃があたえられた部分より広い範囲で壁は崩れた。そして崩落によりむき出しとなった場所を通り、武装兵の軍勢が都市の中へ進撃した。この者たちはさらに丘を占領し、そこへ投矢器と投石器を運び入れ、壁で囲った。彼らはこうして都市それ自体の中に、まるでそびえ立つ城塞のような砦を築いたのだった。一方サグントゥム人はと言えば、都市のさらに内側のまだ奪われていない部分に壁を築いた。両側で防壁作りと戦闘が全力を尽くして繰り広げられた。だがサグントゥム人は中心を守ることで都市の領域を日々縮小させた。同時に、長期の包囲のためにあらゆるものがますます欠乏した。外からの支援への期待も弱まった。唯一の希望であるローマ人はかくも遠く、周囲は何もかもが敵の手中にあったからである。彼らの重苦しい気分は、しかし一時ハンニバルがにわかにオレタニとカルペタのところへ出立したことで、力づけられた。これら二つの種族は厳しい徴兵に憤って徴兵員を拘束、離反の懸念を抱かせていた。しかし彼らはハンニバルの迅速な動きに不意を突かれ、振り上げかけた矛を収めてしまった。また、サグントゥムに対する攻撃が緩和されたわけではなかった。ヒミルコの子マハルバル(ハンニバルは彼に指揮を委ねていた)がきわめて精力的に任務を果たしたため、将軍が不在であることに同国人も敵も気づかないくらいだった。マハルバルはいくつかの戦闘を成功させ、三台の破城槌で市壁のかなりの部分を打ち砕いた。そしてハンニバルが戻って来ると、最近の瓦礫で覆われた場所をすべて彼に見せた。こうしてすぐに軍勢が城塞そのものに向けて送られた。激しい戦闘が始まり双方に多数の死者が出たが、この結果城塞の一部が占領された。」
『ローマ建国以来の歴史5』著者:リウィウス・訳:安井萌
第2次ポエニ戦争は、ハンニバル戦争とも称される。それは第1次ポエニ戦争がローマとカルタゴが植民地の領有権を巡り戦った戦争であるのに対し、第2次ポエニ戦争はカルタゴの将軍ハンニバルを中心に、カルタゴとローマが両国の存続を懸けて戦った戦争であったことからそう呼ばれる。この開戦の発端となったサグントゥムの攻城戦と開戦にいたる状況は、それほど重要な意味を持っていたのである。ここでその詳細を述べるために、あらためて紙数を稼ぐ必要性をお許し願いたい。
リウィウスが書いているように、こうしてハンニバルは8か月間もかけて、ローマの同盟都市であったサグントゥムを陥落させたのである。この攻城戦について、多くの歴史家はハンニバルの攻城戦術の稚拙さがゆえにこうも長引いたのだと指摘する者もいる。しかし、このリウィウスの文章からは、そのような指摘にあたる稚拙な攻城の様子を読み取れる箇所は認められないばかりか、攻城戦の途中でハンニバルがオレタニとカルペタという種族の離反鎮圧に出向いたことも記してある。攻城戦において熾烈な戦いを続け、抵抗するサグントゥム人の様子もうかがえる。これを読むと、むしろ8カ月かけても不思議ではない、サグントゥム人の激しい抵抗が、占領を長引かせた理由だったと考えるべきであろう。また、一部ではハンニバルは攻城戦を長引かせることで、ローマからの宣戦布告を引き出す目的があったという説もあるが、やはりサグントゥム人が、8カ月という期間を必要とするほど必死な抵抗を続けた事が実際の理由だと思われる。しかし、確かにハンニバルは、サグントゥムを攻めればローマとの開戦は避けられないことは確信していたはずだ。しかも、このサグントゥム攻城の8カ月の間、ハンニバルは何も活動をしていない訳ではなかった。攻城に8カ月かけた訳ではなく、サグントゥム人の激しい抵抗で8カ月かかったことが、むしろハンニバルが目的達成の鍵となる情報収集の時間を与えてくれたのである。彼にとっての8カ月という期間は、大いに幸いしたと考えるべきではないだろうか。それではハンニバルのこのサグントゥム攻城戦は、彼にとってどのような目的と意義を持っていたのだろうか。
紀元前228年、スペイン東岸にカルタゴが移住10年目にして、カタルヘーナ(以後「新カルタゴ」と呼ぶ)が建設され、スペイン支配の本拠地となった。その辺りのことをポリュビオスが語るには、新カルタゴの位置の良さだという。新カルタゴのある場所は、スペインでの活動にもリュビアでの活動にも最適の拠点であった。ローマ人はハスドルバルがスペインに新カルタゴを建設したことを知り、カルタゴが第一次ポエニ戦役後ふたたび帝国の拡大と脅威を完成させつつあると気づき、イベリア情勢に積極的に介入しなければならないと動き始めた。しかしローマ本国は、ケルト人の脅威に迫られていることで、カルタゴのスペインにおける勢力拡大に対して融和策を取ることにした。そして紀元前226年、ローマはカルタゴ(将軍ハスドルバル)とエブロ川協定を結ぶことで、エブロ川の以北に関してその勢力図を広げないことを誓わせた。しかし協定の内容では、エブロ川以南に関するカルタゴのスペイン支配については何も規定しなかった。そのため逆にローマはカルタゴのエブロ川以南における支配を認めたとも取れる協定となった。しかも後に大問題となるローマの同盟都市サグントゥムは、火のついた導火線としてすでにエブロ川の以南に位置していたのである。そしてローマはエブロ川協定締結後、一旦イベリア情勢からは目線を離し、イタリア北部で活動を強めるケルト人への対応に全力を注ぎ始めた。
ハスドルバルは、義父(ハミルカル)が始めたスペイン領土拡大事業を、ポリュビオスに言わせれば「賢明かつ巧妙に地域統括を推し進め、あらゆる面でめざましい進展を実現し」、カルタゴの活動拠点として新カルタゴ建設を行い、カルタゴ人の利益に計り知れない貢献をした。しかしエブロ川以南での勢力拡大に対するローマの不介入を協定化した直後、紀元前221年、ハンニバルにその事業をバトンタッチするかのように8年間のイベリア制圧に力を尽くし亡くなった。死因は、ハスドルバルに主人を殺されたケルト人奴隷の怨恨によって暗殺されたのである。さらにここで特筆すべきことは、父ハミルカル、義兄ハスドルバルとスペインでの総督としての地位が引き継がれ、ついに本編主人公ハンニバルにその役割が巡り来たことである。将軍ハスドルバルの死後、カルタゴ本国ではスペイン遠征軍兵士の状況を見守っていた。そして、その遠征軍兵士の総意によってハンニバルが最高司令官に選出されたという報告を受け、市民集会が開かれて、全会一致で遠征軍の決定を追認したのである。こうして紀元前221年、ハンニバルは26歳の若き将軍に就任し、スペインにおける最高司令官としてカルタゴ軍の全権を掌握したのだった。
私見ではあるが、おそらくこの時点で、ハンニバルは長い間心に決意したことを、これから実行に移す思いを強くしたに違いない。その思いの1つがここスペインにおけるカルタゴの完全なる統一である。そしてその統一後カルタゴの宿敵ローマとの戦いを見据えた戦略・戦術の確立と実際の行動に向けた詳細な情報の収集であった。この決意のエックス・デイはサグントゥム占領後と定めたのである。このエックス・デイとその後の秘策は誰にも語られることなく、彼の胸の奥深くに仕舞われ着々と極秘に進められて行った。
ここで、第2次ポエニ戦争の開戦の発端となった、サグントゥムについてその歴史を見てみたい。ここサグントゥムは紀元前6世紀頃からギリシア人植民地として発展した都市、あるいはもともと先住民であるイベリア人によって建設された都市であるという2つの説がある。紀元前238年、カルタゴが第1次ポエニ戦争終結後に起きた傭兵の乱鎮圧に追われている最中、ローマはサルディニア島を脱出してきた傭兵たちの要請を受けて、サルディニアに上陸する計画を立てた。それを知ったカルタゴが首謀者を捕らえて処罰しようとすると、ローマはそれを口実にカルタゴは開戦を準備しているとの言いがかりをつけて、開戦の決議をしたのである。この開戦の決議に対してカルタゴは戦争回避のために止む無くサルディニア島の放棄と戦争賠償金1,200タラントの積み増しを承服したのである。この時期と並行して、ローマはサグントゥムとの同盟関係を結んだとされている。この事からわかるように、ハンニバルの父ハミルカルも、その後継者ハスドルバルも、イベリア遠征において、サグントゥムを攻撃すればローマが干渉してくることを知っていた。だからハンニバルは、父ハミルカルからエブロ川以南の地で、カルタゴ軍に今すぐにでも刃を向ける勢力がサグントゥムであり、この都市には手を付けないように指示と助言を受けていた。という事からハンニバルは他の地域をすべて掌握するまでは、サグントゥムを攻めてローマに開戦を正当化する口実を与える事がないように努めていた。この事はポリュビオスも「歴史」の中に述べている。
余談ではあるが、このカルタゴがローマからサルディニア島撤退や、戦争賠償金の積み増しを支払わせられることになった屈辱的な事件の少し前、紀元前236年に、後に天才ハンニバルをカルタゴ本土での侵攻作戦で破るもう一人の天才がローマに生を受けている。この男のことについては、後の章で語ることにしよう。
紀元前221年、若き将軍ハンニバルは、イベリアにおけるカルタゴ軍の総指揮官として活動を開始する。ポリュビオスとリウィウスの書を参考にその活動の順を追って書いて行くことにしよう。
ハンニバルは、最初にイベリア南東部のオルカデス部族の討伐に乗り出した。彼はその部族の最大の都市アルタイア(位置不明、リウィウスは「カルタラ」と記載)に対し、猛烈な攻撃を浴びせたちまち制圧した。部族はこの攻撃におそれをなして、カルタゴ軍に身を投じることになった。ハンニバルはこれらの都市から貢納金を徴収し多額の資金を手にした。そして冬を越すために新カルタゴに着いた。新カルタゴでは兵士に報酬を支払い、カルタゴ軍における将来を約束し、休養を取らせることで大きな好意と期待を集めたのである。
紀元前220年の夏、ハンニバルは次にイベリア北西部のウァッカエイ族の領地に侵攻し、最初にヘルマンティカ(現在のサラマンカ)を即座に制圧、次の都市アルブレカ(現在のトーロ)は規模の大きさや住民の抵抗にあい苦戦をしたが包囲戦の末に制圧した。しかし、その遠征の帰途、近辺では最強の部族と言われたカルペタニ族の急襲に遭い、ハンニバル軍は予想外の窮地に追い込まれたのである。その中には近隣部族やオルカデス部族の亡命者やヘルマンティカからの脱出者も加わり、一時退却をせざるを得ない状況に陥った。ポリュビオスは、もしこの時ハンニバル軍が敵と相対して戦闘を行っていたら敗退していただろうと書いている。しかしハンニバルは、退却する途中タグス川を渡り終えたところで軍を反転させたのである。追撃してきた敵が渡河する瞬間をとらえて戦いを開始した。ハンニバル軍はこの遠征においておよそ40頭の戦象を率いていた。この戦象が川から上がろうとする敵兵をことごとく踏みつぶすとともに、渡河中の敵兵にはカルタゴの騎兵が川に入り馬上から斬りつけて多くの兵を討った。さらに今度はハンニバル軍が逆に渡河し、敵を攻めることで100,000以上の大軍を壊走させた。この大勝はハンニバル将軍の名をイベリア半島に轟かせることになったのである。また、この戦いにおける川を利用した戦術は、ハンニバルのとっさの思いつきによる巧妙な作戦だったとはいえ、彼がこれまで父であるハミルカルや義兄ハスドルバルの下で、遠征事業を手助けする中で身に付けた戦闘への並々ならぬ素質の片鱗が伺える。これ以降はエブロ川以南で、カルタゴに敵対する勢力は事実上なくなった。がしかし、ただ一つだけ例外が存在した。それがローマの同盟都市サグントゥムであった。そして前述したとおり、漸くハンニバルが長い間父との約束でもある心に決意したことを、実行に移す時がやって来たのである。それはサグントゥム占領である。現状で、ローマとカルタゴの開戦を招く可能性が高い状況を導くものがあるとすれば、父や義兄が懸案事項としてハンニバルに忠告していた、サグントゥムの攻撃や占領がまさにそれにあたるのである。
ハンニバルはサグントゥムを占領することにいくつかの意義を定めていた。第一に、カルタゴがサグントゥムを占領し、ローマがこの都市を軍事拠点化する選択肢を奪い、有事の際スペインにおける活動拠点をあらかじめ阻止しておくことである。第二に、スペインの諸部族に対してカルタゴの実力を見せつけることで、既に服属している部族はより従順に、いまだ服属していない部族には不安や恐怖を与えることである。カルタゴが将来イタリア遠征を行う際、背後に何らの脅威もなく進軍を可能にする状況を作り出しておく必要があるからである。第三に、占領によって得られる豊富な物資や財宝を、兵士の報酬や軍の財源として活用し、さらにカルタゴ本国に送ることで、カルタゴの高官や市民の好感を呼び起こす材料にもなることだった。実際にハンニバルはサグントゥムの占領後に、これらのことを実行している。そしてハンニバルは8カ月をかけてサグントゥムを陥落させた。
サグントゥム攻城戦のさなか、予想通りローマ元老院はハンニバルを詰問するために使節を送って来た。しかしハンニバルは使節に取り合わなかった。リウィウスがこの時の事情を書いている。「彼は海岸(ローマ人は船で来たのだろう)に人を遣わして、『野蛮な種族がかくも大勢武器を構えて跋扈するなか、もし貴殿らが進み行くなら、とても無事ではいられぬだろう。またハンニバルとしても、状況が大変緊迫しており使節の話を聞く余裕はない。』」。「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井萌
しかも、この使節への対応については、カルタゴ本国にもあらかじめ文書と口頭で伝えてあった。何故なら、使節はこの後すぐにカルタゴへ向かうことが予測できたからである。カルタゴ元老院では、ハンニバルの父ハミルカルの敵対者であった高官ハンノただ一人のみが、ローマと開戦にならないよう訴えたが、その演説を聞いた誰もが反対はしなかった。しかし賛成する者は誰もいなかった。何故なら、元老院のほぼ全員がハンニバルに味方をしていたからである。ローマの使節には、「戦争はハンニバルではなくサグントゥム人が引き起こしたものである。もしカルタゴ人とのきわめて古くからの同盟よりもサグントゥム人を優先するなら、ローマ国民は不正を犯すことになるだろう」と元老院が回答したとリウィウスは書いている。
この使節がカルタゴからローマに帰国し、元老院に報告したと同時に、サグントゥムが占領されたという知らせが届けられた。この知らせを受けたローマは、使節数名を選び急遽カルタゴへ派遣した。この使節たちが行った宣戦布告が、前章最後のカルタゴ元老院での場面である。
ここで、カルタゴ元老院で戦争という切り札を切り、元老院からその戦争布告の受諾を確認したローマの使節一行の動きを、リウィウスの書から確認して見よう。彼らは、カルタゴに宣戦布告を伝え、カルタゴから受諾の返答を受けた後スペインに向かった。その目的は、戦争が開始された場合スペイン諸部族がカルタゴから離反するように仕向け、加えて参戦協力しないように画策するためであった。最初の訪問地バルグシイ(スペイン東北部、現在のバルセロナ西北近辺にいた部族)は快くローマの使節を受け入れ、またヒベルス川の彼方の諸民族に対しても良い結果が得られたようである。しかし、ウォルキニア(バルグシイ近隣の部族らしい)に到着すると、使節たちの意図は知れ渡っており、ローマは同盟都市サグントゥムを見放した裏切り者と見なされていたため、ウォルキニアのみならずスペインのどの部族からも相手にされなかった。こうして彼らは収穫のないままガリアへと移動した。使節たちはガリアでも同じような画策を行ったが、彼らが言うには、ガリア人はローマ人のためにカルタゴに武器を向けるような恩義を受けた覚えはなく、カルタゴから何か危害を受けたことも無い。それどころか、同じガリアの種族は、ローマ人にイタリアの所有地を奪われたり、イタリアから追われたり、税金を払わせられたり、その他の辱めを受けていると聞いているなど、友好的な言葉は何も返ってこなかった。彼らは同盟都市マッサリア(現在のフランス南部マルセイユ)に到着するまで、親切で友好的な言葉を聞くことはなかった。彼らはこうしてローマに帰り、そこでハンニバルがすでにエブロ川を渡ったという噂を耳にしたのであった。
さて、これまで長々とハンニバル戦争が開戦を迎えるまでの経緯について章を重ねて書いてきたが、その中にはハンニバルによって明確に引かれた、カルタゴの将来を見据えたローマに対する開戦への意図が直線的に見えてくる。カルタゴの第1次ポエニ戦争敗戦の原因に対する父ハミルカルの不満(ハミルカルは決して敗戦とは考えておらず、次の戦いへの譲歩と考えていた)、戦後の傭兵の乱に乗じたローマの不当介入によって受けた屈辱への怒り、その後ハミルカルは次の戦いに挑むべく行ったスペイン遠征、バルカ一族によるスペインにおける経済と軍事基盤の確立、カルタゴの国力の回復、カルタゴ政府とバルカ一族の結束、開戦に向けたイベリア半島での敵対勢力の一掃、ローマの国内状況や北イタリアでのガリア人勢力の情報収集、スペインとカルタゴ本国の国防軍の再編、スペインでの様々な遠征準備、そして開戦という流れである。
余談になるが、ハンニバルという若き武将は、例えば江戸時代初期を生きた剣聖と呼ばれる宮本武蔵のように、ひたすらに剣の道を究めるために孤独な世界で己と剣技を磨く、求道僧のような人物像に見えて仕方がない。彼はローマを敵と見定めた剣客であり、軍は彼の鍛え抜かれた剣であった。ハンニバルは、宿敵を倒すことに人生をかけた怨念の塊のような男であった。
ハンニバルは、サグントゥムの攻城戦を終え新カルタゴで冬を過ごす中で、次の段階への活動に備えてイベリア兵を故郷に帰らせ、英気を養わせている。その後の動きについては、再びポリュビオスとリウィウスの書に従って書いて行くことにする。
ついにハンニバルは、親子の悲願でもあるローマとの開戦に向け、いくつかの懸案事項を実行に移し始めた。自身が軍を率いてスペインを離れた場合の地域の支配や統治の問題、ローマ軍がスペイン遠征を行った場合への備え、そしてリビアの情勢安定への備えである。その最良の策として、ハンニバルはリビアの兵をスペインに、スペインの兵をリビアに入れ替えたのである。目的は二つの地域の相互信頼関係の構築であった。スペインからリビアへ移動した兵の構成はテルシタイ人、マスティアニ人、イベリアのオレテス人、オルカデス人で、これらの部族の合計兵数は、騎兵が1,200人、歩兵13,850人で、他にも投石兵のバレアレス人870人がいた。ハンニバルはこれらの兵士のほとんどをリビアに、1部をカルタゴ本国に配置した。そして実弟のハスドルバルのために、5段櫂船50隻、4段櫂船2隻、3段櫂船5隻を残し、5段櫂船32隻、3段櫂船5隻には乗組員を用意した。騎兵はリビア人、フェニキア人、マッコエイ人、マウルシイ人を合わせて1,800人、歩兵はリビア人11,850人、リグリア人300人、バレアレス人500人、戦象21頭を同じくハスドルバルの指揮にゆだねた。この慎重な手はずをした経緯は、ハンニバルがカルタゴ元老院で宣戦布告をしたローマの使節が、その帰りスペインに寄り部族の首長たちを味方につけるための画策をしたことを知っていた。彼はリビアのみならず戦地となる可能性において、この国の防衛の重要さを充分に気づいていたからである。
なおポリュビオスが、兵員配置に直接携わった当の士官さへ知らないようなカルタゴの兵数の正確な数字を記すことが出来たのは、ハンニバルがイタリア転戦中に数字を刻ませた青銅板をラキニウム岬で発見し、そこに記載されたものを引用したからだと書いている。
ハンニバルは、こうしてリビアとスペインの国防を強固にした後、ケルト人の使者が到着するのを待っていた。その使者はアルプスのこちら側(フランス側)やアルプス山中(北イタリア側)の各地のケルト人部族の情報を伝える者であった。特にローマに対する彼らの敵愾心は、ハンニバルの関心を引いていた。これから始まるローマとの戦争において、ハンニバルの最も重要な戦略の一つとなる要素であった。つまり、ハンニバルはサグントゥムの攻城戦の前後には、ローマとの戦争における基本戦略と戦地の選択を終えていたと考えられる。
これから書くことは、筆者の推測だと言うことをお断りして書き進めることにする。
ハンニバルが考えた基本戦略は、カルタゴの将来に立ちはだかる最大の敵国をローマに設定し、そのローマとの戦いに勝利することで、地中海の制海権の確立と、シチリア島、サルディニ島などの奪還を含め、地中海世界におけるローマ同盟諸国の籠絡または解体を行うことで、カルタゴの完全なる支配権を確立することである。
そのための具体的な戦術として、ローマとの戦場と戦闘方法、ローマ同盟諸国・植民都市、さらにローマの敵対勢力という3つの要素の分析を行うことで、具体的に戦術化し実行することだった。その分析の結果から勝機が見えてくる幾つかの要素がある。
第1の要素は、地の利と時の運を活かした戦いをすることが重要だということである。カルタゴがサグントゥムを占領し、宣戦布告がなされた直後である現在、ローマが思いも及ばない戦場を選択し、奇襲攻撃によって戦闘を開始すべきであるということだった。ハンニバルは、ローマとの開戦の場所をどこにすべきかを考え、過去と現在のイタリアとの現状分析を行った。
ハンニバルが最初に考えたのは、ローマがカルタゴ本国とスペインに攻め込むように仕向けることである。宣戦布告を受領した現状では、カルタゴがローマに対し先制攻撃を仕掛けない限り、ローマ軍はじっくり戦闘態勢を万全に整え、カルタゴ本国とスペインに攻め込んでくるだろう。とすればカルタゴはローマの侵攻を待つ間、大切な時の利益を喪失してしまうのだ。ハンニバルは座してローマ軍の侵攻を待つのは良策ではないと判断した。そして次に考えたのが、カルタゴがローマに直接攻め込むことである。そこには2つの選択肢がある。海上ルートからの侵攻と陸上ルートからの侵攻である。海上ルートからの侵攻は、ローマが地中海の制海権を保持している現状、カルタゴ本国からもスペインからも海上侵入する可能性は非常に難しい。その理由は、ローマの同盟諸国や植民都市からの妨害や事前通報は勿論のこと、例え小規模とはいえそれらに駐留するローマ海軍との戦闘に発展する可能性が高いからである。
それでは陸上からの侵攻はどうであろうか。陸上からのルートとして考えられるのは、ローヌ川を越えローマの同盟都市マルセイユを撃破し、地中海沿岸に沿ってイタリアに侵攻するルートが考えられる。しかしこのルートはローマの防衛線として、すでに鉄壁の守りが構築されている。これらを総合すると、カルタゴがイタリアへ侵入するルートなどありはしない。がしかし、実はローマ人も他の誰もが不可能だと思われることから、可能性さえ除外されているルートがあった。それが、アルプス山脈を越えての侵入ルートだった。前述のとおり、カルタゴがローマの本土イタリアで戦争を実行するとすれば、アルプスを越えて戦う以外に、その選択肢はなかったのである。そして、ハンニバルはそのことが可能であるかどうかの検証を事前に行っていたのだ。もし少しでも可能性があるとすれば実行に移すのみであり、しかもそれを最大の注意を払い秘匿事項として実行することであった。さらにカルタゴの命運を決める戦略の1つである、第2の要素と第3の要素との絡みが絶対条件となってくるのである。 第2の要素は、ローマの同盟諸国や植民都市の離反や籠絡である。この大きな要素にも幾つかの細かい要素が見えてくる。同盟諸国や植民都市の中には、ローマとの強固な絆によって結ばれ離反させるのが困難な国と、時と場合によってカルタゴに同調を示す国もあることである。その時と場合とは、カルタゴが明らかにローマを上回る勢力としての政策や戦力を示すことが必要となる。
第3の要素は、ローマの敵対勢力への対応である。敵対勢力にもカルタゴに対して協働を示す勢力と、まったく単独で敵対する勢力があり、少なくとも反カルタゴ勢力にならないように対応する必要がある。そのためには、ローマの同盟諸国や植民都市と同様に、カルタゴが明らかにローマを上回る勢力としての政策や戦力を示すことが必要となる。
ハンニバルは、これから始まるローマとの戦争において、先ず第1の要素であるアルプ越えを行い、北イタリアからローマに侵入し奇襲を仕掛ける作戦を開始したのである。そのために、彼はアルプスのフランス側とローマの南側とアルプス山中との別なく、各地のケルト人の首長のもとに使者を送り続け、どんな約束も惜しまなかったとポリュビウスは書いている。
その待ち臨んだ使者が到着し、ケルト人が戦いの意欲を強く持ち、ハンニバルに大きな期待をよせていることを伝えた。さらに、アルプス越えが非常に困難であるが、不可能ではないことを告げると、ハンニバルは直ちに軍を動かす決心をしたのである。
紀元前218年5月、この時まだ29歳であった将軍ハンニバルは、世界の歴史に残る戦術を胸に秘め、ローマ軍との戦いのために全軍を率いて新カルタゴを後にした。
その時の軍の兵力数は、歩兵およそ90,000人、騎兵およそ12,000人だった。ハンニバルはその軍を引き連れエブロ川を越えた後、ピレネー山脈にいたる地域の幾つかの部族を攻略している。その攻略において大規模な戦闘も行われ、多くの兵士の犠牲も強いられた。しかし予想以上の速さで全部族を支配下におさめ、その地域の統括者と、さらにかつてローマの友好国であったバルグシイ族の直接統治者として、ハンノ(ハンニバルの従弟)を残すことに決めた。そこには率いて来た兵の中から、歩兵10,000人と騎兵1,000人を割いてハンノに引き継がせ、遠征に向かう兵士たちの荷物を残した。また、同じ数の兵士たちを除隊し故郷に帰している。そうした理由は、兵士たちがハンニバルに好感を抱いて故郷に残るし、他の兵士たちもいずれ故郷に帰れるという希望を抱き続けるだろうという狙いがあった。これらの配慮を行うことで、指導者としてのハンニンバルに対し兵たちが好印象を抱き、有事の際の徴兵をスムーズにするとの判断から行ったことであった。
この同じ数の兵士たちを除隊にして故郷に帰したという記述に関しては、ポリュビウスの記述とは異なるリウィウスの記述も紹介しておこう。
軍がピレネーの山道を進み始めた頃に、軍内にこれから戦う相手がローマ軍だという噂が広がり、およそ3,000人のカルペタニの歩兵が道を引き返してしまった。ローマ軍との戦いに怖気づいたというより、道のりの遠さとアルプス越えの難事に不安を抱いたとされる。ハンニバルは、この引き返した兵士たちを行軍中に呼び戻したり、力ずくで引き止めたりすることは残る者たちの気持ちを刺激し非常に危険であると考えた。そこで軍務に嫌気を感じているような7,000人をさらに選んで、カルペタニにもそうしたのだからという理由付けをして故郷へ帰したとある。このリウィウスの記述からすると、行軍兵士たちは既にこの時点でハンニバルの秘策アルプス越えを知っていたことになる。
いずれにしろ、ハンニバルは荷物を残し身軽になった軍、歩兵50,000人と騎兵およそ9,000人を率い、ピレネー山脈を越え、ロダヌス川の渡河地点を目指した。
それでは、ハンニバルはどの時点でアルプス越えの秘策を、側近や兵士たちに伝えたのだろうか。そして、特に秘匿すべきローマは、どの時点でそのことに気づきどのような手を打ったのであろうか。そのことについて触れて行きたい。
カルタゴ軍が新カルタゴを出発したのは、紀元前218年5月であった。その後ローマとの協定線エブロ川を渡り、ピレネー山脈にいたる幾つかの部族を平定し、ピレネーの山道を進むところで、10,000人の兵を帰郷させ山脈を越え、ロダヌス川の渡河地点を目指すところまで書いてきた。しかし、行軍の兵士たちはピレネーの山道を進み始めた頃には。彼らは既に戦う相手がローマだということと、アルプスを越えることを噂で気づいていたというのだ。ということは、少なくともピレネーの山道にいたる前で、そのことが判っていたということになる。おそらく、カルタゴ軍がエブロ川を渡る前後には、ハンニバルは側近の将官たちに、これからの行軍はアルプスを越えてイタリアに侵入することを話したと思われる。それが行軍の兵士たちに漏れ伝えられたことは推測できる。そして、ローマ軍はどのようにしてその情報をつかんだのかについて調べてみることにしよう。
先ずローマは、ハンニバル軍がエブロ川を渡ったことを、エブロ川以北のローマの同盟都市のどこか(おそらくマルセイユなどの同盟都市)を通じて知らされた。知らせを受けたローマは、当初このハンニンバルの軍事行動は、スペイン内における全土掌握のためだろうと考えたようだ。また、もしハンニバルとの軍事対決があるとすれば、カルタゴ本国と合わせて考えた時、シチリアとスペインの2カ所になるであろうと判断した。
この第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)当時、共和制ローマにおいて軍はコミティウム(市民兵制)に基づき編成されていた。この制度は自分の財産において軍務に就き、その装備も自身で準備する必要があった。その軍を率いるのが、共和制ローマの最高指導者である執政官(コンスル)である。執政官は市民集会で、有権者による選挙によって通常2人が選ばれ、それぞれ1年の任期で軍を率いることになっていた。その候補者となるのは、主に元老院議員や元貴族などで、ローマ社会における政治的影響力や社会的地位が高い人物であり、彼らは軍事的実績や外交的成功などをアピールするなど、選挙運動を通じて多くの支持を獲得した者が選ばれた。彼らの職務は、戦時には一人の執政官が軍を率い、もう一人が国内の行政を担当した。この執政官の指揮下には、それに次ぐ高位の官職であるプラエトル(Praetor)がいて、司法軍事を担当していた。このプラエトルも戦時には軍を指揮し、平時には司法業務を担当した。さらにローマの兵士たちには、通常から厳しい訓練が行われ、その中で戦術的な動き、武器の使用、陣形を組んだ隊列の維持、野営地の設営などの高い機動力と戦闘力を身に付けていた。
この第二次ポエニ戦争の開戦に備えて、ローマでも戦争の準備が開始されたことが、リウィウスの書に記載がある。それによれば、通常のローマ軍は、毎年4個軍団が編成されることになっていたが、この年はスペインからの急報を受けカルタゴとの有事とみて、6個軍団が編成されることになった。ローマの1軍団はレギオー(Legion)と呼ばれる約4,200人から約5,000人の歩兵と騎兵とで構成されていた。そこにはさらに、同盟諸国の軍も状況に応じた兵力が召集される。今回の兵力の総数は、24,000人のローマ人歩兵と、1,800人の騎兵、同盟諸国の40,000人の歩兵と4,400人の騎兵が加わった。さらに220隻の5段階船と20隻の快走船も編成に加わった。
今回第二次ポエニ戦争の開戦当初のローマ軍は、スペインには執政官ププリウス・コルネリウス(以下「プブリウス」と書く)が、シチリアとアフリカにはもう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス(以下「ティベリウス」と書く)がまるでくじ引きをするかのように選ばれたとある。
シチリアとアフリカを担当するティベリウスに与えられた兵力は、2個軍団8,000人の歩兵と、600人の騎兵、同盟諸国の16,000人の歩兵と1,800人の騎兵が加わった。さらにシチリアとアフリカが戦場と見なすことから160隻の5段階船と12隻の快走船が編成に加わった。ティベリウスは、これら陸海の軍勢を率いてシチリアへ向かった。一方スペイン方面を担当するププリウスが率いた兵力は、5段櫂船60隻、ローマの2個軍団と騎兵(兵数の記載はない)、同盟諸国の14,000人の歩兵と1,600人の騎兵が与えられた。またカルタゴ人との戦争に備え、ガリアにローマ人の2個軍団と同盟諸国の1,000人の騎兵とローマ人の600人の騎兵が配置されたとある。こうしてローマが二人の執政官とその軍団を送り出してから、ハンニバルがピレネーを越えたという知らせが届いた。
一方で、ハンニバル軍は急いでピレネー山脈を越えて、イリベレス(ピレネー山脈東麓の地中海沿岸にある現在の南仏エルヌ)の付近に陣を置いた。ハンニバルの布陣を知った幾つかの種族たちが、隷属を求められるのではないかと武器を取り、イリベレス近くのルスキノに終結を始めたのである。ハンニバルはすぐその族長たちのもとに使者を送り、自分が敵ではなくそちらが手出しをしない限り我々が剣を抜くことはないと伝言させた。すると彼らはその伝言を受け入れ、ハンニバルの陣営にやって来たのである。ハンニバルは彼らを贈り物で籠絡し、その領地を難なく進むことが許された。
さて、スペインでの軍務を担当するプブリウスは、60隻の軍船と共にローマを出発し、エルトリアの沿岸に沿ってマッサリア(現在のマルセイユ、以下「マルセイユ」と書く)に到着した。そしてロダヌス川(ローヌ川のラテン名、以後「ローヌ川」と書く)の最も手前の河口付近に陣を敷いた。彼はこの時、ようやくハンニバルがすでにピレネーを越えて、現在その行方が不明であることを知った。そこでプブリウスは、カルタゴ軍の状況調査のために選りすぐりの騎兵300人を選び、マルセイユ人の案内人やガリア人の補助軍をつけて斥候として派遣した。
さて、ハンニバルは鞭と飴をつかうことで、諸部族を鎮めながらロダヌス川の両岸付近に居住するウォルカエ(ピレネー山脈北麓からローヌ川一帯に住むガリア人種族)の土地まで達した。彼らはカルタゴ軍を避けるために、川を防御壁とし所有物を移すとともに武装して対岸を占拠した。しかし、こちら側の住居に執着し残った一部の住民や他の流域の住人を籠絡し、船を集めさせたり作らせたりした結果、不格好な手造りの丸木舟なども含めて渡河に必要な船の準備が整った。ポリュビオスの書では、材料を手に入れた兵士たちは丸木舟の制作を2日間で終えたとある。しかし渡河するには、対岸を占拠するウォルカエ族や他部族の騎兵や歩兵が脅威であり、ハンニバルはその対策として、行政長官ボミルカルの息子ハンノに一部の軍勢を率いさせ、第一夜警時(日没から2~4時間程度の時間)に、上流に1日程度進んで渡河出来る中州を見つけ対岸に渡るように指示した。彼らは筏を組んで何の妨害もうけることなく無事対岸に渡り終えた。
5日目の夜が来て、上流からすでに渡り終えたハンノ軍は、夜が明ける直前にカルタゴ軍が渡河するのを妨害しようとしている、対岸の武装した諸部族軍の背後に先回りし待機した。そのハンノ軍からの指図した煙の合図を確認したハンニバルが、全軍の乗船命令を発し、船上の兵士たちが声を張り上げ、水勢との戦いに力を絞りながら互いに力を競い合った。それを見た諸部族の兵たちは声を上げて敵を挑発した。この諸部族が陣屋を出払うのを見定めて、渡河を阻止しようとしている所へハンノ軍が襲いかかった。それと同時にハンニバルは最初に渡河した兵士たちに、隊列を組ませ諸部族との戦闘に突入させた。カルタゴ軍の勢いに驚いた諸部族の兵たちは、たちまち総崩れとなって逃げ去ってしまった。カルタゴ軍は両岸を制圧し、対岸に残された兵士の渡河を完了すべく全力を注いだ。そして全軍が渡河を終えると、その夜は川べりに陣を置いた。
翌朝になり、ローマの艦隊がローヌ河口近くに停泊中であるという報告を受けたハンニバルは、ヌミディア人騎兵500人を選び偵察に出し、ローマ軍の規模やその場所、そして何を目的としているかを探るように命じた。
さらに、カルタゴ陣営にはマルギスを始めとする首領たちが、パドゥス川(ポー川のラテン名、以後「ポー川」と書く)領域から来ていたのを陣に招き入れ、通訳を介して兵士たちの前で語らせた。その話の内容が、兵士たちに大いに勇気を奮い立たせるものであった。彼らはカルタゴ軍の到来を待ち望んでいた。そしてローマとの戦争に協力を申し入れてきたのである。また兵糧の調達も問題がないことを申し出てくれた。その上に安全にイタリアへたどり着ける道案内も引き受けると申し出てくれたのである。しかもその内容は十分に信頼できる約束として聞かされた。他にもこれから目指す土地の豊饒さや広大さ、さらに彼らは共同してローマ軍に立ち向かう士気の高さを持っていることも伝えて陣を立ち去って行った。
そこでハンニバルは兵士たちの前に進み出て、カルタゴ軍がここまでに成し遂げた偉業について語った内容をポリュビオスの書から引用する。
「諸君はこれまで数多くの難事に挑み熾烈な戦闘に遭遇しながらも、ハンニバルの作戦と助言に従った結果、かつて一度も敗れたためしはないのだと語りかけたのである。そしてそれに続いて、川越えを無事完了し、そのうえ同盟者たちの友誼と熱意を諸君自身の目で確かめた今では、最大の困難はすでに乗り越えたものと考えてよい。もはや恐れるものはないのだと励ました。だから取るべき具体的な行動については安心してハンニバルにまかせ、諸君は命令に従って、これまでの偉業に恥じないような勇敢な戦士であってほしいと訴えた。兵士たちがそれに賛同を示し、遠征への並々ならぬ意気込みを表したので、ハンニバルは兵士たちをほめ、神々に万事の幸運を祈願したのち、明日出発するから身支度を整え準備を急ぐようにと指示を与えてから解散させた。」著者:ポリュビオス、訳:城江良和
集会が解散して、ハンニバルのもとに斥候に出していた騎兵が帰って来た。しかしその大部分は戦闘で討ち取られ、生き残ったのもたちも傷を負いようやく生還したような有様であった。報告によって、彼らがこのカルタゴ陣営にそう遠くない場所で、プブリウスがローヌ川河口から送り出した斥候であるローマの騎兵に遭遇し、激しい戦闘状態に入りローマとケルトの騎兵およそ140名、ヌミディア騎兵およそ200名が死亡したことが判明した。
この戦いが終息した後、ローマ騎兵は引き上げるヌミディア騎兵のあとを追尾し、カルタゴ軍の陣営を偵察した後、ローヌ川河口に布陣するローマの司令官のもとに帰還し報告した。この報告を受けて、プブリウスは軍を整え全艦隊の出航を命じて川を遡らせた。
一方ハンニバルは集会の翌日、夜明けとともに率いる騎兵のすべてをローマ軍に備え川下に向けて配置し、警備体制を整えてからカルタゴ軍の進軍を開始させた。彼自身は未だ対岸に残された戦象とその従者たちの渡河を待ち受けた。リウィウスの書は、この象の渡河作業の間にハンニバルがヌミディア騎兵を斥候に出し、ローマの斥候と接触し戦闘があったと記しており、少し時間のずれがある。いずれにしろこの斥候同士の戦闘で、カルタゴ軍の所在がローマに知れたことに変わりはない。
さて、その戦象の渡河方法には幾つかの説がある。ポリュビオスは筏で渡河させたことを記している。多くの筏を作りその上には、土を盛り数頭の象を乗せ小舟で曳航して、向こう岸に渡すという方法が取られたようだ。中には水に対する恐怖から筏の上で暴れ、川に飛び込む象もいた。しかし象は長い鼻を生かし陸に上がることが出来たが馭者はおぼれ死んだとある。象を渡し終えて、ハンニバルは象と騎兵を行軍の最後尾に配置し、ローマが布陣しているローヌ河口とは逆の、ヨーロッパの中心部に向けて軍を進めた。ハンニバルは行軍を急がせる必要があった。イタリアに着くまでローマ軍との接触は避け、戦うつもりはなかったからである。
さらにポリュビオスとリウィウスの書によって、ローマとカルタゴの進軍の状況を書いて行こう。
プブリウスが、ローヌ河口から渡河地点に着いたのは、カルタゴ軍が進軍を開始してから3日後であった。プブリウスはカルタゴ軍がすでに立ち去ったことに大きな衝撃を受けるとともに、再び全軍を乗船させてイタリアへの帰途に着いた。プブリウスはカルタゴ軍が、イタリアへの進軍路としこの道を選択することはないと信じ切っていた。ここに到って、ハンニバルがそのあり得ない選択をし、アルプを越えて北イタリアに向かったことを確信したからである。この時点でプブリウスには二つの選択肢があった。急ぎカルタゴ軍を追尾して戦うか、ハンニバルのいないスペインを急襲して制圧するかであった。しかし敵は3日も前に進軍しており、はるか前を行くカルタゴ軍に追いつくことは困難であると判断した。そこで、兄グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス(以下「グナエウス」と書く)をイベリア方面の軍事行動のために送り出し、ハンニバルがスペインの後事を託したハスドルバルとの戦いに全力を尽くすよう指示した。
そしてプブリウス自身は、ハンニバルのアルプス越えを元老院に急報するとともに、少数の兵を引き連れ急ぎイタリアへ引き返すことを選択した。彼は海に戻り船に乗ってピサエ(現在のピサ)に向かった。そこには、プブリウスからハンニバルがアルプスを越えイタリアに侵入する知らせを受けた元老院の指示で、法務官が率いるボイイ族との戦闘にあたっていた軍団が待っていた。彼はその軍を率い、ポー川流域にある平野に布陣した。そこでアルプスを越えてくるハンニバルを臨戦態勢で待ち受けたのである。
ここで、ハンニバルがピレネー山脈を越えた後の兵力を確認しておこう。ピレネー山脈を越えた時点での兵力数は歩兵50,000人、騎兵9,000人であった。ローヌ渡河の時点で歩兵38,000人、騎兵8,000人であった。このローヌ川の渡河でハンニバルは13,000の兵力を失ったことになる。この後さらに、カルタゴ軍にはアルプス山脈を越えるという試練が待ち受けているのである。そのカルタゴ軍を待ち構えているのは、当時世界最大の戦力保持国である、ローマの軍隊だった。
ハンニバルがこの戦争で相手にするローマ軍の軍事力は如何ほどのものであったのか、ポリュビオスはその詳細を書き留めているので紹介する。
「ところで後にハンニバルがどれほど大きな軍事力に戦いを挑んだか、そしてどれほど大きな勢力と真正面からぶつかり合って、ローマ人を未曾有の危機に陥れ、あと一歩で目的を達せんとするところまで追い詰めたのか、それを事実そのものよって明確にするためにも、このときのローマの兵力の規模と配置をここで述べておくべきであろう。まず二人の執政官とともに、ローマ市民から成る四個の軍団が出陣していて、各軍団は歩兵5,200人、騎兵300人で構成されていた。同盟市からは両執政官のもとに、合わせて歩兵三万人、騎兵2,000人が従軍した。さらにこの機会にローマ救援に駆けつけたサビニ人とエトルリア人は、騎兵4,000人にのぼり、歩兵が5万人を超えていた。これらの援軍はまとめてエトルリア方面の前線に配置され、法務官一名がその指揮官に任じられた。ほかにアペンニヌス山中に住むウンブリア人とサルシナ人が二万人集まり、これにウェネティ人とケノマニ人の二万が合流した。これらの兵士はガリアとの境界付近に配置され、ボイイ人の領土に侵攻して、彼らを故国に引きつけておく役割を与えられた。領土防衛の前線に送られた軍勢は以上である。一方ローマ本国には、戦況の変化に対応するための予備の軍隊として、ローマ人の歩兵二万人、騎兵1,500人、同盟市民の歩兵30,000人、騎兵2,000人が待機していた。申告された兵役適格者は、ラテン人が歩兵80000人、騎兵5,000人、サムニテス人が歩兵70000人、騎兵7,000人、イアビュギア人とメッサビア人が合わせて歩兵五万人、騎兵16,000人、ルカニア人が歩兵30,000人、騎兵3,000人、そしてマルシ人、マルキニ人、フレンタニ人、ウェスティニ人が合計で歩兵20,000人、騎兵4,000人であった。それに加えてシキリア島とタレントゥムには二個軍団が駐屯していて、どちらの軍団も歩兵約4,200人、騎兵200人で構成されていた。ローマ人とカンパニア人で兵役名簿に登録されていたのは、双方合わせて歩兵が約250,000人、騎兵が23,000人であった。したがってローマの前人員の総計は、ローマ人と同盟市民を合わせて、歩兵が700,000人以上、騎兵が約70,000人であった。これだけの兵力に対して、ハンニバルは20,000人足らずの軍勢でイタリアに侵攻したのである。」『歴史1』著者:ポリュビオス、訳:城江良和
この戦力比にもかかわらず、絶対的劣勢のカルタゴ軍を率いるハンニバルの戦術が、その後ローマ軍を一時的に壊滅状態にまで追い込み震撼させることを、この時点で敵も味方も誰もが想像もしていなかった。
(第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越えに続く)
「サグントゥムへのさらなる攻勢 ローマ人が使節の派遣で時間を費やしている頃、ハンニバルは戦闘や攻城戦で兵士たちがすっかり疲れはてたのを見て取った。そこで彼は屋台と他の攻城器具を監視するために見張りを置いた上で、彼らに数日の休養を与えた。この間に彼は敵に対する怒りや戦利品への期待でもって兵士の士気を鼓舞した。軍の集会で彼が、都市攻略のあかつきには戦利品は兵士たちのものとなろうと宣言したところ、全員が大いに熱狂した。もしこの直後に出撃命令が下されていれば、どんな軍勢も彼らに太刀打ちできないように思われたほどだった。一方サグントゥム人は戦闘から一息つき、相手を挑発されることもされることもないまま数日を過ごした。しかし彼らはこの間、壁が崩れて町が露わとなった部分に新たな壁を作るため、昼も夜も作業にいそしんだ。その後彼らを襲った攻城戦は、前にも増して激烈なものだった。いたるところでさまざまな物音が鳴り響き、守り手は一体どこへ真っ先に、また重点的に応援を送れば良いのかよくわからなかった。ハンニバル自身は攻城機櫓(それは都市のあらゆる防塞をしのぐ高さだった)を押し動かしている場所で兵士たちを鼓舞激励した。櫓が前進し、すべての階に配置された投矢器と投石器でもって、市壁から守備兵が掃討された。ハンニバルはこれを好機と考え、壁を根元から掘り崩すために、つるはしを手にした約500人のアフリカ人を送り込む。これはさほど難しい仕事ではなかった。なぜなら石垣はモルタルで固められておらず、古い工法に従い、泥で繋ぎ合わされていたからである。このため、打撃があたえられた部分より広い範囲で壁は崩れた。そして崩落によりむき出しとなった場所を通り、武装兵の軍勢が都市の中へ進撃した。この者たちはさらに丘を占領し、そこへ投矢器と投石器を運び入れ、壁で囲った。彼らはこうして都市それ自体の中に、まるでそびえ立つ城塞のような砦を築いたのだった。一方サグントゥム人はと言えば、都市のさらに内側のまだ奪われていない部分に壁を築いた。両側で防壁作りと戦闘が全力を尽くして繰り広げられた。だがサグントゥム人は中心を守ることで都市の領域を日々縮小させた。同時に、長期の包囲のためにあらゆるものがますます欠乏した。外からの支援への期待も弱まった。唯一の希望であるローマ人はかくも遠く、周囲は何もかもが敵の手中にあったからである。彼らの重苦しい気分は、しかし一時ハンニバルがにわかにオレタニとカルペタのところへ出立したことで、力づけられた。これら二つの種族は厳しい徴兵に憤って徴兵員を拘束、離反の懸念を抱かせていた。しかし彼らはハンニバルの迅速な動きに不意を突かれ、振り上げかけた矛を収めてしまった。また、サグントゥムに対する攻撃が緩和されたわけではなかった。ヒミルコの子マハルバル(ハンニバルは彼に指揮を委ねていた)がきわめて精力的に任務を果たしたため、将軍が不在であることに同国人も敵も気づかないくらいだった。マハルバルはいくつかの戦闘を成功させ、三台の破城槌で市壁のかなりの部分を打ち砕いた。そしてハンニバルが戻って来ると、最近の瓦礫で覆われた場所をすべて彼に見せた。こうしてすぐに軍勢が城塞そのものに向けて送られた。激しい戦闘が始まり双方に多数の死者が出たが、この結果城塞の一部が占領された。」
『ローマ建国以来の歴史5』著者:リウィウス・訳:安井萌
第2次ポエニ戦争は、ハンニバル戦争とも称される。それは第1次ポエニ戦争がローマとカルタゴが植民地の領有権を巡り戦った戦争であるのに対し、第2次ポエニ戦争はカルタゴの将軍ハンニバルを中心に、カルタゴとローマが両国の存続を懸けて戦った戦争であったことからそう呼ばれる。この開戦の発端となったサグントゥムの攻城戦と開戦にいたる状況は、それほど重要な意味を持っていたのである。ここでその詳細を述べるために、あらためて紙数を稼ぐ必要性をお許し願いたい。
リウィウスが書いているように、こうしてハンニバルは8か月間もかけて、ローマの同盟都市であったサグントゥムを陥落させたのである。この攻城戦について、多くの歴史家はハンニバルの攻城戦術の稚拙さがゆえにこうも長引いたのだと指摘する者もいる。しかし、このリウィウスの文章からは、そのような指摘にあたる稚拙な攻城の様子を読み取れる箇所は認められないばかりか、攻城戦の途中でハンニバルがオレタニとカルペタという種族の離反鎮圧に出向いたことも記してある。攻城戦において熾烈な戦いを続け、抵抗するサグントゥム人の様子もうかがえる。これを読むと、むしろ8カ月かけても不思議ではない、サグントゥム人の激しい抵抗が、占領を長引かせた理由だったと考えるべきであろう。また、一部ではハンニバルは攻城戦を長引かせることで、ローマからの宣戦布告を引き出す目的があったという説もあるが、やはりサグントゥム人が、8カ月という期間を必要とするほど必死な抵抗を続けた事が実際の理由だと思われる。しかし、確かにハンニバルは、サグントゥムを攻めればローマとの開戦は避けられないことは確信していたはずだ。しかも、このサグントゥム攻城の8カ月の間、ハンニバルは何も活動をしていない訳ではなかった。攻城に8カ月かけた訳ではなく、サグントゥム人の激しい抵抗で8カ月かかったことが、むしろハンニバルが目的達成の鍵となる情報収集の時間を与えてくれたのである。彼にとっての8カ月という期間は、大いに幸いしたと考えるべきではないだろうか。それではハンニバルのこのサグントゥム攻城戦は、彼にとってどのような目的と意義を持っていたのだろうか。
紀元前228年、スペイン東岸にカルタゴが移住10年目にして、カタルヘーナ(以後「新カルタゴ」と呼ぶ)が建設され、スペイン支配の本拠地となった。その辺りのことをポリュビオスが語るには、新カルタゴの位置の良さだという。新カルタゴのある場所は、スペインでの活動にもリュビアでの活動にも最適の拠点であった。ローマ人はハスドルバルがスペインに新カルタゴを建設したことを知り、カルタゴが第一次ポエニ戦役後ふたたび帝国の拡大と脅威を完成させつつあると気づき、イベリア情勢に積極的に介入しなければならないと動き始めた。しかしローマ本国は、ケルト人の脅威に迫られていることで、カルタゴのスペインにおける勢力拡大に対して融和策を取ることにした。そして紀元前226年、ローマはカルタゴ(将軍ハスドルバル)とエブロ川協定を結ぶことで、エブロ川の以北に関してその勢力図を広げないことを誓わせた。しかし協定の内容では、エブロ川以南に関するカルタゴのスペイン支配については何も規定しなかった。そのため逆にローマはカルタゴのエブロ川以南における支配を認めたとも取れる協定となった。しかも後に大問題となるローマの同盟都市サグントゥムは、火のついた導火線としてすでにエブロ川の以南に位置していたのである。そしてローマはエブロ川協定締結後、一旦イベリア情勢からは目線を離し、イタリア北部で活動を強めるケルト人への対応に全力を注ぎ始めた。
ハスドルバルは、義父(ハミルカル)が始めたスペイン領土拡大事業を、ポリュビオスに言わせれば「賢明かつ巧妙に地域統括を推し進め、あらゆる面でめざましい進展を実現し」、カルタゴの活動拠点として新カルタゴ建設を行い、カルタゴ人の利益に計り知れない貢献をした。しかしエブロ川以南での勢力拡大に対するローマの不介入を協定化した直後、紀元前221年、ハンニバルにその事業をバトンタッチするかのように8年間のイベリア制圧に力を尽くし亡くなった。死因は、ハスドルバルに主人を殺されたケルト人奴隷の怨恨によって暗殺されたのである。さらにここで特筆すべきことは、父ハミルカル、義兄ハスドルバルとスペインでの総督としての地位が引き継がれ、ついに本編主人公ハンニバルにその役割が巡り来たことである。将軍ハスドルバルの死後、カルタゴ本国ではスペイン遠征軍兵士の状況を見守っていた。そして、その遠征軍兵士の総意によってハンニバルが最高司令官に選出されたという報告を受け、市民集会が開かれて、全会一致で遠征軍の決定を追認したのである。こうして紀元前221年、ハンニバルは26歳の若き将軍に就任し、スペインにおける最高司令官としてカルタゴ軍の全権を掌握したのだった。
私見ではあるが、おそらくこの時点で、ハンニバルは長い間心に決意したことを、これから実行に移す思いを強くしたに違いない。その思いの1つがここスペインにおけるカルタゴの完全なる統一である。そしてその統一後カルタゴの宿敵ローマとの戦いを見据えた戦略・戦術の確立と実際の行動に向けた詳細な情報の収集であった。この決意のエックス・デイはサグントゥム占領後と定めたのである。このエックス・デイとその後の秘策は誰にも語られることなく、彼の胸の奥深くに仕舞われ着々と極秘に進められて行った。
ここで、第2次ポエニ戦争の開戦の発端となった、サグントゥムについてその歴史を見てみたい。ここサグントゥムは紀元前6世紀頃からギリシア人植民地として発展した都市、あるいはもともと先住民であるイベリア人によって建設された都市であるという2つの説がある。紀元前238年、カルタゴが第1次ポエニ戦争終結後に起きた傭兵の乱鎮圧に追われている最中、ローマはサルディニア島を脱出してきた傭兵たちの要請を受けて、サルディニアに上陸する計画を立てた。それを知ったカルタゴが首謀者を捕らえて処罰しようとすると、ローマはそれを口実にカルタゴは開戦を準備しているとの言いがかりをつけて、開戦の決議をしたのである。この開戦の決議に対してカルタゴは戦争回避のために止む無くサルディニア島の放棄と戦争賠償金1,200タラントの積み増しを承服したのである。この時期と並行して、ローマはサグントゥムとの同盟関係を結んだとされている。この事からわかるように、ハンニバルの父ハミルカルも、その後継者ハスドルバルも、イベリア遠征において、サグントゥムを攻撃すればローマが干渉してくることを知っていた。だからハンニバルは、父ハミルカルからエブロ川以南の地で、カルタゴ軍に今すぐにでも刃を向ける勢力がサグントゥムであり、この都市には手を付けないように指示と助言を受けていた。という事からハンニバルは他の地域をすべて掌握するまでは、サグントゥムを攻めてローマに開戦を正当化する口実を与える事がないように努めていた。この事はポリュビオスも「歴史」の中に述べている。
余談ではあるが、このカルタゴがローマからサルディニア島撤退や、戦争賠償金の積み増しを支払わせられることになった屈辱的な事件の少し前、紀元前236年に、後に天才ハンニバルをカルタゴ本土での侵攻作戦で破るもう一人の天才がローマに生を受けている。この男のことについては、後の章で語ることにしよう。
紀元前221年、若き将軍ハンニバルは、イベリアにおけるカルタゴ軍の総指揮官として活動を開始する。ポリュビオスとリウィウスの書を参考にその活動の順を追って書いて行くことにしよう。
ハンニバルは、最初にイベリア南東部のオルカデス部族の討伐に乗り出した。彼はその部族の最大の都市アルタイア(位置不明、リウィウスは「カルタラ」と記載)に対し、猛烈な攻撃を浴びせたちまち制圧した。部族はこの攻撃におそれをなして、カルタゴ軍に身を投じることになった。ハンニバルはこれらの都市から貢納金を徴収し多額の資金を手にした。そして冬を越すために新カルタゴに着いた。新カルタゴでは兵士に報酬を支払い、カルタゴ軍における将来を約束し、休養を取らせることで大きな好意と期待を集めたのである。
紀元前220年の夏、ハンニバルは次にイベリア北西部のウァッカエイ族の領地に侵攻し、最初にヘルマンティカ(現在のサラマンカ)を即座に制圧、次の都市アルブレカ(現在のトーロ)は規模の大きさや住民の抵抗にあい苦戦をしたが包囲戦の末に制圧した。しかし、その遠征の帰途、近辺では最強の部族と言われたカルペタニ族の急襲に遭い、ハンニバル軍は予想外の窮地に追い込まれたのである。その中には近隣部族やオルカデス部族の亡命者やヘルマンティカからの脱出者も加わり、一時退却をせざるを得ない状況に陥った。ポリュビオスは、もしこの時ハンニバル軍が敵と相対して戦闘を行っていたら敗退していただろうと書いている。しかしハンニバルは、退却する途中タグス川を渡り終えたところで軍を反転させたのである。追撃してきた敵が渡河する瞬間をとらえて戦いを開始した。ハンニバル軍はこの遠征においておよそ40頭の戦象を率いていた。この戦象が川から上がろうとする敵兵をことごとく踏みつぶすとともに、渡河中の敵兵にはカルタゴの騎兵が川に入り馬上から斬りつけて多くの兵を討った。さらに今度はハンニバル軍が逆に渡河し、敵を攻めることで100,000以上の大軍を壊走させた。この大勝はハンニバル将軍の名をイベリア半島に轟かせることになったのである。また、この戦いにおける川を利用した戦術は、ハンニバルのとっさの思いつきによる巧妙な作戦だったとはいえ、彼がこれまで父であるハミルカルや義兄ハスドルバルの下で、遠征事業を手助けする中で身に付けた戦闘への並々ならぬ素質の片鱗が伺える。これ以降はエブロ川以南で、カルタゴに敵対する勢力は事実上なくなった。がしかし、ただ一つだけ例外が存在した。それがローマの同盟都市サグントゥムであった。そして前述したとおり、漸くハンニバルが長い間父との約束でもある心に決意したことを、実行に移す時がやって来たのである。それはサグントゥム占領である。現状で、ローマとカルタゴの開戦を招く可能性が高い状況を導くものがあるとすれば、父や義兄が懸案事項としてハンニバルに忠告していた、サグントゥムの攻撃や占領がまさにそれにあたるのである。
ハンニバルはサグントゥムを占領することにいくつかの意義を定めていた。第一に、カルタゴがサグントゥムを占領し、ローマがこの都市を軍事拠点化する選択肢を奪い、有事の際スペインにおける活動拠点をあらかじめ阻止しておくことである。第二に、スペインの諸部族に対してカルタゴの実力を見せつけることで、既に服属している部族はより従順に、いまだ服属していない部族には不安や恐怖を与えることである。カルタゴが将来イタリア遠征を行う際、背後に何らの脅威もなく進軍を可能にする状況を作り出しておく必要があるからである。第三に、占領によって得られる豊富な物資や財宝を、兵士の報酬や軍の財源として活用し、さらにカルタゴ本国に送ることで、カルタゴの高官や市民の好感を呼び起こす材料にもなることだった。実際にハンニバルはサグントゥムの占領後に、これらのことを実行している。そしてハンニバルは8カ月をかけてサグントゥムを陥落させた。
サグントゥム攻城戦のさなか、予想通りローマ元老院はハンニバルを詰問するために使節を送って来た。しかしハンニバルは使節に取り合わなかった。リウィウスがこの時の事情を書いている。「彼は海岸(ローマ人は船で来たのだろう)に人を遣わして、『野蛮な種族がかくも大勢武器を構えて跋扈するなか、もし貴殿らが進み行くなら、とても無事ではいられぬだろう。またハンニバルとしても、状況が大変緊迫しており使節の話を聞く余裕はない。』」。「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井萌
しかも、この使節への対応については、カルタゴ本国にもあらかじめ文書と口頭で伝えてあった。何故なら、使節はこの後すぐにカルタゴへ向かうことが予測できたからである。カルタゴ元老院では、ハンニバルの父ハミルカルの敵対者であった高官ハンノただ一人のみが、ローマと開戦にならないよう訴えたが、その演説を聞いた誰もが反対はしなかった。しかし賛成する者は誰もいなかった。何故なら、元老院のほぼ全員がハンニバルに味方をしていたからである。ローマの使節には、「戦争はハンニバルではなくサグントゥム人が引き起こしたものである。もしカルタゴ人とのきわめて古くからの同盟よりもサグントゥム人を優先するなら、ローマ国民は不正を犯すことになるだろう」と元老院が回答したとリウィウスは書いている。
この使節がカルタゴからローマに帰国し、元老院に報告したと同時に、サグントゥムが占領されたという知らせが届けられた。この知らせを受けたローマは、使節数名を選び急遽カルタゴへ派遣した。この使節たちが行った宣戦布告が、前章最後のカルタゴ元老院での場面である。
ここで、カルタゴ元老院で戦争という切り札を切り、元老院からその戦争布告の受諾を確認したローマの使節一行の動きを、リウィウスの書から確認して見よう。彼らは、カルタゴに宣戦布告を伝え、カルタゴから受諾の返答を受けた後スペインに向かった。その目的は、戦争が開始された場合スペイン諸部族がカルタゴから離反するように仕向け、加えて参戦協力しないように画策するためであった。最初の訪問地バルグシイ(スペイン東北部、現在のバルセロナ西北近辺にいた部族)は快くローマの使節を受け入れ、またヒベルス川の彼方の諸民族に対しても良い結果が得られたようである。しかし、ウォルキニア(バルグシイ近隣の部族らしい)に到着すると、使節たちの意図は知れ渡っており、ローマは同盟都市サグントゥムを見放した裏切り者と見なされていたため、ウォルキニアのみならずスペインのどの部族からも相手にされなかった。こうして彼らは収穫のないままガリアへと移動した。使節たちはガリアでも同じような画策を行ったが、彼らが言うには、ガリア人はローマ人のためにカルタゴに武器を向けるような恩義を受けた覚えはなく、カルタゴから何か危害を受けたことも無い。それどころか、同じガリアの種族は、ローマ人にイタリアの所有地を奪われたり、イタリアから追われたり、税金を払わせられたり、その他の辱めを受けていると聞いているなど、友好的な言葉は何も返ってこなかった。彼らは同盟都市マッサリア(現在のフランス南部マルセイユ)に到着するまで、親切で友好的な言葉を聞くことはなかった。彼らはこうしてローマに帰り、そこでハンニバルがすでにエブロ川を渡ったという噂を耳にしたのであった。
さて、これまで長々とハンニバル戦争が開戦を迎えるまでの経緯について章を重ねて書いてきたが、その中にはハンニバルによって明確に引かれた、カルタゴの将来を見据えたローマに対する開戦への意図が直線的に見えてくる。カルタゴの第1次ポエニ戦争敗戦の原因に対する父ハミルカルの不満(ハミルカルは決して敗戦とは考えておらず、次の戦いへの譲歩と考えていた)、戦後の傭兵の乱に乗じたローマの不当介入によって受けた屈辱への怒り、その後ハミルカルは次の戦いに挑むべく行ったスペイン遠征、バルカ一族によるスペインにおける経済と軍事基盤の確立、カルタゴの国力の回復、カルタゴ政府とバルカ一族の結束、開戦に向けたイベリア半島での敵対勢力の一掃、ローマの国内状況や北イタリアでのガリア人勢力の情報収集、スペインとカルタゴ本国の国防軍の再編、スペインでの様々な遠征準備、そして開戦という流れである。
余談になるが、ハンニバルという若き武将は、例えば江戸時代初期を生きた剣聖と呼ばれる宮本武蔵のように、ひたすらに剣の道を究めるために孤独な世界で己と剣技を磨く、求道僧のような人物像に見えて仕方がない。彼はローマを敵と見定めた剣客であり、軍は彼の鍛え抜かれた剣であった。ハンニバルは、宿敵を倒すことに人生をかけた怨念の塊のような男であった。
ハンニバルは、サグントゥムの攻城戦を終え新カルタゴで冬を過ごす中で、次の段階への活動に備えてイベリア兵を故郷に帰らせ、英気を養わせている。その後の動きについては、再びポリュビオスとリウィウスの書に従って書いて行くことにする。
ついにハンニバルは、親子の悲願でもあるローマとの開戦に向け、いくつかの懸案事項を実行に移し始めた。自身が軍を率いてスペインを離れた場合の地域の支配や統治の問題、ローマ軍がスペイン遠征を行った場合への備え、そしてリビアの情勢安定への備えである。その最良の策として、ハンニバルはリビアの兵をスペインに、スペインの兵をリビアに入れ替えたのである。目的は二つの地域の相互信頼関係の構築であった。スペインからリビアへ移動した兵の構成はテルシタイ人、マスティアニ人、イベリアのオレテス人、オルカデス人で、これらの部族の合計兵数は、騎兵が1,200人、歩兵13,850人で、他にも投石兵のバレアレス人870人がいた。ハンニバルはこれらの兵士のほとんどをリビアに、1部をカルタゴ本国に配置した。そして実弟のハスドルバルのために、5段櫂船50隻、4段櫂船2隻、3段櫂船5隻を残し、5段櫂船32隻、3段櫂船5隻には乗組員を用意した。騎兵はリビア人、フェニキア人、マッコエイ人、マウルシイ人を合わせて1,800人、歩兵はリビア人11,850人、リグリア人300人、バレアレス人500人、戦象21頭を同じくハスドルバルの指揮にゆだねた。この慎重な手はずをした経緯は、ハンニバルがカルタゴ元老院で宣戦布告をしたローマの使節が、その帰りスペインに寄り部族の首長たちを味方につけるための画策をしたことを知っていた。彼はリビアのみならず戦地となる可能性において、この国の防衛の重要さを充分に気づいていたからである。
なおポリュビオスが、兵員配置に直接携わった当の士官さへ知らないようなカルタゴの兵数の正確な数字を記すことが出来たのは、ハンニバルがイタリア転戦中に数字を刻ませた青銅板をラキニウム岬で発見し、そこに記載されたものを引用したからだと書いている。
ハンニバルは、こうしてリビアとスペインの国防を強固にした後、ケルト人の使者が到着するのを待っていた。その使者はアルプスのこちら側(フランス側)やアルプス山中(北イタリア側)の各地のケルト人部族の情報を伝える者であった。特にローマに対する彼らの敵愾心は、ハンニバルの関心を引いていた。これから始まるローマとの戦争において、ハンニバルの最も重要な戦略の一つとなる要素であった。つまり、ハンニバルはサグントゥムの攻城戦の前後には、ローマとの戦争における基本戦略と戦地の選択を終えていたと考えられる。
これから書くことは、筆者の推測だと言うことをお断りして書き進めることにする。
ハンニバルが考えた基本戦略は、カルタゴの将来に立ちはだかる最大の敵国をローマに設定し、そのローマとの戦いに勝利することで、地中海の制海権の確立と、シチリア島、サルディニ島などの奪還を含め、地中海世界におけるローマ同盟諸国の籠絡または解体を行うことで、カルタゴの完全なる支配権を確立することである。
そのための具体的な戦術として、ローマとの戦場と戦闘方法、ローマ同盟諸国・植民都市、さらにローマの敵対勢力という3つの要素の分析を行うことで、具体的に戦術化し実行することだった。その分析の結果から勝機が見えてくる幾つかの要素がある。
第1の要素は、地の利と時の運を活かした戦いをすることが重要だということである。カルタゴがサグントゥムを占領し、宣戦布告がなされた直後である現在、ローマが思いも及ばない戦場を選択し、奇襲攻撃によって戦闘を開始すべきであるということだった。ハンニバルは、ローマとの開戦の場所をどこにすべきかを考え、過去と現在のイタリアとの現状分析を行った。
ハンニバルが最初に考えたのは、ローマがカルタゴ本国とスペインに攻め込むように仕向けることである。宣戦布告を受領した現状では、カルタゴがローマに対し先制攻撃を仕掛けない限り、ローマ軍はじっくり戦闘態勢を万全に整え、カルタゴ本国とスペインに攻め込んでくるだろう。とすればカルタゴはローマの侵攻を待つ間、大切な時の利益を喪失してしまうのだ。ハンニバルは座してローマ軍の侵攻を待つのは良策ではないと判断した。そして次に考えたのが、カルタゴがローマに直接攻め込むことである。そこには2つの選択肢がある。海上ルートからの侵攻と陸上ルートからの侵攻である。海上ルートからの侵攻は、ローマが地中海の制海権を保持している現状、カルタゴ本国からもスペインからも海上侵入する可能性は非常に難しい。その理由は、ローマの同盟諸国や植民都市からの妨害や事前通報は勿論のこと、例え小規模とはいえそれらに駐留するローマ海軍との戦闘に発展する可能性が高いからである。
それでは陸上からの侵攻はどうであろうか。陸上からのルートとして考えられるのは、ローヌ川を越えローマの同盟都市マルセイユを撃破し、地中海沿岸に沿ってイタリアに侵攻するルートが考えられる。しかしこのルートはローマの防衛線として、すでに鉄壁の守りが構築されている。これらを総合すると、カルタゴがイタリアへ侵入するルートなどありはしない。がしかし、実はローマ人も他の誰もが不可能だと思われることから、可能性さえ除外されているルートがあった。それが、アルプス山脈を越えての侵入ルートだった。前述のとおり、カルタゴがローマの本土イタリアで戦争を実行するとすれば、アルプスを越えて戦う以外に、その選択肢はなかったのである。そして、ハンニバルはそのことが可能であるかどうかの検証を事前に行っていたのだ。もし少しでも可能性があるとすれば実行に移すのみであり、しかもそれを最大の注意を払い秘匿事項として実行することであった。さらにカルタゴの命運を決める戦略の1つである、第2の要素と第3の要素との絡みが絶対条件となってくるのである。 第2の要素は、ローマの同盟諸国や植民都市の離反や籠絡である。この大きな要素にも幾つかの細かい要素が見えてくる。同盟諸国や植民都市の中には、ローマとの強固な絆によって結ばれ離反させるのが困難な国と、時と場合によってカルタゴに同調を示す国もあることである。その時と場合とは、カルタゴが明らかにローマを上回る勢力としての政策や戦力を示すことが必要となる。
第3の要素は、ローマの敵対勢力への対応である。敵対勢力にもカルタゴに対して協働を示す勢力と、まったく単独で敵対する勢力があり、少なくとも反カルタゴ勢力にならないように対応する必要がある。そのためには、ローマの同盟諸国や植民都市と同様に、カルタゴが明らかにローマを上回る勢力としての政策や戦力を示すことが必要となる。
ハンニバルは、これから始まるローマとの戦争において、先ず第1の要素であるアルプ越えを行い、北イタリアからローマに侵入し奇襲を仕掛ける作戦を開始したのである。そのために、彼はアルプスのフランス側とローマの南側とアルプス山中との別なく、各地のケルト人の首長のもとに使者を送り続け、どんな約束も惜しまなかったとポリュビウスは書いている。
その待ち臨んだ使者が到着し、ケルト人が戦いの意欲を強く持ち、ハンニバルに大きな期待をよせていることを伝えた。さらに、アルプス越えが非常に困難であるが、不可能ではないことを告げると、ハンニバルは直ちに軍を動かす決心をしたのである。
紀元前218年5月、この時まだ29歳であった将軍ハンニバルは、世界の歴史に残る戦術を胸に秘め、ローマ軍との戦いのために全軍を率いて新カルタゴを後にした。
その時の軍の兵力数は、歩兵およそ90,000人、騎兵およそ12,000人だった。ハンニバルはその軍を引き連れエブロ川を越えた後、ピレネー山脈にいたる地域の幾つかの部族を攻略している。その攻略において大規模な戦闘も行われ、多くの兵士の犠牲も強いられた。しかし予想以上の速さで全部族を支配下におさめ、その地域の統括者と、さらにかつてローマの友好国であったバルグシイ族の直接統治者として、ハンノ(ハンニバルの従弟)を残すことに決めた。そこには率いて来た兵の中から、歩兵10,000人と騎兵1,000人を割いてハンノに引き継がせ、遠征に向かう兵士たちの荷物を残した。また、同じ数の兵士たちを除隊し故郷に帰している。そうした理由は、兵士たちがハンニバルに好感を抱いて故郷に残るし、他の兵士たちもいずれ故郷に帰れるという希望を抱き続けるだろうという狙いがあった。これらの配慮を行うことで、指導者としてのハンニンバルに対し兵たちが好印象を抱き、有事の際の徴兵をスムーズにするとの判断から行ったことであった。
この同じ数の兵士たちを除隊にして故郷に帰したという記述に関しては、ポリュビウスの記述とは異なるリウィウスの記述も紹介しておこう。
軍がピレネーの山道を進み始めた頃に、軍内にこれから戦う相手がローマ軍だという噂が広がり、およそ3,000人のカルペタニの歩兵が道を引き返してしまった。ローマ軍との戦いに怖気づいたというより、道のりの遠さとアルプス越えの難事に不安を抱いたとされる。ハンニバルは、この引き返した兵士たちを行軍中に呼び戻したり、力ずくで引き止めたりすることは残る者たちの気持ちを刺激し非常に危険であると考えた。そこで軍務に嫌気を感じているような7,000人をさらに選んで、カルペタニにもそうしたのだからという理由付けをして故郷へ帰したとある。このリウィウスの記述からすると、行軍兵士たちは既にこの時点でハンニバルの秘策アルプス越えを知っていたことになる。
いずれにしろ、ハンニバルは荷物を残し身軽になった軍、歩兵50,000人と騎兵およそ9,000人を率い、ピレネー山脈を越え、ロダヌス川の渡河地点を目指した。
それでは、ハンニバルはどの時点でアルプス越えの秘策を、側近や兵士たちに伝えたのだろうか。そして、特に秘匿すべきローマは、どの時点でそのことに気づきどのような手を打ったのであろうか。そのことについて触れて行きたい。
カルタゴ軍が新カルタゴを出発したのは、紀元前218年5月であった。その後ローマとの協定線エブロ川を渡り、ピレネー山脈にいたる幾つかの部族を平定し、ピレネーの山道を進むところで、10,000人の兵を帰郷させ山脈を越え、ロダヌス川の渡河地点を目指すところまで書いてきた。しかし、行軍の兵士たちはピレネーの山道を進み始めた頃には。彼らは既に戦う相手がローマだということと、アルプスを越えることを噂で気づいていたというのだ。ということは、少なくともピレネーの山道にいたる前で、そのことが判っていたということになる。おそらく、カルタゴ軍がエブロ川を渡る前後には、ハンニバルは側近の将官たちに、これからの行軍はアルプスを越えてイタリアに侵入することを話したと思われる。それが行軍の兵士たちに漏れ伝えられたことは推測できる。そして、ローマ軍はどのようにしてその情報をつかんだのかについて調べてみることにしよう。
先ずローマは、ハンニバル軍がエブロ川を渡ったことを、エブロ川以北のローマの同盟都市のどこか(おそらくマルセイユなどの同盟都市)を通じて知らされた。知らせを受けたローマは、当初このハンニンバルの軍事行動は、スペイン内における全土掌握のためだろうと考えたようだ。また、もしハンニバルとの軍事対決があるとすれば、カルタゴ本国と合わせて考えた時、シチリアとスペインの2カ所になるであろうと判断した。
この第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)当時、共和制ローマにおいて軍はコミティウム(市民兵制)に基づき編成されていた。この制度は自分の財産において軍務に就き、その装備も自身で準備する必要があった。その軍を率いるのが、共和制ローマの最高指導者である執政官(コンスル)である。執政官は市民集会で、有権者による選挙によって通常2人が選ばれ、それぞれ1年の任期で軍を率いることになっていた。その候補者となるのは、主に元老院議員や元貴族などで、ローマ社会における政治的影響力や社会的地位が高い人物であり、彼らは軍事的実績や外交的成功などをアピールするなど、選挙運動を通じて多くの支持を獲得した者が選ばれた。彼らの職務は、戦時には一人の執政官が軍を率い、もう一人が国内の行政を担当した。この執政官の指揮下には、それに次ぐ高位の官職であるプラエトル(Praetor)がいて、司法軍事を担当していた。このプラエトルも戦時には軍を指揮し、平時には司法業務を担当した。さらにローマの兵士たちには、通常から厳しい訓練が行われ、その中で戦術的な動き、武器の使用、陣形を組んだ隊列の維持、野営地の設営などの高い機動力と戦闘力を身に付けていた。
この第二次ポエニ戦争の開戦に備えて、ローマでも戦争の準備が開始されたことが、リウィウスの書に記載がある。それによれば、通常のローマ軍は、毎年4個軍団が編成されることになっていたが、この年はスペインからの急報を受けカルタゴとの有事とみて、6個軍団が編成されることになった。ローマの1軍団はレギオー(Legion)と呼ばれる約4,200人から約5,000人の歩兵と騎兵とで構成されていた。そこにはさらに、同盟諸国の軍も状況に応じた兵力が召集される。今回の兵力の総数は、24,000人のローマ人歩兵と、1,800人の騎兵、同盟諸国の40,000人の歩兵と4,400人の騎兵が加わった。さらに220隻の5段階船と20隻の快走船も編成に加わった。
今回第二次ポエニ戦争の開戦当初のローマ軍は、スペインには執政官ププリウス・コルネリウス(以下「プブリウス」と書く)が、シチリアとアフリカにはもう一人の執政官ティベリウス・センプロニウス(以下「ティベリウス」と書く)がまるでくじ引きをするかのように選ばれたとある。
シチリアとアフリカを担当するティベリウスに与えられた兵力は、2個軍団8,000人の歩兵と、600人の騎兵、同盟諸国の16,000人の歩兵と1,800人の騎兵が加わった。さらにシチリアとアフリカが戦場と見なすことから160隻の5段階船と12隻の快走船が編成に加わった。ティベリウスは、これら陸海の軍勢を率いてシチリアへ向かった。一方スペイン方面を担当するププリウスが率いた兵力は、5段櫂船60隻、ローマの2個軍団と騎兵(兵数の記載はない)、同盟諸国の14,000人の歩兵と1,600人の騎兵が与えられた。またカルタゴ人との戦争に備え、ガリアにローマ人の2個軍団と同盟諸国の1,000人の騎兵とローマ人の600人の騎兵が配置されたとある。こうしてローマが二人の執政官とその軍団を送り出してから、ハンニバルがピレネーを越えたという知らせが届いた。
一方で、ハンニバル軍は急いでピレネー山脈を越えて、イリベレス(ピレネー山脈東麓の地中海沿岸にある現在の南仏エルヌ)の付近に陣を置いた。ハンニバルの布陣を知った幾つかの種族たちが、隷属を求められるのではないかと武器を取り、イリベレス近くのルスキノに終結を始めたのである。ハンニバルはすぐその族長たちのもとに使者を送り、自分が敵ではなくそちらが手出しをしない限り我々が剣を抜くことはないと伝言させた。すると彼らはその伝言を受け入れ、ハンニバルの陣営にやって来たのである。ハンニバルは彼らを贈り物で籠絡し、その領地を難なく進むことが許された。
さて、スペインでの軍務を担当するプブリウスは、60隻の軍船と共にローマを出発し、エルトリアの沿岸に沿ってマッサリア(現在のマルセイユ、以下「マルセイユ」と書く)に到着した。そしてロダヌス川(ローヌ川のラテン名、以後「ローヌ川」と書く)の最も手前の河口付近に陣を敷いた。彼はこの時、ようやくハンニバルがすでにピレネーを越えて、現在その行方が不明であることを知った。そこでプブリウスは、カルタゴ軍の状況調査のために選りすぐりの騎兵300人を選び、マルセイユ人の案内人やガリア人の補助軍をつけて斥候として派遣した。
さて、ハンニバルは鞭と飴をつかうことで、諸部族を鎮めながらロダヌス川の両岸付近に居住するウォルカエ(ピレネー山脈北麓からローヌ川一帯に住むガリア人種族)の土地まで達した。彼らはカルタゴ軍を避けるために、川を防御壁とし所有物を移すとともに武装して対岸を占拠した。しかし、こちら側の住居に執着し残った一部の住民や他の流域の住人を籠絡し、船を集めさせたり作らせたりした結果、不格好な手造りの丸木舟なども含めて渡河に必要な船の準備が整った。ポリュビオスの書では、材料を手に入れた兵士たちは丸木舟の制作を2日間で終えたとある。しかし渡河するには、対岸を占拠するウォルカエ族や他部族の騎兵や歩兵が脅威であり、ハンニバルはその対策として、行政長官ボミルカルの息子ハンノに一部の軍勢を率いさせ、第一夜警時(日没から2~4時間程度の時間)に、上流に1日程度進んで渡河出来る中州を見つけ対岸に渡るように指示した。彼らは筏を組んで何の妨害もうけることなく無事対岸に渡り終えた。
5日目の夜が来て、上流からすでに渡り終えたハンノ軍は、夜が明ける直前にカルタゴ軍が渡河するのを妨害しようとしている、対岸の武装した諸部族軍の背後に先回りし待機した。そのハンノ軍からの指図した煙の合図を確認したハンニバルが、全軍の乗船命令を発し、船上の兵士たちが声を張り上げ、水勢との戦いに力を絞りながら互いに力を競い合った。それを見た諸部族の兵たちは声を上げて敵を挑発した。この諸部族が陣屋を出払うのを見定めて、渡河を阻止しようとしている所へハンノ軍が襲いかかった。それと同時にハンニバルは最初に渡河した兵士たちに、隊列を組ませ諸部族との戦闘に突入させた。カルタゴ軍の勢いに驚いた諸部族の兵たちは、たちまち総崩れとなって逃げ去ってしまった。カルタゴ軍は両岸を制圧し、対岸に残された兵士の渡河を完了すべく全力を注いだ。そして全軍が渡河を終えると、その夜は川べりに陣を置いた。
翌朝になり、ローマの艦隊がローヌ河口近くに停泊中であるという報告を受けたハンニバルは、ヌミディア人騎兵500人を選び偵察に出し、ローマ軍の規模やその場所、そして何を目的としているかを探るように命じた。
さらに、カルタゴ陣営にはマルギスを始めとする首領たちが、パドゥス川(ポー川のラテン名、以後「ポー川」と書く)領域から来ていたのを陣に招き入れ、通訳を介して兵士たちの前で語らせた。その話の内容が、兵士たちに大いに勇気を奮い立たせるものであった。彼らはカルタゴ軍の到来を待ち望んでいた。そしてローマとの戦争に協力を申し入れてきたのである。また兵糧の調達も問題がないことを申し出てくれた。その上に安全にイタリアへたどり着ける道案内も引き受けると申し出てくれたのである。しかもその内容は十分に信頼できる約束として聞かされた。他にもこれから目指す土地の豊饒さや広大さ、さらに彼らは共同してローマ軍に立ち向かう士気の高さを持っていることも伝えて陣を立ち去って行った。
そこでハンニバルは兵士たちの前に進み出て、カルタゴ軍がここまでに成し遂げた偉業について語った内容をポリュビオスの書から引用する。
「諸君はこれまで数多くの難事に挑み熾烈な戦闘に遭遇しながらも、ハンニバルの作戦と助言に従った結果、かつて一度も敗れたためしはないのだと語りかけたのである。そしてそれに続いて、川越えを無事完了し、そのうえ同盟者たちの友誼と熱意を諸君自身の目で確かめた今では、最大の困難はすでに乗り越えたものと考えてよい。もはや恐れるものはないのだと励ました。だから取るべき具体的な行動については安心してハンニバルにまかせ、諸君は命令に従って、これまでの偉業に恥じないような勇敢な戦士であってほしいと訴えた。兵士たちがそれに賛同を示し、遠征への並々ならぬ意気込みを表したので、ハンニバルは兵士たちをほめ、神々に万事の幸運を祈願したのち、明日出発するから身支度を整え準備を急ぐようにと指示を与えてから解散させた。」著者:ポリュビオス、訳:城江良和
集会が解散して、ハンニバルのもとに斥候に出していた騎兵が帰って来た。しかしその大部分は戦闘で討ち取られ、生き残ったのもたちも傷を負いようやく生還したような有様であった。報告によって、彼らがこのカルタゴ陣営にそう遠くない場所で、プブリウスがローヌ川河口から送り出した斥候であるローマの騎兵に遭遇し、激しい戦闘状態に入りローマとケルトの騎兵およそ140名、ヌミディア騎兵およそ200名が死亡したことが判明した。
この戦いが終息した後、ローマ騎兵は引き上げるヌミディア騎兵のあとを追尾し、カルタゴ軍の陣営を偵察した後、ローヌ川河口に布陣するローマの司令官のもとに帰還し報告した。この報告を受けて、プブリウスは軍を整え全艦隊の出航を命じて川を遡らせた。
一方ハンニバルは集会の翌日、夜明けとともに率いる騎兵のすべてをローマ軍に備え川下に向けて配置し、警備体制を整えてからカルタゴ軍の進軍を開始させた。彼自身は未だ対岸に残された戦象とその従者たちの渡河を待ち受けた。リウィウスの書は、この象の渡河作業の間にハンニバルがヌミディア騎兵を斥候に出し、ローマの斥候と接触し戦闘があったと記しており、少し時間のずれがある。いずれにしろこの斥候同士の戦闘で、カルタゴ軍の所在がローマに知れたことに変わりはない。
さて、その戦象の渡河方法には幾つかの説がある。ポリュビオスは筏で渡河させたことを記している。多くの筏を作りその上には、土を盛り数頭の象を乗せ小舟で曳航して、向こう岸に渡すという方法が取られたようだ。中には水に対する恐怖から筏の上で暴れ、川に飛び込む象もいた。しかし象は長い鼻を生かし陸に上がることが出来たが馭者はおぼれ死んだとある。象を渡し終えて、ハンニバルは象と騎兵を行軍の最後尾に配置し、ローマが布陣しているローヌ河口とは逆の、ヨーロッパの中心部に向けて軍を進めた。ハンニバルは行軍を急がせる必要があった。イタリアに着くまでローマ軍との接触は避け、戦うつもりはなかったからである。
さらにポリュビオスとリウィウスの書によって、ローマとカルタゴの進軍の状況を書いて行こう。
プブリウスが、ローヌ河口から渡河地点に着いたのは、カルタゴ軍が進軍を開始してから3日後であった。プブリウスはカルタゴ軍がすでに立ち去ったことに大きな衝撃を受けるとともに、再び全軍を乗船させてイタリアへの帰途に着いた。プブリウスはカルタゴ軍が、イタリアへの進軍路としこの道を選択することはないと信じ切っていた。ここに到って、ハンニバルがそのあり得ない選択をし、アルプを越えて北イタリアに向かったことを確信したからである。この時点でプブリウスには二つの選択肢があった。急ぎカルタゴ軍を追尾して戦うか、ハンニバルのいないスペインを急襲して制圧するかであった。しかし敵は3日も前に進軍しており、はるか前を行くカルタゴ軍に追いつくことは困難であると判断した。そこで、兄グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス(以下「グナエウス」と書く)をイベリア方面の軍事行動のために送り出し、ハンニバルがスペインの後事を託したハスドルバルとの戦いに全力を尽くすよう指示した。
そしてプブリウス自身は、ハンニバルのアルプス越えを元老院に急報するとともに、少数の兵を引き連れ急ぎイタリアへ引き返すことを選択した。彼は海に戻り船に乗ってピサエ(現在のピサ)に向かった。そこには、プブリウスからハンニバルがアルプスを越えイタリアに侵入する知らせを受けた元老院の指示で、法務官が率いるボイイ族との戦闘にあたっていた軍団が待っていた。彼はその軍を率い、ポー川流域にある平野に布陣した。そこでアルプスを越えてくるハンニバルを臨戦態勢で待ち受けたのである。
ここで、ハンニバルがピレネー山脈を越えた後の兵力を確認しておこう。ピレネー山脈を越えた時点での兵力数は歩兵50,000人、騎兵9,000人であった。ローヌ渡河の時点で歩兵38,000人、騎兵8,000人であった。このローヌ川の渡河でハンニバルは13,000の兵力を失ったことになる。この後さらに、カルタゴ軍にはアルプス山脈を越えるという試練が待ち受けているのである。そのカルタゴ軍を待ち構えているのは、当時世界最大の戦力保持国である、ローマの軍隊だった。
ハンニバルがこの戦争で相手にするローマ軍の軍事力は如何ほどのものであったのか、ポリュビオスはその詳細を書き留めているので紹介する。
「ところで後にハンニバルがどれほど大きな軍事力に戦いを挑んだか、そしてどれほど大きな勢力と真正面からぶつかり合って、ローマ人を未曾有の危機に陥れ、あと一歩で目的を達せんとするところまで追い詰めたのか、それを事実そのものよって明確にするためにも、このときのローマの兵力の規模と配置をここで述べておくべきであろう。まず二人の執政官とともに、ローマ市民から成る四個の軍団が出陣していて、各軍団は歩兵5,200人、騎兵300人で構成されていた。同盟市からは両執政官のもとに、合わせて歩兵三万人、騎兵2,000人が従軍した。さらにこの機会にローマ救援に駆けつけたサビニ人とエトルリア人は、騎兵4,000人にのぼり、歩兵が5万人を超えていた。これらの援軍はまとめてエトルリア方面の前線に配置され、法務官一名がその指揮官に任じられた。ほかにアペンニヌス山中に住むウンブリア人とサルシナ人が二万人集まり、これにウェネティ人とケノマニ人の二万が合流した。これらの兵士はガリアとの境界付近に配置され、ボイイ人の領土に侵攻して、彼らを故国に引きつけておく役割を与えられた。領土防衛の前線に送られた軍勢は以上である。一方ローマ本国には、戦況の変化に対応するための予備の軍隊として、ローマ人の歩兵二万人、騎兵1,500人、同盟市民の歩兵30,000人、騎兵2,000人が待機していた。申告された兵役適格者は、ラテン人が歩兵80000人、騎兵5,000人、サムニテス人が歩兵70000人、騎兵7,000人、イアビュギア人とメッサビア人が合わせて歩兵五万人、騎兵16,000人、ルカニア人が歩兵30,000人、騎兵3,000人、そしてマルシ人、マルキニ人、フレンタニ人、ウェスティニ人が合計で歩兵20,000人、騎兵4,000人であった。それに加えてシキリア島とタレントゥムには二個軍団が駐屯していて、どちらの軍団も歩兵約4,200人、騎兵200人で構成されていた。ローマ人とカンパニア人で兵役名簿に登録されていたのは、双方合わせて歩兵が約250,000人、騎兵が23,000人であった。したがってローマの前人員の総計は、ローマ人と同盟市民を合わせて、歩兵が700,000人以上、騎兵が約70,000人であった。これだけの兵力に対して、ハンニバルは20,000人足らずの軍勢でイタリアに侵攻したのである。」『歴史1』著者:ポリュビオス、訳:城江良和
この戦力比にもかかわらず、絶対的劣勢のカルタゴ軍を率いるハンニバルの戦術が、その後ローマ軍を一時的に壊滅状態にまで追い込み震撼させることを、この時点で敵も味方も誰もが想像もしていなかった。
(第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越えに続く)
カルタゴ滅亡後、現在チュニジ共和国が存する。/グラン・モスク/チュニス/チュニジア
出典: | 「Wikipedia」 |
「Wikiwand」 | |
「Hitopedia」 | |
「Historia」 | |
「AZ History」 | |
「Weblio辞書」 | |
「世界史の窓」HP | |
「やさしい世界史」HP | |
「世界図書室」HP | |
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生 | |
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和 | |
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井萌 | |
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆 | |
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義 | |
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫 | |
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子 | |
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二 | |
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭 | |
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】 | |
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会 | |
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】 | |
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館 | |
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ | |
「筆者撮影画像」 |