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『ハンニバル・バルカ / 第3章 第2次ポエニ戦争 第2節 アルプス越え 』


 カルタゴ軍の兵士たちは、これから始まるアルプス越えという果てしない行軍に、経験のないおぞましい企てだと恐れをなしていた。その兵士たちに向かい、ハンニバルは激を飛ばした。リウィウスの書から引用する。
「ハンニバルの激励
 そこで、あくまで前進しイタリアを目指そうと決意していたハンニバルは兵士たちを集めると、叱ったり励ましたりあの手この手で説きつけた。
 『常日頃恐れを知らぬ心に入り込んだこの恐怖は一体何なのか。諸君は長年にわたり勝ちいくさを挙げてきた。諸君がヒスパニアを発ったときにはすでに、二つの大洋に挟まれたすべての土地と種族がカルタゴの支配下にあった。その後ローマ国民がサグントゥムの攻囲にかかわった者たちをみな、まるで犯罪者のごとく引き渡せと要求すると、諸君は怒りに燃え、ローマの名を抹殺し世界を開放するべくヒベルス川を渡った。その頃は、沈む日から昇る日までの道のりを行くというのに、誰一人これを長いとは思わなかった。ところが工程の大半を踏破したと感じている今になってどうしたことか、諸君は野蛮きわまりない種族のただ中を抜け、ピュレネの隘路を越えてきた。ロダヌスという広大な川を、大勢のガリア人兵士の妨害にもかかわらず、また激しい川の流れもものともせず渡った。そしてアルプス(その反対斜面はイタリアに属してる)を目にした今になって疲れ果て、敵の門の中で立ち止まってしまったのだ。諸君にとってアルプスは高い山以外の何だというのか?ピュレネの峰々と比べ、それはより峻険に思えるかもしれない。だが疑いなく地上のどこにも天まで達するような場所はないし、人類が越えられないようなところなどない。事実アルプスには人が暮らし、耕作をし、命が生まれ、養われている。そこは少人数の者には通行可能だし、軍隊にとってもやはり同様である。諸君が目の前にしているこの使節も、翼で空高く舞い上がりアルプスを越えてきたわけではない。彼らの祖先はかの地の在来の住人ではなく、イタリアへ外来者として移り住んだのだった。この者たちは(移民がそうするように)子や妻を連れ、しばしば大人数の集団でもって、まさにこのアルプスを無事に越えたのである。戦いの装備以外何も携えるもののない武装兵にとって、通行できない、越えられない場所などあるだろうか?サグントゥムを攻め落とすため、諸君は八ヶ月のあいだどれほどの危険と苦難に耐えたことか。今や目指すは世界の首都ローマである。はたしてこの雄図をためらわせるほど辛く困難なことなどあるだろうか?かつてガリア人はこれを勝ち取った。しかるにカルタゴ人はこれに近づくことさえあきらめている。よって諸君が取るべき道は、次のどちらかである。すなわち、ここ最近何度も勝利を収めてきた種族より、胆力と勇気の点で自分たちの方が劣ることを認めるか、それともティベリウス川とローマの市壁の間にある野原で行軍を終えることを希望するか』。」著者:リウィウス、訳:安井萌
 さて遅すぎるきらいはあるが、ここで紹介しなければならないカルタゴ側の歴史記録者がいる。ハンニバルの傍らには、二人の歴史記録者がいたことが、コルネリウス・ネポスの『英雄伝』・「ハンニバル」の項に次のように記載がある。「ハンニバル自身の戦争の業績については、数多くの歴史家がその記録を残している。これらの歴史家の中には、ハンニバルと行軍をともにし、運命が許すかぎり長い年月にわたって苦楽をともにした二人の歴史家、シレノスとラケダイモン人でギリシア語の教師として雇われたソシュロスがいる。」『英雄伝』著者:コルネリウス・ネポス、訳:山下太郎・上村健二
 2人がハンニバルの側近として果たした役割は、シレノスは彼の軍事顧問として、戦略や戦術の助言者の役割を果たし、ソシロスは同じく彼の秘書のような役割で、命令や指示を伝達・記録する役割を果たしていたとされる。
 そしてポリュビオスやリウィウスは、ソシロスとシレノスたちの記録書や文献を参考に作品を書いている。現代人はソシロスとシレノスたちの文献を直接読むことは出来ないが、彼らの時代に生き、あるいは文献が存在する時代を生きた歴史家や作家が残したものを通じて、間接的に情報を知ることができる。ポリュビオスとリウィウスも歴史家として、現代には存在しない情報を伝える大きな役割を果たしているのである。特にポリュビオスは、紀元前204年頃に生まれており、ハンニバル(紀元前247年~紀元前183年又は182年)とは、およそ21~22年間も同時代を生きており、ハンニバルの自決情報や第二次ポエニ戦争の関係者にも直接会う機会もあったであろう。しかも彼は、第3次マケドニア戦争で敗北したアカイア同盟の指導者としてローマの捕虜となったという従軍経験がある。さらに第三次ポエニ戦争では、紀元前149年から紀元前146年までローマの将軍スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオン)の友人・顧問としてカルタゴの包囲戦にも従軍し、実際の戦闘やカルタゴの滅亡を目撃した人物の1人なのである。まさにこの時代の歴史記録者としてこれほどうってつけの人物はいないほどだ。
 引き続き、ポリュビオスとリウィウスの書を参考に話を進めて行こう。
 ハンニバルは兵士を激励し力づけた後、翌日にはローヌ川に沿ってガリアの内陸部に向け行軍を開始した。海から遠く離れることが、ローヌ河口にいるローマ軍と出会い、戦闘になる可能性が低くなると判断したからである。アルプスを越え、イタリア本土の決戦まではできる限り兵力の損耗を避ける必要があった。
 行軍4日目には、平野のただ中にある「島」と呼ばれている場所についた。そこはアロブロゲス族(ガリア人種族)の支配域で、この時彼らは内紛状態にあった。2人の兄弟が王位を巡って争っていた。2人はハンニバルに仲裁を頼んで来たのである。ここの記載については、リウィウスとポリュビオスでは、少しニュアンスが異なっている。結論的にはハンニバルは兄を支援し、弟を攻めて追放することにした。王となった兄は、ハンニバルの裁きに感謝し、カルタゴ軍に対して軍需物資や生活物資など、特に山越えに必要な防寒着や履物などの惜しみない援助を行った。さらに、ハンニバルはアルプスの登り口に着くまで、ガリア人のアロブロゲス族の土地を通過することに不安を持っていたが、兄王は自分の兵士をアルプスの入口まで最後尾につけ、遠征軍の安全を確保してくれたのである。
 ここで、ハンニバルのアルプス越えのルートについて少しだけ触れてみたい。このハンニバルのアルプス越えルートに関しては、遡ればローマ時代から十指に余るほどいろいろな説が展開されている。多くの研究者がポリュビオスとリウィウスの記述をもとにして実際に踏破しようとする試みも数多くなされているが、いずれも推定の域を出ず確定されていないのが現状である。ポリュビオスの書から引用すれば、カルタゴ軍はローヌ川とイゼール川の合流点から、イゼール川沿いに10日間かけて約800スタディオン(約142㎞)遡りアルプス登攀を開始したとある。ポリュビオスの書の注記によれば、ローヌ川とイゼール川(イサラス川)の合流点からイゼール川沿いに800スタディオン(約142㎞)遡ると、現在のモンメリアン(グルノーブルの北東約50㎞)付近に達するとある。実際に地図上で確認すると、そこからはイゼ―ル川上流沿いに進みサン・ベルナール峠を越えるか、アルク川沿いに進みクラビエ峠あるいはモン・スニ峠を越えるか、ドラック川沿いに進みモン・ジュネーヴル峠を越えるかのいずれかの登攀ルートが考えられる。この中で、サン・ベルナール峠を越えてトリノへ向かうには一番距離が長いルートになる。
 これらポリュビオスのアルプス越えで推測される1つ、サン・ベルナール峠を越えてイタリアに入るルートは、後世のナポレオン・ボナパルトが実際に登攀しイタリアに入ったルートである。その証として、人口に膾炙した19世紀のフランス新古典主義の代表的画家であるジャック=ルイ・ダヴィッドが、『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』と題しその勇姿を描いた絵がある。補足すると、ジャック=ルイ・ダヴィッドのこの作品は、本人がこの原画とさらにもう1枚描き、複製として弟子たちとの共作で3枚の合計5枚が描かれている。原画はスペイン王となったナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトが、廃位されアメリカに亡命の際に持ち出し、1949年曾孫ウジェニー・ボナパルトによってマルメゾン城美術館に寄贈されている。複製でサン・クルー城にあった絵は、ワーテルローの戦いで勝利したプロイセンのフォン・ブリュッヘル指揮の軍が持ち出し、現在はベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿に展示されている。他に複製された絵は、パリのアンヴァリッド(旧・軍病院)にあったが、1814年ブルボン王政復古から倉庫保管となり、1837年にルイ・フィリップによってヴェルサイユ宮殿に展示されている。同じ複製で1803年に制作された絵はミラノに届けられ、1834年ウィーンのベルヴェデーレ宮殿に納められ宮殿内に展示されている。もう1枚ジャック=ルイ・ダヴィッド自身が描いた絵は、彼が死去するまで手元に残していたが、1850年ダヴィッドの娘ポーリーヌ・ジェニーンからテュルリ―宮へ納められ、さらに1979年ヴェルサイユ宮殿に移された。
 これらの絵の由来は、ナポレオン・ボナパルトが、1799年オーストリアに奪われたフランスの衛星国チザルピーナ共和国奪回のために、1800年春予備軍を率いベルナール峠経由でアルプスを越えオーストリア軍の裏をかいて進軍した時を題材にしている。ナポレオン軍は6月9日、モンテベッロで交戦した後、さらにマレンゴでの戦いで決定的勝利を納めた。この勝利を契機に、スペイン王カルロス4世との和睦により国交樹立がなされ、その贈り物の一つに、この『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』の絵が加えられた。スペイン王カルロス4世からの指示を受けた、フランスのスペイン大使イグナシオ・ムスキスを通じ絵の表現について打診を受けたナポレオンは、熟考した末にアルプス越えの場面を希望したという。さらに彼が希望したかどうかは不明であるが、このアルプス越えに描かれた馬の足元の岩に、3人の英雄の名が刻まれている。ハンニバル、カール大帝、そして勿論ナポレオン・ボナパルトの名である。アルプスを越えた3人の英雄たちという訳だ。ちなみにカール大帝は、8世紀後半イタリアのランゴバルド王国の国王デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、ローマ教皇ハドリアヌス1世から救援を求められた。その時アルプスを越えてランゴバルド王国に攻め込み、首都を制圧しデシデリウスを捕虜にして、自らが国王となることでイタリアに土着し後世のイタリア貴族の起源となった英雄である。ナポレオン・ボナパルトの脳裏には、将軍ハンニバル、カール大帝、さらにもう1人アルプスは越えていないが、アレクサンドロス大王など英雄の名が深く刻まれ、その足跡をたどることで自分も英雄として生きる意志を強く持っていたことが伺える。この強い意志は、さらにアレクサンドロス大王の遠征とも重なって、彼のエジプト遠征においてロゼッタ・ストーンの発見で、ヒエログリフの解読をもたらすきっかけとなりエジプト考古学の発展に大きく寄与している。
 蛇足ではあるが、ナポレオンのアルプス越えの絵として、もう一枚ポール・ドラローシュ(1797年~1856年)が描いた絵がある。こちらはナポレオンコレクターである依頼主アーサー・ジョージの依頼によって現実的な肖像画として描かれている。つまり、小さめな馬にまたがったナポレオンが描かれ、むしろアルプス越えの大変さが顔ににじみ出ていて、現実味を帯びた絵となっている。しかし、依頼主の伯爵はたとえナポレオンが現実的に描かれたとしても、決して彼の業績が傷つけられるわけではないと考えていたようである。
 さてハンニバルの本題から、話が少し逸れたので元に戻そう。
 一方、リウィウスのアルプス越えの記述では、前述の通りカルタゴのヌミディア騎兵とローマの騎兵との遭遇戦で、敗戦に近い痛手を負いその記憶が消えず、さらにこれからアルプスを越えての果てしなく経験したことがない進軍への恐怖などを兵士たちから取り払うために、ハンニバルが激励したことを紹介した。そしてカルタゴ軍はその激励の翌日出発し、行軍4日目に「島」に到着したと書かれている。リウィウスが、この「島」をどの地域に設定しているのかで意見が大きく分かれるのである。彼が書く「アロブロゲスの争いを収めたのち、彼はいよいよアルプスへ向かった。そのさい彼は真っ直ぐの方向に進むのではなく、トリカスティニの領域へ左折した」と書いており、この左折が波紋をおこしているのである。もし「島」がイゼ―ル川とローヌ川に挟まれた地域を指すのであれば、アルプスの方に向かって右折でなければならない。史家の多くの意見は、リウィウスが左折と書いた本来の意味はローヌ川渡河後北に向きを変えたということであり、「島」は位置的にはイゼ―ル川北岸説が最も合理性があり、リウィウスの2種類の文献の参照中に起きた誤りだったと指摘している。それから判断すると、リウィウスのアルプス越え説は、ポリュビウスと同様にイゼ―ル川沿いにグルノーブルまで行軍し、東に向かってその支流ドラック川沿いに進み、モン・ジュネーヴル峠を越えてイタリアに向かったことになる。地図上で見ると、トリノへの最短のルートとなる。
 さて、ここでハンニバルのアルプス越えのルートをめぐり、ローマ時代から現代にいたるまで様々な説が提出されているが確定するものはない。その中でリウィウスの書の補註で紹介している、おもな学説とされているものを紹介しておこう。
 以下「ハンニバル戦争1 ティキヌス河畔へ 補註Gより抜粋」
 1、イゼール川を遡ったのち、プティ・サン・ベルナール峠(標高2,188)を越え、アオスタにいたる。コエリウス・アンティパテルが唱えた説と同じ。
 2、イゼール川から同川の支流アルク川を遡ったのち、モン・スニ(グラン・モン・スニ・標高2,083m、プティ・モン・スニ・標高2,182m)を越え、ドーラ・リバーリャ川沿いに下る。ナポレオンがこれをハンニバル行軍経路と見なしたことで知られる。
 3、同じくアルク川を遡ったのち、クラピエ峠(標高2,482m)もしくはサヴィン・コシュ峠(標高2,520m)を越え、ドーラ・リバーリャ川沿いに下る。
 4、イゼール川から同川の支流ドラック川を遡り、デュランス川上流域に出る。その後、ブリアンソンを経由してモン・ジュネーブル(標高1,850m)を越え、ドーラ・リバーリャ川沿いに下る。」著者:リウィウス、訳:安井萌
 さらにこのアルプス越えルートに関し直近では、2016年4月5日にCNNにおいて、「Hannibal’s route through Alps may have been found」と題して記事が掲載された。
 その記事は、UK・北アイルランド・ベルファストにあるクイーンズ大学の微生物学者クリス・アレンとカナダ・トロント・ヨーク大学のビル・マハニー率いる研究チームが、ハンニバルと彼が率いるカルタゴ軍は、グルノーブル南東のフランスとイタリアの国境にあるトラヴェルセット峠でアルプスを越えたと考えている。その理由として、トラヴェルセット峠エリアで、おそらく馬の糞便と思われる大量の動物の堆積物を発見した。それを炭素同位体分析したところ、糞便の年代を紀元前200年頃と特定した。歴史書にあるその地域の記述も一致している。さらにアレン氏は、ハンニバルがこの危険なルートを選んだわけは、彼がローマ人ではなく、この地域に居住する部族を恐れたためかも知れないと考えている。しかし我々の研究はまだ完了したわけではなく、さらに遺伝子分析を拡大して、泥土に保存された寄生虫の卵を発見することが出来れば、遺伝子情報が増えて他の微生物学研究と比較検討することで、これらの古代の獣の一部について、その発生源や地理的起源についてより正確な特定が可能になる、という内容の記事を掲載したのである。
 クリス・アレンの語る、ハンニバルのアルプス越えの場所を特定するための「我々の研究がまだ完了したわけではない」という意味は、おそらくトラヴェルセット峠の可能性がかなりの確率で高まったが、完全に確定するまでには至っていないということであろう。何故なら、ハンニバル軍が率いていた動物、馬や荷役獣、とくに戦象などの糞便からそれを特定できる微生物などは発見されていないこと。さらに紀元前207年、ハンニバルの弟ハスドルバルがカルタゴのイタリア戦線の支援のためにアルプスを越えており、彼の行軍がハンニバルと同一ルートであったとは限らない可能性もあるからだ。いずれにしろ、今後の微生物研究やその他科学的な探求の成果が、第二次ポエニ戦争以後様々な仮説がたてられ論争を巻き起こしている中、アルプス越えのルートを確定する日が訪れるのもそう遠くないのかも知れない。
 さて、いずれにしろハンニバルはカルタゴ軍を率いてアルプスを越えたのである。そのことを引き続きポリュビオスとリウィウスの書によって書き進めて行こう。
 ハンニバルは、兵士たちを激励し進軍を開始したことはすでに書いた。
 行軍がアルプスの麓まで達した時、「この地の様子はあらかじめ噂で聞かされていた。噂というのは不確かなことを誇張して伝えがちなものである。だが間近で見る山並みの高さ、ほとんど空に溶け込んでいる峰々の雪、崖の上にある不格好な家々、寒さのため干からびたような大小の家畜、その他言葉で伝えられるよりずっと恐ろしげな光景―これらはあらためて恐怖を掻き立てた。」とポリュビオスが書いている。
 兵士たちが最初の崖を登り始める時から、アロブロゲスの首長たちがこれから越えて行かねばならない重要な山道を先回りし、戦いに有利な場所であるそびえ立つ丘に陣取っているのが見えた。もし彼らがこの計略を秘密裏に実行していたら、カルタゴ軍は全滅していたかも知れない。しかし事前にそれを知ったハンニンバルは、丘の下まで行き陣を構え防塞を張りめぐらした。そしてガリア人を敵の中に潜入させることで、彼らはこの山道の拠点を昼間だけ占領し、夜になると近くの城塞に帰ってしまうことがわかった。ハンニバルは敵のこの習慣を利用し、夜になって彼らが城塞に帰り、警備が手薄になったのを見計らい、カルタゴ陣営に見せかけの火を燃やし続けて軍勢の大半はそこに残した。ハンニバルはその間に軽装の兵を引き連れて、闇の中、隘路を通りぬけ敵が昼間陣取る拠点を襲撃し制圧した。朝になって、彼らは自分たちの有利な拠点が奪われたことを知り、計画通りの軍事行動を断念し、今度はゲリラ戦法でカルタゴ軍の行列に襲いかかり、中でも狭く険しい登り坂や断崖で襲われると、馬や荷役獣が多く犠牲になったり奪われたりした。また断崖の行軍は、敵からの攻撃を受けるだけではなく、兵士や動物たちの恐怖心や少しの感情の動揺から、大きな混乱を引き起こす原因にもなった。敵の攻撃で傷を負った馬たちが恐慌状態に陥り暴れ出すと、多くの荷役獣が荷物を負ったまま断崖から滑り落ちて行った。ハンニバルは、物資輸送隊を失うことは、このアルプス越え自体を不可能にするため、昨夜の制圧部隊を引き連れて行列前方の敵の制圧に奮闘した。その戦いで多くの敵を倒しはしたが、その分カルタゴ軍も多くの兵を失った。しかし激しい戦闘の末、やがてアロブロゲス人の大多数に勝利し、その残党も敗走し郷里に逃げ帰ったことから、ハンニバルは、次に彼らの出撃の拠点となった城塞の占領を開始した。兵が出撃すると、城塞はすでに無人となっており、馬や荷役獣そして拉致された兵士たちを取り返すことができた。しかも2日ないしは3日分の食料としての穀物や家畜も手にすることが出来た。この勝利はそれだけではなく、カルタゴ軍の強さに恐怖心を抱いた近辺の部族たちが、もはやハンニバル軍に一切手出しをするものはいなくなったことだった。軍は彼らの城塞を宿営地にして1日逗留し再び行軍を開始した。
 その後しばらくは平穏に行軍を続けたが、4日目になって再び枝と草冠を身に着けた近隣の住民がハンニバルに面会を求めてやって来た。この枝と草冠を身に着ける仕草はこの地方の部族に共通する友好の象徴であった。彼らがそこで言うには、自分たちはカルタゴ軍に危害を加えることも加えられることも無いように、人質を提供して恭順の意を示し、またこれから先の行軍の案内役も引き受ける旨を申し出たのである。ハンニバルは注意深く彼らの真意を見極めるべく考えた結果その申し出を受けることにした。この申し入れを受ければ攻撃をしてこないだろうし、逆に断れば戦闘に発展する可能性がある。そこでとりあえずここは彼らの申し入れを受けて友好策を取ること決めた。実際その後で、彼らは人質を差し出し家畜も提供し、行軍の先頭に立って道案内を始めた。そして二日目になって、カルタゴ軍が険しい崖にはさまれた隘路に差し掛かった時、部族が集合して行軍の背後から襲いかかって来たのだ。つまり、彼らはハンニバルに恭順を示すことで先頭に立って道案内し、この険しい崖にはさまれた隘路にカルタゴ軍を誘い込み挟み撃ちして襲うのが目的だったのである。
 もっとも、ハンニバルは彼らの恭順の意に、彼独特の鋭い嗅覚によって少し疑念を抱いたことから、用心のために物資の輸送隊と騎兵隊を行軍の先頭におき、重装歩兵を後尾に配置しておいた。この重装歩兵を最後尾においたことで、カルタゴ軍が敵部族からの急襲を防ぎ護衛軍の役割を果たしたのである。そのために被害を最小限に留めることができた。敵部族たちは谷の高い場所から、岩を転がしたり石を投げたりしてカルタゴ軍を混乱に陥れたために行軍の隊列は分断され、ハンニバルは半数の兵を引き連れて安全な場所まで来て野営をせざるを得なかった。そして一晩中かけて、残りの兵たちや馬や荷役獣たちが渓谷を通り抜けて来るのを待ち受けたのである。
 翌日になって、敵はこの渓谷を去ったのか見当たらず、馬や荷役獣を待ち受け合流すると、この山道の最も高い峠を目指し行軍を再開した。しかし、敵部族は依然として襲撃に適した場所を選び、行軍から遅れる兵たちや、隙があれば隊列の前や後ろに散発的に襲撃をしてきた。そのたびに彼らは輸送物資の一部を奪い去って行った。こうした襲撃や、細く急な坂道を象や馬や荷役獣などの動物を率いて行くには、進軍にかなりの時間を要したのである。しかし、一方で敵部族の襲撃時には、戦象が大いに活躍をしたのである。彼らは、その異様に大きな見たことも無い象の姿に恐れをなし逃げ去った。
 9日目に軍はようやくこの坂道を上りきった。ハンニバルはそこを野営地に決め、軍に2日間休憩を取らせた。この行軍では、引き続き隊列から遅れた兵士たちもおり、それを待ち受ける意味もあった。しかしこのとき、怯えて逃げ出した馬や、積み荷を放り出して行方不明だった荷役獣までもが、軍の足跡をたどり野営地に着いたことは思いがけないことだったとポリュビオスは書いている。
 峠に達した時点で、プレアデス星団の沈む季節(冬が近づいた表現)が近づき、山々の頂きには雪が積もっていた。兵士たちはこの場所に辿り着くまでの苦労と、なおこの先も続くと思われる苦労を考え意気消沈しているのがわかった。
 ハンニバルはそのような兵士たちに対して、峠から見えるイタリアの光景を示し激励したのである。彼は軍勢に向けて、アルプスの山々の麓に広がるパドゥス川流域の平野を指し示し、「諸君は今やイタリアはおろか、都市ローマの壁を乗り越えようとしている。残る道のりは平坦か、下りとなろう。一度かせいぜいさらにもう一度戦えば、諸君はイタリアの砦にして首都を手中にするだろう」と激を飛ばしたとリウィウスが書いている。
 その激によってハンニバルは兵士たちの士気を幾分か回復させて進軍を開始することにした。翌朝、再び軍は山下りを開始した。敵部族は、散発的に略奪行為を仕掛けてはきたが、さしたる行軍の妨げにはならなかった。下り道は狭く勾配が急である上に積雪で足元が見えなくなっていた。もし足を滑らせれば間違いなく断崖から転落した。そうして苦労しながら切り抜けてやって来たにかかわらず、次は道が極めて狭くさらに崖崩れのために、象はもちろんの荷役獣も通行不可能な場所に出た。兵士たちは再び落胆し絶望した。軍司令官はその打開策を考えたが、降り積もった雪のために断念せざるを得なかった。というのは、前年までに降り積もった雪の上に、今年の雪が降り積もりその雪は柔らかく除雪するのに苦労はしなかった。しかし前年の雪は人が足を置くと滑ってしまうほど固まっており、下層の雪の除雪は不可能で、一度その上に倒れようものなら傾斜が急なために遠くまで滑って行った。逆に荷役獣などは転倒し起き上がるとき、その重さのために一旦下層の雪に脚をめり込ませると、今度は凍りついたようにその場から動けなくなった。
 ハンニバルはこのような状況から迂回を諦めて、尾根の近くの除雪を行い野営することを決めた。そして兵士を動員し、崖に道を掘削するという大変な作業を行うことにした。兵士たちは苦労の末に、ようやく馬や荷役獣が通れるほどの道を一日かけて造り上げた。次に動物たちを崖の向こう側に通らせて、雪のない場所を選び野営地を定め、草を食べさせるために野に放った。さらに続けて兵たちは、3日間をかけてようやく道を広げることで象を通すことに成功した。この崖路を通過するまで留め置かれた象たちは、その場所には積雪のために草や樹木が一切生えていないため寒さと飢えの極みに達していたのだ。しかし漸くこの崖路を通過し、山の中腹にいたってその腹を満たすことが出来たのだった。
 ハンニバルは全軍を率いて山下りを再開した。そして難所だった崖を通り過ぎてから3日目にようやく平野にたどり着いた。このアルプス越えの進軍では、長い行程の間に、敵との戦闘で戦死した者、渡河中の災難で亡くなった者、アルプスの断崖や難路の通過中に命を落とした者と、その犠牲者の数は膨大にのぼった。そして、馬や荷役獣も同様であった。
 新カルタゴを5月に出発し全行程で5カ月間を要し、雪の時期を迎えていたアルプスを越えるのにも15日間を要したのである。そして今、長い行軍の末多くの犠牲者を出しながら、ハンニンバルが父との約束である、心の奥に秘めてきたイタリア本土に足を踏み入れ、インプレス族が居住するポー川(ラテン名:パドゥス川)流域の平野に降りてきたのである。
 ここまでたどり着いた兵数は、リュビア歩兵12,000人、イベリア歩兵8,000人、騎兵の総数は6,000人足らずであった。この数字の根拠は前述した通り、ハンニバル自身がラキニウム岬の碑銘に書き残した軍勢の一覧表に明記されているとポリュビオスは書いている。ということは、ピレネー越え時点の兵数は歩兵50,000人、騎兵9,000人の総数59,000人、ローヌ川渡河時点の兵数は歩兵38,000人、騎兵が8,000人の総数46,000人だった。
 ハンニバルのアルプス越えの戦術は、およそ2,200年後の人類でも驚嘆する発想であり、前人未到の偉業でもあった。何故なら当時のローマの防衛線は鉄壁であり、ローマ人も間違いなくそう信じて疑わなかったはずだ。そのローマの鉄壁の防衛線である北側のアルプスという自然の強固な防衛線を、若干29歳の青年司令官が発想し突破したのである。
 そして、我々はその結果は知っているが、決して偉業を達成するための困難とそれを克服することでしかなし得ない偉業であることの本当の意味を理解しているとはいえない。ハンニバルが達成した偉業の裏側には、ローヌ渡河で13,000人、アルプス越えで20,000人、総数33,000人という犠牲を払うことでしか成しえなかった、死の行軍でもあったことを理解する必要があるだろう。戦争に死はつきものである。たとえそれが偉業で英雄とたたえられたとしても、人命を奪うことで成しえた偉業であればあるほど、理論的には人類としての歴史に汚点を残したことに他ならない。
 ここでハンニバルという軍事的な天才でありカルタゴの英雄でもある彼の功罪について考えてみようと思う。その功の一つに、彼の強力なリーダーシップがあるだろう。これまで書いてきた中に、軍勢を率い動かすための演説や問題解決のための決断力や行動力がある。そしてローマからの宣戦布告を引き出すためのサグントゥム占領、さらにこれから書くことになる戦闘においての戦術の展開など卓越した軍事的才能などがある。
 罪を上げるとすれば、このアルプス越えやこれから書かねばならないローマとの戦闘によって多くの犠牲者を出したことである。ハンニバルが立てた戦略や戦術が最終的にはローマに敗北しカルタゴを滅亡に導いた。ハンニバル戦争の敗因は、ローマが直接対決を避けた持久戦に移行し、カルタゴ軍の補給路を断つ作戦が成功した。そしてさらに大きな要因として、ハンニバルに対しカルタゴ政府からの増援や補給物資が不足したことや、彼の成功を妬む者たちの策謀や内部対立などによって戦略が大きく妨げられたことである。
 過去の英雄と呼ばれる人たちの偉業達成の陰には、多くの人命を奪うという隠れた犠牲が払われていることが殆どである。英雄が通りすぎた偉業の道には、その通りすぎた後ろに犠牲という血の川が流れるのである。もちろん英雄の功罪を判断するには、その時代背景や行動の理由についての詳細な分析が必要となるであろう。さらに彼らが犠牲の上にもたらした成果の長期的な影響力について考える必要もあるに違いない。
 英雄と呼ばれる者は多くがその時代の流れの中で、必要性を原点に生まれていて、持ち前のリーダーシップを発揮して他人を鼓舞し、戦闘において集団や軍を率いるなどして勝利に導く存在となる。また社会への影響力が強く彼の存在自体が人々の行動規範となって、道徳的な指針を提供し国や民族を率いる存在となるのである。しかしその行動から多くの犠牲を伴うことがあり、戦争はその最たるものである。英雄はその多くが権力を持つがゆえに、独裁者として自己のために権力を乱用する例も歴史的に確認される。しかも彼らは歴史的に自己の業績を極端に美化することで歴史を歪曲したりする行動を取ることもある。
 だから私たちは、人類の過去の歴史の中に燦然と輝く英雄たちに対して、その偉業をたたえるだけではなく、彼が生きた時代背景や、残した業績の本当の価値やその影響などを深く考察し、ただ単に憧れるのではなく、英雄を生み出すため犠牲となった人々の命を無駄にしないための規範にすべきだと考える。
 しかも21世紀の現在、人類は核爆弾という地球破壊規模の兵器を有するにいたった。ボタン一つで人類を滅亡に導く神への冒涜行為を、国の威信をかけるという名目のもとに大量殺戮が可能になった。そのことを理解した上で歴史に対峙し、争いは国という単位で臨むことではなく、世界単位で判断し人類の平和に寄与することが必要だと考える。それこそが我々が歴史から学ぶという真の姿勢ではなかろうか。ここにハンニバルという戦争の傑物を書くことで、私自身が、そして読者が、人類の平和の真の意味を考えるための機会としたかった。地球は国家や権力者や強者のものではない。生あるものすべてが公平に共有する神が与えた棲みかと知るべきである。
 さて、ハンニバルは針の穴に糸を通すような作戦を、多くの犠牲者を出しながら成功させ、アルプスを越え、悲願である北イタリアの舞台に降り立ったのである。このアルプス越えの行軍で、最も苦労した戦象の移動は、ローヌ渡河の後30頭位いたとされたが、イタリアに到着後は、大陽暦で紀元前218年12月22日に行われたトレビア川の戦いにおいて3頭の戦象が配置されており、少なくともアルプスを越えた象が3頭いたことになる。
 かたやローマは、マルセイユから取って返した執政官プブリウスが、ピサからエルトリア地方を通過し、ボイイ族との戦闘を指揮していた法務官たちから軍団を引き継ぎ、ポー川流域平野に到着した。彼はそこに陣営を置き、臨戦態勢でハンニバル軍を待ち受けていた。
 (ハンニバル・バルカ/第4章 第2次ポエニ戦争 第1節 戦闘開始に続く)
カルタゴ軍港跡遠望/ピュルサの丘/チュニス/チュニジア
ピュルサの丘カルタゴ遺跡(遠くに軍港跡が見える)/チュニス/チュニジア
ピュルサの丘カルタゴ遺跡/チュニス/チュニジア
出典:「Wikipedia」
「Wikiwand」
「Hitopedia」
「Historia」
「AZ History」
「Weblio辞書」
「世界史の窓」HP
「やさしい世界史」HP
「世界図書室」HP
CNN 2016年4月5日掲載記事
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井萌
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭
『カルタゴの遺書 ある通商国家の興亡』著者:森本哲郎/td>
『アルプスを越えた象』著者:ギャヴィン・デ・ビーア・翻訳:時任生子
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ
「筆者撮影画像」