『ハンニバル・バルカ/
第2章 第2次ポエニ戦争 序章』
冒頭に、カルタゴの名将ハミルカル・バルカについて書かれた文章を引用する。
「ハミルカルは、第一次ポエニ戦役の最後の6年を、彼自身は敢闘したのに海軍が海戦に敗れたことで講和の交渉役を務めねばならなくなった人物である。戦役終了時には、40歳にも達していなかった。この男の胸の奥にだけは、雪辱を期す思いがあったとしても無理はない。それに、ハミルカルの属すバルカ一門は、ハンノン(筆者は「ハンノ」と記す)一門の農業経済派と違って、通商を富の源泉とする人々のリーダー格である。シチリアを放棄したことが西地中海の海まで放棄することになるのに、より敏感であったのも当然だった。ハミルカルと彼に同調するカルタゴ人だけが、いつの日かローマと、再び剣を交えることを願っていたのではないかと思う。」『ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記』著者:塩野七生
この言葉は、まさにその後も継続するポエニ戦争の予兆を示している。
第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)でローマに敗北したカルタゴは、講和条約の1つとして、多額の戦争賠償金を10年かけて支払うことになった。戦争直後の紀元前241年、経済的に財政はひっ迫し、非常に厳しい国家運営に陥り、傭兵たちへの賃金の未払いから最終的に反乱が起きた。「傭兵の乱」である。傭兵たちはカルタゴの市内に侵入し、市民を襲撃し暴力行為に及んだ。
この反乱に対しカルタゴ政府は最初ハンノ将軍によって鎮圧を試みたが、反乱軍は1時カルタゴ軍を圧倒し内乱状態に陥った。反乱を起こした傭兵たちの多くは、地元の出身者や北アフリカのベルベル人、リュビア人、ギリシア人、イベリア人などの近隣地域の兵で構成されていた。彼らは地元の地形や環境などの詳細な地理情報を持っており、さらにカルタゴ軍の戦術や防衛陣地について知悉していたため、それを活かしカルタゴの正規軍よりも優位に戦いを進めることが出来た。また、彼らは非常に結束力が強く、集団としての強力な抵抗を示した。これらの要因から、ハンノ将軍の傭兵の乱への対応は、戦術的に劣勢に立たざるを得なくなり失敗に終わった。
その後、ハミルカル・バルカ将軍(ハンニバル・バルカの父)が指揮を引き継ぎ、反乱軍に対し寛大な処置を行った。しかし反乱軍はこれを拒否し、戦闘はさらに激化した。
このハミルカル将軍が反乱軍に対応し、鎮圧に至るまでの過程やその戦いについての文章を紹介する。
「ポエニ戦役終了の翌年である紀元前240年、カルタゴ政府はもはや、彼らを反乱軍と断じ、武力による鎮圧を決意する。1万の兵が組織され、総指揮はハミルカルにゆだねられた。彼に私淑していたヌミディアの騎兵2千も、鎮圧軍に参加する。傭兵を中心とする反乱軍は、数では優勢だったが指揮官がいない。ハミルカルに戦術を駆使されては、敵ではなかった。たちまち6千の死者を出し、2千が捕虜になり、残りは敗走という結果に終わった。だが、翌、紀元前239年、捕虜へのハミルカルの温情が仇になる。交渉に出向いたカルタゴの高官を捕らえた傭兵たちは、手足を斬り鼻と耳をそぎ落した後で、生き埋めにして殺すという蛮行に出た。ハミルカルも、もはや全滅しかないと考える。だが、反乱軍はいまだに数では優勢だ。それで全戦力が正面からぶつかる会戦は避け、小ぜり合い程度の戦闘をくり返しながら敵を追いつめ、ついには小高い山の上に追いあげるのに成功した。そして、山の周囲を堅個な柵と塹壕で囲んで、反乱軍の自滅を待ったのである。飢餓に襲われた反乱軍は、ついには捕虜や奴隷を殺してその肉を食いながら抵抗をつづけたというが、所詮は降伏しか道はない。ハミルカルは、交渉役の10人を下山させれば全員の命は保証する、と言った。10人は下山した。だが、1人ももどってこない。すでに殺されていたからだが、何も知らない反乱兵たちは裏切られたと思い、捨てていた武器を再び手にとった。これが、ハミルカルが待っていた好機だった。4方から押し寄せてきた象の群れに囲まれた反乱兵たちは、山上のくぼ地に追いつめられ、象に踏みひしがれて全滅した。死者は、4万を超えたという。反旗をひるがえしてウティカも、これを知るや降伏した。紀元前238年の夏、3年と4ヶ月もの歳月の後に、反カルタゴの反乱は完全に鎮圧された。」『ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記』著者:塩野七生
この傭兵の乱は、カルタゴにとって一時的に政治的な不安定や、軍事力の低下などをもたらした。こうしてハミルカル・バルカは、第1次ポエニ戦争においてゲリラ戦法によりローマ軍に無敗を誇った実績や、今回の「傭兵の乱」の鎮静化などの功績で、カルタゴ政府内での発言権を得ることができ、再建への重要な役割を担うこととなる。
さらに、この傭兵軍の反乱後のカルタゴに関して、重要な史実を伝える古代の歴史家2人を紹介したい。1人目は、クィントゥス・ファビウス・ピクトル(以下「ファビウス」と記す)である。彼は、ローマの名門ファビウ氏族ピクトル家の1員であり、紀元前3世紀の共和制ローマの政治家(元老院議員も務めた)、軍人で、ローマ史を伝える最初の歴史家でもあった。しかし、ローマの起源から彼の時代まで書かれたその著作物は現存していない。それでは何故ファビウスがローマの歴史を書いていたことが判るのかというと、今は現存しない著作物を、その時代に生き読むことが可能だった人物がいたのである。それが2人目の人物、現在われわれが良く知る古代ギリシアの歴史家ポリュビオス(紀元前200年頃~紀元前118年頃)である。彼の代表作である「歴史」で、ローマの政治体制、軍事制度、ローマの台頭や地中海世界の歴史を記述し、その中に当時彼が読んだファビウスの著作物を資料として多く引用されており、間接的にわれわれもそのことを知ることが出来る。ポリュビオスの著作物は、現代においても歴史家や学者の重要な一級の歴史資料なのである。彼の「歴史」から、筆者が前章では書いていないポリュビオスがファビウスの資料を引用している箇所、第1次ポエニ戦争後カルタゴで起きた傭兵軍の反乱の鎮圧後の話、第2次ポエニ戦争の原因について触れている箇所を引用することにしよう。
「ローマ人歴史家ファビウスは、サグントゥム攻撃という条約侵犯と並んで、ハスドルバルの野心と権力欲もまたハンニバル戦争の原因であったと主張する。ファビウスによれば、ハスドルバルはイベリア地域で強大な権力を掌中に収めたのち、リビュアにもどってカルタゴの法を廃止し、その政体を独裁制に変革しようと企てた。しかし、カルタゴ政府の要人たちはハスドルバルの企画を見抜き、結束して彼に反対した。ハスドルバルは危険を感じてリュビアを去ると、それ以降はイベリア経営に専念し、カルタゴ本国の元老院を顧みることなく、自分の決めた方針に従ってその地の支配を続けた。ハンニバルは若年の頃からこのようなハスドルバルのやり方に協力し憧れていたから、自分がイベリア支配権を継承した後も、ハスドルバルと同じやり方で行動した。だから今回のローマとの戦争にしても、ハンニバルはカルタゴ人の意向に逆らって、自分の決断で始めた。カルタゴ本国で高位にある人物のなかには、ハンニバルのサグントゥム攻囲を支持する者はひとりもいなかったからだ。」『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
ポリュビオスが、ファビウスの資料を引用し、第2次ポエニ戦争の開戦の原因は、ハミルカルの死後その後を継いだハスドルバルの野心と権力欲、そしてハスドルバルの後継者ハンニバルのサグントゥム攻撃だと紹介している文章である。そして、このファビウスというローマの歴史家が、軍人で元老院議員でもあったことから、その権威ある著者名で判断してはならないと指摘している。彼は、著作物は書いた人で判断するのではなく、書かれた内容そのものに目を向けるよう読者に注意を促し、第2次ポエニ戦争開戦の原因を彼自身の違った視点から自著に述べている。
「ローマとカルタゴが戦争を再開した原因について、私の考えを述べよう。第一の原因は、ハンニバルの実の父であり、バルカの異名をもつハミルカルの怨念であったと見なすべきである。というのもハミルカルにはシキリア(筆者注:シチリア)島をめぐる戦争に敗れたという気持ちはなく、彼の考えでは、自分はエリュクス山腹の陣地を最後まで守り抜き、陣内の兵士たちの戦意もハミルカル同様にいっこうに衰えていなかったのに、海上でのカルタゴ艦隊の敗戦によって引き起こされた状況のゆえに、やむなく休戦を受け入れたにすぎない。だからハミルカルはこのときの悔しさをいつまでも忘れず、つねに戦争再開の機会をねらっていた。もしカルタゴで傭兵軍の反乱が起こらなければ、ハミルカルはすぐにもあらたな開戦準備を始め、それに全力を傾けていたであろう。しかし当面は国内の混乱への対応を優先せざるをえず、その平定に忙殺されていたのである。カルタゴ国内のこの反乱が鎮圧され後、ローマがカルタゴに開戦を布告したとき、カルタゴ人は正当性で判定すれば負けるはずはないのだからと、すべてを交渉によって解決しようとした。このときの事情については以前の巻の中で説明しておいたが、それを知っていないと、私がここで述べることも、この後で言うことも正しく理解できないだろう。ところがローマがカルタゴ側の言い分に耳を傾けようとしないので、カルタゴは現実の前に譲歩せざるをえず、憤りを感じながらも、なんともなすすべのないままサルディニア島から撤退したばかりか、前回の賠償金にさらに1,200タラントンを追加することにも同意した。あの時点での戦争投入を回避するためには、そうするしか方法がなかったのだ。それゆえこのことが、その後に勃発した戦争の第二のそして最大の原因だと考えるべきである。この結果ハミルカルの胸には、個人的に秘めた怨念の上に、さらにカルタゴ市民全員が抱いたこのたびの憤りが重なった。このため彼は反乱を起こした傭兵たちを打ち負かして祖国の安全を確保するやいなや、ただちにイベリアに赴き、この地をローマとの戦争の準備のために利用しようともくろんで、この方面の掌握に全力を注いだ。そしてこのこと、すなわちイベリア掌握にカルタゴが成功したことが、戦争の第三の原因として指摘されねばならない。カルタゴはこの地の大量の人的資源を信頼したからこそ、勇躍してあの戦争に乗り出したのである。それゆえハミルカルは戦争開始の10年前に世を去ったとはいえ、この第二次戦争を引き起こす最大の原動力であったと言ってよい。」『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
引用が少々長くなったが、カルタゴは第一次ポエニ戦争が終わり、その後の傭兵の乱、そしてイベリア半島への遠征、そして第二次ポエニ戦争開戦と続く時代の流れをここに紹介した。この時代の中心的なカルタゴの軍事指導者はハミルカル、ハスドルバル(ハミルカルの娘婿)、ハンニバルと継承され、ローマとカルタゴの戦いの最大の山場へと上り詰めて行くのである。
ハミルカルは先ずカルタゴの経済を立て直すことに注力し、紀元前237年、イベリア半島への進出を開始した。その目的は、まだローマの力が及んでいないイベリア半島において、新たな領土を獲得しカルタゴの経済基盤を立て直すことであった。
ここで、ハミルカル・バルカのイベリア半島遠征の背景に関する文章を紹介する。
「バルカ家のイベリア半島支配は、このように対ローマ敗戦とそれに続くサルディニアとコルシカの喪失、アフリカの反乱という『帝国』の総崩れとも言うべき事態の中で、崩壊の波をもろにかぶった中下層の市民、失われた海外領からの帰還者たちが、民会に結集して元老院を牽制し、『ローマに負けなかった』英雄ハミルカルに『帝国』再興の夢を託した結果でもあった。寡頭支配層から見れば、民会を出しゃばらせるハミルカル家のやり方は不愉快で危険なものと映ったであろうけれども、本国に居座られて本格的に国制の『民主化』などをされるよりは支持者ともどもスペインに遠征してくれたほうがはるかにましだったであろう。イベリア半島確保の重要性は、バルカ家に限らず支配層全体の共通認識だったであろうからである。」『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』著者:栗田伸子・佐藤育子
ハミルカル・バルカは、イベリア半島において鉱山を開発し、豊富な資源を利用して急速にカルタゴ経済の立て直しを実行し、さらにはカルタゴ軍の軍事力の再興という両面において重要な役割を果たしのである。
前述の通り、カルタゴは第1次ポエニ戦争でローマに敗北し、シチリアの支配権の放棄、戦争賠償金として3,200タラント(1タラント:銀約26.2㎏)の支払い、そしてローマとの貿易協定などの条約が締結された。さらにカルタゴはその後に起きた傭兵軍の反乱に乗じて開戦を布告してきたローマに対して、サルディニア島の撤退のみならず、前回の賠償金に1,200タラントの上積みまで支払うことに同意せざるをえなかった屈辱に耐えた結果生じた、膨大な戦争賠償金の支払いは敗戦国カルタゴの経済を大きく圧迫したのである。しかし、第1次ポエニ戦争終結後も、カルタゴは地中海全域で活発な貿易活動行った。さらに、カルタゴ周辺の肥沃な土地を利用して、様々な農産品、特にワインの生産を行った。食料品の自給自足が可能なカルタゴは、余剰生産品を他地域に向け輸出を行うことで収益を確保した。また、ハミルカル・バルカの戦略である新天地イベリア半島への遠征は、鉱山資源の採掘、特に銀鉱山の採掘の増加により、賠償金の支払いだけでなく、カルタゴの軍備増強や戦費暢達にも大きく貢献したのである。ハミルカル・バルカが率いたカルタゴ軍は、紀元前237年から紀元前229年にかけて行われた遠征で、イベリア半島の多くの部族を従属させ、その支配圏を拡大していった。
そしてここに特筆すべき重要な事実を書く必要がある。それはハミルカル・バルカが、この新天地イベリア半島の遠征に、息子ハンニバル・バルカを帯同していたことである。ハンニバルはこの時9歳の少年であった。父はこの幼い少年をイベリア半島に帯同し、軍事的な経験を積ませることを最大の目的としていた。ハンニバルは、後年彼がアルプスを越えてローマに侵攻する際に、部下やカルタゴの指導者たちに、イベリア遠征の際、父親にバール神殿に連れていかれ、「生涯ローマを敵とする」ことを誓わされたと述懐している。そのために、カルタゴが新天地を開拓し、その支配領域を広げる必要性を教育することが目的であった。その重要な目的とは、敵対的勢力であるローマへとカルタゴの将来を見据える機会を与えることであった。将来のカルタゴの経済的にも軍事的にも、脅威となる勢力としてローマは最大の相手だったからである。そのローマに対する考えを、父は幼い息子に対し、将来のカルタゴの軍事指導者としての資質を育て、今後起こりうるローマとの戦争において、重要な役割を担うことを託す意図があった。さらに、ハミルカル・バルカのイベリア遠征に込めた思いは、カルタゴという国家のためだけではなく、バルカ一族の経済的利益や軍事力拡大、すなわち自身の遠征の成功はバルカ家の地位の向上につながるからである。そして紀元前229年、バルカ家の子供への思いを託すように、父ハミルカル・バルカはイベリアの部族との戦いにおいて、娘婿ハスドゥルバルとハンニバルを助けるために、敵を自軍に引き付け騎馬で川を渡るときに押し流されて溺死したと伝えられている。
その後を継いだのは、ハミルカル・バルカの娘婿ハスドゥルバル・バルカであった。彼はイベリアの部族との戦いと、その地域での征服事業に力を注いだ。そして義父ハミルカル・バルカをだまし戦死させたオリッシー人への復讐を成し遂げた後、スペインの東南に本国と同じ名前の新都を建設し、ここをスペイン支配の中心拠点とした。いわゆる「カルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)」の建設である。このカルタゴ・ノヴァは銀・錫鉱山や塩田があり、地中海きっての良港であった。このカルタゴの情報は、ローマにも伝わっていたがイタリア北部のガリアへの対応で動くことは出来なかった。しかし、このカルタゴ・ノヴァとエブロ川にはさまれたローマの同盟都市サグントゥムの帰趨が、後の第二次ポエニ戦争の重要な発端となるのである。
紀元前226年又は225年カルタゴ・ノヴァをローマの使節が訪れている。しかし、ローマはカルタゴに対して、以下の条約を突き付けたに過ぎなかった。
「カルタゴとローマは、エブロ川(現在のスペインのエブロ川を指すとされるが、そのエブロ川ではないという説もある)を両国の国境線として設定する」という条約である。
そしてローマはカルタゴとのこの一時的な不戦条約を結ぶことで、イタリア北部におけるガリア人との対決に全力を注ぎ始めた。
一方で紀元前221年、ハスドゥルバル・バルカは自分の家のガリア人(と言われている)奴隷に、個人的な恨みによって夜、宿舎で殺害された。この暗殺の背後には、ローマの暗躍が疑われているが、確たる証拠は何も残されていない。
そして、このイベリアの地でカルタゴの表舞台に登場するのがハンニバル・バルカその人である。ハンニバルは、紀元前237年9歳から父ハミルカルのスペイン遠征に帯同し、軍事訓練や実際の戦闘に参加し、戦術的な才能を磨いていた。その父の死後も義兄ハスドゥルバルの指揮下で、引き続きスペインでの支配拡大のために地元の部族との戦いだけではなく、同盟関係や信頼関係の構築を行うなどの外交的な手腕も発揮していた。さらに指揮下の兵士たちの生活にも深くかかわり、公平なリーダーとしてふるまうことで、強い信頼関係も築き上げていた。こうしてハンニバルはハスドゥルバルの下で、部族との数々の戦闘において奇襲作戦や敵を分断する方法など、実戦で得た様々な革新的戦術を築き上げていた。そして、カルタゴ政府はスペインの兵士たちの総意を確認することで、当時26歳だったハンニバルをイベリア半島の最高指揮官に選んだ。こうして、紀元前221年、義兄ハスドゥルバル将軍の後を受けて、私たちが歴史上知るハンニバル将軍が、ポエニ戦争の表舞台に登場したのである。 ハンニバルは将軍就任後の翌紀元前220年夏、彼の戦術的才能を彷彿とさせる戦いがあった。その戦いを紹介しよう。
「翌前220年夏、今度ははるか北のワッカエイ族の土地に攻め込み、二つの都市を攻略したが、その帰路、カルペタニー族の大軍に襲われ、窮地に陥った。前年の敵オルカディー族の亡命者や征服したワッカエイ族の都市から脱出した人々もこの大軍に加わっていた。戦場はタゴス(タホ)川の上流、トレトゥム(トレド)の近郊であった。南下してタゴス川を渡り終えていたハンニバルは、とっさの機転で軍を反転させて川辺に布陣し、追ってきた敵軍が川を渡る瞬間に攻撃を開始した。渡河を強行したスペイン勢は川岸でカルタゴの象部隊に踏み殺され、まだ川の中にいた者達はカルタゴ騎兵に上から斬り伏せられ大損害を蒙った。ついにはハンニバル軍のほうが逆に川を渡って敵を敗走させた。10万を超える大軍に対するハンニバルの初の大勝利である。準備された会戦ではなく、敵の不意打ちに対処する形ではあったが、川を楯にし、相手の渡河のタイミングをうまく捉えて象と騎兵の特性を生かした機敏な戦いぶりであった。」『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』著者:栗田伸子・佐藤育子
紀元前219年春、ハンニバルはローマの同盟国であるサグントゥムを攻撃した。スペイン東岸にあるこの港町は、ギリシア人の入植したローマの同盟都市であった。当然この街はローマに救援を求める使節を送った。そのローマは当時北イタリアのポー川以北のガリア人対策に軍団を駐屯させ、同盟都市とはいえサグントゥム救援の軍隊を派遣させる余裕などなかった。そこで、ローマは外交で解決すべく元老院議員2名をサグントゥムに使節として送った。この使節とのやり取りの中で、ハンニバルはローマの使節から、サグントゥムへの介入を止めるように告げられた。このローマの申し入れを彼は受け入れなかった。使節は同様の申し入れを行うためにカルタゴ本国へ向かった。この使節に対するカルタゴ政府の回答は不明である。カルタゴ本国でも回答得られなかった使節はローマに帰っていった。ローマは再度討議の末、次には5人の元老院議員を使節としてカルタゴに送った。が、しかしカルタゴ政府の回答はハンニバルのサグントゥム介入に関して、最初に攻撃を始めたのはサグントゥムであり、この侵攻を止めることは出来ないとの回答を受けたのである。このサグントゥムへの軍事介入の正当性を示された使節は、これを事実上のローマへの宣戦布告と捕えたことは間違いない。しかも、この時使節は開戦の際に戦場となるのは、このサグントゥムの帰趨を巡るイベリア半島だと考えたに違いない。まさか、「イタリア本国」が戦場になろうとは使節はおろか、帰国し報告を聞いて開戦の決議を行う元老院や軍事関係者の誰1人として想像さえしなかったであろう。この使節の帰国と前後してサグントゥム陥落の知らせがローマに届いた。
紀元前219年の秋頃、ハンニバルは、執拗に抵抗をつづけたサングントゥムを、およそ8カ月かけて陥落させた。市の制圧の成功によって、ハンニバル軍は多大の金銭や捕虜、物品を手中にすることができた。ハンニバルは金銭に関しては予定通りに今後の遠征の軍資金として手元に置いて、捕虜はその戦績に応じ兵士に分配し、物品の全てはカルタゴ本国に送ったとポリュビオスの歴史に記載がある。
このハンニバルによるサグントゥム占領の報が入ると、ローマではこれ以上開戦についての議論の余地などなかった。それでも、ローマは使節数名を選んで、カルタゴへ派遣した。その使命はカルタゴ政府に対して二者択一の選択肢を選ばせることであった。つまり、サグントゥム陥落の首謀者ハンニバルをローマに引き渡すか、ローマ軍と剣を交えるかの選択である。しかし、このローマ使節が迫った選択肢を前にして、カルタゴが回答したのは意表を突く反論であった。
先ずハスドゥルバルが紀元前226年に、ローマと結んだエブロ川協定は彼が勝手に無断で結んだもので、カルタゴ政府は認めていないもので関係ないとはねつけた。さらにカルタゴのイベリア支配に関しても、第一次ポエニ戦争終結時に締結された条約には、その事に関して何ら規定はないなどを理由とし、サグントゥムもその時点ではローマの同盟都市ではなかった筈であると指摘し、ローマの突き付けた選択肢の回答を拒否した。
このカルタゴの主張に対して、ローマの使節は現在サグントゥムが既に陥落しカルタゴの支配下にあり、カルタゴは侵犯の首謀者であるハンニバルをローマに引き渡し、カルタゴ政府はこの件の責任を回避し開戦を避けるか、完全にカルタゴ政府が関わってサグントゥムを占領したのだと認めるかの選択を迫った。
ここでこの両国の選択肢への決定した場面を、再びポリュビオスの文章を借りて紹介することにしよう。
「ローマから派遣されて来た使節たちは、カルタゴ人の返答を聞き終えた後も黙っていたが、ひとり使節のうちで最年長の人物が、元老院列席者に向かって自分の懐を指さしてこう言った。「私はここに戦争と平和を携えてきた。どちらなりと諸君の要求する方のものを取り出して、ここに置いて行くつもりだ。」と。するとカルタゴの行政長官が、「どちらなりとローマ人の望む方を取り出すがよい」と促した。使節が「戦争を取り出す」と告げると、元老院の大多数の議員はいっせいに声を上げ、「受けよう」と答えた。この言葉を合図に使節団は元老院を去った。『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
(第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越えに続く)
「ハミルカルは、第一次ポエニ戦役の最後の6年を、彼自身は敢闘したのに海軍が海戦に敗れたことで講和の交渉役を務めねばならなくなった人物である。戦役終了時には、40歳にも達していなかった。この男の胸の奥にだけは、雪辱を期す思いがあったとしても無理はない。それに、ハミルカルの属すバルカ一門は、ハンノン(筆者は「ハンノ」と記す)一門の農業経済派と違って、通商を富の源泉とする人々のリーダー格である。シチリアを放棄したことが西地中海の海まで放棄することになるのに、より敏感であったのも当然だった。ハミルカルと彼に同調するカルタゴ人だけが、いつの日かローマと、再び剣を交えることを願っていたのではないかと思う。」『ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記』著者:塩野七生
この言葉は、まさにその後も継続するポエニ戦争の予兆を示している。
第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)でローマに敗北したカルタゴは、講和条約の1つとして、多額の戦争賠償金を10年かけて支払うことになった。戦争直後の紀元前241年、経済的に財政はひっ迫し、非常に厳しい国家運営に陥り、傭兵たちへの賃金の未払いから最終的に反乱が起きた。「傭兵の乱」である。傭兵たちはカルタゴの市内に侵入し、市民を襲撃し暴力行為に及んだ。
この反乱に対しカルタゴ政府は最初ハンノ将軍によって鎮圧を試みたが、反乱軍は1時カルタゴ軍を圧倒し内乱状態に陥った。反乱を起こした傭兵たちの多くは、地元の出身者や北アフリカのベルベル人、リュビア人、ギリシア人、イベリア人などの近隣地域の兵で構成されていた。彼らは地元の地形や環境などの詳細な地理情報を持っており、さらにカルタゴ軍の戦術や防衛陣地について知悉していたため、それを活かしカルタゴの正規軍よりも優位に戦いを進めることが出来た。また、彼らは非常に結束力が強く、集団としての強力な抵抗を示した。これらの要因から、ハンノ将軍の傭兵の乱への対応は、戦術的に劣勢に立たざるを得なくなり失敗に終わった。
その後、ハミルカル・バルカ将軍(ハンニバル・バルカの父)が指揮を引き継ぎ、反乱軍に対し寛大な処置を行った。しかし反乱軍はこれを拒否し、戦闘はさらに激化した。
このハミルカル将軍が反乱軍に対応し、鎮圧に至るまでの過程やその戦いについての文章を紹介する。
「ポエニ戦役終了の翌年である紀元前240年、カルタゴ政府はもはや、彼らを反乱軍と断じ、武力による鎮圧を決意する。1万の兵が組織され、総指揮はハミルカルにゆだねられた。彼に私淑していたヌミディアの騎兵2千も、鎮圧軍に参加する。傭兵を中心とする反乱軍は、数では優勢だったが指揮官がいない。ハミルカルに戦術を駆使されては、敵ではなかった。たちまち6千の死者を出し、2千が捕虜になり、残りは敗走という結果に終わった。だが、翌、紀元前239年、捕虜へのハミルカルの温情が仇になる。交渉に出向いたカルタゴの高官を捕らえた傭兵たちは、手足を斬り鼻と耳をそぎ落した後で、生き埋めにして殺すという蛮行に出た。ハミルカルも、もはや全滅しかないと考える。だが、反乱軍はいまだに数では優勢だ。それで全戦力が正面からぶつかる会戦は避け、小ぜり合い程度の戦闘をくり返しながら敵を追いつめ、ついには小高い山の上に追いあげるのに成功した。そして、山の周囲を堅個な柵と塹壕で囲んで、反乱軍の自滅を待ったのである。飢餓に襲われた反乱軍は、ついには捕虜や奴隷を殺してその肉を食いながら抵抗をつづけたというが、所詮は降伏しか道はない。ハミルカルは、交渉役の10人を下山させれば全員の命は保証する、と言った。10人は下山した。だが、1人ももどってこない。すでに殺されていたからだが、何も知らない反乱兵たちは裏切られたと思い、捨てていた武器を再び手にとった。これが、ハミルカルが待っていた好機だった。4方から押し寄せてきた象の群れに囲まれた反乱兵たちは、山上のくぼ地に追いつめられ、象に踏みひしがれて全滅した。死者は、4万を超えたという。反旗をひるがえしてウティカも、これを知るや降伏した。紀元前238年の夏、3年と4ヶ月もの歳月の後に、反カルタゴの反乱は完全に鎮圧された。」『ローマ人の物語Ⅱ ハンニバル戦記』著者:塩野七生
この傭兵の乱は、カルタゴにとって一時的に政治的な不安定や、軍事力の低下などをもたらした。こうしてハミルカル・バルカは、第1次ポエニ戦争においてゲリラ戦法によりローマ軍に無敗を誇った実績や、今回の「傭兵の乱」の鎮静化などの功績で、カルタゴ政府内での発言権を得ることができ、再建への重要な役割を担うこととなる。
さらに、この傭兵軍の反乱後のカルタゴに関して、重要な史実を伝える古代の歴史家2人を紹介したい。1人目は、クィントゥス・ファビウス・ピクトル(以下「ファビウス」と記す)である。彼は、ローマの名門ファビウ氏族ピクトル家の1員であり、紀元前3世紀の共和制ローマの政治家(元老院議員も務めた)、軍人で、ローマ史を伝える最初の歴史家でもあった。しかし、ローマの起源から彼の時代まで書かれたその著作物は現存していない。それでは何故ファビウスがローマの歴史を書いていたことが判るのかというと、今は現存しない著作物を、その時代に生き読むことが可能だった人物がいたのである。それが2人目の人物、現在われわれが良く知る古代ギリシアの歴史家ポリュビオス(紀元前200年頃~紀元前118年頃)である。彼の代表作である「歴史」で、ローマの政治体制、軍事制度、ローマの台頭や地中海世界の歴史を記述し、その中に当時彼が読んだファビウスの著作物を資料として多く引用されており、間接的にわれわれもそのことを知ることが出来る。ポリュビオスの著作物は、現代においても歴史家や学者の重要な一級の歴史資料なのである。彼の「歴史」から、筆者が前章では書いていないポリュビオスがファビウスの資料を引用している箇所、第1次ポエニ戦争後カルタゴで起きた傭兵軍の反乱の鎮圧後の話、第2次ポエニ戦争の原因について触れている箇所を引用することにしよう。
「ローマ人歴史家ファビウスは、サグントゥム攻撃という条約侵犯と並んで、ハスドルバルの野心と権力欲もまたハンニバル戦争の原因であったと主張する。ファビウスによれば、ハスドルバルはイベリア地域で強大な権力を掌中に収めたのち、リビュアにもどってカルタゴの法を廃止し、その政体を独裁制に変革しようと企てた。しかし、カルタゴ政府の要人たちはハスドルバルの企画を見抜き、結束して彼に反対した。ハスドルバルは危険を感じてリュビアを去ると、それ以降はイベリア経営に専念し、カルタゴ本国の元老院を顧みることなく、自分の決めた方針に従ってその地の支配を続けた。ハンニバルは若年の頃からこのようなハスドルバルのやり方に協力し憧れていたから、自分がイベリア支配権を継承した後も、ハスドルバルと同じやり方で行動した。だから今回のローマとの戦争にしても、ハンニバルはカルタゴ人の意向に逆らって、自分の決断で始めた。カルタゴ本国で高位にある人物のなかには、ハンニバルのサグントゥム攻囲を支持する者はひとりもいなかったからだ。」『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
ポリュビオスが、ファビウスの資料を引用し、第2次ポエニ戦争の開戦の原因は、ハミルカルの死後その後を継いだハスドルバルの野心と権力欲、そしてハスドルバルの後継者ハンニバルのサグントゥム攻撃だと紹介している文章である。そして、このファビウスというローマの歴史家が、軍人で元老院議員でもあったことから、その権威ある著者名で判断してはならないと指摘している。彼は、著作物は書いた人で判断するのではなく、書かれた内容そのものに目を向けるよう読者に注意を促し、第2次ポエニ戦争開戦の原因を彼自身の違った視点から自著に述べている。
「ローマとカルタゴが戦争を再開した原因について、私の考えを述べよう。第一の原因は、ハンニバルの実の父であり、バルカの異名をもつハミルカルの怨念であったと見なすべきである。というのもハミルカルにはシキリア(筆者注:シチリア)島をめぐる戦争に敗れたという気持ちはなく、彼の考えでは、自分はエリュクス山腹の陣地を最後まで守り抜き、陣内の兵士たちの戦意もハミルカル同様にいっこうに衰えていなかったのに、海上でのカルタゴ艦隊の敗戦によって引き起こされた状況のゆえに、やむなく休戦を受け入れたにすぎない。だからハミルカルはこのときの悔しさをいつまでも忘れず、つねに戦争再開の機会をねらっていた。もしカルタゴで傭兵軍の反乱が起こらなければ、ハミルカルはすぐにもあらたな開戦準備を始め、それに全力を傾けていたであろう。しかし当面は国内の混乱への対応を優先せざるをえず、その平定に忙殺されていたのである。カルタゴ国内のこの反乱が鎮圧され後、ローマがカルタゴに開戦を布告したとき、カルタゴ人は正当性で判定すれば負けるはずはないのだからと、すべてを交渉によって解決しようとした。このときの事情については以前の巻の中で説明しておいたが、それを知っていないと、私がここで述べることも、この後で言うことも正しく理解できないだろう。ところがローマがカルタゴ側の言い分に耳を傾けようとしないので、カルタゴは現実の前に譲歩せざるをえず、憤りを感じながらも、なんともなすすべのないままサルディニア島から撤退したばかりか、前回の賠償金にさらに1,200タラントンを追加することにも同意した。あの時点での戦争投入を回避するためには、そうするしか方法がなかったのだ。それゆえこのことが、その後に勃発した戦争の第二のそして最大の原因だと考えるべきである。この結果ハミルカルの胸には、個人的に秘めた怨念の上に、さらにカルタゴ市民全員が抱いたこのたびの憤りが重なった。このため彼は反乱を起こした傭兵たちを打ち負かして祖国の安全を確保するやいなや、ただちにイベリアに赴き、この地をローマとの戦争の準備のために利用しようともくろんで、この方面の掌握に全力を注いだ。そしてこのこと、すなわちイベリア掌握にカルタゴが成功したことが、戦争の第三の原因として指摘されねばならない。カルタゴはこの地の大量の人的資源を信頼したからこそ、勇躍してあの戦争に乗り出したのである。それゆえハミルカルは戦争開始の10年前に世を去ったとはいえ、この第二次戦争を引き起こす最大の原動力であったと言ってよい。」『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
引用が少々長くなったが、カルタゴは第一次ポエニ戦争が終わり、その後の傭兵の乱、そしてイベリア半島への遠征、そして第二次ポエニ戦争開戦と続く時代の流れをここに紹介した。この時代の中心的なカルタゴの軍事指導者はハミルカル、ハスドルバル(ハミルカルの娘婿)、ハンニバルと継承され、ローマとカルタゴの戦いの最大の山場へと上り詰めて行くのである。
ハミルカルは先ずカルタゴの経済を立て直すことに注力し、紀元前237年、イベリア半島への進出を開始した。その目的は、まだローマの力が及んでいないイベリア半島において、新たな領土を獲得しカルタゴの経済基盤を立て直すことであった。
ここで、ハミルカル・バルカのイベリア半島遠征の背景に関する文章を紹介する。
「バルカ家のイベリア半島支配は、このように対ローマ敗戦とそれに続くサルディニアとコルシカの喪失、アフリカの反乱という『帝国』の総崩れとも言うべき事態の中で、崩壊の波をもろにかぶった中下層の市民、失われた海外領からの帰還者たちが、民会に結集して元老院を牽制し、『ローマに負けなかった』英雄ハミルカルに『帝国』再興の夢を託した結果でもあった。寡頭支配層から見れば、民会を出しゃばらせるハミルカル家のやり方は不愉快で危険なものと映ったであろうけれども、本国に居座られて本格的に国制の『民主化』などをされるよりは支持者ともどもスペインに遠征してくれたほうがはるかにましだったであろう。イベリア半島確保の重要性は、バルカ家に限らず支配層全体の共通認識だったであろうからである。」『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』著者:栗田伸子・佐藤育子
ハミルカル・バルカは、イベリア半島において鉱山を開発し、豊富な資源を利用して急速にカルタゴ経済の立て直しを実行し、さらにはカルタゴ軍の軍事力の再興という両面において重要な役割を果たしのである。
前述の通り、カルタゴは第1次ポエニ戦争でローマに敗北し、シチリアの支配権の放棄、戦争賠償金として3,200タラント(1タラント:銀約26.2㎏)の支払い、そしてローマとの貿易協定などの条約が締結された。さらにカルタゴはその後に起きた傭兵軍の反乱に乗じて開戦を布告してきたローマに対して、サルディニア島の撤退のみならず、前回の賠償金に1,200タラントの上積みまで支払うことに同意せざるをえなかった屈辱に耐えた結果生じた、膨大な戦争賠償金の支払いは敗戦国カルタゴの経済を大きく圧迫したのである。しかし、第1次ポエニ戦争終結後も、カルタゴは地中海全域で活発な貿易活動行った。さらに、カルタゴ周辺の肥沃な土地を利用して、様々な農産品、特にワインの生産を行った。食料品の自給自足が可能なカルタゴは、余剰生産品を他地域に向け輸出を行うことで収益を確保した。また、ハミルカル・バルカの戦略である新天地イベリア半島への遠征は、鉱山資源の採掘、特に銀鉱山の採掘の増加により、賠償金の支払いだけでなく、カルタゴの軍備増強や戦費暢達にも大きく貢献したのである。ハミルカル・バルカが率いたカルタゴ軍は、紀元前237年から紀元前229年にかけて行われた遠征で、イベリア半島の多くの部族を従属させ、その支配圏を拡大していった。
そしてここに特筆すべき重要な事実を書く必要がある。それはハミルカル・バルカが、この新天地イベリア半島の遠征に、息子ハンニバル・バルカを帯同していたことである。ハンニバルはこの時9歳の少年であった。父はこの幼い少年をイベリア半島に帯同し、軍事的な経験を積ませることを最大の目的としていた。ハンニバルは、後年彼がアルプスを越えてローマに侵攻する際に、部下やカルタゴの指導者たちに、イベリア遠征の際、父親にバール神殿に連れていかれ、「生涯ローマを敵とする」ことを誓わされたと述懐している。そのために、カルタゴが新天地を開拓し、その支配領域を広げる必要性を教育することが目的であった。その重要な目的とは、敵対的勢力であるローマへとカルタゴの将来を見据える機会を与えることであった。将来のカルタゴの経済的にも軍事的にも、脅威となる勢力としてローマは最大の相手だったからである。そのローマに対する考えを、父は幼い息子に対し、将来のカルタゴの軍事指導者としての資質を育て、今後起こりうるローマとの戦争において、重要な役割を担うことを託す意図があった。さらに、ハミルカル・バルカのイベリア遠征に込めた思いは、カルタゴという国家のためだけではなく、バルカ一族の経済的利益や軍事力拡大、すなわち自身の遠征の成功はバルカ家の地位の向上につながるからである。そして紀元前229年、バルカ家の子供への思いを託すように、父ハミルカル・バルカはイベリアの部族との戦いにおいて、娘婿ハスドゥルバルとハンニバルを助けるために、敵を自軍に引き付け騎馬で川を渡るときに押し流されて溺死したと伝えられている。
その後を継いだのは、ハミルカル・バルカの娘婿ハスドゥルバル・バルカであった。彼はイベリアの部族との戦いと、その地域での征服事業に力を注いだ。そして義父ハミルカル・バルカをだまし戦死させたオリッシー人への復讐を成し遂げた後、スペインの東南に本国と同じ名前の新都を建設し、ここをスペイン支配の中心拠点とした。いわゆる「カルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)」の建設である。このカルタゴ・ノヴァは銀・錫鉱山や塩田があり、地中海きっての良港であった。このカルタゴの情報は、ローマにも伝わっていたがイタリア北部のガリアへの対応で動くことは出来なかった。しかし、このカルタゴ・ノヴァとエブロ川にはさまれたローマの同盟都市サグントゥムの帰趨が、後の第二次ポエニ戦争の重要な発端となるのである。
紀元前226年又は225年カルタゴ・ノヴァをローマの使節が訪れている。しかし、ローマはカルタゴに対して、以下の条約を突き付けたに過ぎなかった。
「カルタゴとローマは、エブロ川(現在のスペインのエブロ川を指すとされるが、そのエブロ川ではないという説もある)を両国の国境線として設定する」という条約である。
そしてローマはカルタゴとのこの一時的な不戦条約を結ぶことで、イタリア北部におけるガリア人との対決に全力を注ぎ始めた。
一方で紀元前221年、ハスドゥルバル・バルカは自分の家のガリア人(と言われている)奴隷に、個人的な恨みによって夜、宿舎で殺害された。この暗殺の背後には、ローマの暗躍が疑われているが、確たる証拠は何も残されていない。
そして、このイベリアの地でカルタゴの表舞台に登場するのがハンニバル・バルカその人である。ハンニバルは、紀元前237年9歳から父ハミルカルのスペイン遠征に帯同し、軍事訓練や実際の戦闘に参加し、戦術的な才能を磨いていた。その父の死後も義兄ハスドゥルバルの指揮下で、引き続きスペインでの支配拡大のために地元の部族との戦いだけではなく、同盟関係や信頼関係の構築を行うなどの外交的な手腕も発揮していた。さらに指揮下の兵士たちの生活にも深くかかわり、公平なリーダーとしてふるまうことで、強い信頼関係も築き上げていた。こうしてハンニバルはハスドゥルバルの下で、部族との数々の戦闘において奇襲作戦や敵を分断する方法など、実戦で得た様々な革新的戦術を築き上げていた。そして、カルタゴ政府はスペインの兵士たちの総意を確認することで、当時26歳だったハンニバルをイベリア半島の最高指揮官に選んだ。こうして、紀元前221年、義兄ハスドゥルバル将軍の後を受けて、私たちが歴史上知るハンニバル将軍が、ポエニ戦争の表舞台に登場したのである。 ハンニバルは将軍就任後の翌紀元前220年夏、彼の戦術的才能を彷彿とさせる戦いがあった。その戦いを紹介しよう。
「翌前220年夏、今度ははるか北のワッカエイ族の土地に攻め込み、二つの都市を攻略したが、その帰路、カルペタニー族の大軍に襲われ、窮地に陥った。前年の敵オルカディー族の亡命者や征服したワッカエイ族の都市から脱出した人々もこの大軍に加わっていた。戦場はタゴス(タホ)川の上流、トレトゥム(トレド)の近郊であった。南下してタゴス川を渡り終えていたハンニバルは、とっさの機転で軍を反転させて川辺に布陣し、追ってきた敵軍が川を渡る瞬間に攻撃を開始した。渡河を強行したスペイン勢は川岸でカルタゴの象部隊に踏み殺され、まだ川の中にいた者達はカルタゴ騎兵に上から斬り伏せられ大損害を蒙った。ついにはハンニバル軍のほうが逆に川を渡って敵を敗走させた。10万を超える大軍に対するハンニバルの初の大勝利である。準備された会戦ではなく、敵の不意打ちに対処する形ではあったが、川を楯にし、相手の渡河のタイミングをうまく捉えて象と騎兵の特性を生かした機敏な戦いぶりであった。」『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』著者:栗田伸子・佐藤育子
紀元前219年春、ハンニバルはローマの同盟国であるサグントゥムを攻撃した。スペイン東岸にあるこの港町は、ギリシア人の入植したローマの同盟都市であった。当然この街はローマに救援を求める使節を送った。そのローマは当時北イタリアのポー川以北のガリア人対策に軍団を駐屯させ、同盟都市とはいえサグントゥム救援の軍隊を派遣させる余裕などなかった。そこで、ローマは外交で解決すべく元老院議員2名をサグントゥムに使節として送った。この使節とのやり取りの中で、ハンニバルはローマの使節から、サグントゥムへの介入を止めるように告げられた。このローマの申し入れを彼は受け入れなかった。使節は同様の申し入れを行うためにカルタゴ本国へ向かった。この使節に対するカルタゴ政府の回答は不明である。カルタゴ本国でも回答得られなかった使節はローマに帰っていった。ローマは再度討議の末、次には5人の元老院議員を使節としてカルタゴに送った。が、しかしカルタゴ政府の回答はハンニバルのサグントゥム介入に関して、最初に攻撃を始めたのはサグントゥムであり、この侵攻を止めることは出来ないとの回答を受けたのである。このサグントゥムへの軍事介入の正当性を示された使節は、これを事実上のローマへの宣戦布告と捕えたことは間違いない。しかも、この時使節は開戦の際に戦場となるのは、このサグントゥムの帰趨を巡るイベリア半島だと考えたに違いない。まさか、「イタリア本国」が戦場になろうとは使節はおろか、帰国し報告を聞いて開戦の決議を行う元老院や軍事関係者の誰1人として想像さえしなかったであろう。この使節の帰国と前後してサグントゥム陥落の知らせがローマに届いた。
紀元前219年の秋頃、ハンニバルは、執拗に抵抗をつづけたサングントゥムを、およそ8カ月かけて陥落させた。市の制圧の成功によって、ハンニバル軍は多大の金銭や捕虜、物品を手中にすることができた。ハンニバルは金銭に関しては予定通りに今後の遠征の軍資金として手元に置いて、捕虜はその戦績に応じ兵士に分配し、物品の全てはカルタゴ本国に送ったとポリュビオスの歴史に記載がある。
このハンニバルによるサグントゥム占領の報が入ると、ローマではこれ以上開戦についての議論の余地などなかった。それでも、ローマは使節数名を選んで、カルタゴへ派遣した。その使命はカルタゴ政府に対して二者択一の選択肢を選ばせることであった。つまり、サグントゥム陥落の首謀者ハンニバルをローマに引き渡すか、ローマ軍と剣を交えるかの選択である。しかし、このローマ使節が迫った選択肢を前にして、カルタゴが回答したのは意表を突く反論であった。
先ずハスドゥルバルが紀元前226年に、ローマと結んだエブロ川協定は彼が勝手に無断で結んだもので、カルタゴ政府は認めていないもので関係ないとはねつけた。さらにカルタゴのイベリア支配に関しても、第一次ポエニ戦争終結時に締結された条約には、その事に関して何ら規定はないなどを理由とし、サグントゥムもその時点ではローマの同盟都市ではなかった筈であると指摘し、ローマの突き付けた選択肢の回答を拒否した。
このカルタゴの主張に対して、ローマの使節は現在サグントゥムが既に陥落しカルタゴの支配下にあり、カルタゴは侵犯の首謀者であるハンニバルをローマに引き渡し、カルタゴ政府はこの件の責任を回避し開戦を避けるか、完全にカルタゴ政府が関わってサグントゥムを占領したのだと認めるかの選択を迫った。
ここでこの両国の選択肢への決定した場面を、再びポリュビオスの文章を借りて紹介することにしよう。
「ローマから派遣されて来た使節たちは、カルタゴ人の返答を聞き終えた後も黙っていたが、ひとり使節のうちで最年長の人物が、元老院列席者に向かって自分の懐を指さしてこう言った。「私はここに戦争と平和を携えてきた。どちらなりと諸君の要求する方のものを取り出して、ここに置いて行くつもりだ。」と。するとカルタゴの行政長官が、「どちらなりとローマ人の望む方を取り出すがよい」と促した。使節が「戦争を取り出す」と告げると、元老院の大多数の議員はいっせいに声を上げ、「受けよう」と答えた。この言葉を合図に使節団は元老院を去った。『歴史1』著者:ポリュビオス・訳:城江良和
(第3章 第2次ポエニ戦争 第1節 アルプス越えに続く)
カルタゴの主神・バール・ハモン像/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
カルタゴの主神・バール・ハモン像近影/バルドー博物館/チュニス/チュニジア
古代カルタゴ・ケルクアン遺跡/チュニジア
シディ・ブ・サイド(カルタゴ・ローマ時代灯台があった)からチュニス湾を臨む/チュニス/チュニジア
出典: | 「Wikipedia」 |
「Wikiwand」 | |
「Hitopedia」 | |
「Historia」 | |
「AZ History」 | |
「Weblio辞書」 | |
「世界史の窓」HP | |
「やさしい世界史」HP | |
「世界図書室」HP | |
「ハンニバル戦記―ローマ人の物語Ⅱ」著者:塩野七生 | |
「歴史」著者:ポリュビオス・訳:城江良和 | |
「ローマ建国以来の歴史」著者:リウィウス・訳:安井萌 | |
「ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて」著者:長谷川博隆 | |
「ハンニバルに学ぶ戦略思考」著者:奥出阜義 | |
「ハンニバル アルプス越えの謎を解く」著者:ジョン・プレヴァス・翻訳:村上温夫 | |
「興亡の世界史 通称国家カルタゴ」著者:栗田伸子・佐藤育子 | |
「地中海世界の歴史1 神々の囁く世界」著者:本村凌二 | |
「勝利を決めた名将たちの伝説的戦術」著者:松村劭 | |
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック | |
「世界を変えた世紀の決戦」編集者:世界戦史研究会 | |
「ローマ帝国 誕生・絶頂・滅亡の地図」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】 | |
「小学館 学習まんが世界の歴史3 ローマ」株式会社小学館 | |
「アド・アストラ ━ スキピオとハンニバル ━」著者:カガノミハチ | |
「筆者撮影画像」 |