牛島まさみ 第八写真館
ご来館頂き有難うございます
「第八写真館」にご案内いたします。
時間の許すかぎり、ごゆっくりとお過ごし下さい。
最初は古代エジプトの「三大美女」といわれている女性たちがいます。
その美女たちをご紹介しましょう。
「ネフェルタリ(生年:不明~没年:紀元前1256年頃)」
「ネフェルティティ(生年:紀元前1370年頃~紀元前1330年頃)」
「クレオパトラ七世(生年:紀元前69年~紀元前30年」
彼女たちが古代エジプトの三大美女と呼ばれていて、不思議なことに、古代エジプトでは大体100年間隔で歴史的に有名な美女が生まれていたことになります。
最初は「ネフェルタリ」をご紹介しましょう。

ネフェルタリ肖像/王妃の谷/Q66/テーベ/エジプト
写真館ですから、あまり長い説明は不必要とは思いますが、なにせ古代の歴史に関する遺物的な内容を多く含む写真ですので、ここでは少し詳しいご説明を添えさせていただきます。何卒お許しください。
「ネフェルタリ」は、古代エジプトの偉大なファラオ、ラムセス二世の第一王妃として知られています。
夫であるラムセス二世は、彼女への深い敬愛を示すかのように、自身のアブ・シンブル大神殿のすぐ隣に、ネフェルタリのための小神殿(ネフェルタリ神殿)を建造しました。これは、数多くの妃の中でも、彼女が特別な存在であったことを物語っています。ネフェルタリは単なる王妃ではなく、外交や宗教儀礼にも深く関わった「才色兼備の王妃」でした。
紀元前1274年頃、エジプトとヒッタイト帝国はシリアの覇権をめぐってカデシュで激突しましたが、決定的な勝敗はつきませんでした。その後の和平交渉において、ネフェルタリは「偉大なる王妃」として重要な役割を果たし、ヒッタイトの王妃プドゥヘパと親書を交わし続けました。
二人の王妃は互いを「姉妹」と呼ぶほどの関係性を築き、両国の関係改善に大きく貢献しました。
その結果、紀元前1259年頃、ラムセス二世とヒッタイト王ハットゥシリ三世の間で、歴史的な「カデシュ条約(銀板の条約)」が締結されました。ネフェルタリは、この世界最古の平和条約の成立に深く関わった王妃として歴史に記憶されています。
この条約のことは、カルナック神殿やアブ・シンブル大神殿の壁面に碑文として刻まれています。
また20世紀初頭、トルコのボアズキョイ遺跡からヒッタイト語で書かれた粘土板文書が発見され、エジプト側の碑文と内容が一致したことで、「世界最古の平和条約」として正式に確認されました。
なお、この平和条約のレプリカは、国際平和の象徴としてニューヨーク国連本部ビルの壁面に展示されています。

ネフェルタリ肖像/王妃の谷/Q66/テーベ/エジプト

ネフェルタリ肖像/王妃の谷/Q66/テーベ/エジプト

アブ・シンベル小神殿(ネフェルタリ神殿)/ヌビア遺跡/エジプト

アブ・シンベル大神殿/ヌビア遺跡/エジプト
次は、私が敬愛するネフェルティティ王妃です。

ネフェルティティ肖像/館主所蔵/パピルス画(エジプトで求めた現代の工房製造品)
「ネフェルティティ」は、古代エジプト第18王朝において、少年王ツタンカーメンの継母にあたる女性です。
彼女の夫は、アメンホテプ4世(後のアクエンアテン)であり、エジプト史上でも特に大胆な宗教改革を断行したファラオとして知られています。
当時のエジプトでは、アメン神を中心とした伝統的な宗教体系が確立しており、強大なアメン神官団が政治・経済の実権を握っていました。
その体制に真っ向から挑んだのがアメンホテプ4世でした。彼は太陽神アテンを唯一神として掲げ、自らの名から「アメン」を外してアクエンアテンと改名し、アテン神信仰への改宗を国全体に推し進めました。
つまり、父アメンホテプ3世の時代まで続いたアメン神官団との決別を明確に示したのです。
さらに彼は、従来の首都テーベ(現在のルクソール)を離れ、ナイル川中流域に新たな都アケトアテン(現在のアマルナ)を建設し、宗教改革を国家規模で実行しました。
この激動の時代において、ネフェルティティは単なる王妃ではなく、夫アクエンアテンの最も重要な支え手として政治・宗教の両面に深く関わりました。
王妃としての威厳と美しさに加え、改革を陰で支え続けた知性と精神力を備えた、まさに「偉大な王妃」と呼ぶにふさわしい女性でした。
補足すると、アクエンアテンはツタンカーメンの父親でもあります。
ツタンカーメンは誕生時に「ツタンカーテン(=アテンの生ける像)」と名づけられましたが、父の死後に王位を継承すると、アテン神信仰を廃してアメン神信仰へ復帰し、自らの名を「ツタンカーメン(=アメンの生ける像)」へと改めました。
これが、今日私たちがよく知る名前です。
このように、父から子へと続く宗教・政治の大転換期を、陰で支え続けたのがネフェルティティその人でした。
彼女の存在は、アマルナ時代の象徴であると同時に、古代エジプト史における女性の力を示す代表的な例でもあります。
折角なので、その夫君である世界最初の宗教改革者ファラオ・アクエンアテンの姿もご紹介しておきましょう。

アクエンアテン(改名前:アメンホテプ4世)像/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
さらに、アクエンアテンの息子、ネフェルティティを継母とする、ツタンカーテンもご紹介しておきます。彼は、生まれたときの名は、「ツタンカーテン」でした。

ツタンカーテン(改名後;ツタンカーメン)像/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
ついでながら、貴重なツタンカーメンの「黄金のマスク」像を、大エジプト博物館にて撮影してきましたので、何枚か作品をご紹介しておきます。

ツタンカーメンの黄金マスク拡大/大エジプト博物館/カイロ/エジプト

ツタンカーメン黄金のマス側面/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
ツタンカーメンのマスクの横側で良く判るのが、耳たぶにある穴のことです。
この「耳たぶの穴」は何を意味するのか、考古学者の間で長く議論されているテーマとなっています。
一説、ツタンカーメンが少年王であったために、当時でも少年や若い王子はピアスをつける習慣があり別に不思議なことではなく、むしろ彼が若くして王位に就いた証であるとするもの。
二説、このマスクはネフェルティティの名前を削った痕跡があることから、彼女の死後、急遽ツタンカーメン用に転用されたとするもの。それであれば、耳たぶの穴は女性用のマスクとしての説明がつくというものです。
三説、耳たぶの穴は、宗教的・象徴的意味を持つ可能性があり、神官・王子・若い神像などにもみられることから、ツタンカーメンが「アテン神からアメン神信仰に復帰」した象徴を意味し、宗教的な意味を反映したものであるとするもの。
現在、学界では一説の少年王であったことを示す文化的な特徴とするものと、二説のマスクはネフェルティティ用であったが、後にツタンカーテンに転用された可能性があるとする二つの説が有力視されています。
いずれにしろ、今後の研究によって、いつかその真相が明かにされる日が来ると信じています。

ツタンカーメンの黄金マスク正面/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
この画像でも、両耳たぶに穴があることが確認できます。

ツタンカーメンの黄金マスク左側/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
次に、ツタンカーメンの「遺体ミイラ」と「黄金のマスク」は、実は非常に多重装の覆いがなされていたことをご紹介しましょう。
1 黄金のマスクを装着したミイラ
2 第一棺(最内棺:純金製)
3 第二棺(中間棺:金張り木製)
4 第三棺(外側棺:金張り木製)
5 石棺(石製サルコファガス「sarcophagus)=石棺」)
という、実に5段階構造だったのです。

ツタンカーメン第一棺(純金製棺)/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
棺全体が純金製ということで、ある意味黄金のマスクに劣らず、この「第一棺」の価値も凄い遺物です。

ツタンカーメンの第二棺/大エジプト博物館/カイロ/エジプト
以上、ネフェルティティの紹介に合わせて、夫、義理の息子のこともご紹介いたしました。
ちなみに、この大博物館には、ツタンカーメンの遺物だけを展示する広いエリアが設けられました。
今回ご紹介しなかった 、他の棺や遺品の取材作品は、後日別途「ツタンカーメン写真館」として設立する予定です。
どうぞお楽しみに。
そして次に、現代の誰もがその名を知る“クレオパトラ”です。
実は、クレオパトラという名の王妃は、マケドニア系のプトレマイオス王朝には複数存在しました。
ここでご紹介するのは、その中でも最も有名で、世界史に名を残したクレオパトラ7世です。

クレオパトラ7世のレリーフ拡大版/ハトホル神殿/デンデラ/エジプト
さて、エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝の最終世代に生きたファラオとして知られるのが、正式にはクレオパトラ7世です。
実は「クレオパトラ」という名はプトレマイオス王家に複数存在し、彼女はその中でも最も著名な人物です。
プトレマイオス朝はエジプト固有の王家ではなく、アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)の側近であったプトレマイオス1世が創始した、ギリシア系(マケドニア系)の王朝でした。
アレクサンドロス大王の死後、帝国はディアドコイ(後継者たち)の争いによって分割され、その中でエジプトを支配したのがプトレマイオス1世です。
クレオパトラ7世は、プトレマイオス12世アウレテスと王妃クレオパトラ5世トリュフェナの娘として生まれました。
兄弟姉妹には、クレオパトラ6世、ベレニケ4世、アルシノエ4世、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世などがいます。
彼女が「絶世の美女」として語られることは広く知られていますが、その評価は必ずしも容姿だけに基づくものではありません。
その一端を示す記述が、歴史家プルタルコスの『英雄伝』に残されています。そこには、クレオパトラ7世に魅了されたローマの将軍アントニウスについて、次のように記されています。
「そもそもクレオパトラの美しさは、それだけを取り出せば、他にたぐいなしというほどではなく、見る者を圧倒するようなものでもなかったと伝えられる。しかしそれにもかかわらずいっしょにいる者を捕まえて逃がさない力を持っていて、容姿のほかに相手を引き込む会話の妙、応対のさいに随所に漂う気品、そういったものが人の心を浮き立たせるのだった。口を開けば甘い響きが洩れ出て、しかも舌はまるで多弦の竪琴のように、思い通りの言語にたやすく切り換えられるので、さまざまな異民族と話をするときでも通訳を介することはごくまれであり、アイティオピア人、トログロデュタイ人、ヘブライ人、アラブ人、シリア人、メディア人、パルティア人など、ほとんどの民族に自分で答えを返していた。これ以外にも多くの言語を習得していたと伝えられ、クレオパトラ以前の王たちがエジプト人の言語さえ習い覚える労を厭い、それどころかマケドニア語を捨て去る王までいたのとは大きく違っていた。こうしてクレオパトラはアントニウスを陥落させてしまった。」著者:プルタルコス、『英雄伝』、訳:城江 良和
このプルタルコスの記述を読むだけでも、容姿は別として、驚くほど知的魅力溢れる女性であったことが分かります。

クレオパトラ7世とカエサリオンのレリーフ/ハトホル神殿/デンデラ/エジプト
この画像を紹介するために、前置きとして少し詳細にご説明を致します。
紀元前48年、ローマは内戦のただ中にありました。
カエサルがルビコン川を渡ってローマへ進軍したことで、元老院派のポンペイウスとの決戦が避けられなくなったのです。
この時のカエサルの言葉「賽は投げられた(Alea iacta est)」は、あまりにも有名です。
両者はギリシア北部テッサリア地方のファルサルス郊外で激突し、ポンペイウスは敗北してプトレマイオス朝エジプトへ逃れました。
当時のエジプトはローマの強い影響下にあり、王位をめぐって姉クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が対立していました。
ポンペイウスは支援を期待してアレクサンドリアに到着しましたが、プトレマイオス13世の側近に裏切られ、上陸直後に暗殺されてしまいます。
その後、ポンペイウスを追ってカエサルがエジプトに到着した時には、すでに彼は殺害されていました。
ポンペイウスの首を差し出されたカエサルは、かつての盟友の無残な最期に深く悲しみ、激怒したと伝えられています。
カエサルはポンペイウスを丁重に葬り、ローマの偉大な将軍の死に敬意を表しました。
この出来事をきっかけに、カエサルはエジプトの王位争いに介入する決意を固め、クレオパトラを支持して彼女の復位を図ります。
この時の有名な逸話が、クレオパトラが夜陰に紛れて自らを絨毯(または寝具の袋)に包ませ、カエサルのもとへ運ばせたという話です。
彼女はこの大胆な行動でカエサルの庇護を得ることに成功しました。
カエサルがクレオパトラ側についたことで、アレクサンドリアではローマ軍とプトレマイオス13世率いるエジプト軍との戦闘が始まります。
カエサルの兵力はわずか3,000ほどであったため、市街戦を避けて王宮地区を要塞化し、小アジアからの援軍が到着するまで約4か月間持久戦を耐え抜きました。
紀元前47年2月、援軍と合流したカエサル軍はナイルデルタでエジプト軍を撃破し、プトレマイオス13世は敗走中にナイル川で溺死したと伝えられています。
勝利後、カエサルはクレオパトラ7世を正式に女王へ復位させ、幼い弟プトレマイオス14世を共同統治者として即位させました。
しかし実際には、クレオパトラの単独統治に近い体制でした。
この頃すでにカエサルとクレオパトラは恋愛関係にあったと考えられており、カエサルはエジプトに滞在して彼女を支援しました。
二人の間には男児が生まれ、プトレマイオス15世カエサリオンと名づけられました。
この子の姿が、写真館でご紹介する壁画レリーフの右側に描かれている像です。
こちらは、エジプトの「マルサマトルーフ」にある、クレオパトラビーチで見かけた、クレオパトラ7世像です。
如何でしょうか?
噂の如く麗しい姿に見えるでしょうか?
この像が何を根拠に作られたのかは不明です。

クレオパトラ胸像/クレオパトラビーチ/マルサマトルーフ/エジプト
「シワ・オアシス」はリビア国境近くにある、古代エジプト時代の「宣託」の地として栄えたオアシスです。
このオアシスは、幅20km・長さ80kmもある巨大オアシスです。
紀元前アレクサンドロス大王が、ペルシア遠征途中でこのオアシスに立ち寄り「神」の宣託を受けています。
さらに、こちらはシワ・オアシスにある、「クレオパトラの泉」です。
しかし、この場所に、実際クレオパトラが来たかどうかは分かっていません。

クレオパトラの泉(こんこんと真水が湧き出ていました)/ シワ・オアシス/エジプト
古代エジプトの黄金時代を築いた女性ファラオがいます。
それが第18王朝の女王、ハトシェプストです。

ハトシェプスト女王頭部像/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト
私たちは「ハトシェプスト女王」の名を、壮麗な「ハトシェプスト葬祭殿」の存在によって知っています。
しかし悲しいことに、この葬祭殿では1997年11月、イスラム過激派による外国人観光客襲撃事件が発生しました。
62名が死亡(うち日本人10名を含む)、85名が負傷するという痛ましい事件でした。
観光収入を断つことでエジプト経済に打撃を与え、政府転覆を狙ったものとされています。
観光を楽しんでいた人々が、ただその場に居合わせたというだけで命を奪われたのです。
この悲劇を前に、言葉は無力であり、ただ深い哀悼の意を捧げるばかりです。
その後、政府による警備強化などの対策が進み、2000年代初頭には観光が再開されました。
私も2024年2月、エジプトを訪れ、長年憧れていたハトシェプスト葬祭殿を実際に目にすることができました。
ハトシェプスト女王は、古代エジプト第18王朝の女性ファラオです。
紀元前1507年頃、第18王朝のファラオ・トトメス1世と王妃イアフメスの娘として生まれました。
成長後、異母兄であるトトメス2世と結婚し王妃となりますが、トトメス2世は早世します。
後継者は側室の子であるトトメス3世でしたが、幼少であったため、ハトシェプストが摂政として政務を担いました。
やがて彼女は自らファラオとして即位し、約22年間にわたりエジプトに平和と繁栄をもたらした統治者として歴史に名を刻みました。
この22年間、トトメス3世は形式上の共同統治者として存在していましたが、実際の権力はハトシェプストが掌握し、彼は軍事訓練や儀式への参加に限られていたと考えられています。
ハトシェプストの統治の特徴として、公的な場では男装し、儀礼用の付け髭をつけて「ファラオ」としての威厳を示したことが挙げられます。
政治においては戦争よりも外交と交易を重視し、遠方からの交易品を取り寄せて経済を潤しました。
また、カルナック神殿の拡張、自身の壮麗な「ハトシェプスト葬祭殿」の建設をはじめ、多くの建造物を築き上げ、新王国時代の繁栄を象徴する時代を創り上げました。
この繁栄を受け継いだトトメス3世は、後に積極的な軍事遠征を行い、エジプト史上最大の版図を築きました。私が、エジプトの数あるファラオの中でも最も偉大な英雄として尊敬する方です。そして、ハトシェプストの治世が、その偉大な帝国の礎を築いた時代であったと言っても過言ではありません。

ルクソール西岸のデル・エル・バハリにあるハトシェプスト葬祭殿/ルクソール/エジプト

ハトシェプスト葬祭殿の
ハトシェプスト葬祭殿」はルクソール西岸にあり、デル・エル・バハリ(アラビア語で「北の修道院」の意)と呼ばれる湾型の断崖に沿って建てられている。第18王朝の女性ファラオ、ハトシェプストの側近であった高官センムトが設計したとされています。
建築様式の特徴は三層のテラス構造であり、各テラスは長いスロープで繋がっています。この構造は、参拝者が歩みを進めることで一つの物語を体験する仕組みになっているのです。
第一テラスは導入部で、参拝者は長いスロープと柱廊を歩きながら神殿の荘厳さを感じ取ることになります。
第二テラスは物語を語る場であり、南側柱廊には「プント遠征」の場面が、北側柱廊には「神聖な誕生」の場面が描かれています。誕生のレリーフでは、アメン神がアハメス王妃との結合によってハトシェプストを誕生させたこと、神々が赤子ハトシェプストを抱き生命を授ける場面が表現されています。これにより、ハトシェプストは単なる人間の娘ではなくアメン神の血を引く存在として描かれ、女性でありながらファラオとして即位した正当性が強調されています。参拝者はこの物語を目にすることで、彼女を神格化された存在として認識することになるのです。
第三テラスでは、冥界の神オシリスの姿を模した柱像が並び、その顔はハトシェプスト自身のものとなっています。これによって、彼女は神の化身として表現されています。また、第三テラスにはアメン神殿やハトホル礼拝堂が併設され、神々への直接的な奉納と祈りの場となっています。
さらに、この三層構造は単なる建築的な配置だけではなく、宗教儀礼の進行そのものを表しています。第一テラスは「俗界から聖域へ入る境界線」、第二テラスは「女王の神聖性の確認の場」、第三テラスは「神との関わりによって永遠を確信する場」として構成されているのです。参拝者が段階的に進むことで、儀式の流れを体感し、ハトシェプストの神格化を実感する仕組みになっています。
さらに葬祭殿は、ナイル川東岸に位置するカルナック神殿と、ナイル川を挟んでほぼ一直線上に配置されています。つまり、カルナック神殿とハトシェプスト葬祭殿は、視覚的にも象徴的にも「軸線」で結ばれた建築物でした。カルナック神殿が太陽神アメン=ラーの本拠地であるとすれば、ハトシェプスト葬祭殿はそのアメン神を崇め奉る場所だったのです。この両神殿を結ぶ「軸線」こそ、太陽神への奉納儀礼が東西を貫き、ナイル川を越えて行われていたことを示す象徴的な存在であることを世に知らしめたのです。
このように「ハトシェプスト葬祭殿」は、女性王であるハトシェプスト自身の神格化と王権の正当性を示すための重要な祭殿としての意味を持っていたのです。
次は、ハトシェプスト女王の後継者であり、また“エジプトのナポレオン”と呼ばれるファラオを紹介しましょう。

トトメス3世胸像/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト
トトメス3世は「エジプトのナポレオン」と呼ばれるというよりも、ナポレオンがこのファラオに似ていると言った方が正しいのかもしれません。
トトメス3世は、古代エジプト第18王朝の6代目のファラオ(在位:紀元前1479年―紀元前1425年)で、約54年という長きにわたり統治しました。その治世の最初の22年間は、継母であるハトシェプスト女王との共同統治であり、この期間は主にハトシェプスト女王が政治的な実権を握っていました。ハトシェプスト死後、トトメス3世は単独のファラオとして統治し、エジプト史上最大の帝国を築き上げました。
東方の強国であったメソポタミアのミタンニ王国の勢力を抑え、ユーフラテス川以東にまで影響を及ぼしました。さらに、ナイル川には北から南にかけて六つの急流があります。第一急流はエジプト南部アスワン付近、第二急流はスーダンのワディ・ハルファ付近、第三急流はスーダンのトンディ付近、第四急流はスーダン北部のカジャバ付近(メロエより北)、第五急流はスーダンのケルマとメロエの間、第六急流はスーダンの首都ハルツーム近郊に位置しています。トトメス3世は南方へ勢力を拡大し、第四急流付近まで支配を及ぼしました。
彼は治世の間に17回以上の軍事遠征を行ったとされます。その最初の遠征が紀元前1457年の「メギドの戦い」でした。敵対する勢力はカナン連合軍(カデシュ王、メギド、ミタンニの支援勢力)でした。
エジプト軍は進軍にあたり、安全だが遠回りとなる北側ルート、比較的安全で進みやすい南側ルート、そして山間の狭隘な道で待ち伏せの危険がある中央ルートの三通りの選択肢を持っていました。トトメス3世はあえて危険な中央ルートを選び、敵の意表を突いてメギド平原に到達しました。カナン連合軍は防備を薄くしていたため敗走し、メギドの城塞に籠城しました。エジプト軍は約7カ月にわたり包囲戦を続け、最終的に敵を降伏させました。この大胆な戦術は、トトメス3世の軍事的才能を示すものとして高く評価されています。
また、彼は軍事面だけではなく、外交や宗教政策にも大きな功績を残しています。ミタンニ王国との外交関係の構築や、カルナック神殿群の拡張を推進し、アメン神信仰を強化することで政治の安定化を図りました。さらに神殿の彫刻や絵画に数多くの記録を残し、文化面でも重要な役割を果たしたファラオでした。

トトメス3世像/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト
エジプト関連の場面から、次は珍しい猫ちゃんに切り替えましょう。

オッド・アイの猫/ジョージア(旧国名:グルジア)
左右の眼の色が違っているのが分かりますか。
ジョージアの田舎のレストランで出会った猫です。とても人懐っこく、私の足にすりすりしてくれました。
思わず連れ帰りたい誘惑に駆られてしまいました。
猫にはこのオッド・アイのほかに、ダイクロイック・アイと呼ばれるタイプもいます。
こちらは瞳そのものが二色に分かれている希少な猫で、オッド・アイよりもさらに生まれる確率は低いとされています。
次は、いまだ多くの謎を抱えた白銀の大陸、南極へと歩を進めましょう。

ブェノスアイレスの夕暮れ/アルゼンチン
夕暮れの中、アルゼンチンのブェノスアイレス港で大型客船に乗り込み、南極へ向けて旅立ちます。
私は思い切って、デッキ付きの部屋を選びました。」

大西洋パタゴニア沖の華麗な夕暮れ/アルゼンチン
船旅では、朝焼けに染まる水平線、朝日にきらめきながらうねる大海原、真昼の太陽のもと青く澄みわたる果てしない海、そして夕刻には、沈みゆく太陽が空に描き出す妖艶な色彩の舞台を、ゆっくりと味わうことができます。
こうした移ろいゆく光と海の表情を友とする時間こそ、クルージングの醍醐味といえるでしょう。

朝焼けのウシュアイア湾/アルゼンチン
3日ほど大海原を航海した後、「ウシュアイア」の港に立ち寄りました。

朝焼けのウシュアイア湾/アルゼンチン
「ウシュアイア」の港から、さらに二日ほどかかる南極へと向かいます。

ウシュアイア/アルゼンチン
ウシュアイアは、ブェノスアイレスから飛行機で3時間半ほど南下した場所にあります。
ここから船で南極に向かうという旅もありますが、今回の私はブェノスアイレスから船旅で南極に向かいます。

ウシュアイアの小さな島の灯台/アルゼンチン

ウシュアイアの小さな島の灯台/アルゼンチン
果てしない地球の果てに来た感じがします。
私の書き続ける「歴史エッセイ」のサブタイトルは、「Horizon」となっています。
その意味は、地平線、水平線の他に、「天涯」という意味もあります。
天は、空・天空、涯は、果て・限りなどを意味し、「天の果て」というような、人の心に染み入る抒情的な感覚を呼び起こします。私の好きな言葉の一つでもあります。
沢木耕太郎さんの写真集に「天涯」という数冊の作品があります。
私はこの作品が全冊大好きです。彼は写真家ではありませんが、取材で撮りためた膨大な写真を本にまとめたのがこの「天涯」です。中にはピンボケの写真や、普通では何を意図して撮ったものか判然としないものが沢山収録されています。しかし、その写真がとても味わい深いのです。とても心に染み入る写真が沢山収録されています。私の枕頭の書として枕元に積んであります。おすすめの、心を癒す写真集です。自分のこの何気ない灯台や、遠くに見える寒々とした山並みを撮った写真が、誰かの心に残ればうれしいなと思いながらここにご紹介しました。
長い船旅はそれでもゆっくりと南極に近づいていました。

ライオン顔の流氷/南極前線
揺れに揺れたドレーク海峡を過ぎて、南極大陸に近づくと先ず南極前線を通過します。
そして次に南極圏へと向かいます。
今回の船旅で、南極前線で船は猛吹雪にあいました。
勿論屋上デッキには出ることができないので、じっと船室で荒れ狂う海と窓に吹きつける吹雪を眺めているしかありません。幸いなことに、船内にはレストランや、カフェがあってゆったりと時間を過ごす空間は確保されていました。
この流氷は南極前線で出会いました。
まさに、ライオンの顔に見えました。後ろの小さな流氷は親に従う子ライオンにも見えます。

テーブル型氷山/南極前線
船は南極前線を通過中です。
その兆しは、海上に突然姿を現したテーブル状の氷山によって知らされます。
高さはゆうに数十メートルはあるでしょう。
館内放送によれば、遠方に見える巨大な白い氷山は、A23a 氷床から離脱した長さ約19kmのタブラー氷山とのことでした(前の氷山の奥に見える大陸状の氷山がそれです)。
この広大な海原で、こうした規模の氷山と出会えるのは、まさに幸運としか言いようがありません。さらに、このような巨大氷床の横を航行する場合は、船長は相当注意深く操舵しているに違いありません。
帰国後、A23a 氷床について調べてみました。
A23a は1986年、南極大陸のウェッデル海南西部に広がる「フィルヒナー=ロンネ棚氷」から分離した、全長70kmに及ぶ巨大氷床です。氷の厚さは200~300mあると言われています。
分離後は海底の浅瀬に乗り上げ、1986年から2020年頃までの30年以上、ほとんど動かない“氷の島”としてウェッデル海に留まり続けました。
ところが2020年頃、海流や風の変化によって再び漂流を開始し、2023年から2025年にかけてサウスジョージア島方面へと北上。
その動向は世界中の研究者が追跡するほど注目を集める存在となりました。
私が、南極前線で船のデッキから目にしたのは、おそらくこの A23a から分離した大型タブラー氷山、あるいは同じ棚氷に由来する巨大氷山だったのでしょう。
いずれにしても、この大海原で、地球の断片ともいえる氷山と出会えたことは、奇跡に近い幸福であったことに変わりはありません。

例えようもないほど美しく蒼く輝く流氷には感動します。
奥に見える陸地が南極大陸です。
私たちが住む地球の偉大さを感じずにはいられません。
おそらくこの景色は、私の人生の宝物になることでしょう。

パラダイス湾/南極
パラダイス湾にある、アルゼンチンのアルミランテ・ブラウン基地が遠くに見えています。
この日は2月初め、曇り、外気温-1℃。
どこかの国の大型クルーズ船が停泊していました。
夏のほんの短い間だけ、観測隊の人たちを除けば、観光することが可能です。
長年の夢だった、南極を訪れることができたのは、長い社会人生活を終えて、健康を保ち得て、ひたすら生きてきたことに対する、神様のご褒美に思えて仕方ありませんでした。
日々に感謝を捧げて生きるということが、どれほど大切なことなのか、この年になって少しだけ分かったような気がします。

アルゼンチン・アルミランテ・ブラウン基地遠望/パラダイス湾/南極
南極の壮大な景色です。
大型船の大きさからして、その先にある氷壁の高さが、尋常な高さではないことが一目でわかります。
南極大陸の氷の厚さは最大約2,500mもあるそうです。

大陸の氷床と流氷/南極
1月終わりころの、この時期の外気温は大体一1℃から一2℃くらいでした。
それにしても、様々な形をした美しい氷山は、部屋のテラスに座って眺めていても、少しも厭きません。
遠くに見える、大陸を覆った氷の壁が恐ろしいほど美しく見えます。
南極は、自然の万物に神を感じる日本人である私にとって、まさに神の棲む場所としか思えませんでした。
それほど神々しく神秘的な場所に思われたのです。

群れで漁をする皇帝ペンギンたち/南極
2025年1月末、私が訪れた南半球の南極は真夏でした(外気温は一1℃くらい)。
この時期は動物たちの繁殖の季節でもあります。

氷床/南極
ここは南極のパラダイス湾の景色です。
氷壁が延々と続いていました。

南極の航海の後、パタゴニアに立ち寄りました。
パタゴニアには、動物の繁殖地が沢山あります。
ここは、象アザラシの繁殖地です。
黒く見えるのが赤ちゃんです。
お母さんに寄りかかって気持ちよさそうに寝ているのがわかります。
故郷、熊本「あさぎり町」のギャラリーで「南極写真展」を、近いうちに開催する予定です。
是非ご来館下さい。
次は、アイルランドの紹介です。

ヨーロッパ最西端/ディングル半島/アイルランド
私がアイルランドを訪れたのは、2025年8月です。
日本は猛暑の中、成田出国の日の気温は、38℃でした。
しかし、アイルランドの首都ダブリンは何と18℃でした。空港の外に出るとそこはまるで高原のさわやかさです。
まさに避暑に来た感覚でした。
暫く日本に帰りたくないと思いました。
朝晩は13℃くらいで少し肌寒く感じますが、日本の湿度の高い暑い夏を思うと、何と幸せな気候だと思わず胸が躍りました。
早朝の散歩が楽しくなるくらいさわやかな朝でした。
アイルランドは、ローマ帝国がその勢力を及ぼさなかった場所です。大ブリテン島からの、間接統治で良しとしたため、純粋なケルト文化の宝庫の国です。
温和な気候、優しい人々が暮らすこの国は、現在ITや製薬分野で目覚ましい経済発展を遂げました。近代には、アメリカに大勢が移民し、その一家系からJ・F・ケネディ大統領を輩出した国でもあります。

花咲くヒース/ディングル半島/アイルランド
アイルランドの8月は、野生ヒースの満開の時期を迎えていました。
島のいたる所でヒースの花を見かけます。しかも、ヒースには数種類あり、この画像は比較的花房が大きく色も濃い種類でした。

山の斜面一面に咲くヒースの花/ウィックロー国立公園/アイルランド
国立公園内の山々には、全山一面のヒースが満開で、ピンクの絨毯を敷き詰めたような景色を見ることができます。遠くの山はだもヒースが咲いているのがわかります。
これだけヒースの花が咲いているのは、圧巻の風景です。

フクシアの花/キラーニー/アイルランド
この花の名前は「フクシア」といいます。
この花も、島の至る所で咲いていました。所によっては咲いているという表現よりは、群生していると言った方がふさわしいかも知れません。元々は園芸品種の植物が、いつの間にか野生化したものと思われます。よほどこの地の風土に合ったのでしょう。

フクシアの花/キンセール/アイルランド
この花も「フクシア」、色々な種類があって、花の色や大きさも違います。
キンセールという町で見かけた花です。
家々が色とりどりに壁を塗り上げて街並みの美しい町でした。
丁度、このフクシアの向こうに、青い窓枠の家があり、それを背景に撮りましたが、補色の効果で花がとてもきれいに写りました。

フクシアの花/トラモア/アイルランド
このフクシアの花は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)記念庭園で撮りました。花房が少し大きい種類のようです。庭園は避暑地の町の高台にあり、この時は眺めのいい場所にカフェを建設中でした。出来上がったら絶景からティータイムを満喫できることでしょう。

ヒオウギスイセン/ディングル半島/アイルランド
このヒオウギスイセンも、この地に根づいた外来種の花であり、まさに群生し街道沿いに色を添えています。
この花は、全世界に分布している交配種で、親は南ア産ですが、耐寒性に優れ、荒れ地を好むらようです。
これだけ道路の両側に咲き乱れていると、花道を行く誉れにあずかった気がして嬉しくなってしまいます。

コマドリ/ウォーターフォード/アイルランド
アイルランドでは、いたるところでこの「コマドリ」に出会えます。
人を怖がる風もなく近づいても逃げません。
恐らく誰も小鳥を捕まえたり脅したりしないからでしょう。
すぐ近くに寄っても、手を出したりしない限り飛び立ちません。
じっと、モデルを買って出てくれます。
美しい夏の森を背景に、可愛いい姿をじっくりと撮影しました。カメラ目線でこちらをうかがう様子は、まさにアイルランドの夏の妖精に思われました。

アジサイ/キラーニー/アイルランド
アイルランドの家々の庭にはだいたい紫陽花が植えてあります。
盛りを過ぎてもなぜか風合いのある姿が美しく感じます。
旅の途中でも、島全体の至る所でアジサイを見ました。しかも、色々な種類のアジサイが沢山咲いていました。庭の主役として植えてある家もありました。

アジサイ/キラーニー/アイルランド
こちらも終わりかけのアジサイです。
花が終わり始める晩夏の庭では、まだ色香を失わず、過ぎゆく夏に彩をそえています。
名探偵ポワロの映画の中に出て来そうな庭でした。

アジサイ/キラーニー/アイルランド
こちらも白壁の家の窓際に植えられたアジサイです。
この枯れかけたような花房が、赤く固まって咲いて入る様は、まるで花のドレスのように見えてしまいました。
飾らず、自然のままの命の「消えゆく前の輝き」とは、このような美しさを言うのだろうと思いました。
冬が来る前の最高のお化粧です。

アジサイ/ウォーターフォード/アイルランド
このアジサイは、ウォーターフォードの町の早朝散策中に公園の片隅で撮りました。
花たちは、誰のために、何のためにこうして咲き乱れるのでしょうか?
種の保存のためだけに花が咲くのだとは思いたくありません。
でも花は何も語ってはくれません。

ウォーターフォード/アイルランド
ウォーターフォードの町は、毎年国際的なストリート・アート・フェスティバルが行われる町です。
この作品もその一つで、ポルトガル出身のMr.Casの作品です。
町中にいろいろな作品が描かれていて、それを見て歩くだけでとても幸せな時を過ごせます。

へーべ・スペシオサ(ベロニカ)/ウォーターフォード/アイルランド
町のいたるところに花が咲いています。この花は、アパートとおぼしき玄関脇に咲いていました。一日の労働を終えて帰宅し、玄関脇の花が出迎えてくれるのは、身も心ほぐしてくれることでしょう。

放牧場/ディングル半島/アイルランド
広々として羊の姿が見当たりませんが、ここは確かに放牧場なのです。
何故ならこの平原の入り口には、小さな小屋があって少女の門番がいました。
声をかけると笑顔で牧草地に入れてくれました。
どんよりと雲が低く垂れこめていましたが、冷たい美しさが広がる景色でした。

ディングル半島/アイルランド
ディングル半島の断崖の眺めです。
どんよりとした天候で、静かな海の眺めは最果ての地のイメージです。
こうした景色を言葉に変えるなら「孤独な美しさ」とでも表現するしかないのでしょうか。

ガララス礼拝堂への道/ディングル半島/アイルランド
ここにもフクシアが群がり咲いています。
この先に、ガララス礼拝堂があります。
この島では、いたるところでさわやかな風と花の出迎えを受けます。

ガララス礼拝堂/ディングル半島/アイルランド
7世紀頃の、初期キリスト教時代の修道士たちのための礼拝堂とされています
。また巡礼者のための避難所としても使われました。
私の旅はこれからも、まだまだ続きます。
命の許す限り。
「第八写真館」ご来館有難うございました。
今回は、エジプト、南極、そしてアイルランドを旅しました。
エジプトは、古代の人々が築いた壮大な歴史が、私をその時代へと誘い、まるで自分がそこに立っているかのような夢の空間を与えてくれました。
南極は、これまでの人生で経験したことのない異次元の世界を開き、自然の圧倒的な力の前で、神の存在をより身近に感じさせてくれました。
アイルランドは、かつて世界の果てまで征服を進めた大帝国でさえ、その支配欲を強く向けなかった島であり、歴史の影響が比較的薄く残る静かな空間を体験させてくれました。
世界には、まだまだ私の旅の欲求を満たしてくれる場所が、数えきれないほど存在している──そのことを改めて気づかせてくれる旅でした。
次は『第九写真館』へのご来館を、心よりお待ちしております。
館主 : 牛島まさみ