『ヒヴァ/ウズベキスタン』
「博物館都市」そう呼ばれる街がある。
ウズベキスタンの「ヒヴァ」である。
ヒヴァには城壁に囲まれた旧市街に、モスク、メドレセ(神学校)、
霊廟などの歴史的建造物が極めて良好に保存されていることから、訪れる人々や研究者から「博物館都市」と呼ばれるようになった。
ヒヴァは旧市街のイチャン・カラが、1990年にウズベキスタン国内で初めてユネスコの世界遺産に登録された街である。
ヒヴァの街の特徴は、イチャン・カラ(ウズベキ語で「内城」という意味)と呼ばれる旧市街と、 ディチャン・カラ(ウズベキ語で「外城」という意味)と呼ばれる新市街で構成された街である。その全体がヒヴァの街なのである。
イチャン・カラは世界遺産登録基準である下記の理由においてその登録が認められている。
イチャン・カラの街は、歴史的にはマー・ワラー・アンナフル(アラビア語で川向こうの土地の意味)または「トランスオクシアナ」ともいわれる、
アムダリヤ川とシルダリヤ川の間にある、現在のウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン南部、キルギスの国々を指す地域である。
この地域にはシルク・ロードの交易上の重要な都市が多くあり、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブズ、コーカンド、
タシュケント、ホジェンドなどである。
今回のテーマであるマー・ワラー・アンナフル地域の1都市であるヒヴァは、中央アジアのほかの都市と同じく、 紀元前から交易都市の1つとしての役割を果たしてきた。紀元前4世紀の終わりには、アレクサンドロス大王の遠征によって マケドニア文化の影響を受けた。またその後は、いくつかのイスラム王朝が成立して消えて行きその時代時代の影響を受けることとなった。
7世紀はアラブ人国家であり、首都をダマスカスに置く、ウマイヤ朝の支配を受けイスラム文化が流入した。 8世紀にそのウマイヤ朝はアッバース朝によって滅ぼされた。ウマイヤ朝と同じアラブ人国家であるアッバース朝の支配を受けて、 更に本格的なイスラム化が進んだ。9世紀にはアッバース朝から派生した、イラン系のサーマーン朝の支配下となって、 首都はサマルカンドに置かれ、その後暫くしてブハラに遷都された。この当時は、ペルシア語による文化が発展し、 首都であったサマルカンドやブハラはイスラム文化の繁栄を謳歌した時期でもあった。しかし、元は遊牧民族であった、 テュルク系のイスラム王朝であるカラハン朝の侵入によって、繁栄を極めたサーマーン朝は999年に滅亡した。
カラハン朝はサーマーン朝を滅ぼして、マー・ワラー・アンナフルを征服しイスラムの法によって統治を行うほか、 学問や芸術の発展にも力を入れた。首都は最初ベラサグンであったが、その後カシュガルに移し、 最後にサマルカンドに移している。サマルカンドは、シルク・ロードの重要な交差点であり、 政治的な支配上の利点、また交易や軍事的な観点から考慮した場合の選択であったと思われる。
しかしカラハン朝は、11世紀中頃になって東西に分裂し、東カラハン朝は西遼(カラ・キタイ)に征服され従属したが、 その後ナイマン部族によって滅ぼされた。
西カラハン朝は11世紀末にセルジューク朝に臣従したが、その後ホラズム=シャー朝によって1212年に滅ぼされた。 そのホラズム=シャー朝は、中央アジア、イラン高原などの広大な地域を支配し、クフナ・ウルゲンチを一時的な首都としていたが、 最終的に政治・経済的な都市機能を歴史的に担ってきた、シルク・ロードの重要都市であるサマルカンドを首都にしたのである。
一方で当時大帝国に成長したモンゴル帝国は、当時、全部族の帝国経営に関して、放牧地の拡大、戦時の戦費調達、 将兵への報償分割などの財源確保について、将来への展望を練っていた時期であろうことが想像できる。
そのホラズム=シャー朝は、偶然にもモンゴル帝国との間に、オトラル事件を発生せしめたのである。その事件とは、 モンゴルの大商団を、モンゴル帝国が中央アジアへの侵攻のために送り込んだスパイ扱いをして、その商人のほとんどを殺害し、 大量の荷を奪い取った。それに激怒したチンギス・ハンは詰問の使者をホラズム=シャーの王に送った。それに対し、 ホラズム=シャーの王であるアラーウッディーンは、主使を殺害し副使2名の髭をそり落とし追い返すという暴挙に出た。
モンゴル帝国とホラズム=シャー朝は、勢力拡大の利権争いという面において、お互いに競争意識を持ち始めていたおり、 この事件はモンゴル帝国にとって中央アジア侵攻の格好の理由を与えてくれたのである。モンゴル帝国の将来に向けた戦略的な 想定した範囲での戦いであったはずだ。
モンゴル帝国は凄まじい勢いで、ホラズム=シャー朝の本拠地である中央アジアを呑み込んだ。 その征服された都市の1つにヒヴァも含まれていた。この侵攻で中央アジアはモンゴル帝国の手中に落ちたのである。
その後大モンゴル帝国は、チンギス・ハンの死後4つの国に分けられ、それぞれをチンギス・ハンの末裔である「ハン」が 治めることになった。大元・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、ジョチ・ウルスである。 この中のチャガタイ・ウルスがヒヴァのあるマー・ワラー・アンナフルを含む中央アジア全域を支配した。
この政権については、その終焉について書かれた書の記事を引用させて頂こう。
「チャガタイ・ウルスもまた、ドゥア諸子のひとりタルマシリン(在位1326年―34)がムスリムとなりサマルカンドちかくの カシュカ川畔に宮殿をたててくらしだしたころから、東のイリ渓谷を中心に遊牧生活を維持していたものと、 西のマー・ワラー・アンナフルにおいて都市生活をおくるものとの、二派にわかれるようになってきた。この東西分裂は、 ロシアの偉大なアジア史家バルトリドが提唱して以来、たいへん有名だが、そのじつ正確な分裂の時期はきめがたい。 とにかく、両派はたがいに軽蔑しあって対立をふかめ、王統も混乱して統一は急速に失われた。チャガタイ・ウルスは、 強力な中央機構をもっていなかったことが致命傷であった。東部では実権はドゥグラト部の手にうつり、 西部でも1346年に実力者のアミール・カズガンが主筋のカザン・ハンを打倒した。 混迷のなかから、東部にドゥアの裔と称するトゥルグク・テムルがあらわれて1346年に王となり、マー・ワラー・アンナフルに 進撃して東西をほんの一時期だけ統合した。しかし、結局、西部にはティムールが出現することになり、 東部ではトゥルグク・テムル子イリアス・ホージャがモグリ―スタンとよばれる遊牧王国を天山一帯に維持し、 その子孫に王統をつたえることになった。モグリ―スタンとは、ペルシア語で、『モンゴルの地』の意味である。」 『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』著者:杉山正明
大モンゴル帝国の終焉の後に、マー・ワラー・アンナフルに現れたのが、チンギス・ハンと並び称される英雄のアムール・ティムールである。 ティムール(1336年―1405年)は、サマルカンドの南に位置するキシュ近郊で生まれたとされ、 チャガタイ・ハン国の貴族(モンゴル軍の武将)の家に生まれた。その卓越した軍事的な才能を発揮して、 1370年ティムール朝を建国したのである。彼はモンゴル帝国の継承政権を標榜し、瞬く間にマー・ワラー・アンナフルを拠点として、 現代でいう中央アジア全域、そしてイラン、イラク、トルコ、ロシア、インドなどの国々の全域又は一部の領土を征服した。
ティムール朝は、マー・ワラー・アンナフルの中でも、サマルカンドを首都としていたために、その文化もサマルカンドを中心として、 大きく文化の発展がみられた。サマルカンドは、モンゴル帝国のアジア侵攻の際に、街は破壊しつくされたが、 ティムールによって再建されたのである。ティムールは街の再開発のために、モンゴル帝国が破棄しつくしたアラシャブの丘の南側に、 新しいサマルカンドの街を再建した。街の中心部には4つのマドラサ(神学校)があるレギスタン広場や、 ティムール朝の建国者である本人や、子孫、側近たちの埋葬されたグリ・アミール廟、彼の妃のために建てられた 壮大な建造物ビービー・ハーヌム廟など、アミール朝の代表的な色である、青を基調とした装飾タイルで彩られた美しい建物「青の都」 と呼ばれた由縁が他にも多くあって、その繁栄の足跡を残している。さらに、建築物のみならず、多くのマドラサでは、 宗教はもちろん、哲学、科学、数学、天文学などの学問の普及も計られ、さらにミニュアチュア(細密画)や 宮廷文化が華やぎ詩人や学者のサロンが形成されて、異文化世界との交流も盛んに行われた。
この栄華は、サマルカンドを中心して、当時のマー・ワラー・アンナフル全域にも伝わったと思われる。 そして当然ヒヴァにも何らかの形において影響を与えたに違いない。
1507年のティムール死後、ティムール朝はその子孫に受け継がれ、内紛などの内部的な問題を抱えつつ、しばらく続いたが 首都サマルカンドは、ブハラにその役目を引き継ぐことになるのである。
ティムール朝の後をうけて1428年にアブル=ハイル・ハンによって建国されたのが、シェイバニー朝である。
シェイバニー朝は1428年に、アブル=ハイル・ハンによって建国された。この王朝は、モンゴル帝国がチンギス・ハンの 死後4つに分裂したうちの1つ、ジョチ・ウルスの系譜を引く、遊牧民集団であるウズベクが建国したハン国である。 ウズベクとは、ジョチ・ウルスの最盛期を築いた「ウズベク・ハン」に由来して付けられた、もともとは中央アジアに広く住む テュルク系民族のことで、その中のウズベク族とでもいったウズベキスタンの主要構成民族である。
シェイバニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンが、1500年にティムール朝の衰退に乗じて、 その首都であるサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフル地域の支配権を得た。そして政権を得たシェイバニー朝は、 一時的にではあるがサマルカンドを首都としたのである。その後1557年になって首都をブハラに移した。 当時ブハラは首都としての機能だけではなく、文化や学問の中心地としても繁栄を極めていた。 さらに、ブハラには壮麗な建物も建築された。 その例をあげると、カリヤン・ミナレット、ミール・アラブ・マドラサ、アブドゥル・ハン・マドラサなどがある。
そして、このシェイバニー朝がマー・ワラー・アンナフルを支配していた時、その支配域であるホラズム地方で、 1512年イルバルス1世が当時そこを支配していたサファヴィー朝に勝利し、テュルク系のイスラム王朝である、 ウルゲンチ・ハン国を建国したのである。この時期、ウルゲンチ・ハン国はアムダリヤ川の沿岸にある、 クフナ・ウルゲンチを首都にしていた。そこはかつて、ホラズム=シャー朝が初期に首都としていた場所で、 アムダリヤ川が流れを変えて水源を失い放棄された場所であった。しかし、様々な理由で放棄しきれない人々が残り、 その後も街は維持されていたと思われる。私見ではあるが、おそらくアムダリヤ川は流れを変えたが、 川が干上がった訳ではなく、何らかの方法で困難ながらも水は確保していたであろうと思われる。さて、脱線したが本題に戻ろう。
ウルゲンチ・ハン国が建国当初、この街を首都とした理由として、元々はホラズム地方の重要な都市として機能した街であり、 軍事的な側面や、交易上の利便性や、サファヴィー朝から奪回した後の歴史ある地元の支持を得るなどの理由から、 ここに首都を置いた可能性がある。しかし、ホラズム=シャー朝と同様に、水源の確保が解決できないことを最大の理由に、 結局は1615年ヒヴァに首都を移転したのだった。シェイバニー朝は、1583年にアブドゥッラーフ2世がハン位に就くと、 その治世において翌年アムダリヤ川上流のバダフシャンを占領、1588年にヘラート、ホラーサーンを征服し、 次いでウルゲンチ・ハン国領であるホラズム地方も支配し、その政権を支配下に置いた。 ここに到りシェイバニー朝は、中央アジア南部をその支配領域としたのであった。この時期が、 シェイバニー朝の最盛期といわれている。しかし、そのアブドゥッラーフ2世が1598年に逝去すると、 内部の後継者争いによる権力闘争や、カザフ・ハン国の侵攻、またサファヴィー朝の圧力などにより、翌年には滅亡するのである。
その後を受け継いだのが、アストラハン朝(ジャーン朝)である。シャイバニー朝の男系が断絶したことから、 ジャーニー・ムハンマドがハン位に就いた。国名はブハラ・ハン国と呼ばれた。
ウルゲンチ・ハン国は一時的にはシェイバニー朝の傘下に入ったが、基本的には独立した国家として存在し続けた。 ブハラ・ハン国(アストラハン朝)とも、ロシア帝国との協調国として、両国の敵対勢力への共闘などにより共存をはかり続けた。
さてここで、これまで地理的にヒヴァを含むマー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)地域を支配した、 歴代の政権を振り返ってみよう。
1世紀から3世紀にはイラン系のクシャーナ朝、4世紀から5世紀半ばまではエフタルという中央アジアに存在した イラン系の遊牧国家、6世紀から7世紀は突厥(テュルク系)、8世紀から9世紀はウマイヤ朝の後にアッバース朝、 10世紀から11世紀はサーマーン朝の後カラハン朝、12世紀から13世はホラズム=シャー朝その後モンゴル帝国、 14世紀はチャガタイ・ハン国、15世紀はティムール朝、16世紀はシェイバニー朝、 というように様々な政権支配がなされて来たのである。つまり、このことが意味するものは、マー・ワラー・アンナフルの 1都市であるヒヴァは、ホラズム地方のシルク・ロードにおける、文化や交易の重要な拠点であり、様々な政権交代によって、 そのたびに複雑な情報が交錯して、新しい街に生まれ変わる要素を多く持ち合わせていたのである。
1615年ウルゲンチ・ハン国は、首都をここヒヴァに遷都してから、遷都後は街の名前に由来して、「ヒヴァ・ハン国」 と呼ばれるようになった。このヒヴァ・ハン国の遷都によって、以後街は大きく変貌を遂げてゆくことになった。 ヒヴァの街はその中心部に、冒頭にも紹介したが、イチャン・カラ(旧市街)と呼ばれる高い外壁に囲まれた内城と、 ディチャン・カラ(新市街)と呼ばれるやはり城壁に囲まれた外城で構成されている。
特に世界文化遺産に登録されたイチャン・カラには、18世紀から19世紀にかけて建設された50以上の歴史的な建造物や、 250以上の古民家が軒を並べている。イチャン・カラは大きく分けると、城郭と、「マドラサ(神学校)」と、 「マスジド(日常的に礼拝をおこなうモスク)やマスジド・ジャーミイ(金曜礼拝や特別な集団礼拝をおこなう大規模なモスク)」 と呼ばれるモスクや、「ズリーハ(霊廟)」さらに「ミナレット(尖塔)」がある。その数はモスクが20、マドラサが20、 ミナレットが6基ある。多くの物語を秘めた歴史的建造物が立ち並ぶ、壮大なイスラム教の都市なのである。 おそらく、ここを訪れた旅人はその魅力的で、色彩豊かな建物群に見惚れ、しばし立ち尽くすのではなかろうか。
私は2023年10月7日ヒヴァを訪れた。
この街の数ある建築物でも、特筆すべきものを上げてみよう。
先ずあげられるのは、イチャン・カラの街を囲む城壁の高さと、頑丈そうな敵を寄せつけないような威圧感であろう。 この城壁は、イチャン・カラがヒヴァの首都となった17世紀の修改築によって、高さが10mまで積み増しされたといわれている。 当初は7~8m位だったようだ。城壁の基部の厚さはおよそ6mとされ、城壁の全長はおよそ2.2㎞あるという。 城壁にはパルワーン・ダルワザ門(東側)、アタ・ダルワザ門(西側)、タシュ・ダルワザ門(南側)、 バグチャ・ダルワザ門(北側)の4つの門がある。これらの門も、城壁に合わせて、10mまでの高さまで上げられたとされる。 当時これらの建築をするにあたり、戦争で捕虜となった兵士や征服地の住民などが奴隷として作業にあてられたようだ。
カリタ・ミノルは、ウズベキスタンの秋の乾いた空気と澄み切った青空に、堂々たる迫力で、 青色と緑の美しい装飾タイルをまとい聳え立っている。このミナレットは、19世紀半ばの君主であるムハンマド・アミン・ハンが 建築を命じて建てられていた。しかしそのムハンマド・アミン・ハンが、1855年トルクメニスタンとの戦いで戦死し、 その後に建築の意思を引き継ぐ後継者がいなかったことと、当時のヒヴァの政治や財政状況の悪化が理由で、 未完成のまま建築は中断されたのである。
また、ジュマ・モスクは10世紀に建てられ、現在のモスクになったのは18世紀末頃である。「金曜モスク」と呼ばれて、 その内部は213本の柱に彫刻が施されてあって、そのすべてが異なっており、デザインの素晴らしさに驚嘆するモスクである。
イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレットは、1910年に建てられた高等教育施設にミナレットが併設された建物である。 この複合体施設はヒヴァ・ハン国最後の王に仕えた大臣のイスラーム・ホジャが建てたものである。 メドレセの隣にあるミナレットは、45mありヒヴァで一番高い塔である。この塔は上ることが出来て、その塔から眺める イチャン・カラの展望はたとえようもないほど素晴らしい。
ヒヴァはこれまで述べてきたように、マー・ワラー・アンナフルにおいて様々な政権が移り変わり、 興亡の歴史を繰り返しながら、旅人にも多くのことを語りかけてくれる。イチャン・カラの街を歩いていると、 ふとラクダを引いたシルク・ロードの商人が現れるような、そんな幻覚に襲われることがある。 ふとわれに返れば、沢山の土産物を売っている広場に立ち尽くしていた。そこには「アトラス」と呼ばれる豊かな色彩と 美しい模様の絹織物のスカーフが、無造作に軒下の竿に下げられて、涼しい秋風にはためく様や、ザクロや鳥や花がモチーフの 「スザニ刺繍」が施された手持ちバッグや、路面に広げられた絨毯や、様々な小物の土産品などが、雑多に並べられている。 そんな人々が行き交う雑踏の中に、一瞬で溶け込んでしまいそうな、そんな不思議な感覚を覚えるのである。
ヒヴァ・ハン国は、1512年に、現在のウズベキスタンのホラズム州、アムダリヤ川の下流域に位置するオアシス都市ヒヴァに 建国されたテュルク系のイスラム王朝の国である。現在のヒヴァは、歴史的文化遺産が多く残る、魅力的な観光都市として 数多くの観光客が訪れ、その魅力に取りつかれ、再び訪れて見たくなる街でもある。 特にイチャン・カラは多くのモスクや、メドレセやミナレットなどの、美しい建物群が集中して現存しており、 これらを良い季節に訪れると、旅の想い出として一生の宝物になることは必至である。
さて、ここでヒヴァ・ハン国の終焉について語ることにしよう。
1873年、ロシア軍がヒヴァ・ハン国に侵攻して後に、ヒヴァ・ハン国はロシアの保護国となった。形式的には独立状態であったが、 内政・外政的にはロシアの干渉を受けることが多い状態であった。しかし、1917年ロシアでは「ロシア革命」が勃発し、 ロシア帝国は消滅することになる。これを機に、ヒヴァ・ハン国は独立を試みた。しかし1920年、今度はロシア赤軍の介入を受け、 ここに「ヒヴァ・ハン国」は消滅することになる。この赤軍の介入によって、ヒヴァ・ハン国はソビエト連邦の一部、 ホラズム州を中心とした組織に組入れられ、「ホラズム人民共和国」が設立された。
その後、1924年にソビエト連邦の一部とする「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」に国名を変えた。
さらにその後、ソビエト連邦が崩壊した後、独立国として「ウズベキスタン共和国」と国名を変えて今に至っている。
これまで、中央アジア、またその南部にあたる地域マー・ワラー・アンナフル(トランス・オクシアナ)について、 歴史の変遷を見てきた。この歴史の流れは、私たちに貴重な価値ある方向性を示してくれる。
つまり、島国に住む日本人には味わえない不思議な感覚を投げかけるのである。
その全域を海という強力な国境線に守られている民族には、異民族による度重なる侵攻行為などの、 まさに国境の概念を脅威として、理解しえない国なのである。 今回の中央アジアの興亡の歴史を注視するとわかるのは、国境は火種のそばにある導火線のような存在なのである。 歴史はそのことの意味を明確に示唆しているのだ。
現代においては、例えばEU(欧州連合)は、共通の経済、通商、農業、環境、エネルギー、司法、内務などの分野において 共通の政策を行うことで運命共同体を築いた。つまり国境を取り払ったのである。この過程では、1952年に、 ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立や、1958年、EEC(欧州経済共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体などの設立や、 更にその後1993年マーストリヒト条約の発効などの地固めの結果EUが正式に設立された。 このことで、EU加盟国の国境は実質的には無くなったのである。これは国境線の火種を取り除く一つの成果として、 歴史上大きく評価すべきシステムなのだ。しかしこの考え方は、残念ながらまだ一部の国々の運用システムに他ならない。 それに対しては懐疑派や反対組織も存在する。例えばイタリアの北部同盟や、EAEU(ユーラシア経済連合)などがある。 これらは、いまだに大きな導火線として存在している。
かつて、プロイセンの軍人であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、その著書『戦争論』で、 「戦争は異なる手段でもって行われる国家の政策の延長に他ならない、ということである。このことを常にしっかり見据えておけば、 戦争というテーマの検討にあたって統一性が得られることになり、複雑な問題もすべて容易に解決されるであろう。」と書いている。
彼の戦争に対する考えは、恐らく現代においても国策としての重要な示唆となっていると思われる。 戦争は政治の延長線上に存在し、戦争は政治の一手段であり、その考えで行けば、戦争は政治の一部でもあるとし、 軍事行動を国家の一政策としてとらえることで、その本質を理解しようとしたのである。
この理論は、ある意味戦争を正当化するために利用されるという負の側面がある。 一方で、戦争の目的が明確にされたことで、無意味な戦争は避けるべきだとする意味にもとれるのである。 ここで、しばしば戦争開戦の根拠になる理由について考えてみたいと思う。
「資源の不足が理由」の問題は、国家の死活問題であり、不足及び不足していなくても、独占支配するための戦争が起きる可能性がある。
「領土問題が理由」の問題は、領土の支配権をめぐっては、過去の戦争の歴史にもたびたびその理由として起きているという現実がある。
「政治的対立」の問題は、国家間の政治体制やイデオロギーの違いから引き起こされる戦争は、時として革命や内戦に発展することもある。
「民族・宗教の対立が理由」の問題は、民族の違いや、宗教の違いによって戦争に発展することがある。
「経済的問題が理由」の問題は、市場や交易ルートなどの経済的な利益を優先するために起きる戦争がある。 ここの範疇には、最近は新技術や貴重な国家間の情報なども含まれるに違いない。
「地政学的理由」の問題は、地理的に有利な条件を確保するために、例えば特定な地域を支配することで得られる、軍事的、経済的、 資源確保などの理由により起きる戦争がある。
「歴史的な遺恨が理由」の問題は、過去の歴史的な恨みに対する、復讐心から引き起こされ戦争になる。
恐らくこれらの理由が考えられるだろう。過去の大戦はこの理由の中の1つ、または幾つかが絡み合い、 開戦となった可能性が高いと思われる。しかもこれから将来に向けてもこれらの理由は開戦を引き起こす大きな可能性を 秘めているのである。これだけ沢山の戦争を引き起こす可能性があることに、自分で書いていて無性に腹が立ってきた。 人類はこの世から、「戦争」という言葉を、無くしてしまうことは出来ないのだろうか。いや、何か方法があるはずだ。 あきらめずに、一人一人がそれを模索し続ける限り、きっと何かある筈だ。信じよう、書き続けよう。
さて、長々と中央アジアの話から、世界大戦の話までしてしまったが、ここでヒヴァの話に戻そう。
1873年、ロシア軍がヒヴァ・ハン国に侵攻したことは述べたが、それではその理由は何だったのかということである。
その理由は、前述の戦争を引き起こす理由の中にある1つだった。ロシアは中央アジア地域が持つ、商業的な潜在力の中で、 特にその産出品である綿花に目をつけたのだとされている。事実、私が訪れた10月には中央アジア全域が、 綿花の収穫時期を迎えて、綿花畑に大勢の人々が収穫作業に追われているのを目撃した。 車道にも綿花を満載したトラックが、何台も車列をつなぎ走っていた。その車の荷台からこぼれ落ちた沢山の綿花が、 路面に白く光っていたのを思い出す。その時、ああ、この道は「シルク・ロード」と呼ばれているが、もしかしたら、 「コットン・ロード」と呼び変えても良いのではないかとも思ったほどだ。
私は「ヒヴァ」という街で、沢山の文化遺産に心弾ませてめぐり歩き、幸せを心から堪能した旅であった。 そして、沢山のことを考えさせてくれる旅でもあった。
もし、また機会があれば、是非訪れたいと思う街の1つにもなった。
ヒヴァは旧市街のイチャン・カラが、1990年にウズベキスタン国内で初めてユネスコの世界遺産に登録された街である。
ヒヴァの街の特徴は、イチャン・カラ(ウズベキ語で「内城」という意味)と呼ばれる旧市街と、 ディチャン・カラ(ウズベキ語で「外城」という意味)と呼ばれる新市街で構成された街である。その全体がヒヴァの街なのである。
イチャン・カラは世界遺産登録基準である下記の理由においてその登録が認められている。
(1) | 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。 |
(2) | 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 |
(3) | ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。 |
今回のテーマであるマー・ワラー・アンナフル地域の1都市であるヒヴァは、中央アジアのほかの都市と同じく、 紀元前から交易都市の1つとしての役割を果たしてきた。紀元前4世紀の終わりには、アレクサンドロス大王の遠征によって マケドニア文化の影響を受けた。またその後は、いくつかのイスラム王朝が成立して消えて行きその時代時代の影響を受けることとなった。
7世紀はアラブ人国家であり、首都をダマスカスに置く、ウマイヤ朝の支配を受けイスラム文化が流入した。 8世紀にそのウマイヤ朝はアッバース朝によって滅ぼされた。ウマイヤ朝と同じアラブ人国家であるアッバース朝の支配を受けて、 更に本格的なイスラム化が進んだ。9世紀にはアッバース朝から派生した、イラン系のサーマーン朝の支配下となって、 首都はサマルカンドに置かれ、その後暫くしてブハラに遷都された。この当時は、ペルシア語による文化が発展し、 首都であったサマルカンドやブハラはイスラム文化の繁栄を謳歌した時期でもあった。しかし、元は遊牧民族であった、 テュルク系のイスラム王朝であるカラハン朝の侵入によって、繁栄を極めたサーマーン朝は999年に滅亡した。
カラハン朝はサーマーン朝を滅ぼして、マー・ワラー・アンナフルを征服しイスラムの法によって統治を行うほか、 学問や芸術の発展にも力を入れた。首都は最初ベラサグンであったが、その後カシュガルに移し、 最後にサマルカンドに移している。サマルカンドは、シルク・ロードの重要な交差点であり、 政治的な支配上の利点、また交易や軍事的な観点から考慮した場合の選択であったと思われる。
しかしカラハン朝は、11世紀中頃になって東西に分裂し、東カラハン朝は西遼(カラ・キタイ)に征服され従属したが、 その後ナイマン部族によって滅ぼされた。
西カラハン朝は11世紀末にセルジューク朝に臣従したが、その後ホラズム=シャー朝によって1212年に滅ぼされた。 そのホラズム=シャー朝は、中央アジア、イラン高原などの広大な地域を支配し、クフナ・ウルゲンチを一時的な首都としていたが、 最終的に政治・経済的な都市機能を歴史的に担ってきた、シルク・ロードの重要都市であるサマルカンドを首都にしたのである。
一方で当時大帝国に成長したモンゴル帝国は、当時、全部族の帝国経営に関して、放牧地の拡大、戦時の戦費調達、 将兵への報償分割などの財源確保について、将来への展望を練っていた時期であろうことが想像できる。
そのホラズム=シャー朝は、偶然にもモンゴル帝国との間に、オトラル事件を発生せしめたのである。その事件とは、 モンゴルの大商団を、モンゴル帝国が中央アジアへの侵攻のために送り込んだスパイ扱いをして、その商人のほとんどを殺害し、 大量の荷を奪い取った。それに激怒したチンギス・ハンは詰問の使者をホラズム=シャーの王に送った。それに対し、 ホラズム=シャーの王であるアラーウッディーンは、主使を殺害し副使2名の髭をそり落とし追い返すという暴挙に出た。
モンゴル帝国とホラズム=シャー朝は、勢力拡大の利権争いという面において、お互いに競争意識を持ち始めていたおり、 この事件はモンゴル帝国にとって中央アジア侵攻の格好の理由を与えてくれたのである。モンゴル帝国の将来に向けた戦略的な 想定した範囲での戦いであったはずだ。
モンゴル帝国は凄まじい勢いで、ホラズム=シャー朝の本拠地である中央アジアを呑み込んだ。 その征服された都市の1つにヒヴァも含まれていた。この侵攻で中央アジアはモンゴル帝国の手中に落ちたのである。
その後大モンゴル帝国は、チンギス・ハンの死後4つの国に分けられ、それぞれをチンギス・ハンの末裔である「ハン」が 治めることになった。大元・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、ジョチ・ウルスである。 この中のチャガタイ・ウルスがヒヴァのあるマー・ワラー・アンナフルを含む中央アジア全域を支配した。
この政権については、その終焉について書かれた書の記事を引用させて頂こう。
「チャガタイ・ウルスもまた、ドゥア諸子のひとりタルマシリン(在位1326年―34)がムスリムとなりサマルカンドちかくの カシュカ川畔に宮殿をたててくらしだしたころから、東のイリ渓谷を中心に遊牧生活を維持していたものと、 西のマー・ワラー・アンナフルにおいて都市生活をおくるものとの、二派にわかれるようになってきた。この東西分裂は、 ロシアの偉大なアジア史家バルトリドが提唱して以来、たいへん有名だが、そのじつ正確な分裂の時期はきめがたい。 とにかく、両派はたがいに軽蔑しあって対立をふかめ、王統も混乱して統一は急速に失われた。チャガタイ・ウルスは、 強力な中央機構をもっていなかったことが致命傷であった。東部では実権はドゥグラト部の手にうつり、 西部でも1346年に実力者のアミール・カズガンが主筋のカザン・ハンを打倒した。 混迷のなかから、東部にドゥアの裔と称するトゥルグク・テムルがあらわれて1346年に王となり、マー・ワラー・アンナフルに 進撃して東西をほんの一時期だけ統合した。しかし、結局、西部にはティムールが出現することになり、 東部ではトゥルグク・テムル子イリアス・ホージャがモグリ―スタンとよばれる遊牧王国を天山一帯に維持し、 その子孫に王統をつたえることになった。モグリ―スタンとは、ペルシア語で、『モンゴルの地』の意味である。」 『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』著者:杉山正明
大モンゴル帝国の終焉の後に、マー・ワラー・アンナフルに現れたのが、チンギス・ハンと並び称される英雄のアムール・ティムールである。 ティムール(1336年―1405年)は、サマルカンドの南に位置するキシュ近郊で生まれたとされ、 チャガタイ・ハン国の貴族(モンゴル軍の武将)の家に生まれた。その卓越した軍事的な才能を発揮して、 1370年ティムール朝を建国したのである。彼はモンゴル帝国の継承政権を標榜し、瞬く間にマー・ワラー・アンナフルを拠点として、 現代でいう中央アジア全域、そしてイラン、イラク、トルコ、ロシア、インドなどの国々の全域又は一部の領土を征服した。
ティムール朝は、マー・ワラー・アンナフルの中でも、サマルカンドを首都としていたために、その文化もサマルカンドを中心として、 大きく文化の発展がみられた。サマルカンドは、モンゴル帝国のアジア侵攻の際に、街は破壊しつくされたが、 ティムールによって再建されたのである。ティムールは街の再開発のために、モンゴル帝国が破棄しつくしたアラシャブの丘の南側に、 新しいサマルカンドの街を再建した。街の中心部には4つのマドラサ(神学校)があるレギスタン広場や、 ティムール朝の建国者である本人や、子孫、側近たちの埋葬されたグリ・アミール廟、彼の妃のために建てられた 壮大な建造物ビービー・ハーヌム廟など、アミール朝の代表的な色である、青を基調とした装飾タイルで彩られた美しい建物「青の都」 と呼ばれた由縁が他にも多くあって、その繁栄の足跡を残している。さらに、建築物のみならず、多くのマドラサでは、 宗教はもちろん、哲学、科学、数学、天文学などの学問の普及も計られ、さらにミニュアチュア(細密画)や 宮廷文化が華やぎ詩人や学者のサロンが形成されて、異文化世界との交流も盛んに行われた。
この栄華は、サマルカンドを中心して、当時のマー・ワラー・アンナフル全域にも伝わったと思われる。 そして当然ヒヴァにも何らかの形において影響を与えたに違いない。
1507年のティムール死後、ティムール朝はその子孫に受け継がれ、内紛などの内部的な問題を抱えつつ、しばらく続いたが 首都サマルカンドは、ブハラにその役目を引き継ぐことになるのである。
ティムール朝の後をうけて1428年にアブル=ハイル・ハンによって建国されたのが、シェイバニー朝である。
シェイバニー朝は1428年に、アブル=ハイル・ハンによって建国された。この王朝は、モンゴル帝国がチンギス・ハンの 死後4つに分裂したうちの1つ、ジョチ・ウルスの系譜を引く、遊牧民集団であるウズベクが建国したハン国である。 ウズベクとは、ジョチ・ウルスの最盛期を築いた「ウズベク・ハン」に由来して付けられた、もともとは中央アジアに広く住む テュルク系民族のことで、その中のウズベク族とでもいったウズベキスタンの主要構成民族である。
シェイバニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンが、1500年にティムール朝の衰退に乗じて、 その首都であるサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフル地域の支配権を得た。そして政権を得たシェイバニー朝は、 一時的にではあるがサマルカンドを首都としたのである。その後1557年になって首都をブハラに移した。 当時ブハラは首都としての機能だけではなく、文化や学問の中心地としても繁栄を極めていた。 さらに、ブハラには壮麗な建物も建築された。 その例をあげると、カリヤン・ミナレット、ミール・アラブ・マドラサ、アブドゥル・ハン・マドラサなどがある。
そして、このシェイバニー朝がマー・ワラー・アンナフルを支配していた時、その支配域であるホラズム地方で、 1512年イルバルス1世が当時そこを支配していたサファヴィー朝に勝利し、テュルク系のイスラム王朝である、 ウルゲンチ・ハン国を建国したのである。この時期、ウルゲンチ・ハン国はアムダリヤ川の沿岸にある、 クフナ・ウルゲンチを首都にしていた。そこはかつて、ホラズム=シャー朝が初期に首都としていた場所で、 アムダリヤ川が流れを変えて水源を失い放棄された場所であった。しかし、様々な理由で放棄しきれない人々が残り、 その後も街は維持されていたと思われる。私見ではあるが、おそらくアムダリヤ川は流れを変えたが、 川が干上がった訳ではなく、何らかの方法で困難ながらも水は確保していたであろうと思われる。さて、脱線したが本題に戻ろう。
ウルゲンチ・ハン国が建国当初、この街を首都とした理由として、元々はホラズム地方の重要な都市として機能した街であり、 軍事的な側面や、交易上の利便性や、サファヴィー朝から奪回した後の歴史ある地元の支持を得るなどの理由から、 ここに首都を置いた可能性がある。しかし、ホラズム=シャー朝と同様に、水源の確保が解決できないことを最大の理由に、 結局は1615年ヒヴァに首都を移転したのだった。シェイバニー朝は、1583年にアブドゥッラーフ2世がハン位に就くと、 その治世において翌年アムダリヤ川上流のバダフシャンを占領、1588年にヘラート、ホラーサーンを征服し、 次いでウルゲンチ・ハン国領であるホラズム地方も支配し、その政権を支配下に置いた。 ここに到りシェイバニー朝は、中央アジア南部をその支配領域としたのであった。この時期が、 シェイバニー朝の最盛期といわれている。しかし、そのアブドゥッラーフ2世が1598年に逝去すると、 内部の後継者争いによる権力闘争や、カザフ・ハン国の侵攻、またサファヴィー朝の圧力などにより、翌年には滅亡するのである。
その後を受け継いだのが、アストラハン朝(ジャーン朝)である。シャイバニー朝の男系が断絶したことから、 ジャーニー・ムハンマドがハン位に就いた。国名はブハラ・ハン国と呼ばれた。
ウルゲンチ・ハン国は一時的にはシェイバニー朝の傘下に入ったが、基本的には独立した国家として存在し続けた。 ブハラ・ハン国(アストラハン朝)とも、ロシア帝国との協調国として、両国の敵対勢力への共闘などにより共存をはかり続けた。
さてここで、これまで地理的にヒヴァを含むマー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)地域を支配した、 歴代の政権を振り返ってみよう。
1世紀から3世紀にはイラン系のクシャーナ朝、4世紀から5世紀半ばまではエフタルという中央アジアに存在した イラン系の遊牧国家、6世紀から7世紀は突厥(テュルク系)、8世紀から9世紀はウマイヤ朝の後にアッバース朝、 10世紀から11世紀はサーマーン朝の後カラハン朝、12世紀から13世はホラズム=シャー朝その後モンゴル帝国、 14世紀はチャガタイ・ハン国、15世紀はティムール朝、16世紀はシェイバニー朝、 というように様々な政権支配がなされて来たのである。つまり、このことが意味するものは、マー・ワラー・アンナフルの 1都市であるヒヴァは、ホラズム地方のシルク・ロードにおける、文化や交易の重要な拠点であり、様々な政権交代によって、 そのたびに複雑な情報が交錯して、新しい街に生まれ変わる要素を多く持ち合わせていたのである。
1615年ウルゲンチ・ハン国は、首都をここヒヴァに遷都してから、遷都後は街の名前に由来して、「ヒヴァ・ハン国」 と呼ばれるようになった。このヒヴァ・ハン国の遷都によって、以後街は大きく変貌を遂げてゆくことになった。 ヒヴァの街はその中心部に、冒頭にも紹介したが、イチャン・カラ(旧市街)と呼ばれる高い外壁に囲まれた内城と、 ディチャン・カラ(新市街)と呼ばれるやはり城壁に囲まれた外城で構成されている。
特に世界文化遺産に登録されたイチャン・カラには、18世紀から19世紀にかけて建設された50以上の歴史的な建造物や、 250以上の古民家が軒を並べている。イチャン・カラは大きく分けると、城郭と、「マドラサ(神学校)」と、 「マスジド(日常的に礼拝をおこなうモスク)やマスジド・ジャーミイ(金曜礼拝や特別な集団礼拝をおこなう大規模なモスク)」 と呼ばれるモスクや、「ズリーハ(霊廟)」さらに「ミナレット(尖塔)」がある。その数はモスクが20、マドラサが20、 ミナレットが6基ある。多くの物語を秘めた歴史的建造物が立ち並ぶ、壮大なイスラム教の都市なのである。 おそらく、ここを訪れた旅人はその魅力的で、色彩豊かな建物群に見惚れ、しばし立ち尽くすのではなかろうか。
私は2023年10月7日ヒヴァを訪れた。
この街の数ある建築物でも、特筆すべきものを上げてみよう。
先ずあげられるのは、イチャン・カラの街を囲む城壁の高さと、頑丈そうな敵を寄せつけないような威圧感であろう。 この城壁は、イチャン・カラがヒヴァの首都となった17世紀の修改築によって、高さが10mまで積み増しされたといわれている。 当初は7~8m位だったようだ。城壁の基部の厚さはおよそ6mとされ、城壁の全長はおよそ2.2㎞あるという。 城壁にはパルワーン・ダルワザ門(東側)、アタ・ダルワザ門(西側)、タシュ・ダルワザ門(南側)、 バグチャ・ダルワザ門(北側)の4つの門がある。これらの門も、城壁に合わせて、10mまでの高さまで上げられたとされる。 当時これらの建築をするにあたり、戦争で捕虜となった兵士や征服地の住民などが奴隷として作業にあてられたようだ。
カリタ・ミノルは、ウズベキスタンの秋の乾いた空気と澄み切った青空に、堂々たる迫力で、 青色と緑の美しい装飾タイルをまとい聳え立っている。このミナレットは、19世紀半ばの君主であるムハンマド・アミン・ハンが 建築を命じて建てられていた。しかしそのムハンマド・アミン・ハンが、1855年トルクメニスタンとの戦いで戦死し、 その後に建築の意思を引き継ぐ後継者がいなかったことと、当時のヒヴァの政治や財政状況の悪化が理由で、 未完成のまま建築は中断されたのである。
また、ジュマ・モスクは10世紀に建てられ、現在のモスクになったのは18世紀末頃である。「金曜モスク」と呼ばれて、 その内部は213本の柱に彫刻が施されてあって、そのすべてが異なっており、デザインの素晴らしさに驚嘆するモスクである。
イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレットは、1910年に建てられた高等教育施設にミナレットが併設された建物である。 この複合体施設はヒヴァ・ハン国最後の王に仕えた大臣のイスラーム・ホジャが建てたものである。 メドレセの隣にあるミナレットは、45mありヒヴァで一番高い塔である。この塔は上ることが出来て、その塔から眺める イチャン・カラの展望はたとえようもないほど素晴らしい。
ヒヴァはこれまで述べてきたように、マー・ワラー・アンナフルにおいて様々な政権が移り変わり、 興亡の歴史を繰り返しながら、旅人にも多くのことを語りかけてくれる。イチャン・カラの街を歩いていると、 ふとラクダを引いたシルク・ロードの商人が現れるような、そんな幻覚に襲われることがある。 ふとわれに返れば、沢山の土産物を売っている広場に立ち尽くしていた。そこには「アトラス」と呼ばれる豊かな色彩と 美しい模様の絹織物のスカーフが、無造作に軒下の竿に下げられて、涼しい秋風にはためく様や、ザクロや鳥や花がモチーフの 「スザニ刺繍」が施された手持ちバッグや、路面に広げられた絨毯や、様々な小物の土産品などが、雑多に並べられている。 そんな人々が行き交う雑踏の中に、一瞬で溶け込んでしまいそうな、そんな不思議な感覚を覚えるのである。
ヒヴァ・ハン国は、1512年に、現在のウズベキスタンのホラズム州、アムダリヤ川の下流域に位置するオアシス都市ヒヴァに 建国されたテュルク系のイスラム王朝の国である。現在のヒヴァは、歴史的文化遺産が多く残る、魅力的な観光都市として 数多くの観光客が訪れ、その魅力に取りつかれ、再び訪れて見たくなる街でもある。 特にイチャン・カラは多くのモスクや、メドレセやミナレットなどの、美しい建物群が集中して現存しており、 これらを良い季節に訪れると、旅の想い出として一生の宝物になることは必至である。
さて、ここでヒヴァ・ハン国の終焉について語ることにしよう。
1873年、ロシア軍がヒヴァ・ハン国に侵攻して後に、ヒヴァ・ハン国はロシアの保護国となった。形式的には独立状態であったが、 内政・外政的にはロシアの干渉を受けることが多い状態であった。しかし、1917年ロシアでは「ロシア革命」が勃発し、 ロシア帝国は消滅することになる。これを機に、ヒヴァ・ハン国は独立を試みた。しかし1920年、今度はロシア赤軍の介入を受け、 ここに「ヒヴァ・ハン国」は消滅することになる。この赤軍の介入によって、ヒヴァ・ハン国はソビエト連邦の一部、 ホラズム州を中心とした組織に組入れられ、「ホラズム人民共和国」が設立された。
その後、1924年にソビエト連邦の一部とする「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」に国名を変えた。
さらにその後、ソビエト連邦が崩壊した後、独立国として「ウズベキスタン共和国」と国名を変えて今に至っている。
これまで、中央アジア、またその南部にあたる地域マー・ワラー・アンナフル(トランス・オクシアナ)について、 歴史の変遷を見てきた。この歴史の流れは、私たちに貴重な価値ある方向性を示してくれる。
つまり、島国に住む日本人には味わえない不思議な感覚を投げかけるのである。
その全域を海という強力な国境線に守られている民族には、異民族による度重なる侵攻行為などの、 まさに国境の概念を脅威として、理解しえない国なのである。 今回の中央アジアの興亡の歴史を注視するとわかるのは、国境は火種のそばにある導火線のような存在なのである。 歴史はそのことの意味を明確に示唆しているのだ。
現代においては、例えばEU(欧州連合)は、共通の経済、通商、農業、環境、エネルギー、司法、内務などの分野において 共通の政策を行うことで運命共同体を築いた。つまり国境を取り払ったのである。この過程では、1952年に、 ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立や、1958年、EEC(欧州経済共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体などの設立や、 更にその後1993年マーストリヒト条約の発効などの地固めの結果EUが正式に設立された。 このことで、EU加盟国の国境は実質的には無くなったのである。これは国境線の火種を取り除く一つの成果として、 歴史上大きく評価すべきシステムなのだ。しかしこの考え方は、残念ながらまだ一部の国々の運用システムに他ならない。 それに対しては懐疑派や反対組織も存在する。例えばイタリアの北部同盟や、EAEU(ユーラシア経済連合)などがある。 これらは、いまだに大きな導火線として存在している。
かつて、プロイセンの軍人であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、その著書『戦争論』で、 「戦争は異なる手段でもって行われる国家の政策の延長に他ならない、ということである。このことを常にしっかり見据えておけば、 戦争というテーマの検討にあたって統一性が得られることになり、複雑な問題もすべて容易に解決されるであろう。」と書いている。
彼の戦争に対する考えは、恐らく現代においても国策としての重要な示唆となっていると思われる。 戦争は政治の延長線上に存在し、戦争は政治の一手段であり、その考えで行けば、戦争は政治の一部でもあるとし、 軍事行動を国家の一政策としてとらえることで、その本質を理解しようとしたのである。
この理論は、ある意味戦争を正当化するために利用されるという負の側面がある。 一方で、戦争の目的が明確にされたことで、無意味な戦争は避けるべきだとする意味にもとれるのである。 ここで、しばしば戦争開戦の根拠になる理由について考えてみたいと思う。
「資源の不足が理由」の問題は、国家の死活問題であり、不足及び不足していなくても、独占支配するための戦争が起きる可能性がある。
「領土問題が理由」の問題は、領土の支配権をめぐっては、過去の戦争の歴史にもたびたびその理由として起きているという現実がある。
「政治的対立」の問題は、国家間の政治体制やイデオロギーの違いから引き起こされる戦争は、時として革命や内戦に発展することもある。
「民族・宗教の対立が理由」の問題は、民族の違いや、宗教の違いによって戦争に発展することがある。
「経済的問題が理由」の問題は、市場や交易ルートなどの経済的な利益を優先するために起きる戦争がある。 ここの範疇には、最近は新技術や貴重な国家間の情報なども含まれるに違いない。
「地政学的理由」の問題は、地理的に有利な条件を確保するために、例えば特定な地域を支配することで得られる、軍事的、経済的、 資源確保などの理由により起きる戦争がある。
「歴史的な遺恨が理由」の問題は、過去の歴史的な恨みに対する、復讐心から引き起こされ戦争になる。
恐らくこれらの理由が考えられるだろう。過去の大戦はこの理由の中の1つ、または幾つかが絡み合い、 開戦となった可能性が高いと思われる。しかもこれから将来に向けてもこれらの理由は開戦を引き起こす大きな可能性を 秘めているのである。これだけ沢山の戦争を引き起こす可能性があることに、自分で書いていて無性に腹が立ってきた。 人類はこの世から、「戦争」という言葉を、無くしてしまうことは出来ないのだろうか。いや、何か方法があるはずだ。 あきらめずに、一人一人がそれを模索し続ける限り、きっと何かある筈だ。信じよう、書き続けよう。
さて、長々と中央アジアの話から、世界大戦の話までしてしまったが、ここでヒヴァの話に戻そう。
1873年、ロシア軍がヒヴァ・ハン国に侵攻したことは述べたが、それではその理由は何だったのかということである。
その理由は、前述の戦争を引き起こす理由の中にある1つだった。ロシアは中央アジア地域が持つ、商業的な潜在力の中で、 特にその産出品である綿花に目をつけたのだとされている。事実、私が訪れた10月には中央アジア全域が、 綿花の収穫時期を迎えて、綿花畑に大勢の人々が収穫作業に追われているのを目撃した。 車道にも綿花を満載したトラックが、何台も車列をつなぎ走っていた。その車の荷台からこぼれ落ちた沢山の綿花が、 路面に白く光っていたのを思い出す。その時、ああ、この道は「シルク・ロード」と呼ばれているが、もしかしたら、 「コットン・ロード」と呼び変えても良いのではないかとも思ったほどだ。
私は「ヒヴァ」という街で、沢山の文化遺産に心弾ませてめぐり歩き、幸せを心から堪能した旅であった。 そして、沢山のことを考えさせてくれる旅でもあった。
もし、また機会があれば、是非訪れたいと思う街の1つにもなった。
(カリタ・ミノル/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(ホジャ・ミナレット/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(イスラーム・ホジャ・複合体遠望/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(美しい青色装飾タイル壁/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(イチャン・カラの城壁/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(ホジャ・ミナレット/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(ジュマ・モスク/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
((タシュウハリ宮殿/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
(美しいテーブルと水差し/ヒヴァ/イチャン・カラ/ヒヴァ/ウズベキスタン)
参考資料: | 「ウイキペディア」 |
「戦争論 縮訳版」著者:カール・フォン・クラウゼヴィッツ、翻訳:加藤秀次郎 | |
「大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国」著者:杉山正明 | |
「ティムール帝国」著者:川口琢司 | |
「モンゴル帝国誕生」著者:白石典之 | |
「砂漠と草原の遺宝」著者:香山陽坪 | |
「文明の十字路=中央アジアの歴史」著者:岩村忍 | |
「大旅行記4」著者:イブン・バットゥータ、訳注:家島彦一 | |
「世界遺産」著者:中村俊介 | |
「学研まんが世界の歴史3」出版:学研教育出版 | |
「角川まんが学習シリーズ世界の歴史6」監修:羽田正 | |
「ウズベキスタン・ガイド」著者:荻野矢慶記 | |
「筆者撮影画像」 |