『サマルカンド/ウズベキスタン』
そういわれるのが、中央アジア・ウズベキスタンのサマルカンドである。
サマルカンドは、紀元前8世紀頃から人々の定住がはじまり、紀元前329年にはアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍が征服している。その結果、サマルカンドはギリシア文化、ペルシア文化、アジア文化が融合することで、ヘレニズム化が進み、シルクロードしての交易的機能だけではなく、学者、技術者などの人材や異文化の流入により文化的な進化をなし遂げた。
その後サマルカンドは、紀元三世紀にはササン朝ペルシアの支配によって、ゾロアスター教の影響があったが、8世紀初頭にウマイヤ朝の支配により、イスラム教の支配がはじまった。その後ウマイヤ朝が滅び、9世紀になりサーマン朝の支配下になると、完全にイスラム教が公式宗教として確立されていった。
イスラム教は支配者にとっての政治的運営力の強化や、さらに市民の社会的共同体としての結束力の強化などにその効果を示す力を有していたのである。こうしてサマルカンドが交易の中心地として発展を遂げるに至り、シルクロードを通じ中央アジア全域にイスラム化が広まっていったのである。
ここで、シルクロードについて少し触れてみたい。
シルクロード(Silk Road=絹の道)の語源は、ドイツ語のザイデンシュトラーセン(Seidenstraße)が英訳された言葉である。ドイツの地質学者で探検家でもある、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが、中国から西域を横断してローマに至るオアシスを経由する交易路を、著書『シナ』で「絹の道」と表現したのがはじまりである。
1861年1月24日、江戸幕府とプロイセン王国(後にドイツ帝国の一部となる)の間で「日普修好通商条約」が締結された。そのときのオイレンブルク使節団の代表は、外交官であり政治家でもあったフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵であった。その使節団一行の中に、実はこのフェルディナント・フォン・リヒトホーフェンも随行していた。オイレンブルク使節団は、日本だけでなく中国、シャム(現在のタイ王国)とも、日本と同様の通商条約を締結して帰国している。フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが、このオイレンブルク使節団に同行した目的が何かは不明であるが、彼は地質学者としてヨーロッパの山脈の地質学調査を行っている。その後、東南アジアや中国の地質調査、特に「黄土の成因論」についての研究発表を行っており、その調査の可能性を探るために、事前に国状の視察や、情報を収集するなどの目的があって使節団に随行したのかも知れない。
以上のように、シルクロードの語源は19世紀に語彙として学術的に表現されたのである。さらにその言葉を広く共通語彙として世界に紹介したのは、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンのベルリン大学の教え子であった、スェーデン出身の探検家、スヴェン・ヘディン(スヴェン・アンダシュ・ヘディン)であった。
彼は1933年から1935年にかけて第五次アジア内陸探検の結果を書物にする際に、資料の膨大さと煩雑さから、第一部『馬仲英の逃亡』、第二部『シルクロード』、第三部『さまよえる湖』の三部作にまとめたのだった。その第二部『シルクロード』の中で、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンのことに触れている。
「『絹の道』とか『絹街道』とかの呼び方は中国名にはなく、また中国人は使いもしなかった。この写実的な固有名詞の発案者は、たぶんリヒトホーフェン教授ではなかろうか。教授は中国に関する著述の中で『絹街道』についてくわしく掘り下げ、添付されている地図の上では『マリヌス街道』の名を与えられている。ヘルマン教授は1910年『シナ・・・シリア間の古代絹街道』というすこぶる貴重な書物を上梓した。」「シルクロード』スヴェン・ヘディン著/長尾宏也訳
さて、本題のサマルカンドに話を戻そう。
サマルカンドは、前述の通り9世紀にサーマン朝の征服によって、イスラム教支配体制が確立し、その後いくつかのイスラム王朝の変遷があった。そして11世紀にホラズム=シャー朝が中央アジアを支配するに至り、サマルカンドは重要な交易都市として、シルクロードにおける文化繁栄の中心的機能を果たしていた。しかし、その繁栄も長くは続かなかったのである。
1206年春、モンゴル高原の全部族会議クリルタイにおいて、チンギスがハンの位に就くことが決定した。大モンゴル帝国の誕生である。
チンギス・ハンは1211年、宿敵金王朝への進軍を開始した。
遠征は数年に及び、ついに金王朝の皇帝は一部の残留部隊を残し、都を捨て黄河以南の開封へ落ちのびて行った。1215年5月中都は陥落したのである。余談であるが、この戦で捕虜となった、「耶律楚材」というモンゴル語と中国語を話し、卜骨占いを極める若き官僚を生かし、将来の中国支配への布石としてチンギス・ハンの側近に採用している。そして1216年、チンギス・ハンが金王朝征伐で中都にいる頃、中央アジアを支配していたホラズム=シャー朝から交易を希望する使節団が訪れた。
1218年、チンギス・ハンはこの申し入れを受け入れ、モンゴルからも400人を超す商業使節団を送った。しかしホラズム=シャー朝のオトラルの太守であるイナルチュクが、モンゴルの商業使節団をホラズム侵攻のスパイ扱いして殺害する事件が起きた(オトラル事件と呼ばれている)。モンゴル側は、ホラズム=シャー朝に対して、イナルチュクの引き渡しと詰問する使者を送った。これに対しホラズム=シャー朝は主使を殺害し、随伴する二人のあごひげをそり落として帰すという侮辱的な返答をした。以前から中央アジア全域を支配するホラズム=シャー朝に対して、将来の敵対勢力として注視していたモンゴル帝国にとって、この事件は侵攻の格好の理由となり、1219年中央アジアのホラズム=シャー朝への遠征を開始したのである。モンゴル軍のうち、チャガタイとオゴタイ軍がオトラルの町に攻め込んで、オトラルの太守は拘束され斬首された。
1220年2月チンギス・ハン率いる本軍がブハラを攻め落とし3日で陥落。次にサマルカンドも陥落した。モンゴル軍がサマルカンドを攻撃したときの内容を、作品「蒼き狼」において、井上靖は以下のように書いている。
「サマルカンド城の攻撃は三月の終わりに開始された。成吉思汗(ジンギス・ハン/筆者ふりがな)は各地から連行されて来た異民族たちを先頭に立て、モンゴルの歩兵をそのあとに続かせた。ホラズムの兵たちは専ら城に拠って闘った。城兵の大部分はトルコ系の康里人で、他に少数の波斯人が居た。激戦七日にして、成吉思汗は内城をのぞく城邑を手中に収め、降伏した康里人を城外に出すことに成功した。そして内城を四方より攻撃し、火を放ち、最後まで頑強に抵抗する一千の波斯兵を屠った。この戦闘は頗る混乱を極め、サマルカンドの住民は夥しく兵火の犠牲になった。降伏した康里人の非戦闘員三万も、一夜にして虐殺されるに到った。成吉思汗にとっても、サマルカンドの城邑の焼ける夜は悪夢の中のひとこまのようであった。橙色の火は漆黒の天を焦がし、人間の放つあらゆる種類の叫びは、ひどく長く思われたその一夜を埋めていた。暁方の白い光が漂い始めた頃、成吉思汗は城外の広場に、幸運に恵まれた人間だけが何ヵ所かに集められて生き残っているのを見た。工芸技術に携わる労務者三万、捕虜五万一千、少数の女たち、そして二十頭の象であった。」
また、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍の中央アジア侵攻の状況を、米国の人類学者ウェザーフォードは、その著書で以下のように書いている。
「1219年、卯年、チンギス・ハンはホラズムをめざして西に進軍を開始し、辰年にあたる翌年の春に到着した。・・・モンゴル軍ははじめての土地でぐんぐんと戦線を進め、四年間の戦によって、まるで蠅を叩き殺すかのごとく中央アジアの諸都市を制覇した。ブハラ、サマルカンド、オトラル、ウルゲンチ、バルフ、バナカト、ホジェント、メルヴ、ニサ、ニシャプール、テルメズ、ヘラート、バーミヤーン、ガズニー、ペシャーワル、カズヴィーン、ハマダン、アルダビール、マラーゲー、タブリーズ、ティフリス、デルベント、アストラハンなど、征服された都市の名は十二の言語にわたり、気の遠くなるほど難解な音節が混じり合っている。チンギス・ハンの軍勢は、ヒマラヤ山地からカフカス山地、インダス川からヴォルガ川まで、行く先々で出会った軍隊をことごとく壊滅させた。」さらに続けて、「チンギス・ハンは虐殺者というより都市の破壊者と呼んだほうが正確だろう。彼は復讐や恐怖を蔓延させることを目的としただけでなく、戦略上の理由でしばしば都市全体を破壊し尽くしたからだ。ユーラシア大陸の交易の流れを再構築するという、大規模で大成功した試みのなかで、チンギス・ハンは配下の軍隊がよりたやすく監督できる路線に交易を集中させるべく、あまり重要でない都市や、難路にある都市を破壊した。ある地域の交易を止めるために、その地域の都市を文字どおり土台にいたるまで打ち壊したのである」『チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み』著者:ジャック・ウェザーフォード/星川淳(監訳)、横堀冨佐子(翻訳)
チンギス・ハンはホラズム=シャー朝の各都市を制圧し、戦略的破壊をしたのち、1225年2月、大遠征を終えモンゴル高原に帰っていった。
そしてチンギス・ハンは帰って間もなく、1227年西夏を攻めるべく遠征に出た。この遠征によって西夏は滅亡する。しかもこのとき滅亡したのは西夏だけではなく、チンギス・ハン本人も天に召されることになった。
「元朝秘史」は、その死の場面を、驚くほど簡潔に記すのみである。「・・・タンウド人衆は、言葉を言って、しかも、その言葉を守らなかったので、タンウド人衆にチンギス合罕は再度遠征し、タンウド人衆を断ちきわめて帰り、亥の年〔1227年〕チンギス合罕は天に上った。天に上った後、イェスイ后にタンウド人衆から大いに与えた。」『元朝秘史 続集巻二 268』翻訳:小澤重男
その内容は、「西夏はモンゴルに忠誠を尽くすと言っていたのに、いざホラズム=シャー侵攻時になったら、遠征の応援を拒否したので、再度遠征(この場合第五次遠征を指す)して滅ぼし、チンギス・ハンは1227年天に召された。その臨終のさいに、イェスイ妃にタングート人を多く支配できるよう言い残した。」という意である。
チンギス・ハンの死後、モンゴルは四つのウルス(モンゴル語で「国」の意)に分けられた。大元・ウルス(フビライ・ハンが建国し、中国本土を支配するモンゴル帝国の中央集権政府で首都は大都)、ジョチ・ウルス(ジョチ・ハンが建国し、ロシア、中央アジアを統治)、チャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハンが建国し、中央アジアを支配、後に東西に分裂)、オゴディ・ウルス(オゴディ・ハンが建国し、イランや中東地域を支配)である。
そして、チンギス・ハンの死後およそ150年後、1370年に自称モンゴル帝国の継承政権と標榜するイスラムの王朝、ティムール朝が、中央アジアからイランにかけての地域の支配権を確立したのである。
ティムールの出生に関してはいくつかの説があるが、現在定説としては1336年とされている。出生地は、サマルカンドの南部にあるケシュ地方とされ、この時代はまだモンゴル帝国のチャガタイ・ハン国が東西に分裂する前の支配地域だった。その祖先は、カラチャルという、チンギス・ハンの死後アルタイ地方を与えられたチャガタイ・ウルスの、四つの千人隊(モンゴル軍の軍編成単位)の一つを指揮する武将とされている。 チンギス・ハンはその子孫とともに、大モンゴル帝国を築き、中国及びユーラシア大陸からヨーロッパにかけての広大な版図を広げた偉大な英雄である。
一方で、ティムールは、中央アジア、イラン、ペルシア、イラク、シリア、南ロシア、インドと征服をしただけではなく、アンカラの戦い(1402年)でオスマン帝国に勝利するなどして、モンゴル帝国の西半分を統一したことからも、チンギス・ハンと比較されるほどの英雄と言えるだろう。しかし、その人物像は驚くほど日本では知られていない。その理由として、日本におけるティムールに対する世界史的なフォーカスが、モンゴル帝国の興亡を大きく取り上げる割には、彼が最も力を注いだ通商活動や、それに支えられた都市の建設、学問の奨励、芸術の発展などについて、あまりにも過小評価されているような気がしてならない。事実私も中央アジアを旅して始めて、ティムール朝の足跡の文化的価値の偉大さに改めて気づいたのである。特にティムール朝の首都であったサマルカンドは、「青の都」、「イスラム世界の宝石」、「砂漠の真珠」などと呼ばれ、旅人の心を魅了して止まない。その素晴らしさは自分の目で見て確かめてこそ、「荘厳」という言葉の意味を気づかせてくれる。
ティムール朝が、首都をサマルカンドに置いた理由として、シルクロードの交易の要衝として栄えただけではなく、マー・ワラー・アンナフル(中央アジア南部のオアシス地域で、ブハラやサマルカンドを中心とした定住地帯)は、軍事戦略的拠点としての重要性はもちろんのこと、過去の歴史的経緯から、経済的な繁栄だけではなく、文化的交流が生み出す優秀な人材の確保、学問、都市計画、教育制度、芸術などの様々な分野における発展の可能性を、ティムールを始めその子孫たちが良く理解し実行したのだと思われる。事実、サマルカンドの特徴として、紀元前から良好な気候や、豊富な水源や、肥沃な農耕地帯や、豊かな草原に恵まれ人々が住んでいた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王の遠征によりヘレニズム文化の影響を受け、8世紀初頭にはウマイヤ朝の支配によるイスラム文化が浸透し、13世紀にはモンゴル帝国の中央アジア侵攻により町は破壊されたものの、再びティムール朝により新しい文化の繫栄を迎えたという、興亡の歴史がこの都市に鍛造された刃の如く、鋭く美しい力を与えたのである。
サマルカンドは、前述の如く「青の都市」として人々の心を魅了して止まない。
良く知られた建物として、ティムールが側室である王妃ビービー・ハーヌムのために建てたビービー・ハーヌムモスク、サマルカンドの中心部の3棟のマドラサ(神学校)が建つレギスタン広場、アフラシャブの丘にあるティムールや親族、王朝関係者の霊廟やモスクなど、青色の装飾タイルが晴れた日のサマルカンドの空と融合し、見る人の心に沁み込み大きな感動を与えてくれる。青はイスラム教では、清らかさを表す色であり、また魔よけの力を持つとされている。
私見ではあるが、『元朝秘史』に、「巻一は『蒼き狼』と『白黄色の牝鹿』の部族伝説から説き起こされ、テムジン(後のチンギス合罕)の父イェスゲイ・バアトゥルの志をもって終わる。」とあるように、伝説の始祖ボルテ・チノは「蒼き狼」と「白黄色の牝鹿」から生まれ、その話とリンクするようにチンギス・ハンも「蒼き狼」と呼ばれた。モンゴル部族の「蒼」はモンゴル高原の青空や草原の象徴であり、それは人々が崇める尊き象徴であり存在である。一方モンゴル帝国の継承政権を標榜するティム―ルにとっても、そのモンゴル部族が崇める伝説上の「蒼」は尊き色として、同様に心に抱いていたのではなかろうか。勿論イスラム教徒の清らかさを表す「青」としての意味もあったであろう。ティムール朝は、いずれにしてもその存在の根底に、「青」の色を必要としたのである。
チンギス・ハンの死は、将来に向けた巨大帝国の運営や、いまだ成しえていない金国の征服、さらにユーラシア大陸以西のヨーロッパへの侵攻など、多くの課題を抱えての心残りの旅立ちであった。今一度、『元朝秘史』のチンギス・ハンの最後の記述を思い出してもらいたい。「・・・天に上った後、イェスイ后にタンウド人衆から大いに与えた。」『元朝秘史 続集巻二 268』翻訳:小澤重男
死ぬ間際においても、妃への財産の分与を細かく指示し、西夏国の王と住民は皆殺しにし、自分の死を秘匿して埋葬にかかわった者も皆殺しにするよう命じ、蒼穹の天に旅立った。享年は65歳であった。
ティムールは1404年11月、旧モンゴル帝国の元直轄領であった、北部地域を支配する「北元」とその南部地域を支配する「明」に向け遠征を開始した、この時彼は68歳になっていた。しかも七年戦役からサマルカンドに帰還して4か月あまりしか経っていなかった。ティムール軍は、その翌年1月オトラル(モンゴル帝国へのオトラル事件を引き起こした町)に到着した。ティムールは厳しい寒さから体を暖めるために飲酒し高熱を発したのである。その後症状が悪化し、一か月後の1405年2月1日天に召された。享年は69歳であった。その数年前には自分と対立し反乱を起こした、長男ジャハーンギールを火刑に処している。ティムールの抱える問題は、家族内の対立による後継者問題、征服で得た財産の分与問題、征服地の安定した統治問題など多岐にわたり、多くの悩みを抱えての旅立ちだった。
中央アジア、シルクロードのオアシス都市サマルカンドを、一人の征服者が破壊し、
もう一人の征服者が再建した。その歴史は多くの物語を秘めている。その征服者とは
チンギス・ハンとティムールである。二人の征服者としての実像は歴史上偉大なる英雄であり、人間としての実像は家族を持ち、現代版の一般的な父親像と重なる普通の人間なのである。
俳聖、松尾芭蕉が亡くなる4日前に詠んだ句がある。
病中吟
旅に病で夢は枯野をかけ廻る(タビニヤンデ ユメハ カレノヲ カケメグル)
芭蕉はこの句を詠んだあとで、弟子に「自分は臨終のときにも、尊敬する西行の歌を踏まえてまでこの地の句を作るとは、仏の戒める『妄執』にとらわれているのを悔やむ」
と述懐している。俳聖松尾芭蕉が、一人の人間として、天に召された証を伝えている。
私は思うのである。『妄執』なくして、何で人間と言えようか。
だからこそ人は「神」を求め、「神」はそこに存在するのである。
(ライトアップされたレギスタン広場/サマルカンド/ウズベキスタン
(ティムールの絵画/グリ・アミール廟/サマルカンド/ウズベキスタン)
(レギスタン広場/サマルカンド/ウズベキスタン)
(グリ・アミール廟内部/サマルカンド/ウズベキスタン)
参考資料: | 「新約聖書」翻訳:新日本聖書刊行会 |
「元朝秘史(上・下)」翻訳:小澤重男 | |
「元朝秘史 チンギス・カンの一級資料」著者:白石典之 | |
「チンギス・カン “蒼き狼“の実像」著者:白石典之 | |
「チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み」著者:ジャック・ウェザーフォード、監訳:星川淳、翻訳:横堀冨佐子 | |
「蒼き狼」著者:井上靖 | |
「シルクロード」著者:スヴェン・ヘディン、翻訳:長尾宏也 | |
「中国の歴史 疾駆する草原の征服者 遼 西夏 金 元」著者:杉山正明 | |
「逆説の世界史」著者:井沢元彦 | |
「チンギス・ハーンとその子孫」著者:岡田英弘 | |
「ティムール帝国」著者:川口琢司 | |
「なぜ大国は衰退するのかー古代ローマから現代まで」著者:グレン・ハバード、ティム・ケイン、翻訳:久保恵美子 | |
「芭蕉 最後の一句 生命の流れに還る」著者:魚住孝至 | |
「学研まんが世界の歴史」著者:長沢和俊 | |
「角川まんが学習シリーズ 世界の歴史6」監修:羽田正 |