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『少年王・ツタンカーテン』

 おやおや、このタイトルは間違っているぞ。
 そう思われた方が、もしかしたら大勢おられるかも知れない。
 しかし実は間違ってはいないのである。
 ツタンカーメンは、生まれた時からファラオに即位するまでの名は、ツタンカーテンというのが親から授かった名前だった。その意味で、今回の表題を「少年王・ツタンカーテン」としたのである。
 その内容については後述することにしよう。
 さて、古代エジプトで有名なファラオは誰か。そう問われたとき、決まって誰もが答えるのは、ツタンカーメンかクレオパトラ7世あたりだろう。
 それでは何故タイトルにある、ツタンカーメンの名前は世界的に有名になったのか。その理由は何といっても、あの美しく光り輝く黄金のマスクが、人々の心を魅了したからに違いない。
 しかし、ツタンカーメンが古代エジプトの、どんなファラオだったのか実像は知られていないかもしれない。
 そこで今回は、古代エジプト第18王朝末期のファラオ、ツタンカーメンについて語ることにしよう。
 最初に、ツタンカーメンの名前と、その由緒について語らなければならない。
 冒頭に記載したとおり、実はツタンカーメンは、最初からその名前ではなかったのだ。即位前つまり生まれた時の名前は、ツタンカーテン(Tutankhaten「その意味は、アテンの生ける像」)だった。
 それは、父親であるアメンホテプ4世(AmenhotepⅣ)が、宗教改革を行いアメン神信仰からアテン神信仰に切り替えたために、自身の名前もアクエンアテン(Akhenaten)と変えたからである。
 そのために生まれた子供にも、ツタンカーテン(Tutankhaten)と、アテンの名を冠する名前にしたのである。しかし父の死後、息子は政治の方向性の転換を行い信仰もアメン神信仰に転換した。そこで今度はアメンの名を冠するツタンカーメン(Tutankhamun「その意味は、アメンの生ける像」)に変えたのである。それこそが現在私たちが良く知っている彼の名前「ツタンカーメン」なのである。その詳しい事情は後ほど語ることにしよう。
 その前に、先ず当時の古代エジプト、第18王朝時代の政治体制を説明する必要がある。
 アメンホテプ4世の父である、アメンホテプ3世(ツタンカーメンの祖父)の時代は、アメン神がテーベ(現在のルクソール)の主神として信仰の大きな中心となっていた。
 テーベにはアメン神に捧げるための、ルクソール神殿やカルナック神殿が建設された。それを運営するアメン神官団と呼ばれた祭司たちの組織は、それらの神殿において、神にささげる宗教儀式を取り仕切り、さらに神殿内の図書館の管理や、学校における教育、エジプト文化の伝承などに寄与していた。
 また、彼らは、ファラオからの戦利品や税収の一部、そして貴族や高官、さらに一般市民からの寄進によって、広大な神殿領や財貨を所有し、他にも商業活動の管理などから入る収入によって、莫大な富を築いていた。その財力を盾に、王朝の王位継承問題や政治への介入も行うなど、強力な力をもっていた。
 そのような政治の状況を、父であるファラオの側で見て育ったアメンホテプ4世は、決して変革を急に思い立ったわけではなく、即位数年を経てアメン信仰と、アメン神官団からの政治的な脱却を目指すべく、宗教改革を断行したのであった。
 ここにアメンホテプ4世の、太陽神アテンとの鮮烈な出会いと唯一神とした経緯が書かれた文章の抜粋をしてみよう。
 「さて、わがアメンホテプ4世は、戦いとスポーツを好む通常の若者ではなかった。第一、生まれつき、その弱弱しい体格は戦いとスポーツに向いていなかった。彼は行動よりも思索を好んだ。
 ある朝、彼はテーベの王宮で昇る太陽を見つめた。太陽はいつもと同じように昇っているのであったが、その朝、彼の精神は経験したことのない衝撃を受けた。偉大な信仰の誕生は、自然現象を契機とした啓示である場合が多く、モーセにもマホメットにもわれわれはそれを見るのであるが、アケナトンはそういう経験のはるかなる先駆なのであった。
 太陽を崇拝するラア信仰は古くからエジプトにあった。太陽は創造神として、生命の根源として信仰されているのであった。いまその太陽への崇拝が、もっと深い意味と洗練された要素をそなえてアメンホテプ四世の魂の中に燃え上がったのであった。そして、ラア神の娘である女神アマト(正義と真理の神)のもっている性格がアトンに付与されたのであった。・・・アメンホテプ四世は『アトン神こそ真の神である』と信じたが、当初はまだ『これが唯一の神である』という信仰ではなかった。」『古代女王のものがたり』著者:酒井傳六
 若きアメンホテプ4世が共同統治王として父の治世を助け始めた頃の話であろうか。
 さて、アメンホテプ4世は、即位後の治世4年目、紀元前1349年頃先ほど書いたように、自身の名前を「アテン」のついた名前(Akhenaten)に変えた。時を同じくして妻であるネフェルティティも、「アテン」の入った名前ネフェルネフェルウアテン・ネフェルティティ(Neferneferuaten Nefertiti)に変えている。
 そして治世5年目、紀元前1346年頃、テーベから、北におよそ400㎞離れたナイル川の東岸「アケトアテン(現在のアマルナ)」に首都を移したのである。アケトアテンは「アテンの地平線」という意味である。彼は新しい街にアケトアテンと命名し、日の出とともに太陽の神アテン神が街全体を神々しく照らす場所として、今まで何もない広大な場所を選んだことが想像できる。
 そしてこの新しい街で、世継ぎとして生まれた子に、前述のとおりツタンカーテン(後にツタンカーメンに改名)と名前をつけたのである。
 ここで、アクエンアテンとその家族のことについて触れてみたい。
 アクエンアテンには、現在判明しているのは、正妃と3名の側室がいたとされている。正妃としてネフェルティティがいる。彼女との間には、6人の娘が生まれた。メリトアテン(Meritaten:アテンに愛された者)、メケトアテン(Meketaten:アテンに保護された者)、アンケセンパーテン(Ankhesenpaaten:アテンのために生きる者)、ネフェルネフェルウアテン・タシェリト(Nefernrferuaten Tasherit:若きアテンの美しき者)、ネフェルネフェルウラー(Neferneferure:ラーの美しき者)、セテプエンラー(Setepenre:ラーに選ばれし者)の6人である。
 この中のアンケセンパーテンは、後にツタンカーメン即位後に彼と結婚し、彼がツタンカーテンから「ツタンカーメン」に改名した折、彼女もアンケセンパーテンから「アンケセナーメン」に改名している。
 そして、「若い方の淑女」と呼ばれる側室が、ツタンカーメンの母親とする説が現在多くの研究者に支持されている。しかもこの「若い方の淑女」は、アメンホテプ3世とその王妃ティイの子であることが、エジプト考古学博物館、カイロ大学、マックス・プランク進化人類学研究所(ドイツ)などの研究チームによるDNA鑑定において証明されている。つまり、「若い方の淑女」はアクエンアテン(アメンホテプ4世)の実妹なのである。ツタンカーメンは、兄と妹の間に生まれた、近親婚による子供とされているのである。
 また、アクエンアテンには、キヤという側室がいたことが知られている。彼女とアクエンアテンの間に子供がいたかどうかの詳細は現在不明である。
 他にも、タドゥキパという側室がいたが、彼女はミタンニ王国の王女であったことが判明しているが、アクエンアテンとの間に子供がいたかどうかの詳細は不明である。
 アクエンアテンの治世9年目、紀元前1344年頃、彼の本性が爆発したかのようにその行動に現れた。アテン神以外の神への信仰の禁止措置である。
 この多宗教の禁止に関して、詳細に記された書があるので引用させてもらおう。
 「アクエンアテンはエジプト国内の全神殿をつくりかえるために、破壊命令を携えた代理人を全土に派遣した。最大の標的はテーベのアメン神とムト神で、その名前と姿があるところはすべてのみで削らせた。硬い花崗岩でできたオベリスクのはるかに上部にあっても、父王アメンヘテプの名前をつづるために使った記号でも、容赦はしなかった。多神教への憎悪に燃えるアクエンアテンは、『神々』という言葉も抹消させた。アクエンアテンは何ひとつ見落とさず、首飾りひとつ、ポケットに入れた小物ひとつまで激しく損傷することを求めた。現場で作業する者は、仲間に告げ口されたり、監督がうっかり見逃したりするのではないかと恐怖におびえたことだろう。供物や財源はすでにアクエンアテンとアテン神殿にすべて入るようになっていたが、旧来の神殿に管理を送り込み、隠し財産がないか捜索までさせている。神官の特権はおそらく剥奪され、神聖な動物は殺害を命じられたかもしれない。彫像や宝物はきっと、すべて王に引きわたすことになっただろう。」「古代エジプトの女王」著者:カーラ・クーニー、翻訳:藤井留美
 彼の治世9年目といえば、王朝を切り盛りする絶対権力は十分に備えていただろうし、自分の周りを従順な側近で固めていたであろうことは想像できる。彼の宗教改革の集大成ともいうべき、アメン神からアテン神を唯一の信仰にするための舵を、180度切り替えたのである。彼はさらに新都において、いくつかのことを実行した。
 宗教改革は芸術の分野にも及んだ。新都の場所の名を取って「アマルナ美術」と呼ばれるものである。それまでのエジプトの芸術は、長い歴史と伝統を培った形式的で画一的な、一定の基準を守ることで創造されていた。例えば、重要な人物や神々は、他とは区別して大きく描かれ、常に若々しく力強く、更に厳格で画一的なポーズで、動きや感情の表現を控え目にし、神聖さや永遠性を強調した表現が守られてきた。つまり、高度な技術によって生みだされるが、様式化された表現を重視することで、人物の表情や活動感などの細部の写実性などはみられなかった。
 アマルナ美術は、一転して人物のもつ自然な表情や、感情をリアルに表現し、動きや活動感が自由に表現されるようになった。例えば、アマルナの王宮や神殿には、アクエンアテンの家族団らんの場面や、アテン神に関するテーマなどが、彫刻やレリーフなどにより細部まで表現され描かれていたようだ。アマルナ美術の珠玉の作品と言える像が、1912年12月ドイツの「ドイツ・オリエント教会」の発掘によって、アマルナにあった宮廷彫刻家トトメスの工房跡地で発見された。現在ベルリンにある「新博物館」の所蔵である「ネフェルティティの胸像」である。その化粧漆喰で美しく彩色された胸像は、まさに現代の彫刻作品と言っても過言ではないほど精巧で、美貌をうたわれた王妃を彷彿とさせ、美しさと威厳を見事に表現している。このトトメスの工房跡地では、他にも多くの未完成の作品や、当時の彫刻の工具などが発見され、古代エジプト時代の彫刻技術を伝える貴重な情報を提供している。
 しかし、アクエンアテンが名前を変え、何もない大地に新都を建設し、アテン神への唯一神信仰を断行し、そのために芸術の方向性を変えてまで突き進んだ彼の王朝は、国の運営に関して対外政策や対内政策に注力せず、その生活の全てを宗教にささげて来た代償を払わされることになる。彼はアテン神崇拝にこだわりつづけて、アケトアテンにまるで動物が冬ごもりをするように閉じこもった政治姿勢への、それが代償だったのである。そして常にアケトアテンの後ろに立って、彼を支え続けたネフルティティも代償を支払わねばならなかった。その結果エジプトの領土は縮小し、さらに国民の支持も失墜していったのである。
 ここにアクエンアテン時代の人々の暮らしが、決して豊かではなかったという証となる記事があるので紹介しよう。
 「アクエンアテンの生涯は輝きに満ちていたかもしれないが、臣民たちの人生はそうではなかったようだ。アマルナの共同墓地で見つかった庶民の遺骨を調べたところ、ほとんどが35歳に届かず、15歳未満で一生を終えた者も多いことがわかった。いずれの遺骨にも栄養不良と脊髄損傷の痕跡が認められる。どうやら砂漠の真ん中に新都を急造したことが、工事の担い手たちの命を削ったようだ。」『古代の都市 最新考古学で甦る社会』ナショナルジオグラフィック
 この記事が示すように、アケトアテンの宗教改革と、アテン神崇拝に傾倒し、新しい都で様々な試みを行ったのとは裏腹に、そのひたすらなる努力は決して彼の王朝の繁栄と永続性の証とはならなかった。
 アクエンアテンは、彼の治世14年目に逝去した。その後を継いだのはスメンクカラーというファラオである。この統治者はアクエンアテンの治世の終盤に、共同統治者として表舞台に登場する人物である。彼はアクエンアテンの宗教改革を引き継いで、アテン神信仰を支持している。しかしその治世は3年ほどと短く、アクエンアテンの死によって、彼の宗教改革に対して反乱や暴動などを行うことなく、静かに動静を見守っていたアメン神官団は、力を取り戻す機会を得たのである。その状況下で、スメンクカラーはアクエンアテンの改革路線を引き継ぎながらも、アメン神官団などの敵対勢力との調整をはかる必要性があったと思われる。何かに例えれば、アクエンアテンといういわば燃料が切れて、推力を失ったロケットのようなものである。スメンクカラーは、アクエンアテンンの改革を引き継ぎ、彼の基本路線を守りながら、その治世の後半には、首都をアマルナからテーベ(ルクソール)又はメンフィスに移す計画を練っていたといわれている。さらにアメン神官団との軋轢の緩和や、もともとテーベやメンフィスが持つ歴史的な都市機能や経済活動の拠点としての利便性や、混乱した国政の再復興などを視野に入れていたと思われる。
 ここで、スメンクカラーについて少し触れてみよう。
 アクエンアテンの逝去により、彼の治世が14年で終わりを告げた頃から、その妻であるネフェルティティの記録が途絶えている。それ以後はスメンクカラーがアクエンアテンの治世を継いで、歴史の舞台に登場したことから、彼はネフェルティティではないかという説が出て来た。
 ネフェルティティは、アクエンアテンの生前から、彼の共同統治者としての役割を果たしていた。そして、アクエンアテンの死後その後を継いだとしても何ら不思議ではないのである。他にもその理由の一つとして、スメンクカラーの即位名、「アンクケペルウラー(Ankhkheperura)」が、ネフェルティティが使用していたアクエンアテンの共同統治者となったおりにつけた即位名「アンクケペルウラー・メリトワエンラー(Ankherkheperura Merytwaenra)」と似ていることを理由に、一部の研究者たちはネフェルティティがスメンクカラーであるという説を唱え始めた。
 スメンクカラーは、アクエンアテンからその治世を引き継いだ。しかも彼は、アクエンアテンの意思を尊重した政治を行うのである。前述した燃料が切れて推力を失ったロケットに、新たに燃料を注入しその推力を保つことに専念した治世であった。アクエンアテンの治世の責任とは、王の権威で宗教改革を断行し、遷都までして多神教勢力を権力で抑えつけ、一神教の心酔者として国内を混迷に陥らせるという大きな負の遺産を次のファラオに継がせたことであろう。その時代を共に生きた共同統治王としてのネフェルティティは、その責任を自覚し自分の名前を捨て、スメンクカラーという王になり、負の遺産を減らし次の世代にバトンタッチするため、必死な政策を打ちだしたにちがいない。しかし結局は治世3年の間にアクエンアテンと自分の負の遺産を消し去ることが出来ないまま、スメンクカラーは亡くなったのである。
 ここで、スメンクカラーはネフェルティティではありえないと主張する、エジプト学者の意見に対する記事を紹介しておこう。
 「スメンクカラーをネフェルティティとする説にエジプト学者が反対する根拠の1つは、この王に妃がいたという事実だ。父と娘の結婚は一般的だったものの、母と娘の間では性的な成就がかなわない。ネフェルティティに王妃がいたとしたら、それはおそらく、ネフェルティティ自身が男性化していたため、儀式において女性の役割を担う誰かが必要だったからだろう。」『エジプトの女王6人の支配者で知る新しい古代史』ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
 そして、ツタンカーメンの家族のことに触れなければならない。
 ツタンカーメンには正妃のほかに、側室がいたという記録は残っていない。
 前述の通り、ツタンカーメンは、父の正妃ネフェルティティの娘であるアンケセナーメンとの間に、2人の子供が生まれたことはわかっている。しかし2人とも胎児のとき死産したとされている。何故ならツタンカーメンの墓が、1992年ハワード・カーターによって発見された時、彼の墓で木製の棺に2人の小さなミイラが納められているのが発見された。ツタンカーメンの子供である可能性が高いとされているからである。
 ツタンカーメンの治世は、紀元前1332年から紀元前1323年までの9年間である。そして、彼は即位したときまだ8歳又は9歳の少年であった。そして9年間の治世の後わずか18歳又は19歳で亡くなるのである。
 その当時のことを語ってみよう。
 ツタンカーメンが生まれたばかりの幼少期、彼の名前は「ツタンカーテン」であった。父は前述の通り、エジプトの従来の宗教世界が多神教信仰を政策としていた時、一神教へ方向を切り替え、そのためにアマルナに遷都しアテン神信仰に打ち込んでいた。そのアマルナでツタンカーメンは生まれた。父はアテン神信仰に全身全霊を打ち込み生活の全てを捧げていた。それを支えていたのが、共同統治王となった正妃ネフェルティティであり、またその側室たちであった。
 その側室の1人である「若い方の淑女」の子として生まれたのがツタンカーメンであった。
 さて、ここ表舞台に登場するのが、アメンホテプ3世、アメンホテプ4世(アクエンアテン)、スメンクカラー、そしてツタンカーメンとおよそ50年以上の長きにわたり、王朝の高官とし王家を支え続けて来た男性がいる。
 「アイ」という名の人である。この人はツタンカーメンが即位し、8歳又は9歳と幼年のため摂政として王を補佐した。この補佐役にはもう一人、軍司令官(将軍)ホルエムへブがいた。2人は摂政としてその任務をすみ分けし、アイが内政(行政、経済、宗教儀式、公共事業、司法、教育など)を、ホルエムへブが外政(外交、国防、貿易、情報取集など)を担当し補佐していたと思われる。
 ツタンカーメンの治世では、アクエンアテン時代の負の遺産からの脱却と、国内政治の安定化が早急に求められたはずである。幼年のファラオが、父の治世の内容を、すべて把握していたとは考えられないので、摂政や官僚そして特に依然として力を持つ、アメン神官団などを抱き込んだ政治活動が開始されたと思われる。速やかに改革は進められて行った。
 その1つとして、アマルナからテーベへの首都移転であった。そしてアメン神信仰の復活である。これらは父の政治政策に対して逆行することであり、幼年の王にもその内容については、アイなどから教育や説明を受け、ある程度の理解はしていたと思われる。
 ツタンカーメンは即位後間もなく名前を変えた。
 それは父との決別だった。父の唯一神アテンを捨てて、エジプト古来の多神教への宗旨替え、それはテーベを中心とした信仰の対象であるアメン神への帰依であった。ここから、ツタンカーメンの王としての第1歩が始まったのである。かつて、ツタンカーメンは、アケトアテンの大通りを、父であるファラオが、琥珀や金で飾られた大きな戦車に乗り、アテン神殿に向かう神々しいと思わせるための姿を見ていたはずである。もしかしたら、その戦車に父と一緒に乗っていたかも知れない。そのような過去が、自分の即位後周りの側近、特に摂政であるアイやホルエムへブによって、治世の方向性を変えられ、その街にも決別し、多感な青春時代へと突入して行ったのだ。
 ツタンカーメンは、病弱な体質だったことがわかっている。
 そのようなツタンカーメンの情報を伝える記事がある。少し長いが紹介することにしよう。
 「ツタンカーメン王の死因も明らかになっている。彼のミイラは、1925年にカイロのエジプト大学の解剖学の教授ダグラス・デリーが検査を行った。それによれば死亡年齢は18歳、しかしその当時は死因を突き止めることができなかった。その後、1968年に英リバプール大学のR・G・ハリソンがX線写真撮影を行い、頭蓋骨内に小さな骨が見つかったことから暗殺説が生まれた。しかし2005年、エジプト人考古学者ザヒ・ハワス率いるCTスキャンチームによる解析によって、まったく別の死因であることが示唆された。
 さらに、カイロ・エジプト博物館に収蔵されていたツタンカーメン王の遺物を、新しい大エジプト博物館に移送する際、徹底的な記録と修復作業が行われたが、その中で明らかになったこともある。例えば140枚以上の多量の下着が墓から発見されたが、調べてみると重曹や塩素系のもので洗ったという漂泊の跡が見つかった。これは病弱な王が清潔を保つために、靴下、頭巾、チュニック、手袋で、全身を覆って生活していたためだろう。
 墓から見つかった大量の杖について、かつてカーターは『ツタンカーメンは杖の収集家であったに違いない』と思いを巡らせたが、ミイラのCTスキャンによって明らかになったのは、身体が弱く、足の悪かった少年王にとって必要不可欠なものだったということである、発見された木製の折り畳み式のベッドは、病弱で、幼い王がアマルナから別の都市に移動するときに使ったかもしれず、父王の時代に禁止されていたベス神の枕も墓から出土しているが、悪夢を避けるというこの神の枕に頭を載せて、ベッドに横たわる彼の姿が鮮明に想像できる。」『ツタンカーメン100年ナショジオが伝えて来た少年王の素顔』ナショナルジオグラフィック別冊
 少々長い引用になったが、ツタンカーメンの日常生活が、あの黄金のマスクからは想像できないほど、虚弱体質の少年だったことに驚いてしまうのである。日常生活においても、常に杖が必要であったなら、父の執り行う宗教儀式において、長丁場の儀式には耐えられなかったかもしれない。ナショジオの筆者が書く、ベッドに横たわる彼の姿が鮮明に想像できるという言葉が、胸に沁みてくるほどよくわかるのである。そして彼は8歳又は9歳でエジプトの最高峰の地位に上り詰めたのである。
 あまり活動的ではない、というより体力的にも静かな生活を好んだと思われる彼が、摂政のサポートがあるとはいえ、政権の中枢で様々な案件を処理するなど想像ができない。さらにナショナルフジオグラフィックの記事を紹介しよう。
 「過激な宗教改革を断行した父親が死ぬと、ツタンカーメンはわずか8歳か9歳で王位を継ぎ、その統治下で伝統的な多神教を復活させた。もっとも、この決定が特権的な地位の回復に躍起になっていた側近や神官の差し金によるものだったことは疑う余地がない。」『総力結集ツタンカーメン(王墓発見100周年)』ナショナルジオグラフィック日本版
 アクエンアテンの宗教改革は、それを支えたネフェルティティとの二人三脚による夢の実現であった。それは広大な自宅の庭で、夜の大空に華々しく上がった、色とりどりの打ち上げ花火であった。その打ち上げ花火が終わった広い庭を、息子が奉公人の手を借りて後始末を行い、散らかった庭は元の奇麗さを取り戻したのである。
 こうしてツタンカーメンは、アマルナから再び首都をテーベに戻し、1神教から多神教への復興や、アメン神殿の再建、宗教施設の建設改修、近隣諸国との関係の再構築、アメン神官団との関係の修復など、内的・外的政務を、摂政の力を借りることで、以前のエジプトの支配体制に戻すことに力を注いだのである。
 そして、彼は8歳又は9歳で即位し、その治世9年目に18歳又は19歳でこの世に別れを告げたのだった。
 その死因は長い間謎とされてきた。しかし、ナショナルジオグラフィックの「死因についてはまったく別の死因であることが示唆された」という記事を紹介したが、その続きを書かなければならない。2010年に、エジプト考古庁(Supreme Council of Antiquities)、ナショナル ジオグラフィック協会(National Geographic Society)の共同プロジェクトに、エジプトの考古学者ザヒ・ハワス氏の協力によって、DNA検査、X線撮影、CTスキャンなどを用いて詳細な調査が行われた。その結果ツタンカーメンの死因は、彼のミイラには左大腿骨(太もも)の骨折跡があり、当時の医療技術では適切な処理が出来ず、敗血症を引きおこした可能性が認められた。更に彼はマラリアに感染していたことで、免疫力が大幅に低下し、その結果命を落としたことが考えられるとの判断がなされた。それ以前の死因説では、ツタンカーメンの頭部にあった傷跡から他殺説、さらに他にも毒殺説まで飛び出すなど、様々な議論がなされたが、結局は病死したことが判明したのである。
 ツタンカーメン王墓は、数度、墓泥棒の細かい宝石の盗掘にあっている形跡が認められている。しかし彼は他のファラオに比べ治世が短く、目立たない存在であったこと、また彼の死後摂政であったアイやホルエムへブが、その名を歴史から削除しようとしたこと、さらに当時の宗教的な混乱からその名が忘れ去られたことなどの原因で、現代まで盗掘に合わなかったことが考えられる。更に現代の考古学発掘においては、王家の谷の王墓は殆ど発掘されてしまい、ツタンカーメン王墓の発掘はあきらめられていた。
 ハワード・カーターの発掘隊は、1907年からイギリスのカーナヴォン伯爵の支援を受けて、ルクソールの「王家の谷」で発掘を続けていた。しかし途中第一次世界大戦の勃発で、発掘の中断を余儀なくされた。再開したのは1917年の秋だった。それから5年間カーターは発掘を続けたが思うような成果は得られぬまま、1922年6月カーナヴォン卿から、イギリスのハイクレア城に呼び出され、発掘支援打ち切りの話がなされた。しかしカーターは、自費でも発掘を続けたいと泣きついて、カーナヴォン卿は今シーズンだけという条件付きで了承した。そしてその年の10月28日、エジプトに帰ったカーターはルクソール入りし、11月1日これまでに発掘対象から外していた、ラムセス2世の墓の近くにあった、労働者の作業小屋の下を掘り進めた。すると11月4日に階段の最上段が現れたのである。さらに掘り進めると、そこには封印された扉が現れた。
 大至急カーナヴォン卿に連絡を取り、11月23日カーナヴォン卿が現場に到着した。その翌日、封印された扉を開けると、まず通路が現れたのである。その通路の先にはさらに封印された扉があった。その扉を開けると前室が現れた。そこで彼らは乱雑におかれた貴重な遺物を発見した。そしてこの王墓からは、さらに今我々があまりにも良く知っている、世界的に有名になったツタンカーメンの棺から彼のミイラと黄金のマスクなどが発見されたのである。
 しかもツタンカーメンに関する歴史的な事実はこれでは終わらない。
 なぜなら、この発見された王墓についても、歴史は隠された事実を教えてくれるのである。それは、この王墓はもともとツタンカーメンのために造られたものではなく、ネフェルティティの何らかの理由で未使用だった墓が使われたという1部の学者の説があるのだ。彼が急逝したために急遽既存の墓を使用した可能性があるというのである。その理由として、前述の通り彼が急に亡くなったために、既存の墓が使われた証として、発見時に遺物が乱雑に置かれていたことや、その遺物の中には他の王族のために作られたと思われる遺物も含まれていたこと、墓の配置や構造、レイアウトや装飾などが、ネフェルティティの時代の他の墓に類似しているということだった。またこの墓は王家の谷の他のファラオの王墓に対して、規模が小さいということも理由にあげられている。さらにツタンカーメンの前に短い間統治した、スメンクカラーの墓が見つかっていないこともその理由の1つにあげられている。しかしこれらの説は現在推測の域を出ていない。
 最後に同じく世界中を驚かせた黄金のマスクについても、王墓と同じようにツタンカーメン本人のために造られたものではないというのだ。その理由として、黄金のマスクの内側に、部分的に消去されたと思われるカルトゥシュ(楕円形の王名を刻む枠)があって、「アンクケペルウラー(Ankhkheperura)」という、アクエンアテンの後継者の名前が部分的に消去された形で残っていたからである。アンクケペルウラー(Ankhkheperura)は、ネフェルティティが使用していたアクエンアテンの共同統治者となったおりにつけた即位名「アンクケペルウラー・メリトワエンラー(Ankherkheperura Merytwaenra)」と似ていることを理由に、一部の研究者たちはネフェルティティがスメンクカラーであると主張していることから、この黄金のマスクは、ネフェルティティのために作られた女性用のマスクだというのである。また、マスクの耳には、ピアス用の穴があけられており(筆者もエジプト考古学博物館でこのピアスの穴を確認した)、それは女性用の特徴だということの証しであること。さらに当時では、慣行となっていた急死の場合の対応として、既存の副葬品を再利用することがあったということである。そうだとすれば、ツタンカーメンよりも先に死亡したネフエェルティティの墓や、黄金の女性用のマスクがどうしてツタンカーメンのために使われたのか、その理屈が判然としない。一部の学者は、ツタンカーメンの墓の裏に、隠された部屋があり、そこにネフェルティティが埋葬されていると主張している。
 とすれば、元々は先に亡くなったネフェルティティのために作られた墓で、それを暴き、黄金のマスク、その他の副葬品などを、ツタンカーメンのために再利用したということになるのだ。ということは、ツタンカーメンの墓として発見された部屋の隣あるいはその奥に、新しく部屋を作り、彼女の遺体を移し、再びその壁を又は奥にある部屋への入り口を塞ぎ、元の部屋をそのままツタンカーメンの墓にしたということであろうか。それならすべてが納得できるが、そのような暴挙は果たして許されるべきではないし、あってはならないことである。それこそ死人への冒涜行為以外の何ものでもない。  しかも、もしそのような暴挙が本当にあったのならば、ツタンカーメンに棺や黄金のマスクが再利用されたネフェルティティの遺体は、一体どのような状況になっているのか考えるのも恐ろしい。それとも、ネフェルティティ(スメンクカラー)の遺体は、別の何処かで正式なしかるべき措置が取られ、静かな眠りについているのであろうか
 将来、考古学者たちがいつの日か、ネフェルティティの墓を発見し、その全貌を明かすとき、この少年王ツタンカーメン王墓の真相が明かされる日が来ることを切に願うのみである。
 最後に私見ではあるが、古代エジプトの歴代ファラオの中で、ツタンカーメンは、特に大きな業績は残していないと評価されることが多い。しかし私はこの説を少し疑問に思うのである。例えれば、彼の短い治世は親の責任を背負った菩薩様のような、儚く美しい存在に思えてならない。何故ならスメンクカラーでは処理しきれなかった、両親(アクエンアテン、ネフェルティティ)が残した、宗教革命で国内を混迷に陥らせた大きな負の遺産を、彼は例え摂政の手を借りたとはしても、杖が必要な体でしかも短い治世において安定させ、まるで蜉蝣のように王朝の世界から消えていったからである。
(ツタンカーメン像/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト)
(ツタンカーメンの黄金の玉座//エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト)
備考:金箔を貼られた椅子の背もたれには、ツタンカーメンが、妻のアンケセナーメンから香油らしきものを塗ってもらっている様子が描かれている。
(ツタンカーメン愛用のサンダル/エジプト考古学博物館/カイロ/エジプト)
(ツタンカーメンの墓入り口/王家の谷/ルクソール/エジプト)
(ツタンカーメン王墓内/王家の谷/ルクソール/エジプト)
(元の王墓で眠るツタンカーメン/王家の谷/ルクソール/エジプト);合掌
出典: 「ウイキペディア」
「古代エジプト 誕生・栄華・混沌の地図」日本語版監修:河江肖剰【日経BPムック】
「ゼロからわかる古代エジプト」著者:近藤二郎
「古代エジプトの女王」著者:カーラ・クーニー、翻訳:藤井留美、監修:河江肖剰/ナショナルジオグラフィック日本語版
「古代の覇者 世界を変えた25人」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「古代の都市 最新考古学で甦る社会」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「エジプトの女王6人の支配者で知る新しい古代史」ナショナルジオグラフィック【日経BPムック】
「古代女王ものがたり」著者:酒井傳六
「総力結集ツタンカーメン(王墓発見100周年)」ナショナルジオグラフィック日本版
「ナショジオが伝えて来た少年王の素顔ツタンカーメン100年」ナショナルジオグラフィック別冊【日経BPムック】
「筆者撮影画像」