トップページ

『クフナ・ウルゲンチ/トルクメニスタン』

 チンギス・ハンが激怒して、壊滅的な破壊を受けた中央アジアの都市がある。
 その1つが、クフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)である。
 ウルゲンチ(新ウルゲンチ)は、クフナ・ウルゲンチから、およそ150㎞離れた場所にある。ウズベキスタン・ホラズム地方の、中央アジアがイスラム化の進んだ12世紀以降に繫栄したオアシス都市である。
 クフナ・ウルゲンチは、トルクメニスタン北東部に位置し、12世紀にホラズム=シャー朝(当時は中央アジア全域を支配した政権)の首都としての機能を果たし、シルクロードの要衝として大きく栄えた都市であった。しかし、冒頭に記したとおり、ホラズム=シャー朝が、中央アジアを支配していた時、当時台頭して来た幾つかのモンゴル部族が、1206年チンギス・ハンによって統一されたことで、今後無視できない相手とみて、交易関係の強化を理由に使節を送った。
 それに対し、チンギス・ハンは快く応じた。そして1218年モンゴル帝国は、450人からなる大商団をホラズム=シャー朝に送りだした。しかし、ホラズム=シャー朝のオトラルの太守が、この商団を、モンゴルが中央アジア遠征のために送り込んだスパイ扱いし、全員を処刑し、荷を没収するというオトラル事件が起きた。
 これに対し、チンギス・ハンは早速ホラズム=シャー朝の王ムハンマド・アラーウッディーンに対して、オトラルの太守を引き渡し謝罪するよう詰問の使者3名を送った。しかし、王であるムハンマド・アラーウッディーンは、これを拒否しただけではなく、主使を処刑し、2名は髭をそり落として追い返すという、侮辱的な対応をした。
 この対応は、もともと将来に向けて中央アジアを注視していたチンギス・ハンにとっては、格好の侵攻理由を与えてくれたのである。
 1219年モンゴル帝国軍は中央アジアに向けて侵攻を開始した。
 1221年そのモンゴル軍によって、中央アジアの一都市であるクフナ・ウルゲンチも、市民の虐殺や、都市の壊滅的な破壊を受け征服された。しかし、後にモンゴル軍の破壊を受けたこの街は、ホラズム=シャー朝の残党や、地元の住民によって一時的に復活を遂げた。
 そして、1370年頃、クフナ・ウルゲンチがその沿岸に位置していたアムダリヤ川が、北に大きく流れを変えたために、街は重要な水源を失い、農業への悪影響や、都市としての経済基盤、生活基盤を失うことで崩壊を招いたのである。
 1370年台にはクフナ・ウルゲンチの街は放棄され、住民は北部の新ウルゲンチへと移動して行った。そして街は廃墟となり、今は当時の残されたいくつかの建物が、過去の悲しい歴史を物語っている。
 私がこのトルクメニスタ北東部の、クフナ・ウルゲンチを訪れたのは、2023年10月9日である。不毛の砂漠の中にいくつかの遺跡が点在しており、地平線を見晴るかす景色の中に、かつて繁栄の時代に栄華を浴びていたはずの建物が、過去の歴史を静かに語りかけてくるような気がした。
 その一つが、12世紀頃に建てられた後、モンゴル帝国によって破壊され、14世紀チャガタイ・ハン国のホラズム総督であった、クトゥルグ・ティムールによって再建された、クトゥルグ・ティムール・ミナレットである。塔の高さは60mもあり、当時ここを通る旅人たちは、天にそびえる美しい塔を見上げて旅の疲れを癒したに違いない。
 また、トレベクハムニ廟は、モンゴル帝国のチンギス・ハンの長男である、ジョチの後裔の妃トラベク・ハニムのために、1370年に建てられた霊廟である。二重のドームのキューポラ(丸天井)を持ち、外ドームのタイルは建てられた当時のまま残っている。内部の天井は青色装飾タイルが使われており、まさに青を基調としたタイルや装飾を用いたティムール朝の建築様式に酷似していて、その影響を受けた可能性は否定できない。
 さらに、スルタン・テケシュ廟は、12世紀後半から13世紀初頭ホラズム・シャー朝を統治し、領土の拡大や、経済的にも文化的にも最盛期を築きあげたテケシュ王のために、その偉業を讃えて、死後に円錐形のドームを持つこの霊廟が建てられた。
 そして、12世紀に建設されたホラズム=シャー朝の第4代王イル・アルスランのために建てられたイル・アルスラン廟などがある。
 ここ、クフナ・ウルゲンチは、10世紀から14世紀にかけて繁栄した、ホラズム=シャー朝の首都として繁栄したシルクロードの重要な拠点であり、モンゴル帝国による破壊や、自然災害によって廃墟と化したが、それでもいくつかの貴重な遺跡が現存していることから、トルクメニスタンの有名な観光地の1つに数えられている。
 世界遺産の登録基準である、(2)『ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。』、(3)『現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。』の2つの基準を根拠として、ここ、クフナ・ウルゲンチは、2005年「ネスコ世界文化遺産」登録された。
 遺跡の旅をしていて、いつも思う事がある。人類の争いの歴史は、言い換えれば興亡の歴史は、果たしてわれわれに何を考えさせてくれるのであろうか?と。
 改めて、『ユネスコ憲章 前文』を読んでみることにした。
 「この憲章の当事国政府は、この国民に代わって次のとおり宣言する。
 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
 相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起した共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
 ここに終わりを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人種の不平等という教養を広めることによって可能にされた戦争であった。
 文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神を持って、果たさなければならない神聖な義務である。・・・」
 この、ユネスコ憲章の前文は、私の稚拙な作品「歴史エッセイ」が、果たして誰に読まれ、どのような影響を与えるのか、どのような存在意義があるのかなど、結果が何も分からない不安感や、挫折感を優しくそして強く払拭し、希望と勇気を与えてくれるのである。それゆえに、私はこれからも、信念を持ち続け、歴史から学ぶべきことに、頭を低くし、人生においてその足跡を残すべく、この先も書き続けて行く。
(クフナ・ウルゲンチの砂漠に点在する遺跡群、左端/トレベクハムニ廟、一つ置いてクトゥルグ・ティムール・ミナレット、その右/スルタン・テケシュ廟、右端/イル・アルスラン廟)
(クトゥルグ・ティムール・ミナレット/左、クフナ・ウルゲンチ)
(トレベクハムニ廟内部の美しい青色天上/クフナ・ウルゲンチ/トルクメニスタン)
(トレベクハムニ廟を訪れた家族/クフナ・ウルゲンチ/トルクメニスタン)
(スルタン・デケシュ廟の円錐形屋根/クフナ・ウルゲンチ)
(広大な砂漠地帯を突き抜ける道路を行く/トルクメニスタン)
(道路脇で西瓜、ハミグワを売る家族/トルクメニスタン)
(天然ガスが燃え続ける「地獄の門」/トルクメニスタン)
参考資料: 「ユネスコ憲章 前文」
「チンギス・ハンとモンゴル帝国の歩み」著者:ジャック・ウェザーフォード/ 監訳:星川淳/翻訳:横堀冨佐子
「文明の十字路=中央アジアの歴史」著者:岩村忍
「砂漠と草原の遺宝 中央アジアの文化と歴史」著者:香山陽坪
「学研まんが世界の歴史 8」監修:長澤和俊、まんが:ムロタニツネ象
「大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国」著者:杉山正明