『ナイルの賜物』
しかし、実際の『歴史』を紐解いて読んでみると、「エジプトはナイルの賜物」とは書かれていなかった。
少しその文章を長く引用してみる。
「エジプトの国土に関する彼ら(エジプトの祭司たち:筆者注記)の話はもっともであると私にも思われた。というのは、いやしくも物の解る者ならば、たとえ予備知識を持たずとも一見すれば明らかなことであるが、今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである」と書いてある。「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物・・・新しく獲得した土地」と書いてあったのである。つまりギリシア人が通航しているエジプトの地域と言うのは、ヘロドトスが生きた時代紀元前490年から紀元前420年頃とされ、少なくとも70歳前に亡くなっていると思われる。
その頃のエジプトは第27王朝の時代で、アケメネス朝ペルシア王がエジプトのファラオを称していた。実際はアケメネス朝の総督が統治していた時代である。その総督府はナイルデルタにあるメンフィスに置かれていた。ヘロドトスの書く、「ギリシア人が通航しているエジプトの地域」とは、おそらくナイルデルタ地域のことと思われ、「エジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物」というのは、新しく獲得した土地、つまりナイルデルタ地帯のことをいっているのではなかろうか。
さて、話を元に戻そう。
空からの写真の通り、ナイル川両岸に沿って緑地帯が帯のように伸びているのがよくわかる。緑地の外はもう死の砂漠なのである。
ところが近年では、1902年完成のアスワン・ロー・ダムに次いで1960年から1970年の10年がかりで建設された、アスワン・ハイ・ダム建設による水位の上昇で、砂漠地帯にも用水路を引き込むことが可能となり、旅人は砂漠の真ん中に、青々とした円形の麦畑を見て驚く。この砂漠の麦畑は何故円形であるのだろうか、としばし考えさせられる。そして良く観察をするとその答えがわかるのである。それは麦畑の中心を支柱にして、巨大なスプリンクラーをコンパスのように回し、上から散水するためである。まさに、砂漠の中の穀倉地帯と化したのだ。エジプトがナイル川流域と、砂漠の穀倉地帯を合わせて、将来ウクライナのような、世界に穀物を提供する大穀倉地帯になることを祈りたい。
そしてどこかの歴史家が、現代版歴史書に「エジプトはアスワン・ハイ・ダムの賜物」と記載するかも知れない。
ナイル川は、古代エジプト文明を支え、そして今なお変わらず人々の生活を支え続けながら、その流れは滔々と地中海に注いでいる。
(上空から見たナイル川)
(アスワン・ハイ・ダム建設が砂漠にもたらした用水路)
(砂漠の中の丸い麦畑)
参考資料: | 「歴史 上」岩波文庫/著者:ヘロドトス/翻訳:松平千秋 |