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『美貌の王妃・ネフェルティティ』

 古代エジプト史における美貌で名高い王妃がいる。
 第18王朝のファラオ・アメンホテプ4世の正妃ネフェルティティである。
 歴史上の言い伝えによって、それも今から数千年も前の女性の美貌と言われても、写真や正確な画像などはない古代エジプトの時代なのだ。石像や壁画やパピルス、他には王のパレットに彫刻された姿などによってしか、その姿を確認できるすべはない。果たしてその真相や如何なのである。
 ところが、この王妃にいたっては、その美貌の様をまざまざと確認できる。なぜなら、その美貌を彷彿とさせるネフルティティの胸像が、ドイツの考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ・オリエント協会の手によって、1912年12月、エジプトのナイル川畔のアマルナにある、古代エジプト第18王朝時代の宮廷彫刻家、トトメスの工房跡で発見されたのである。その像は石灰岩を芯にして、化粧漆喰で採色されており、その美しさと精巧さに、発見者たちは驚愕したと言われている。発見者のルートヴィヒ・ボルヒャルトは、その時の様子を日記に、「我々は突然とても生き生きとしたエジプトの美術品を手に入れた」と記している。この胸像は、エジプト政府との会合において、ドイツに持ち帰ることが出来たのである。そして私たちはその驚くべき古代エジプトのネフェルティティの美貌を、この現代において、ドイツのベルリンにある「新博物館」で見ることができる。しかし、ベルリンに行かなければ本物はみることはできないが、私たちは現在その画像をネット検索「ネフェルティティ胸像」で確認できる。是非一度ご覧いただきたい。この胸像は、ネフルティティの夫であるアメンホテプ4世の、「宗教改革」という神への崇拝の念から生まれた奇跡の賜物である。当時のエジプトの芸術は、古来の伝統に則った形式的で画一的な表現に埋没していたが、アメンホテプ4世はそれを脱却するために、人々の瞬間的な動きや、自然なあるがままの姿を捉えることに重きを置くべきとする、明確な方向性を打ち出したのである。この芸術を総称して、宗教改革を行う際に、首都をテーベ(現在のルクソール)からナイル川畔のアマルナに移転したことから、その地名をとって「アマルナ美術」と呼ばれるようになった。余談ではあるが、この工房跡ではほかにも、未完成のネフルティティの胸像や、アメンホテプ4世や家族の胸像、当時の彫刻の道具・素材などの発見もあり、古代エジプトの彫刻技術や、その制作過程に関しての貴重な情報の収集元として、研究者たちに対して大きく貢献している。
 さて本題に戻ることにしよう。
 ネフェルティティは、古代エジプト新王国時代、第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世の王妃である。
 そして、「王家の谷」の未盗掘王墓として発見され、世界的に有名になった少年王ツタンカーメンの義理の母親(孫という説もある)でもある。しかも、ネフェルティティは、王妃であり、ファラオであった可能性もあるのだ。アメンホテプ4世とネフェルティティが結婚したのは、彼が王位を継承するまえであるとされ、その頃ネフェルティティはまだ10代の少女であった。
 そのあたりの時代背景を語るとしよう。
 第18王朝のアメンヘテプ4世に近いファラオを抜粋してみた。
イアフメス1世(在位:紀元前1550年頃―紀元前1525年頃)18王朝初代ファラオ
アメンヘテプ3世(在位:紀元前1388年頃―紀元前1351年頃)ファラオ
(在位:紀元前1391年頃―紀元前1353年頃)ファラオ
アメンヘテプ4世(在位:紀元前1353年頃―紀元前1336年頃)ファラオ
(在位:紀元前1353年頃―紀元前1336年頃)ファラオ
スメンクカラー(在位:紀元前1336年頃―紀元前1334年頃)女王
ツタンカーメン(在位:紀元前1334年頃―紀元前1325年頃)ファラオ
 備考:ウィキペディア 古代エジプトファラオ一覧表より(二段書き在位年数は可能性の表示)
 第18王朝は、古代エジプト第2中間期から続く新王国時代の王朝である。第17王朝が、異民族(カナン系、ヒクソス系民族)による支配を受けていた時代から、イアフメス1世が国権を奪い返し、エジプトを再統一し初代ファラオとなった。いわゆるエジプト版レコンキスタを終了させた時代であった。この第18王朝は、歴史上で名前の知れた王や、女性王による支配など、特色があり古代エジプト史上においても最も繁栄した時代だった。
 その中でも、いわゆる奇才とでも言うべきファラオ・アメンホテプ4世の王妃について、話を進めることにしよう。
 ネフェルティティという女性の出自には、いくつかの説があり確定した資料は存在していない。一般的な説では、エジプトの貴族の娘という説と、ミタンニ王国の王女であるという説がある。ミタンニ王国は、メソポタミア北部ブル川上流にあったフリル人が建国した国で、積極的に政略的結婚を通じて他国との関係を築いていた。しかし、ネフェルティティが、ミタンニの王女であったという確証はない。
 古代エジプトでは、ネフェルティティのように、権力の側にいて、あるいは自身が権力を得て活躍した女性が多くいる。
 エジプト第一王朝のメルネイトは、夫の死後、王子が幼かったために実質的な統治者として政治を行った。
 ニトクリスは、第6王朝の末期男性のファラオがいない時期の統治者であったとされている。まだ歴史的に解明されていないため、その実在について確定的ではない。
 セベクネフェルは、第12王朝のファラオとされていて、王の死後に政権を引き継いで統治を行ったとされる。
 ハトシェプストは、今回の対象王朝第18王朝のファラオで、古代エジプト王朝史において、もっとも長期政権を維持し統治した女王(ファラオ)である。
 そして今回の主役、ネフェルティティは第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世の王妃である。
 さて、ここで夫君のアメンホテプ4世の概略について簡単に触れてみよう。
 アメンホテプ4世は、アメンホテプ3世の息子である。アメンホテプ3世は、第18王朝のファラオであり、治世の期間は前王朝のような外国からの侵入などもなく、日本で言えば丁度江戸時代の元禄時代のような繁栄を謳歌していた時期である。
 その治世には、多くの建築物を手掛けて、中でも有名なものはルクソール神殿とカルナック神殿である。外交においても手腕を発揮し、近隣諸国と同盟を結ぶなど、その有能さを示す国王であった。現在、ルクソールのナイル川西岸にある、アメンホテプ3世葬祭殿の入り口に立つ、2体の巨像は彼の像である。今は過去に起きた地震や風化やエジプトの高温のために、像の損傷が激しく顔などは崩れて見えない。葬祭殿遺構自体は広大で、過去の栄華を忍ぶことができる。この王は、エジプトのこれまでの、アメン神を中心とした多神教崇拝の歴史を尊重しながらも、一方では太陽神アテン神への強い信仰心も持ち合わせていた。しかし当時の治世において、宗教の中心にあったアメン神信仰を支配していたアメン神官団は、神殿への寄付や戦利品、多くの土地、財物を所有し、豊富な財力と、宗教的儀式を通じファラオの権威を支えるなど、経済的にも政治的にも大きな存在感を示していたのである。特に政治においては、その政策にまで口出しできる力を備えていた。アメン神が国家の神であったことから、アメン大神殿に対してファラオたちは莫大な寄付を行い、(あるいは寄付を要求すらしたに違いない)エジプト国内に広大な神殿領を保有していた。いわゆるアメン大祭司国家ともいえる神官団の権力を保有するにいたったのである。
 このような状況を、若い頃からアメンホテプ4世は、父親の側で見てきたことは、その後の人生に大きく影響したとしてもおかしくはない。
 アメンホテプ4世は紀元前1353年頃に、父親からファラオの地位を受けついだ。その当時も、恐らくファラオ(アメンホテプ4世)に対する、神官団の態度は変わらなかったに違いない。そして、彼の治世数年後に早速彼は行動を起こした。この行動はいわゆる現体制への反乱のようなものである。標的は、政治においてその政策にまで関与できる権限をもつ、アメン神官団であった。彼は、父の治世において静観してきた、政治権力内部の主勢力とも言うべき、アメン神及びアメン神官団への決別の意思表示をしたのである。治世5年目頃(紀元前1348年頃)に、アメン神信仰の禁止、アメン神官団の組織の解体を指示し実行した。
 さらに、アメン神への自身の決別の意思表示の表れとして、名前の変更を行った(紀元前1349年頃)。アメンヘテプ(「アメン神は満足している」)から、アクエンアテン(「アテン神に有益な者」)と名乗るようになった。さらにその2年後(紀元前1346年頃)には、新しい都市の建設を開始し、現王朝の首都であったテーベ(ルクソール)から、北へおよそ400㎞離れたアケトアテン(「アテンの地平線」の意味、現在のアマルナ)へ首都移転を行った(紀元前1343年頃)。
このように、次から次へと改革を行う夫を、妻ネフェルティティはどのように見ていたのだろうか。
 先ず、アメンホテプ4世の氏名変更に関しては、ネフェルティティも夫と同様に、その名を変えている。彼女の名前ネフェルティティは、(「美しい女性が来た」)という意味で、アケトアテンに来て変更した名前は、ネフェルネフェルウアテン・ネフェルティティ(「アテンの美しき者、ネフェルティティ」)と変わった。これは、普通に考えれば、夫唱婦随ととれる。それに対して面白い記事があるので紹介したい。
 「このような王族の改名は前代未聞である。新しい名を得た王は都の中心部を離れ、エジプト中部の名もない場所に新都を建設する。王はまっさらな土地で聖なる都を一から築き上げ、アケトアテン(アテンの地平線)と名づけた。この都の遺跡は、現在ではテル・エル・アマルナとして知られる。王のお気に入りのエリートたちも新都へ同行し、その際、膨大な賄賂がやりとりされたことは想像に難くない。かくして、エジプト社会は無秩序な状態に陥った。」『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(【日経BPムック】ナショナルジオグラフィック 別冊)
 「王族の改名は前代未聞のである。」とあるのは、恐らくその改名の動機に問題があったということであろうか。なぜなら、通常古代エジプトでは、即位時や何か特定の出来事があった際には名前を変更することは良くあったからである。
アメンホテプ4世からアクエンアテンに改名した動機が、エジプトの伝統的な宗教体系に対する挑戦状であり、まさに宗教改革への意思表示だったからである。その挑戦状への夫婦連名の連判状を、言わばエジプトの巨大組織であるアメン神官団に突き付けたようなものである。この連判状に、ネフェルティティは毅然と名前を記したのである。この覚悟は、普通の覚悟ではできない堅固な意思が必要となり、その意味も良く知悉していたネフェルティティだったと思われる。
 さらに2人の関係を書いた記事がある。
 「アクエンアテンと改名した王は、自らが描く大胆不敵な構想の成功にはネフェルティティの存在が不可欠だと承知していた。そのため、可能な限りいつでも、どのような形であれ、自分の隣に王妃を置いた。ネフェルティティは宮廷内で王が心から信頼できる数少ない人間の1人だったのかもしれない。理由は単純で、彼女の地位は王との関係に依存するものだったからだ。王の一言で冠を取り上げられ、すぐに別の女性が『偉大なる王の妻』の座に就く可能性もないわけではない。そのように2人の間には独特な共存関係が成立していた。」(『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(ナショナルジオグラフィック 別冊 【日経BPムック】)
 この記事が示すように、ファラオのもつ絶大な権力は、アメン神官団を黙らせるほどの力を持っていた。アクエンアテンは、この宗教改革に付随した首都移転計画を、独自の考えで主導したに違いないが、恐らくネフェルティティにも協力するよう促したに違いない。神殿建設や宗教儀式では、彼女は必ずファラオの隣にいたのだろうし、神殿の装飾やそこに立つ多くの石像や絵画などの芸術的な面においても、女性の細やかな感覚を生かしたであろうことが想像できる。
 「宗教改革を成功させるために、アクエンアテンはネフェルティティを必要とした。ネフェルティティは太陽神アテン崇拝において王と対等な地位にまで昇格し、彼女のための神殿まで建てられた。結婚して間もなく、2人の間には娘メリタテンが誕生し、その後さらに5人の娘が生まれた。王女たちは、神聖な婚姻の結果アテン神の祝福を受けて生まれたと信じられ、宮廷芸術家たちの人気の題材となった。アテン神による祝福の陽光が王室一家の頭上に降り注ぐ様が描かれた芸術作品も残されている。」(『ナショナルジオグラフィックIDラウンジ 古代エジプトの謎多き王妃ネフェルティティ、美貌に隠れた政治力 』2022.03.24記事』)
 アクエンアテンはネフェルティティなしには、この宗教改革はなしえなかったのではなかろうか。それほどネフェルティティの存在は大きかったと思われる。
 引き続きナショナルジオグラフィックの記事を引用したい。
 「アクエンアテンも治世12年後、アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンという共同統治王がアクエンアテンと並んで描かれるようになる。現在では大方の歴史学者がこの共同統治王はネフェルティティその人であると見ている。夫からネフェルネフェルウアテン名を与えられた彼女は、即位名と引き換えにネフェルティティという名を捨てた。結局のところ、アクエンアテンが自らの宗教改革の継続を託せるほど信頼していた相手は、王妃のほかにいなかったのだろう。そのため、 ネフェルティティが自分のそばで完全な権力を発揮できるようにする必要があった。かくして、ネフェルティティは『太陽神ラーが生きていることの現れ』を意味するアンクケペルウラーを名乗るようになった。」(『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(ナショナルジオグラフィック 別冊 【日経BPムック】)
 記事の内容の詮索の前に、この記事が書かれた理由に触れてみよう。
 実は、ネフルティティの記録は、アクエンアテンの治世12年目(紀元前1338年頃)まで存在するが、それ以後は途絶えてしまうのである。
 そのことについて、研究者の間でいくつかの仮説が立てられた。
 最初の仮説は、彼女が突然亡くなって、アクエンアテンが悲嘆の末に記録することを禁止したとする説である。もう1つは、彼女はアクエンアテンの寵愛を失い地位も失ったために、記録が途絶えたという説、そして今回の記事に記載のある、アクエンアテンとの共同統治者とされるアンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンとはネフェルティティであるとする説。
 記事の内容にある通り、現在の研究者の大方の意見は、共同統治者であるアンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンはネフェルティティであるという結論に落ち着いている。
「ネフェルティティは過去のあらゆる王妃を超え、かのハトシェプストをもしのぐ地位に昇格した。そして、アクエンアテンよりも若かったことから、夫の死後、君主としてその治世の遺産を背負うことになる。彼女はアクエンアテンの信頼する同盟者として、表向きは彼の宗教構想を遂行する定めにあった。アクエンアテンが自らの信仰に執着し、聖なる都に閉じこもったのに対し、ネフェルティティは2人の王の片割れとして世界に歩み出て、エジプトの統治を引き受けた。一方、常識的な決断をする君主として官僚が信頼を寄せる人物でもあったはずだ。」『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(ナショナルジオグラフィック 別冊 【日経BPムック】)
 ネフェルティティは実際に記事に「君主としてその治世の遺産を背負うことになる。」とあるように、国内政治の実質的な統治はもとより、外国の使者を招いてアテン神信仰を広めるための宗教行事や、エジプト王族と外国の王族との婚姻の折衝を務め、宗教的・政治的外交も積極的に行っていたようである。
 さらに、記事にある「ネフェルティティは2人の王の片割れとして世界に歩み出て、エジプトの統治を引き受けた。一方、常識的な決断をする君主として官僚が信頼を寄せる人物でもあったはずだ。」とあるように、アクエンアテンというファラオ自身と対等な権力を持ち、安心して国事の判断を委ねられる明晰な判断力を兼ね備えている人物でなければならない。その人物こそネフェルティティなのである。
 最後にもう一度ナショナルジオグラフィックの、良く纏まった記事の力を借りて、この作品を書き終えたいと思う。
 「アクエンアテンの死後、王座を継いだのはアンクケペルウラー・スメンクカラーと呼ばれる王だった。その後、有名な少年王ツタンカーメンが権力の座に就くことになる。ごく最近まで、スメンクカラーは第18王朝の王家の血を引く男性、おそらくはアクエンアテンの兄弟だろうと考えられていた。だが、王朝末期の継承危機とアンクケペルウラーという即位名(ネフェルティティが共同統治王ネフェルネフェルウアテンとして使っていたものと同じ)をよくよく検証すると、謎のスメンクカラーはほかならぬネフェルティティその人だった可能性が浮かび上がる。スメンクカラー王はネフェルティティだったのか、それとも別人の男性だったのかーエジプト学者の間では今も激しく意見が対立している。ネフェルティティが本当にアンクケペルウラー・スメンクカラーだったのなら、その行く手には、亡き夫が民に負わせた傷を癒すという、個人的な葛藤が待ち受けていたはずだ。太陽であり王でもあったアクエンアテンは、持続不可能な支出と建築を行っていた。それ以前の第18王朝の王たちは、戦争や金鉱などからの収入により君主としての真価を証明したが、アクエンアテンは太陽信仰を広めるための財源には無頓着だった。エジプトは破産状態に陥っていた。・・・一国の女王としてのネフェルティティの歴史は、不完全で混沌としている。それどころか、ネフェルティティの生涯は、考古学者が彼女の墓を(そしてもしかしたら遺体を)突き止めないかぎり、謎に包まれたままである可能性が高い。次代の王ツタンカーテン(のちにツタンカーメンに改名)は、一部の歴史学者の間では、ネフェルティティの孫とされている。」(『エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史』(ナショナルジオグラフィック 別冊 【日経BPムック】)
 ファラオは、ただ一筋にアテン神の信仰と崇拝の儀式と神殿の建築にすべてを打ちこみ、思い通りの人生を生き、そして足早に去っていった。その妻として、太陽神アテン信仰の維持を図り、宗教的な統一で国内を安定させようとしたに違いない。また継続して神官団や貴族や官僚の影響力を抑える方向性は変えなかったと思われる。そして、その抑制策として、彼女は首都をアケトアテンから、元のテーベに戻す計画を進めていたといわれている。その努力は彼女の治世2年間は持ちこたえたのだろう。しかし、次のファラオ・ツタンカーメン(というか今まで抑制されていた勢力)によって、父の行った宗教革命で変えられたすべての制度は、元の鞘に納められることになったのである。アクエンアテンの宗教革命は、夫と妻の表裏一体が織りなす、光と影であり、光が消え、影も消え去った時、その暗闇にまばゆく煌めく、歴史に鮮烈に記録された、美しく哀しい打ち上げ花火であった。
(パピルスに描かれた現代版ネフェルティティ/カイロにて購入/筆者所蔵)
(カルナック神殿の羊の顔のスフィンクス像/ルクソール/エジプト)
(カルナック神殿スカラベとオベリスク/ルクソール/エジプト)
(カルナック神殿にて/ルクソール/エジプト)
参考資料:ウィキペディア(ファラオ一覧表)
「エジプトの女王 6人の支配者で知る新しい古代史」ナショナルジオグラフィック 別冊 【日経BPムック】
「ナショナルジオグラフィックIDラウンジ 古代エジプトの謎多き王妃フェルティティ、美貌に隠れた政治力 」2022.03.24記事』)
「古代エジプト 誕生・栄華・混沌の地図」ナショナルジオグラィック 別冊 【日経BPムック】
「決定版ゼロからわかる古代エジプト」著者:近藤二郎
「古代エジプト 失われた世界の解読」著者:笈川博一
「古代エジプト解剖図鑑」近藤二郎
「古代エジプトの女王 王座で新しい役割を果たした6人の物語」著者:カーラ・クーニー、翻訳:藤井留美、日本語版監修・解説:河江肖剰」
「小学館学習まんが世界の歴史 メソポタミアとエジプト」
筆者撮影画像
筆者所蔵パピルス