『ミイラの旅』
The New York Times紙が報じた記事がある。
By Clyde H. Farnsworth Special to The New York Times/Sept. 28, 1976 (The New York Timesクライド・H・ファーンズワース特別寄稿/1976年9月28日/ニューヨークタイムズ紙/アーカイブ記事より)
The ceremonies were shown on French television. Not all those who Were watching felt that what the Government was apparently seeking to present as a significant diplomatic victory was worth the expense.
歓迎式典は地元テレビで放映された。この番組を視聴していた人々は、政府は明らかに重要な外交的勝利に見せようとしているが、費用をかけた価値があると誰もが受け取ったわけではないと感じていた。(筆者訳)
Proposals for the mummy's journey began last year when a French physician, Maurice Becaille, was doing research at the Cairo Museum on the exodus of Moses from Egypt and was seeking to determine the cause of the Pharaoh's death. Gaining permission to examine the mummy closely, he discovered that under the bandages the remains were not in good shape, with parts destroyed by mysterious growths.
ミイラのフランスへの受け入れ提案は、昨年、フランス人の医師モーリス・ブカイユが、カイロのエジプト考古学博物館において、モーセの出エジプト記の研究を行うために、ファラオ(ラムセス2世)の死因を解明しようとして始まった。ブカイユは遺体(ミイラ)を詳しく調べる許可をえたが、包帯に覆われている遺体(ミイラ)の保存状態が悪く、不明な何かに一部が破壊されているのを発見した。(筆者訳)
The offer was repeated again last May when Mr. Giscard d'Estaing opened an exhibition devoted to the times and treasures of Ramses II at the Grand Palais here. it has proved to be one of the most popular of Paris exhibitions, with 650,000 visitors to date.
この提案(ミイラの修復)は、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領がパリのグラン・パレで、 「ラムセス2世の時代と財宝」をテーマにした展示会が開催された昨年5月にも繰り返しなされた。 この展覧会はパリで人気の高い展覧会の一つとなり、現在までに65万人が来場した。(筆者訳)
ミイラの旅の目的は、文中にもあるが、フランス人医師モーリス・ブカイユが、旧約聖書の「出エジプト記」の研究を行うために、ラムセス2世の死因を特定しようと、エジプト政府の許可を得てミイラの調査を行ったことである。そこで、ミイラの保存状況の悪化に気づいて、補修の必要性をエジプト政府に訴えかけ、それを知ったジスカール・デスタン・フランス大統領がサダト・エジプト大統領に働きかけて、フランスで修復を行うことが実現したのである。
ここで、ラムセス2世のことについて少し触れてみたい。
古代エジプト新王国第19王朝第2代目のファラオであるラムセス2世は、歴代のファラオの中でも特に偉大な王としてエジプトの歴史にその名を刻んでいる。その治世は父王セティ1世との共同統治期間も含めるとおよそ70年もの長きにわたっている。統治期間には、多くの神殿を建てている。アブシンベル神殿(大神殿と小神殿があり、大神殿は太陽神ラーに捧げるために建てられた。小神殿は女神ハトホルと王妃ネフェルタリに捧げるために建てられた。)、ルクソール神殿の第一塔門・その門の前に立つ高さ25mのオベリスク2基(エジプトからフランスに寄贈され、1基は現在パリ・コンコルド広場に立っている)・ラムセス2世の中庭部分、ラメセウム(テーベにある自身のための葬祭殿)、カルナク神殿(大列柱室と第2塔門、第3塔門)、メンフィスの神殿複合体(プタハ神殿入り口の高さ13mのラムセス2世像)、アビュドス神殿(セティ1世が着工しラムセス2世が完成させた)などがある。ラムセス2世が関わったとされる建造物や石像やレリーフなどがあり、その生涯の多くを建設事業に費やしている。
また、軍事関連ではラムセス2世が紀元前1279年に即位してまもなく、紀元前1274年カデシュの戦いが勃発した。戦いのきっかけとなったのが、この当時重要な交易ルートであった、シリアとパレスティナ地方の領有権をめぐる争いであった。ラムセス2世率いるエジプト軍は、シリア北部に侵攻し当時ヒッタイト王国の支配下にあった属国のアムルを占領した。これに反応してヒッタイト王国の王ムワタリ2世が、アムル奪還を目指し同盟国の軍隊を組織し進軍してきたのである。
この時ラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポにいるとの情報(実はスパイから得た偽の情報)を得て、カデシュの防備が手薄なうちに陥落させようと進軍した。しかし実はヒッタイト軍はカデシュの丘の背後に歩兵と戦車部隊で陣を構え待ち伏せをしていた。エジプトのラムセス2世率いる、アメンラー軍(エジプトの軍団は、アメン軍団、ラー軍団、プタハ軍団、セト軍団の四つに編成されていた)に奇襲攻撃をかけるべく準備を終えていたのである。
しかしながら幸運にもエジプト軍の斥候がヒッタイト軍の斥候を捕え、ラムセス二世の尋問によって、敵はすでに戦いの陣を構え待ち伏せをしていることが判明したのである。彼は将校たちを集めて、情報活動の不備を叱責し、後続部隊を急がせるように指示している。
ラムセス2世はアメン軍団を直接指揮し、他の3軍団はアメン軍団とは距離を置いて進軍していた。午後になって、ヒッタイト軍が第2軍のラー軍団の側面を襲った。不意を突かれたラー軍団はパニックとなり壊走を始めたのだ。ラー軍団の兵士は逃げまどいラムセス2世のアメン軍団に逃げ込むものもあった。ラー軍団を追撃するヒッタイトの部隊は次にラムセス2世の本軍アメン軍団に襲いかかった。しかしラムセス本軍は逃げるどころか、劣勢を跳ね返すようにラムセス2世本人も敵の中に勇敢に切り込み、それを見た兵たちも奮戦し持ちこたえた。
そこに、ネアリンと呼ばれる傭兵部隊の援軍がアムルから遅れて到着し、エジプト軍の態勢は持ちなおし、ヒッタイト軍を押し返した。ヒッタイト軍はオロンテス川(カデシュの近くを流れ、シリアとレバノンの国境にある川)を渡り全軍が撤退しそこに合流した。
そのあと、両軍の戦いは膠着状態となり、ヒッタイト軍からの停戦の申し入れがあり、ラムセス2世は将校たちと相談の結果これを受け入れて、両軍は兵を引いたのである。この戦いは引き分けに終わった。
以後、両国では水面下での和平への外交交渉が続けられた。中でもエジプト側はラムセス2世王妃ネフェルタリと、ヒッタイト王ハットゥシリ3世王妃プドゥヘパ(タワナアンナ)両妃の頻繁な書簡による関係改善の話し合いがなされていた。この書簡の行き来が両国の関係を良好な状況に導いたとされている。特にヒッタイト王妃プドゥヘパはラムセス2世とも書簡を交わし、関係改善を行っていたようである。この両妃がその後のヒッタイト、エジプトの平和的関係の構築には、より大きな役割を果たしたのである。
結果、紀元前1258年ラムセス2世とハットゥシリ3世(兄ハットゥシリ2世の後継者で、カデシュの戦いではハットゥシリ2世の指揮下軍司令官として参戦していた)の間で、世界初といわれる「平和条約」が締結された。その内容は、両国の平和維持のための神への宣誓、国境の勢力圏の確定や相互不可侵承認、逃亡者の相互送還協力、条約違反者への呪い、条約期間中の両国民の幸福維持など、縁起的な内容を除けば現代版平和協定に決して劣らない、古代世界の画期的な条約であった。その条約はエジプトではカルナック神殿の西側外壁に、ヒッタイトでは当時の首都であったハットゥシャ(現在のトルコ共和国の首都アンカラ近郊)の粘土板に刻まれている。
この条約は銀の板に刻まれたために、別名「銀の条約」とも呼ばれた。しかしその銀板のオリジナルは現存しておらず、1906年に、トルコ共和国のボガズキョイ(首都アンカラの近郊)で、粘土板に刻まれた条約が発見された。そのレプリカが現在ニューヨーク国連本部、安全保障理事会/会議室/北側入り口に展示されている。
これは、あくまでも私の推論であるが、「銀の条約」がエジプト、ヒッタイト両国で草案の確認作業が行われて、正式に締結されたのは紀元前1270年とされ、上エジプトのヌビアにラムセス2世が建造したアブシンベル神殿の建設が、紀元前1260年頃とされている。この時代推移からすれば、ラムセス2世が寵愛したネフェルタリ王妃のために建設したアブシンベル神殿の小神殿は、彼女の誕生祝いとか、美人だったからとか、一般的にはそう言われているが、決してそのような単純な理由ではなく、権力の裏側で献身的に王を支える外交的な才覚も含め、王を支えるためあらゆる能力を発揮できる、才色兼備の魅力的な女性だったからに違いないと思うのである。
ちなみに、古代エジプトの3大美女とされるのは、宗教改革を成し遂げた第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世(ツタンカーメンの父にして後にアクエンアテンに改名)の王妃ネフェルティティ(ツタンカーメンの義母)、第19王朝ファラオ・ラムセス2世の王妃ネフェルタリ、プトレマイオス朝ファラオ・クレオパトラ7世の3人である。その評価は何せ古代エジプトのことであるから、伝承されている歴史的な事跡や、残された遺跡の肖像などによって、個人的なご判断におまかせするしかない。
話を元に戻そう。
ラムセス2世は、長い治世の期間、国防のための軍事活動、条約締結による平和外交、多くの神殿の建築において宗教や文化の発展などに寄与し、90歳で天に召された。その亡骸は、紀元前古代エジプトの専門の司祭たちよって、死後の世界での復活のためにミイラ化され、現在カイロのエジプト考古学博物館に安置されている。
私がエジプトを訪れた2024年2月、エジプトでは新しい「大博物館(エジプト文明博物館)」の建物が完成(建設費約630億円のうち、約350億円が日本からの円借款で建設されている)し、プレオープン中であった。現在はエジプトの古代の至宝およそ20万点はエジプト考古学博物館が収蔵しているが、このうち約10万点が「大博物館」に移転収蔵されるという。
今回のエッセイテーマである『ミイラの旅』は、死して3000年を経てなおファラオとして立派に外交貢献を果たすラムセス2世のミイラの旅と、その生涯における偉業の紹介であった。
最後に、そもそもこのThe New York Timesの記事の冒頭部分は、何故エジプトのファラオの圧政から、イスラエルの民が脱出する旧約聖書の「出エジプト記」に触れているのか、そして文中ではフランス人の医師モーリス・ブカイユが、何故ラムセス2世の死因を調査したかったのか、ということである。
旧約聖書のファラオに触れている箇所を見てみよう。
旧約聖書「出エジプト記」のこの箇所は、特に映画『十戒』の中でも、壮大なクライマックス・シーンの映像として登場するので、少し長く引用してみよう。
14―1 主はモーセに告げて仰せられた。
14-2 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
14-3 パロ(ファラオ:筆者注)はイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている
。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。
14-4 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。
14-5 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエル人を去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」
14-6 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、
14-7 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。
14-8 主がエジプトの王パロ心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
14-9 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
14-10 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。
14-11 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れてきて、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。
14-12 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。」事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」
14-13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。
あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14-14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。
14-15 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
14-16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
14-17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14-18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」
14―19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち
14-20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。
14-21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14-22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
14-23 エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中に入って行った。
14-24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営をかき乱された。
14-25 その戦車の車輪をはずして、進むのを困難にされた。それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」
14-26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」
14-27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真ん中に投げ込まれた。
14-28 水はもとに戻り、あとを追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。
14-29 イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。
14-30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。
14-31 イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。
15-19 パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真ん中のかわいた土の上を歩いていった。
こうして、主(神)の導きによりとモーセとイスラエルの民は、パロ(ファラオ)とその軍勢から逃れ、カナンを目指しエジプトを離れたのである。
実は、この聖書のこのシーンに、ラムセス二世のミイラの死因を探る、フランス人医師の目的が書かれているのだ。モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出すことを認めたファラオが、意思を翻し再度エジプトに連れ戻すため追いかけて来た「パロとその戦車とその騎兵(「出エジプト記」14-17)」は、「海辺に死んでいるエジプト人」になったのだ。つまり、フランス人医師はラムセス2世が、海で溺死したのではないかと考えての調査だったと思われる。
では、ここに書かれているパロ(ファラオ)が、何故ラムセス二世と思われたのか。それも、旧約聖書にそれと思わせる箇所がある。
1-11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。「出エジプト記」
2-23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。「出エジプト記」
「出エジプト記」1-11の、このピトムとラメセスはラムセス2世の父セティ1世が、物資貯蔵庫の町として建てた、ピ=ラメセス=メリ=イメンがラムセスと思われる。
さらにセティ1世はカイロ近郊に守護神アトゥムに奉献する町を建てており、この町はペル=アトゥムと呼ばれ、これがピトムの可能性がある。
そして、「出エジプト記」2-33で、「王が死んだ」と記載があるのがセティ1世のことであれば、次の王は当然ラムセス2世となるのである。
おそらくこの事を知っていた、医師モーリス・ブカイユはラムセス2世に的を絞って、ミイラの死因調査を行ったと推測される。
まとめると、フランス人医師は「出エジプト記」でエジプトを逃れたイスラエルの民を、エジプト軍を引き連れ追いかけたファラオは、ラムセス2世だと考えていた。だとすれば神の力によって割れた海が閉じて、溺死したエジプト軍の中に、ラムセス2世がいたという想定で、そのミイラの死因を特定すべく調査を行った、ということになるのである。
著者:吉成薫「ファラオ 古代エジプト3000年の謎」では、「『旧約聖書』の「出エジプト記」に描かれた、モーセ(モーゼ)の指導によるイスラエル人(ヘブライ人)のエジプト脱出を阻もうとして、紅海でおぼれ死んだエジプト王(パロ)は、このメルエンプタハであるという説が、ある時期まで有力であった。この王のミイラが他の王たちのものとは異なり、白っぽく、表面に塩の結晶が見られることが、海で溺死した証拠と考えられたからである。しかし、その後、「イスラエル碑」と呼ばれる石碑の発見によって、エジプト脱出の時期がメルエンプタハより前の王の時代と考えられるようになり、現在ではラメセス二世がその王であるあるとする説が一般的になっている。」と記載がある。
しかし、今回のニューヨークタイムズ記事、「パリ自然史博物館」でのミイラの補修に関連した調査では、ラムセス2世のミイラが、海で溺死した証拠は発見されなかったのである。
歴史的な発見、それは人類の知られざる過去の歴史から、新たなる事実を確たる証拠をもって人々に知らしめることである。言わば刑事裁判で「証人」が示す誠実なる意志表示により、犯人が確定し判決が下されるように、人類の歴史上の知られざる事実を、誠実で確定的証拠を示し周知することである。
今回長々と書いてきた、ラムセス2世のミイラの旅は、読者によって様々な受け取り方があるに違いない。私は、フランス人医師の、ラムセス2世の死因の調査の結果に強く引かれて、このエッセイを書いてきた。しかし、この記事が多くの読者の気を引いたのは、どうやらラムセス2世のミイラが、パスポートを所持して、パリに旅に出たという内容であったらしいことがうかがえる。ネット上で飛び交う情報には、まことしやかにミイラの顔写真や、国籍、職業はKing(ファラオ)などが記載された、エジプト政府発行(本物があったとしても、世の中には出回らない筈)のパスポートそのものの画像まで掲載され、多くの話題をさらったようである。
今後、旧約聖書「出エジプト記」の、モーセが率いたイスラエルの民のエジプト脱出時のファラオが誰であるか、エジプト考古学者やその他の研究者の発見で、特定される日が来るに違いない。
出典: | 「聖書 新改訂版」翻訳:新日本聖書刊行会 |
「ウィキペディア」ラムセス二世項注記/ニューヨークタイムズ/アーカイブデータ 他 | |
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