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『ネルソン・マンデラ』

南アの希望の星となった人がいる。
故人ネルソン・マンデラは、今も夜空から祖国を見守り続けているはずである。
 ネルソン・マンデラ(正式名:ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ)を抜きにして、南アフリカ共和国の歴史を語ることはできない。
 マンデラは1918年7月18日、トランスカイのクヌ村に生まれた。
首長の子として育つ過程で、反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップ、また人として必要な寛容の精神などを学び育った。
メソジスト派のミッションスクールを卒業後、フォートヘア大学に入学し、1940年学生ストライキを主導したとして退学処分となった。
しかし、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び学士号を取得した。
また、その後はウィットワーテルスランド大学で法学の学士号を取得した後、1944年、アフリカ民族会議(ANC)に入党した。
そこで青年同盟を創設し執行委員に就任し、本格的にアパルトヘイト運動に取り組んだ。
1948年に、ダニエル・マラン率いる国民党が政権を取ると、この新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していった。
これに対して、アフリカ民族会議は政府に対して、より強硬な対決姿勢を強め、その急先鋒を務めたのが青年同盟の有力メンバーのマンデラその人だった。
1949年以降アフリカ民族会議は、穏健政策からストライキやデモを行うなどして、政府に圧力をかける方向にかじを切った。
1950年にマンデラは、アフリカ民族会議青年同盟議長に就任するとともに、アフリカ民族会議を構成する、
南アフリカ共産党にも入党し、その中央委員も務めた。
  1955年6月25日及び26日に、アフリカ民族会議はヨハネスブルグにおいて、南アフリカの全人種が参加する人民会議を開催し、
「南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人々に属する」という文言で始まる自由憲章を採択して、自由民主主義を旗印として掲げた。
 このような活動において、1956年アフリカ民族会議の主要メンバーは、国家転覆罪の名において、逮捕され裁判にかけられたが、この時は無罪となっている。
しかし、1961年に「民族の槍」という準軍事組織を作りマンデラが初代司令官となった。
その後政府施設へのテロ行為を行ったということで、民族の槍はテロ組織と認定されマンデラは、1962年8月逮捕された。 
1964年マンデラは国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。しかし彼は収監中にも勉学に励み、1989年に南アフリカ大学の通信課程を修了し、法学士号を取得した。
獄中にあっても、マンデラはアパルトヘイトからの解放運動の、象徴的な存在とみなされ、全世界から釈放の声が上がるようになった。
1982年ロベン島から、ポールスモア刑務所に移送され、1989年7月に時の大統領ピーター・ウィレム・ボータと会見が行われた。
ボータは、マンデラとは政治的な立場を超え個人的な友好関係を築いていたとされる。
さらにマンデラは、1989年12月に次の大統領となった、F・W・デクラーク(彼は、黒人たちとの交渉によって、南アフリカの将来を決めてゆくという、現実的な民主改革路線を標榜していた人)と会談したが、獄中から釈放されることはなかった。
1990年2月2日、デクラークは、アフリカ民族会議や他の政治団体の活動許可とマンデラ釈放の約束をして、ついに2月11日釈放された。
釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーから、10万人もの人々が祝福して見守る中行われた。実に27年間の投獄からの解放であった。
解放後は、マンデラはアフリカ民族会議代表として、政府国民党と政治犯の釈放や、アパルトヘイト諸制度の廃止を新憲法制定の前提として要求した。
マンデラ釈放後も、反政府勢力の抗争は続いていた。
1991年6月、ついに国民党政府は、アパルトヘイトの根幹法である人口登録法、原住民土地法、集団地域法などを廃止した。
1991年7月にはマンデラが、アフリカ民族会議の議長に選出され、マンデラの後継者の暗殺事件による暴動や政府国民との交渉の継続を根気強く行うことで、1993年11月合意が成立し、暫定憲法が国会で採択され、1994年4月全人種参加の制憲議会選挙が行われ、選出された新議会において新憲法を作成することが定められた。
これらの成果を受けてマンデラは、1993年12月10日にデクラークとともに、ノーベル平和賞を受賞した。  1994年4月27日、南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施され、アフリカ民族会議は得票率62.65%、252議席を獲得勝利し、マンデラはついに大統領に就任した。その時彼は76歳であった。
それ以後も、南アフリカはアパルトヘイト時の抗争に使用した武器の放置や、貧困層による治安悪化や、移民対策、エイズへの対応など問題は山積したまま、現在に至っている。
しかし、歴史上稀にみる人権問題の解決に、その人生を捧げたマンデラの功績は、今も南アフリカの人々の心に深く刻まれている。
私は、ネルソン・マンデラの人生を考える時、中国前漢時代の歴史家、司馬遷の「史記」に登場する、匈奴の捕虜となった、蘇武という漢の武将を思い出す。
蘇武に遅れて匈奴の捕虜となった、漢の武将李陵が、苦悶の末匈奴への服属を選んだのに対して、蘇武は最後まで漢帝国への忠誠を貫き、考えを翻すことなく牢獄生活に耐え抜いた。
その結果、後日、漢と匈奴の和平が締結されたおり、何のわだかまりもなく、蘇武は故郷漢に帰ることができた。
祖国へ帰る蘇武を見送る時、李陵は「ああ、やはり天は見ていたのだ。」と思ったに違いない。
命をかけて、国を思う純粋な思いを、生涯持ち続けた蘇武に、天が与えた大きな償いであり、同じく、ネルソン・マンデラも、間違いなくその一人であり、
天は必ず必要な時、その場所に、必要な人材を天下すのである。
(行政府の置かれる南ア/プレトリアの公園のネルソン・マンデラ銅像)
(南ア・プレトリア/ジャカランダの木陰で休む女性)
(満開のジャカランダの花/南ア・プレトリア)
(キリンの家族たち/南ア・クルーガー国立公園)
(像の家族たち/南ア・クルーガー国立公園)
参考資料: 「新書アフリカ史」著者:峰洋一
「山月記・李陵」著者:中島敦
「マンデラの南アフリカ」著者:天木直人