『池波正太郎・縦書き論考』
頭を後ろから鉄槌で殴られたような衝撃であった。
「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」という文字が目に飛び込んできたのだ。池波正太郎著エッセイ『日曜日の万年筆』の「消化剤(上)」というエッセイを読んでいたときのことである。
何ということだ。私は日ごろから常に横書きの文章を書いているし、勿論縦書きの本を読んでいるが、最近は横書きの本もあるので、縦も横も何の違和感なく書き、そして読んでいる。そこで今回のタイトルは『池波正太郎・縦書き論考』となった。
さて、この衝撃的なことを書いているのは、私が日ごろからその方の沢山出版されている書籍を愛読し、しかも敬愛する大作家、池波正太郎さんである。その強い縦書き支持に対する猛烈な主張はさらに続く。
「装飾のためか、本の表紙のために、大きな字を横に書くというのならわかるが、本の内容まで横組みにする神経がわからない。」ここまでくると、池波さんがこの文章を憤慨しながら、万年筆が折れるのではないかと思う位力強く執筆している様子が、まざまざと目に浮かんでくる。さらに憤慨は続くのである。
「横組みにすると、何か、しゃれた、新しい感覚を表現できたつもりなのだろうが、読むほうは大めいわくをすることになる。」これはまさに弾劾だ。池波さんに横書きの本などを献呈などしようものなら、返却どころかその場で畳に叩きつけられて、庭の焚火に放り込まれそうな怒りようである。しかし怒りはまだまだ続く。
「ローマ字は横組み、日本字は縦組みにするようにできているのだ。むかしのことだが、内容のよい或る雑誌が日本字の横組みをやめ、縦組みにしたら、たちまちに読者が増えたという。」そして次に、「当然のことだ。」と、ここまで書いてきて、自分で納得し、大きくうなずかれたのではないだろうか。しかし、最後にはついに主張だけではなく、大きな決断までして、横書き文章との決裂の宣言をされた。
「新聞の広告で、ほしいとおもった本を書店で見ても、横組みになっていると、私は買うのをやめてしまう。」
これほどの情熱をこめて、文章縦書きの主張されるには、勿論長期にわたり日本の大衆文学をけん引し、沢山の読者を魅了してやまない魅力ある本を書いてこられた自負もあるだろうし、自分の魂を込めた文章はやはり縦書きであるべきと、確たる信念があるからだろう。
確かに、良く考えてみれば、私にも横書きの「仕掛人・藤枝梅安」(私の一番の愛読書)や、鬼平犯科帳、剣客商売などは、ちょっと想像できない。
夏、日陰の縁側で、蝉の声を聞きながら、スイカを食べたり、トウモロコシを頬張ったり、蚊取り線香が焚いてあって、傍らに「仕掛人・藤枝梅安」、「鬼平犯科帳」、「剣客商売」が積んであり、時にはまどろみながら、時には真剣に読み続ける休日。こんな至福のときはない。
池波文学の妙と言えば、凪いだ海を進む船のような、何の蟠りなく読める文章の滑らかさである。そして、読者の心には、文章がまるで出汁を飲むときのように、味わい深く心に沁み込んでくるのである。私は「池波文学」を自称「出汁文学」と名付け呼んでいる。その味わい深い作品は、私が4季を通じて訪れられる「心の別荘地」として楽しんでいる。
他にももう一人、読後に清涼感を与えてくれて、気を引き締めふたたび気力を回復してくれるような作家としては、志賀直哉はその筆頭かも知れない。特に好きな作品は短編「焚火」である。しみじみとしかし味わい深く、雨後の芋がらの葉が大切そうに水玉を抱く姿を、ずっと飽きずに眺めていたい、そんな味わい深い作品である。
さて、話を元に戻そう。私が特に好きな「仕掛人・藤枝梅安」のワンシーンをご紹介しよう。池波作品の『梅安最合傘』という中に「梅安迷い箸」という、女への仕掛けの話がある。その発端は、雑司ヶ谷にある料理茶屋「橘屋忠兵衛」で、紀伊家の広敷用人(この場合紀伊家大奥勤めの武士)川村甚左衛門を仕掛ける話から始まる。梅安はいつも通り、川村用人の左耳のうしろの急所に、針を突き刺して苦痛を与えることも無く、あの世へ送り届けたのであった。部屋の障子を用心深く開け、出た所で奥の間に人の気配を感じ、締めかけた障子を開けると、床の間のわきの小さな押し入れから女が飛び出して来たのである。仕掛人が絶対にしてはならない、誰かに目撃をされるという失態を犯してしまったのである。その場合の目撃者は生かしてはおけぬのである。目撃した女は次の間に逃げ込み、渡り廊下に出て母屋へ逃げてしまったのだ。仕方なく梅安は庭から生け垣を飛び越えて、女を残し杉木立の中へ走り込んだという訳である。 さあ、これからが梅安の悩みがふつふつと心に湧き上がるのだ。池波小説珠玉の物語の始まりである。その場面は夕刻の、品川台町の藤枝梅安宅を訪れた、同業の仕掛人「彦次郎」との会話から始まる。梅安は湯を浴びていた。
『梅安最合傘 迷い箸』から抜粋
(中略)
「梅安さん、行って来ましたよ」
「うむ・・・」
湯殿で湯をつかう音が絶えた。
梅安は沈黙している。
彦次郎は台所へ行き、笊の中の浅蜊と、三丁の豆腐を見出した。
日中、ここへ手伝いに来るおせき婆さんにいいつけ、梅安が仕度させたものであろう。
「梅安さん・・・梅安さん」
「うむ」
「今日も、忙しかったらしいねえ」
「このところ、手がはなせぬ病人が多くてな」
「酒の支度をしていいかね?」
台所から、彦次郎がいうのへ、
「いいが・・・それよりも、湯へ入らぬか。私は、いま、出るところだ」
「いや、どうせ泊めてもらうのだから、寝しなに入れてもらいましょうよ」
「わざわざ、遠くまで、足を運ばせてすまなかったな」
「なあに・・・」
昨日の昼ごろに、浅草外れの塩入土手下の彦治郎の家へ、梅安があらわれ、
「実は、昨日・・・」
と、自分の仕掛けを女に目撃されたことをはなすや、彦次郎は、すぐさまのみこんで、
「まあ、ちょっと探って来ましょうよ」
雑司ヶ谷へ出向いてくれたのである。
梅安が湯殿から出て来ると、早くも彦次郎は、火鉢に小鍋をかけ、塩・酒・醤油で薄味に整えた出汁を張り、浅蜊の剥身と豆腐、それに葱の五分切りを杉の木箱へ盛り、酒の燗に取りかかっていた。
さあっと、雨の音・・・。
「少し冷えてきたね、梅安さん」
「いいところへ来てくれた」
「ちょいと風邪気味なのだ。濡れちまっちゃあかなわねえ。春の風邪は、しつっこいからね」
「よし。あとで鍼を打ってあげよう」
(後略)
とまあ、こんな風に実に日常の景色をまるで自分がそこで、主人公になって話し、動いているかのように錯覚を起こさせてしまう文章の妙味を味わわせてくれる。しかし、そこには少し梅安の後味の悪い仕掛けの失敗の雰囲気も感じさせる。その合間に彦次郎が鍋の支度と、酒の用意をしているさまが、何と巧みに盛り込まれている事だろう。魔法のようなペン使いを感じさせてくれるのである。
そして風呂上りの梅安と、酒の支度をした彦次郎が火鉢を囲んで向かい合う。
(中略)
「彦さんは、その女を見てきてくれたか?」
「いや、それどころじゃあねえ。橘屋は戸を閉めたきりだ。中では、いろいろと大さわぎらしい。何しろ、お前さんがお殺んなすった侍は、紀州様の内でも羽振りのいい奴らしい」
梅安が、うなずく。
「どうせ、悪い奴にきまっているのだろうがね」
また、梅安はうなずいた。
気を変えて、彦次郎が、
「さ、煮えましたぜ」
「うむ・・・」
梅安が手に把った箸は、小鍋の中へ入りかけて、ふとまた、かたわらの茄子の甘酒漬をつまみかけた。
これは、おせき婆さんが自慢の漬物で、夏のさかりの茄子を水漬けの玄米と麹、塩で漬けこみ、冬から春にかけて出し、きざみこんで醤油をたらして食べる。
茄子をつまみかけた梅安の箸の先は、また、うろうろと小鍋の方へ行き、浅蜊と共に煮えかけている豆腐へ落ちた。
「迷い箸なんて梅安さんにも似合わねえ。どうしなすった?」
うすく笑った梅安が、豆腐を口に入れて、
「どうも、わからぬ」
「わかるもわからぬもねえことだ。仕掛けを見た者はあの世へ行ってもらわなくてはならねえ。それがお前さん、仕掛人の本道ですぜ。いや、どうも、こんなことを梅安さんにいう柄ではねえ」
「いや、彦さん。確かに、お前のいうとおりだよ」『仕掛人・藤枝梅安(三)梅安最合傘』著者:池波正太郎・講談社文庫
この情景の見事さは、もう完璧である。仕掛人の梅安が目撃者の処分をするために、同業者の彦次郎に探りを頼んで、夕刻食事をしながら会話する場面が何ともいえず話は恐ろしい内容であるが、しんみりとして、しかも二人の仲の良さが伝わって来る。二人の会話の合い間合い間に、味付き湯豆腐のコトコト煮えたぎる音が聞こえてきそうだ。
さて、ここに池波作品の一部を紹介したが、実は私の感想などはどうでもよかったのだ。私がここに紹介するまでもなく、池波文学のファンの方々は沢山おられるから、その味わいについては愛読者の方々にお任せするとしよう。
では、なぜわざわざここに紹介したのか、その理由は以下のとおりである。
池波文学を、「横書き」にしてご覧頂きたかったからである。
あまり違和感を感じなかった。少々違和感を感じた。非常に違和感を感じた。果たしてどの項目に当てはまったであろうか。
池波さんが、このような試みを知ったら、私は大きな声で罵倒されるかもしれない。しかし、これは私の思いつきによる試みの1つとして、どうかお許し願いたい。そして、それは終始「横書き」文章で物書きをしている私にとって、自分自身への挑戦でもあったのだ。果たして、このまま横書き文章で終生書き続けて良いものかどうかの、判断材料の1つとしての試みでもあるのだ。
これほど池波さんの、強烈な「縦書き」支持論を主張されたら、今後の原稿は縦書きにしなければいけないのではないか、と考えてみるが、いやしかし、やはりどうしても今さら縦書きに変更するのは難しいようである。なぜなら、これまでは電子機器を使って人生の半分以上は、横書きで生きて来たスタイルを、今更変更することは出来ない身についた錆となっているからである。この錆は何かの強力な心の洗剤でもない限り取り去るのは無理のようだ。
さて、まず文章を「縦書き」又は「横書き」に書く、「記録媒体」の歴史について調べて見る必要があるかもしれない。
もともと、文章の縦書きの文化は、漢字が発明された中国が発祥の地となったようだ。漢文、漢詩などは確かに縦書きで、しかもその方が見た目にもとても美しい。
いろいろ調べてみると、文章を書くための記録媒体の最古のものは、何と言っても洞窟壁画ではないだろうか。何でもインドネシアのスラウェン島にある壁画は、その年代特定の方法がウラン・トリウム法という放射性同位体を利用した測定法で調査した結果、およそ43,900年前の物語が書かれた洞窟壁画ということがわかった。また32,000年前に描かれたというフランスのショーヴェ洞窟壁画、10,000~18,000年前に描かれたというスペインのアルタミラの洞窟壁画などがある。しかしこれらの洞窟壁画は、横書き縦書きというより、描かれたもの全体をワンシーンとしてとらえる絵画的なイメージのものである。壁画の意味するものは、古代人の絵画表現によって文化を伝える文字と考えても良いのではないだろうか。その他には、記録媒体の一時しのぎのような材料としては、木の葉や、石、樹皮、動物の皮などが使われた可能性はあるが、おそらくもう時間の経過とともに現存している可能性は低いだろう。
つぎの時代に現れる記録媒体は粘土板である。有名なものはメソポタミア文明で、粘土板に記号や絵文字が縦に並べて刻まれている。かの有名な「ギルガメッシュ叙事詩」も楔形文字で縦書きに彫られている。これが縦書きに彫られた文章の最古ということになるのだろうか。それでは何故粘土板は縦型に文字が彫られたのだろうか。それは楔形の文字は、葦の茎や尖筆と呼ばれる木材の先を尖らせた筆で、縦型の粘土板に押し付けるように描かれたため、細かい文字を縦方向に彫る方が、より多くの情報を書き込めるからだとされている。古代メソポタミアでは粘土板に楔形文字で縦書きをするのが一般的だったようだ。
次にあらわれる記録媒体としては、古代エジプトで使われたパピルスがある。パピルスはナイル川沿岸に自生する水生植物である。その茎の中にある繊維状のものを取り出して細長くスライスし、縦横に並べ圧縮乾燥したら、石などの硬いもので表面を磨き平らにして、防腐剤や虫除けのオイルなどを塗って乾燥させたものである。ちなみに、防腐剤や虫除けに使われたものは、松、ミルラ、フランキンセンスなどの木の樹脂や蜜蠟などが用いられた。余談ではあるが、松の樹脂や蜜蠟などはエジプト国内での調達が可能であろうが、ミルラやフランキンセンスなどの木々はアラビア半島に自生する樹木である。このことからエジプトの交易が、他国と盛んに行われていたことがうかがえる。しかも古代エジプトのパピルスは、エジプトだけではなく、ギリシアやローマでも貴重な記録媒体として輸出され、エジプトの経済を支える重要な交易品の1つでもあった。
また脱線してしまったので話を元に戻そう。
パピルスは古代エジプトの主要な記録媒体である。その利用方法は、公式文書、法律文書、行政記録、教育用テキスト、歴史書、文芸作品、伝達通信用記録、学術記録など幅広く利用されて、エジプト文明を後世に伝える大きな役割と手段を担っていた。このパピルスが、前述の通り、ギリシアにも輸出され、エジプトと同様に重要な記録媒体として活用された。特筆すべきは哲学書、歴史書として良く知られている、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』、ヘロドトスの『歴史』、アリストテレスの哲学書なども、このパピルスの存在が後世にその知見を伝えたのである。これらの文書は巻物として保存することから、パピルス文書は特別な理由がない限り主に横書きが主であった。
さらに、パピルスはローマ時代にも同様の重要な役割を果たしている。ローマ時代も、エジプトから輸入(ローマ支配以前)されたパピルスが記録媒体として使われており、やはりパピルスの特質上巻物としての形態から文章は主に横書きにされていた。
そして古代エジプトでは、このエッセイのタイトルである、文章の横書きだけではなく、縦書きも行われていたというのだ。その理由は、古代エジプトの文字ヒエログリフが、縦書き横書き両方に対応できる文字だったことである。例えばカルナック神殿、ルクソール神殿などの神殿や、ピラミッド、王家の谷の墓の壁に刻まれた様々な碑文や壁画などは縦書きで刻まれていた。しかし、パピルスを使った、公的な文書や個人的な手紙や文学作品などは、主に横書きされていた。例としては、古代エジプトの行政文書やエジプトの宗教や死生観を表現した「フネフェルのパピルス(死者の審判の場面や開口の儀式が描かれている)」、「アニのパピルス(死者の書の中で最も有名な書で、アニという書記官のために作られた、死後の世界を旅する中での試練などが描かれている)」、「エム・ヘルのパピルス(死者が冥界を旅する時の呪文や祈祷文が記載されている)」、死後の世界を現す「死者の書」などが代表例である。つまりパピルス文書は横書きが主体であった。しかし、宗教文書や儀式用の文書において縦書きされることもあったようだ。その理由は特定の美的、象徴的な表現が縦書きが好まれたという理由らしい。やはり古代エジプトにおいても、縦書きに美意識を求め、縦書きが意識して使われていたという証である。
つぎにパピルスとは別に、人類の歴史を伝える記録媒体としては、紀元前8世紀頃から古代の中国で利用された竹簡や木簡がある。竹や板を細長く切って、複数を紐で閉じて使用した。文字は刻んだり書いたりして、必要な場合は表面を削り再利用もできる利点がある。使われた時期は春秋戦国時代から漢時代まで、行政文書、書簡、書籍、王朝の歴史的な記録、経典・経文、儀式典礼記録などに広く利用された。この竹簡は中国の時代劇映画でよく見かける記録媒体である。竹簡の記録はその形状や特徴から漢字で縦書きに使用された。
また紀元前3世紀頃から使用し始められた羊皮紙の利用がある。動物の皮が利用され、加工することでパピルスなどより耐久性が高く、しかも両面を利用することが出来る利点がある。羊皮紙は中世のヨーロッパやイスラム世界で広く利用された記録媒体である。特にイスラム世界で文章が横書きされた理由は、聖書が縦書きであるために、それとの区別を明確にするためにコーランの写本などが横書きにされたと言われている。ここにコーランの羊皮紙にまつわる逸話を一つ紹介しよう。
ウマイヤ朝のウマイヤ家に生まれた、第3代正統カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーンは、ムハンマドの教友であり、651年頃クルアーン(コーラン)の統一版を編纂したことでも知られ、また同胞のイスラム教徒によってはじめて殺害されたカリフとしても知られている。彼は、651年殺害された瞬間まで、コーランの写本を読んでいたようだ。その殺害時に飛び散った血痕が付着したコーランの写本が、現在イギリス・バーミンガム大学に保存されている。当時の羊皮紙は、イスラム教徒の重要な記録媒体であったことを示す逸話である。
羊皮紙は紙の普及後もしばらく利用されたようだ。また、ヨーロッパ世界でも、羊皮紙は横書きが一般的であった。理由としては、言語の特性として、ラテン語、古英語、古フランス語、中世ドイツ語、古イタリア語、スペイン語などが横書きに適していることから、羊皮紙の使用が無くなった現在も、文章は横書きの文化が維持されている。これはヨーロッパの言語がラテン文字やキリル文字などのアルファベットの構成で出来ているために、左から右への横書きが合理に適っているからである。ただ、芸術性や特殊なデザインなどで縦書きをすることはあるかもしれない。
そして世界の歴史には、ついに神の啓示によって与えられと言っても過言ではない、「紙」が登場するのである。
紀元2世紀頃(西暦105年頃)、中国の「蔡倫」が麻や樹皮を使って「紙」を発明したのが起源である。蔡倫は従来からある、記録用の竹簡、木簡、絹布などよりもより実用的なものを作れないか考えていたと思われる。そして、彼が思いついたのが、樹皮、麻くず、破れた漁網などから取れる繊維を水で分離し、竹や木の枠にこまかい網を張った「簀桁(すけた:蔡倫の時代はこれに似たものを使ったと思われる)」と呼ばれるもので、水に溶けている薄い繊維を掬い取り、広げ、干して乾燥し紙を作ったのである。勿論その後さらに研究を重ねて薄く丈夫な紙に仕上げたとおもわれる。彼のつくった紙は「蔡候紙」と呼ばれて、瞬く間に広く使われるようになった。何故なら、それまで一般的に使われていた竹簡や、木簡は重く保存にも多くの場所を取るために、軽く綴じやすい紙は扱いやすいという面でも人々に親しまれたのである。その紙にはもちろん中国を発祥とする漢字が書かれたために、縦書きが行われたのは言うまでもない。日本では秋の展覧会などで、書道展が開かれるが、漢詩や和歌や俳句などが、掛け軸にされたり、額装されたりして展示されている作品の数々を眺めるだけで、文字のもつ力の不思議さやその美の魅力に驚嘆するばかりである。これこそ眼福というものである。
「紙」は8世紀頃には中国からイスラム世界へ伝わった。その製法がアラビアに伝わって、10世紀頃にはエジプトの主要生産品であるパピルスにとって代わったのである。12世紀頃には地中海を渡り、その工法もヨーロッパに伝わった、フランスやスペインで製造工場が出来て、大量生産の時代がやって来た。しかも、それを待っていたかのように、15世紀になるとドイツのマインツにおいて、ヨハネス・グーテンベルグが「活版印刷機」を発明したのである。当時のヨーロッパでは、芸術や教育や宗教の普及などにより、書籍の需要が急激に拡大している時期であった。この需要を満たすには、グーテンベルグの活版印刷技術の発明は、紙の大量生産が可能となった時代と正に歯車がかみ合うようにピッタリと機能したのである。この活版印刷機はもちろん、前述のとおり文字は横組みの金属印字で組成されていた。この活版印刷機はその後世界中にその国々の言語慣行により、文字の並びは横組みや縦組みに改造され普及していったのである。
さて、漸く冒頭に掲げた、日本における文章の原点に触れる時が来た。
池波さんの時代(1923年―1990年)は、印刷技術が飛躍的に発達した時代であった。1796年ドイツのアロイス・ゼネフェルダーが発明した石版印刷という、「水」と「油」の反発を利用して印刷を行う技術を開発した。実はその特許が、1853年イギリスにおいて取得されてしまった。そして1904年アメリカのアイラ・ワシントン・ルーベルが、印刷機から直接印刷する方法ではなく、一度ゴムブランケットに転写し、それを紙に印刷するという平板印刷技術(オフセット印刷)が生まれ、品質の向上や大量印刷が可能となった。そのゴムブランケットも、その後アルミプレートに変わって、これにより安定した高品質で大量印刷が可能となり、更に色彩の鮮やかさも表現できるようになった。さらに印刷技術の発達に伴い、手作業給紙から自動給紙装置も開発されて、印刷速度も飛躍的に革新されたのである。さらに、1990年代になると、急速にデジタル印刷技術化が進み、印刷の効率化がはかられると同時に、輪転機も登場し、大量印刷の迅速化も可能となった。正にデジタル化の波は怒涛のように印刷業界の革新をもたらすと同時に、印刷を素早く精密で鮮やかにそして大量生産できる機能性を持つにいたったが、さらにそれに加えて進化したのは、オンデマンド印刷であった。それは前述の技術の逆転発想である、必要な時に必要な枚数を選択して印刷することが可能になったことである。この発想は地球の重要な資源の保護のための極めて有効な技術革新をもたらしたのである。この事は、印刷するデータが常に準備状態にあり、何時でもそれを取り出し、需要に応じて印刷が可能なオンデマンド印刷が可能になった。この事から、個人の小規模印刷から企業などの大規模印刷まで、社会のあらゆるニーズに応じることが出来るという技術革新の時代を迎えたのである。
更にデジタル化の波はこれだけでは終わらなかった。それは印刷コンテンツへの新たな革新ももたらした。
それは日本で言えば、インターネットの影響が、海外との距離を縮め、様々な分野での情報の共有化や、世界中の人々が求めるサービスの提供が可能となったことである。その情報とはテキストだけではなく、データ容量圧縮技術や画像処理技術の発達で静止画・動画が離れた場所に、タイムリーに届き、読者はモニターという新しいデジタル・メディアを通じてそれを見ることが可能になった。ということは、配信・記録・保存すべき情報は、デジタル化によって書く・読む・見る・記憶・記録するの全てが融合し、必ずしも印刷だけを手段とする必要のない時代がやって来たのである。あらゆる情報に関して言えば、デジタル化が国々の境界を取り去ったと言っても過言ではないのである。国々の国境は厳然として存在するが、デジタル化の波が打ち寄せる岸辺には、国境はないという新しい地球の「創世記」が始まったのである。これは、例えば神代の時代から、人類の歴史は、様々な理由から、戦争という悲惨で愚かな行為を繰り返してきた。このデジタル化がもたらした、地球規模の情報化社会の構築は、民族の枠や、イデオロギーの枠や、各国政体の枠や、様々な枠を取り払う力を内蔵しているのである。これは歴史において神の意志が介在した1つの表れのような気がしてならない。神が人類の平和構築への道を与えた意思の表れではないだろうか。この機会にこの時代に人類はそれを構築することが出来るかどうか、それは科学者や有識者だけが負った問題ではなく、人類全体が考えるべき、神の問題定義に回答を迫られた時代と捕えるべきである。
また話が大きくそれたので、話を元に戻すことにしよう
20世紀後半とは、このような印刷業界の革命的な進化を遂げた時代であった。
まさに、この紙の時代からデジタルの時代への、変革の時期に作家として活躍されたのが池波さんであった。1990年この世を去られた頃から、前述の通り、更に印刷技術や印刷情報に並行して、デジタル化によって、印刷技術も飛躍的に発展を遂げたのである。。
壁画、木の葉、石、粘土板、竹簡・木簡、羊皮紙、パピルス、紙と記録媒体は時代ごとに変遷を遂げ、ついにデジタル記録媒体に情報を書き込む時代がやって来た。そのデジタル媒体もデータが小容量用のUSBメモリ、SDカード、外付HDD/SSD、光学ディスク(CD、DVD、Blu-ray)などや、大容量、例えば企業用のデータセンター用の「オンプレミス型ストレージサーバ」や、最近は社会的にクラウド環境用に構築される、インターネットを介してデータの保存や共有するための「クラウド型ストレージサーバ」など、用途やデータの容量などによって使い分けができる時代となった。しかも驚くべきことに、例えば著者も個人的にも利用しているが、外付けハードディスクで1TB(既に2TB、3TBなどは普通に使用されている)に原稿用紙を保存するとして、その原稿用紙が400字詰めであれば、計算の前提をShift JisやUTF-8をエンコーディング(データを一定の規則に従って目的の情報に変換すること)を使用した場合1文字あたりの容量を2バイト換算で行うと、およそ100万枚以上の保存が可能となるのである。原稿用紙100万枚以上ということであれば、一体何冊分の書籍となるのであろうか。例えば旧約聖書が約70万字、新約聖書が約30万字と言われているので、原稿用紙100万枚というと、単純計算だが、ざっと聖書が約400冊ほどの分量となるわけだ。私の机に聖書を400冊も積んだら、座るスペースなどなくなってしまう。それが机の隅の小さな1TBのハードディスクに収まってしまうという例である。
これまで長い期間、記録媒体として中心的な役割をはたしてきた紙は、この時点でデジタルメディアにその役割をバトンタッチしたといえる。これまでに出版されて来た書籍や様々な刊行物の数は計り知れないほどあるだろう。例えば国会図書館や全国にある図書館、また公的書類や企業の資料などの膨大な量は、相当広い場所を必要として保管されているに違いない。おそらくこれらの紙媒体は未来に向かってデジタル処理され保存されると思われる。データ処理された後の紙の処分については、その価値如何によっては破棄処分となるものも相当あると思われる。それは時代の判断に任せるしかないのだろう。しかし、これで紙が現代社会から消えてなくなることなどはありえない。何故なら、特定の芸術分野での作品の材料としての価値や、多種多様に形を変えて社会生活には欠かせない存在になっている。トイレットペーパー、キッチンタオル、ティッシュ、紙おしぼり、紙袋など用途を数えたらきりがない。
またまた話がそれて来たので話を元に戻そう。
20世紀後半になって、印刷技術やデジタル技術の融合で、オンデマンド印刷が可能となり、様々な需要に対応できる時代となった。
これまで述べた、記録媒体とそれに記載される文章の、縦書き横書きの文化について、そろそろ結論を出す必要があるだろう。
結局、これだけのデジタル技術がこの世を席巻したとしても、実際に縦書きの文章が消えることはないという結論になるのである。
やはり、池波先生は正しかったのである。というか、その意味を組み取っていたたかどうかは別として、デジタル技術は日本の伝統を守るためにも、「縦書き文化」も含めて正当な発達を遂げていたのだ。何故なら、池波先生曰く「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」とおっしゃるとおり、現代の技術では、手書きの原稿用紙を印刷用データに変換できるOCR技術、AIによるテキスト変換技術などにより、縦書きの文化はこれからも引き続き守られていくだろう。それが書籍として出版されるのか、デジタル書籍として電子機器で読まれるかの違いだけである。
リテラシー(Literacy)という言葉がある。「読み書きの能力」の意味であるが、最近よく使われるのが、特定の分野での知識や情報を正しく理解し活用する能力を指す意味で使われることが多い。そういう意味では、今回のテーマである「縦書き/横書き」に対する、「文化リテラシー」ということで考えて見ることにしよう。つまり、異なる文化や価値観を理解し尊重するという能力である。この事は世界規模でいえば、国際的な文化の多様性や共生に理解を示し活用することである。国内的にいえば、我が国の文化の多様性を理解し活用する能力のことをいい、テーマの縦書き/横書きの文化を良く理解して活用することが大事なのである。
いま日本はデジタルデバイスであるパソコン、タブレット、スマートフォンなどの急速な普及によって、文章の横書きが浸透し主流になりつつあるかに思われる。例えば日本では学校教育の現場や、官公庁、企業、個人生活などではデジタル機器が社会のインフラを支える時代に変わり、横書きの文章が一般的に使われている。しかし一方で、小説、詩、エッセイ、書道、和歌、俳句などの世界では、引き続き縦書きの文化が生き続けるだろう。しかも、その伝統を維持継続できるデジタル技術も開発されている。これこそが真の意味での我が国の「文化リテラシー」と言えるのではなかろうか。
これまで見て来た世界の文字の横書きと縦書きの文化では、例え横書きが主の文化世界であっても、伝統的な文化などの特定の美的、象徴的な表現をする必要がある場合は、やはり縦書きが好まれて使用されたという歴史が散見された。この事からも、池波さんが力説する「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」という言葉の意味が、心から理解できたような気がする。引き続き心の中の別荘地、『仕掛人・藤枝梅安』『鬼平犯科帳』、『剣客商売』で、縦読みの文化をじっくり堪能することにしよう。最後に一言を添えると、私は横書きを止めません。
「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」という文字が目に飛び込んできたのだ。池波正太郎著エッセイ『日曜日の万年筆』の「消化剤(上)」というエッセイを読んでいたときのことである。
何ということだ。私は日ごろから常に横書きの文章を書いているし、勿論縦書きの本を読んでいるが、最近は横書きの本もあるので、縦も横も何の違和感なく書き、そして読んでいる。そこで今回のタイトルは『池波正太郎・縦書き論考』となった。
さて、この衝撃的なことを書いているのは、私が日ごろからその方の沢山出版されている書籍を愛読し、しかも敬愛する大作家、池波正太郎さんである。その強い縦書き支持に対する猛烈な主張はさらに続く。
「装飾のためか、本の表紙のために、大きな字を横に書くというのならわかるが、本の内容まで横組みにする神経がわからない。」ここまでくると、池波さんがこの文章を憤慨しながら、万年筆が折れるのではないかと思う位力強く執筆している様子が、まざまざと目に浮かんでくる。さらに憤慨は続くのである。
「横組みにすると、何か、しゃれた、新しい感覚を表現できたつもりなのだろうが、読むほうは大めいわくをすることになる。」これはまさに弾劾だ。池波さんに横書きの本などを献呈などしようものなら、返却どころかその場で畳に叩きつけられて、庭の焚火に放り込まれそうな怒りようである。しかし怒りはまだまだ続く。
「ローマ字は横組み、日本字は縦組みにするようにできているのだ。むかしのことだが、内容のよい或る雑誌が日本字の横組みをやめ、縦組みにしたら、たちまちに読者が増えたという。」そして次に、「当然のことだ。」と、ここまで書いてきて、自分で納得し、大きくうなずかれたのではないだろうか。しかし、最後にはついに主張だけではなく、大きな決断までして、横書き文章との決裂の宣言をされた。
「新聞の広告で、ほしいとおもった本を書店で見ても、横組みになっていると、私は買うのをやめてしまう。」
これほどの情熱をこめて、文章縦書きの主張されるには、勿論長期にわたり日本の大衆文学をけん引し、沢山の読者を魅了してやまない魅力ある本を書いてこられた自負もあるだろうし、自分の魂を込めた文章はやはり縦書きであるべきと、確たる信念があるからだろう。
確かに、良く考えてみれば、私にも横書きの「仕掛人・藤枝梅安」(私の一番の愛読書)や、鬼平犯科帳、剣客商売などは、ちょっと想像できない。
夏、日陰の縁側で、蝉の声を聞きながら、スイカを食べたり、トウモロコシを頬張ったり、蚊取り線香が焚いてあって、傍らに「仕掛人・藤枝梅安」、「鬼平犯科帳」、「剣客商売」が積んであり、時にはまどろみながら、時には真剣に読み続ける休日。こんな至福のときはない。
池波文学の妙と言えば、凪いだ海を進む船のような、何の蟠りなく読める文章の滑らかさである。そして、読者の心には、文章がまるで出汁を飲むときのように、味わい深く心に沁み込んでくるのである。私は「池波文学」を自称「出汁文学」と名付け呼んでいる。その味わい深い作品は、私が4季を通じて訪れられる「心の別荘地」として楽しんでいる。
他にももう一人、読後に清涼感を与えてくれて、気を引き締めふたたび気力を回復してくれるような作家としては、志賀直哉はその筆頭かも知れない。特に好きな作品は短編「焚火」である。しみじみとしかし味わい深く、雨後の芋がらの葉が大切そうに水玉を抱く姿を、ずっと飽きずに眺めていたい、そんな味わい深い作品である。
さて、話を元に戻そう。私が特に好きな「仕掛人・藤枝梅安」のワンシーンをご紹介しよう。池波作品の『梅安最合傘』という中に「梅安迷い箸」という、女への仕掛けの話がある。その発端は、雑司ヶ谷にある料理茶屋「橘屋忠兵衛」で、紀伊家の広敷用人(この場合紀伊家大奥勤めの武士)川村甚左衛門を仕掛ける話から始まる。梅安はいつも通り、川村用人の左耳のうしろの急所に、針を突き刺して苦痛を与えることも無く、あの世へ送り届けたのであった。部屋の障子を用心深く開け、出た所で奥の間に人の気配を感じ、締めかけた障子を開けると、床の間のわきの小さな押し入れから女が飛び出して来たのである。仕掛人が絶対にしてはならない、誰かに目撃をされるという失態を犯してしまったのである。その場合の目撃者は生かしてはおけぬのである。目撃した女は次の間に逃げ込み、渡り廊下に出て母屋へ逃げてしまったのだ。仕方なく梅安は庭から生け垣を飛び越えて、女を残し杉木立の中へ走り込んだという訳である。 さあ、これからが梅安の悩みがふつふつと心に湧き上がるのだ。池波小説珠玉の物語の始まりである。その場面は夕刻の、品川台町の藤枝梅安宅を訪れた、同業の仕掛人「彦次郎」との会話から始まる。梅安は湯を浴びていた。
『梅安最合傘 迷い箸』から抜粋
(中略)
「梅安さん、行って来ましたよ」
「うむ・・・」
湯殿で湯をつかう音が絶えた。
梅安は沈黙している。
彦次郎は台所へ行き、笊の中の浅蜊と、三丁の豆腐を見出した。
日中、ここへ手伝いに来るおせき婆さんにいいつけ、梅安が仕度させたものであろう。
「梅安さん・・・梅安さん」
「うむ」
「今日も、忙しかったらしいねえ」
「このところ、手がはなせぬ病人が多くてな」
「酒の支度をしていいかね?」
台所から、彦次郎がいうのへ、
「いいが・・・それよりも、湯へ入らぬか。私は、いま、出るところだ」
「いや、どうせ泊めてもらうのだから、寝しなに入れてもらいましょうよ」
「わざわざ、遠くまで、足を運ばせてすまなかったな」
「なあに・・・」
昨日の昼ごろに、浅草外れの塩入土手下の彦治郎の家へ、梅安があらわれ、
「実は、昨日・・・」
と、自分の仕掛けを女に目撃されたことをはなすや、彦次郎は、すぐさまのみこんで、
「まあ、ちょっと探って来ましょうよ」
雑司ヶ谷へ出向いてくれたのである。
梅安が湯殿から出て来ると、早くも彦次郎は、火鉢に小鍋をかけ、塩・酒・醤油で薄味に整えた出汁を張り、浅蜊の剥身と豆腐、それに葱の五分切りを杉の木箱へ盛り、酒の燗に取りかかっていた。
さあっと、雨の音・・・。
「少し冷えてきたね、梅安さん」
「いいところへ来てくれた」
「ちょいと風邪気味なのだ。濡れちまっちゃあかなわねえ。春の風邪は、しつっこいからね」
「よし。あとで鍼を打ってあげよう」
(後略)
とまあ、こんな風に実に日常の景色をまるで自分がそこで、主人公になって話し、動いているかのように錯覚を起こさせてしまう文章の妙味を味わわせてくれる。しかし、そこには少し梅安の後味の悪い仕掛けの失敗の雰囲気も感じさせる。その合間に彦次郎が鍋の支度と、酒の用意をしているさまが、何と巧みに盛り込まれている事だろう。魔法のようなペン使いを感じさせてくれるのである。
そして風呂上りの梅安と、酒の支度をした彦次郎が火鉢を囲んで向かい合う。
(中略)
「彦さんは、その女を見てきてくれたか?」
「いや、それどころじゃあねえ。橘屋は戸を閉めたきりだ。中では、いろいろと大さわぎらしい。何しろ、お前さんがお殺んなすった侍は、紀州様の内でも羽振りのいい奴らしい」
梅安が、うなずく。
「どうせ、悪い奴にきまっているのだろうがね」
また、梅安はうなずいた。
気を変えて、彦次郎が、
「さ、煮えましたぜ」
「うむ・・・」
梅安が手に把った箸は、小鍋の中へ入りかけて、ふとまた、かたわらの茄子の甘酒漬をつまみかけた。
これは、おせき婆さんが自慢の漬物で、夏のさかりの茄子を水漬けの玄米と麹、塩で漬けこみ、冬から春にかけて出し、きざみこんで醤油をたらして食べる。
茄子をつまみかけた梅安の箸の先は、また、うろうろと小鍋の方へ行き、浅蜊と共に煮えかけている豆腐へ落ちた。
「迷い箸なんて梅安さんにも似合わねえ。どうしなすった?」
うすく笑った梅安が、豆腐を口に入れて、
「どうも、わからぬ」
「わかるもわからぬもねえことだ。仕掛けを見た者はあの世へ行ってもらわなくてはならねえ。それがお前さん、仕掛人の本道ですぜ。いや、どうも、こんなことを梅安さんにいう柄ではねえ」
「いや、彦さん。確かに、お前のいうとおりだよ」『仕掛人・藤枝梅安(三)梅安最合傘』著者:池波正太郎・講談社文庫
この情景の見事さは、もう完璧である。仕掛人の梅安が目撃者の処分をするために、同業者の彦次郎に探りを頼んで、夕刻食事をしながら会話する場面が何ともいえず話は恐ろしい内容であるが、しんみりとして、しかも二人の仲の良さが伝わって来る。二人の会話の合い間合い間に、味付き湯豆腐のコトコト煮えたぎる音が聞こえてきそうだ。
さて、ここに池波作品の一部を紹介したが、実は私の感想などはどうでもよかったのだ。私がここに紹介するまでもなく、池波文学のファンの方々は沢山おられるから、その味わいについては愛読者の方々にお任せするとしよう。
では、なぜわざわざここに紹介したのか、その理由は以下のとおりである。
池波文学を、「横書き」にしてご覧頂きたかったからである。
あまり違和感を感じなかった。少々違和感を感じた。非常に違和感を感じた。果たしてどの項目に当てはまったであろうか。
池波さんが、このような試みを知ったら、私は大きな声で罵倒されるかもしれない。しかし、これは私の思いつきによる試みの1つとして、どうかお許し願いたい。そして、それは終始「横書き」文章で物書きをしている私にとって、自分自身への挑戦でもあったのだ。果たして、このまま横書き文章で終生書き続けて良いものかどうかの、判断材料の1つとしての試みでもあるのだ。
これほど池波さんの、強烈な「縦書き」支持論を主張されたら、今後の原稿は縦書きにしなければいけないのではないか、と考えてみるが、いやしかし、やはりどうしても今さら縦書きに変更するのは難しいようである。なぜなら、これまでは電子機器を使って人生の半分以上は、横書きで生きて来たスタイルを、今更変更することは出来ない身についた錆となっているからである。この錆は何かの強力な心の洗剤でもない限り取り去るのは無理のようだ。
さて、まず文章を「縦書き」又は「横書き」に書く、「記録媒体」の歴史について調べて見る必要があるかもしれない。
もともと、文章の縦書きの文化は、漢字が発明された中国が発祥の地となったようだ。漢文、漢詩などは確かに縦書きで、しかもその方が見た目にもとても美しい。
いろいろ調べてみると、文章を書くための記録媒体の最古のものは、何と言っても洞窟壁画ではないだろうか。何でもインドネシアのスラウェン島にある壁画は、その年代特定の方法がウラン・トリウム法という放射性同位体を利用した測定法で調査した結果、およそ43,900年前の物語が書かれた洞窟壁画ということがわかった。また32,000年前に描かれたというフランスのショーヴェ洞窟壁画、10,000~18,000年前に描かれたというスペインのアルタミラの洞窟壁画などがある。しかしこれらの洞窟壁画は、横書き縦書きというより、描かれたもの全体をワンシーンとしてとらえる絵画的なイメージのものである。壁画の意味するものは、古代人の絵画表現によって文化を伝える文字と考えても良いのではないだろうか。その他には、記録媒体の一時しのぎのような材料としては、木の葉や、石、樹皮、動物の皮などが使われた可能性はあるが、おそらくもう時間の経過とともに現存している可能性は低いだろう。
つぎの時代に現れる記録媒体は粘土板である。有名なものはメソポタミア文明で、粘土板に記号や絵文字が縦に並べて刻まれている。かの有名な「ギルガメッシュ叙事詩」も楔形文字で縦書きに彫られている。これが縦書きに彫られた文章の最古ということになるのだろうか。それでは何故粘土板は縦型に文字が彫られたのだろうか。それは楔形の文字は、葦の茎や尖筆と呼ばれる木材の先を尖らせた筆で、縦型の粘土板に押し付けるように描かれたため、細かい文字を縦方向に彫る方が、より多くの情報を書き込めるからだとされている。古代メソポタミアでは粘土板に楔形文字で縦書きをするのが一般的だったようだ。
次にあらわれる記録媒体としては、古代エジプトで使われたパピルスがある。パピルスはナイル川沿岸に自生する水生植物である。その茎の中にある繊維状のものを取り出して細長くスライスし、縦横に並べ圧縮乾燥したら、石などの硬いもので表面を磨き平らにして、防腐剤や虫除けのオイルなどを塗って乾燥させたものである。ちなみに、防腐剤や虫除けに使われたものは、松、ミルラ、フランキンセンスなどの木の樹脂や蜜蠟などが用いられた。余談ではあるが、松の樹脂や蜜蠟などはエジプト国内での調達が可能であろうが、ミルラやフランキンセンスなどの木々はアラビア半島に自生する樹木である。このことからエジプトの交易が、他国と盛んに行われていたことがうかがえる。しかも古代エジプトのパピルスは、エジプトだけではなく、ギリシアやローマでも貴重な記録媒体として輸出され、エジプトの経済を支える重要な交易品の1つでもあった。
また脱線してしまったので話を元に戻そう。
パピルスは古代エジプトの主要な記録媒体である。その利用方法は、公式文書、法律文書、行政記録、教育用テキスト、歴史書、文芸作品、伝達通信用記録、学術記録など幅広く利用されて、エジプト文明を後世に伝える大きな役割と手段を担っていた。このパピルスが、前述の通り、ギリシアにも輸出され、エジプトと同様に重要な記録媒体として活用された。特筆すべきは哲学書、歴史書として良く知られている、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』、ヘロドトスの『歴史』、アリストテレスの哲学書なども、このパピルスの存在が後世にその知見を伝えたのである。これらの文書は巻物として保存することから、パピルス文書は特別な理由がない限り主に横書きが主であった。
さらに、パピルスはローマ時代にも同様の重要な役割を果たしている。ローマ時代も、エジプトから輸入(ローマ支配以前)されたパピルスが記録媒体として使われており、やはりパピルスの特質上巻物としての形態から文章は主に横書きにされていた。
そして古代エジプトでは、このエッセイのタイトルである、文章の横書きだけではなく、縦書きも行われていたというのだ。その理由は、古代エジプトの文字ヒエログリフが、縦書き横書き両方に対応できる文字だったことである。例えばカルナック神殿、ルクソール神殿などの神殿や、ピラミッド、王家の谷の墓の壁に刻まれた様々な碑文や壁画などは縦書きで刻まれていた。しかし、パピルスを使った、公的な文書や個人的な手紙や文学作品などは、主に横書きされていた。例としては、古代エジプトの行政文書やエジプトの宗教や死生観を表現した「フネフェルのパピルス(死者の審判の場面や開口の儀式が描かれている)」、「アニのパピルス(死者の書の中で最も有名な書で、アニという書記官のために作られた、死後の世界を旅する中での試練などが描かれている)」、「エム・ヘルのパピルス(死者が冥界を旅する時の呪文や祈祷文が記載されている)」、死後の世界を現す「死者の書」などが代表例である。つまりパピルス文書は横書きが主体であった。しかし、宗教文書や儀式用の文書において縦書きされることもあったようだ。その理由は特定の美的、象徴的な表現が縦書きが好まれたという理由らしい。やはり古代エジプトにおいても、縦書きに美意識を求め、縦書きが意識して使われていたという証である。
つぎにパピルスとは別に、人類の歴史を伝える記録媒体としては、紀元前8世紀頃から古代の中国で利用された竹簡や木簡がある。竹や板を細長く切って、複数を紐で閉じて使用した。文字は刻んだり書いたりして、必要な場合は表面を削り再利用もできる利点がある。使われた時期は春秋戦国時代から漢時代まで、行政文書、書簡、書籍、王朝の歴史的な記録、経典・経文、儀式典礼記録などに広く利用された。この竹簡は中国の時代劇映画でよく見かける記録媒体である。竹簡の記録はその形状や特徴から漢字で縦書きに使用された。
また紀元前3世紀頃から使用し始められた羊皮紙の利用がある。動物の皮が利用され、加工することでパピルスなどより耐久性が高く、しかも両面を利用することが出来る利点がある。羊皮紙は中世のヨーロッパやイスラム世界で広く利用された記録媒体である。特にイスラム世界で文章が横書きされた理由は、聖書が縦書きであるために、それとの区別を明確にするためにコーランの写本などが横書きにされたと言われている。ここにコーランの羊皮紙にまつわる逸話を一つ紹介しよう。
ウマイヤ朝のウマイヤ家に生まれた、第3代正統カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーンは、ムハンマドの教友であり、651年頃クルアーン(コーラン)の統一版を編纂したことでも知られ、また同胞のイスラム教徒によってはじめて殺害されたカリフとしても知られている。彼は、651年殺害された瞬間まで、コーランの写本を読んでいたようだ。その殺害時に飛び散った血痕が付着したコーランの写本が、現在イギリス・バーミンガム大学に保存されている。当時の羊皮紙は、イスラム教徒の重要な記録媒体であったことを示す逸話である。
羊皮紙は紙の普及後もしばらく利用されたようだ。また、ヨーロッパ世界でも、羊皮紙は横書きが一般的であった。理由としては、言語の特性として、ラテン語、古英語、古フランス語、中世ドイツ語、古イタリア語、スペイン語などが横書きに適していることから、羊皮紙の使用が無くなった現在も、文章は横書きの文化が維持されている。これはヨーロッパの言語がラテン文字やキリル文字などのアルファベットの構成で出来ているために、左から右への横書きが合理に適っているからである。ただ、芸術性や特殊なデザインなどで縦書きをすることはあるかもしれない。
そして世界の歴史には、ついに神の啓示によって与えられと言っても過言ではない、「紙」が登場するのである。
紀元2世紀頃(西暦105年頃)、中国の「蔡倫」が麻や樹皮を使って「紙」を発明したのが起源である。蔡倫は従来からある、記録用の竹簡、木簡、絹布などよりもより実用的なものを作れないか考えていたと思われる。そして、彼が思いついたのが、樹皮、麻くず、破れた漁網などから取れる繊維を水で分離し、竹や木の枠にこまかい網を張った「簀桁(すけた:蔡倫の時代はこれに似たものを使ったと思われる)」と呼ばれるもので、水に溶けている薄い繊維を掬い取り、広げ、干して乾燥し紙を作ったのである。勿論その後さらに研究を重ねて薄く丈夫な紙に仕上げたとおもわれる。彼のつくった紙は「蔡候紙」と呼ばれて、瞬く間に広く使われるようになった。何故なら、それまで一般的に使われていた竹簡や、木簡は重く保存にも多くの場所を取るために、軽く綴じやすい紙は扱いやすいという面でも人々に親しまれたのである。その紙にはもちろん中国を発祥とする漢字が書かれたために、縦書きが行われたのは言うまでもない。日本では秋の展覧会などで、書道展が開かれるが、漢詩や和歌や俳句などが、掛け軸にされたり、額装されたりして展示されている作品の数々を眺めるだけで、文字のもつ力の不思議さやその美の魅力に驚嘆するばかりである。これこそ眼福というものである。
「紙」は8世紀頃には中国からイスラム世界へ伝わった。その製法がアラビアに伝わって、10世紀頃にはエジプトの主要生産品であるパピルスにとって代わったのである。12世紀頃には地中海を渡り、その工法もヨーロッパに伝わった、フランスやスペインで製造工場が出来て、大量生産の時代がやって来た。しかも、それを待っていたかのように、15世紀になるとドイツのマインツにおいて、ヨハネス・グーテンベルグが「活版印刷機」を発明したのである。当時のヨーロッパでは、芸術や教育や宗教の普及などにより、書籍の需要が急激に拡大している時期であった。この需要を満たすには、グーテンベルグの活版印刷技術の発明は、紙の大量生産が可能となった時代と正に歯車がかみ合うようにピッタリと機能したのである。この活版印刷機はもちろん、前述のとおり文字は横組みの金属印字で組成されていた。この活版印刷機はその後世界中にその国々の言語慣行により、文字の並びは横組みや縦組みに改造され普及していったのである。
さて、漸く冒頭に掲げた、日本における文章の原点に触れる時が来た。
池波さんの時代(1923年―1990年)は、印刷技術が飛躍的に発達した時代であった。1796年ドイツのアロイス・ゼネフェルダーが発明した石版印刷という、「水」と「油」の反発を利用して印刷を行う技術を開発した。実はその特許が、1853年イギリスにおいて取得されてしまった。そして1904年アメリカのアイラ・ワシントン・ルーベルが、印刷機から直接印刷する方法ではなく、一度ゴムブランケットに転写し、それを紙に印刷するという平板印刷技術(オフセット印刷)が生まれ、品質の向上や大量印刷が可能となった。そのゴムブランケットも、その後アルミプレートに変わって、これにより安定した高品質で大量印刷が可能となり、更に色彩の鮮やかさも表現できるようになった。さらに印刷技術の発達に伴い、手作業給紙から自動給紙装置も開発されて、印刷速度も飛躍的に革新されたのである。さらに、1990年代になると、急速にデジタル印刷技術化が進み、印刷の効率化がはかられると同時に、輪転機も登場し、大量印刷の迅速化も可能となった。正にデジタル化の波は怒涛のように印刷業界の革新をもたらすと同時に、印刷を素早く精密で鮮やかにそして大量生産できる機能性を持つにいたったが、さらにそれに加えて進化したのは、オンデマンド印刷であった。それは前述の技術の逆転発想である、必要な時に必要な枚数を選択して印刷することが可能になったことである。この発想は地球の重要な資源の保護のための極めて有効な技術革新をもたらしたのである。この事は、印刷するデータが常に準備状態にあり、何時でもそれを取り出し、需要に応じて印刷が可能なオンデマンド印刷が可能になった。この事から、個人の小規模印刷から企業などの大規模印刷まで、社会のあらゆるニーズに応じることが出来るという技術革新の時代を迎えたのである。
更にデジタル化の波はこれだけでは終わらなかった。それは印刷コンテンツへの新たな革新ももたらした。
それは日本で言えば、インターネットの影響が、海外との距離を縮め、様々な分野での情報の共有化や、世界中の人々が求めるサービスの提供が可能となったことである。その情報とはテキストだけではなく、データ容量圧縮技術や画像処理技術の発達で静止画・動画が離れた場所に、タイムリーに届き、読者はモニターという新しいデジタル・メディアを通じてそれを見ることが可能になった。ということは、配信・記録・保存すべき情報は、デジタル化によって書く・読む・見る・記憶・記録するの全てが融合し、必ずしも印刷だけを手段とする必要のない時代がやって来たのである。あらゆる情報に関して言えば、デジタル化が国々の境界を取り去ったと言っても過言ではないのである。国々の国境は厳然として存在するが、デジタル化の波が打ち寄せる岸辺には、国境はないという新しい地球の「創世記」が始まったのである。これは、例えば神代の時代から、人類の歴史は、様々な理由から、戦争という悲惨で愚かな行為を繰り返してきた。このデジタル化がもたらした、地球規模の情報化社会の構築は、民族の枠や、イデオロギーの枠や、各国政体の枠や、様々な枠を取り払う力を内蔵しているのである。これは歴史において神の意志が介在した1つの表れのような気がしてならない。神が人類の平和構築への道を与えた意思の表れではないだろうか。この機会にこの時代に人類はそれを構築することが出来るかどうか、それは科学者や有識者だけが負った問題ではなく、人類全体が考えるべき、神の問題定義に回答を迫られた時代と捕えるべきである。
また話が大きくそれたので、話を元に戻すことにしよう
20世紀後半とは、このような印刷業界の革命的な進化を遂げた時代であった。
まさに、この紙の時代からデジタルの時代への、変革の時期に作家として活躍されたのが池波さんであった。1990年この世を去られた頃から、前述の通り、更に印刷技術や印刷情報に並行して、デジタル化によって、印刷技術も飛躍的に発展を遂げたのである。。
壁画、木の葉、石、粘土板、竹簡・木簡、羊皮紙、パピルス、紙と記録媒体は時代ごとに変遷を遂げ、ついにデジタル記録媒体に情報を書き込む時代がやって来た。そのデジタル媒体もデータが小容量用のUSBメモリ、SDカード、外付HDD/SSD、光学ディスク(CD、DVD、Blu-ray)などや、大容量、例えば企業用のデータセンター用の「オンプレミス型ストレージサーバ」や、最近は社会的にクラウド環境用に構築される、インターネットを介してデータの保存や共有するための「クラウド型ストレージサーバ」など、用途やデータの容量などによって使い分けができる時代となった。しかも驚くべきことに、例えば著者も個人的にも利用しているが、外付けハードディスクで1TB(既に2TB、3TBなどは普通に使用されている)に原稿用紙を保存するとして、その原稿用紙が400字詰めであれば、計算の前提をShift JisやUTF-8をエンコーディング(データを一定の規則に従って目的の情報に変換すること)を使用した場合1文字あたりの容量を2バイト換算で行うと、およそ100万枚以上の保存が可能となるのである。原稿用紙100万枚以上ということであれば、一体何冊分の書籍となるのであろうか。例えば旧約聖書が約70万字、新約聖書が約30万字と言われているので、原稿用紙100万枚というと、単純計算だが、ざっと聖書が約400冊ほどの分量となるわけだ。私の机に聖書を400冊も積んだら、座るスペースなどなくなってしまう。それが机の隅の小さな1TBのハードディスクに収まってしまうという例である。
これまで長い期間、記録媒体として中心的な役割をはたしてきた紙は、この時点でデジタルメディアにその役割をバトンタッチしたといえる。これまでに出版されて来た書籍や様々な刊行物の数は計り知れないほどあるだろう。例えば国会図書館や全国にある図書館、また公的書類や企業の資料などの膨大な量は、相当広い場所を必要として保管されているに違いない。おそらくこれらの紙媒体は未来に向かってデジタル処理され保存されると思われる。データ処理された後の紙の処分については、その価値如何によっては破棄処分となるものも相当あると思われる。それは時代の判断に任せるしかないのだろう。しかし、これで紙が現代社会から消えてなくなることなどはありえない。何故なら、特定の芸術分野での作品の材料としての価値や、多種多様に形を変えて社会生活には欠かせない存在になっている。トイレットペーパー、キッチンタオル、ティッシュ、紙おしぼり、紙袋など用途を数えたらきりがない。
またまた話がそれて来たので話を元に戻そう。
20世紀後半になって、印刷技術やデジタル技術の融合で、オンデマンド印刷が可能となり、様々な需要に対応できる時代となった。
これまで述べた、記録媒体とそれに記載される文章の、縦書き横書きの文化について、そろそろ結論を出す必要があるだろう。
結局、これだけのデジタル技術がこの世を席巻したとしても、実際に縦書きの文章が消えることはないという結論になるのである。
やはり、池波先生は正しかったのである。というか、その意味を組み取っていたたかどうかは別として、デジタル技術は日本の伝統を守るためにも、「縦書き文化」も含めて正当な発達を遂げていたのだ。何故なら、池波先生曰く「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」とおっしゃるとおり、現代の技術では、手書きの原稿用紙を印刷用データに変換できるOCR技術、AIによるテキスト変換技術などにより、縦書きの文化はこれからも引き続き守られていくだろう。それが書籍として出版されるのか、デジタル書籍として電子機器で読まれるかの違いだけである。
リテラシー(Literacy)という言葉がある。「読み書きの能力」の意味であるが、最近よく使われるのが、特定の分野での知識や情報を正しく理解し活用する能力を指す意味で使われることが多い。そういう意味では、今回のテーマである「縦書き/横書き」に対する、「文化リテラシー」ということで考えて見ることにしよう。つまり、異なる文化や価値観を理解し尊重するという能力である。この事は世界規模でいえば、国際的な文化の多様性や共生に理解を示し活用することである。国内的にいえば、我が国の文化の多様性を理解し活用する能力のことをいい、テーマの縦書き/横書きの文化を良く理解して活用することが大事なのである。
いま日本はデジタルデバイスであるパソコン、タブレット、スマートフォンなどの急速な普及によって、文章の横書きが浸透し主流になりつつあるかに思われる。例えば日本では学校教育の現場や、官公庁、企業、個人生活などではデジタル機器が社会のインフラを支える時代に変わり、横書きの文章が一般的に使われている。しかし一方で、小説、詩、エッセイ、書道、和歌、俳句などの世界では、引き続き縦書きの文化が生き続けるだろう。しかも、その伝統を維持継続できるデジタル技術も開発されている。これこそが真の意味での我が国の「文化リテラシー」と言えるのではなかろうか。
これまで見て来た世界の文字の横書きと縦書きの文化では、例え横書きが主の文化世界であっても、伝統的な文化などの特定の美的、象徴的な表現をする必要がある場合は、やはり縦書きが好まれて使用されたという歴史が散見された。この事からも、池波さんが力説する「日本の文字というものは縦に読むようにできている。」という言葉の意味が、心から理解できたような気がする。引き続き心の中の別荘地、『仕掛人・藤枝梅安』『鬼平犯科帳』、『剣客商売』で、縦読みの文化をじっくり堪能することにしよう。最後に一言を添えると、私は横書きを止めません。
(パピルスに描かれた「死者の書」レプリカ/カイロにて購入/筆者所蔵)
(秋のコスモス/つくばにて/日本)
(夏のヒマワリ/つくばにて/日本)
(野生ネコ・クリ/日本)
(桃ネコ・モモ/日本)
(ヒカンザクラ/つくばにて/日本)
(コキア/ひたち海浜公園/日本)
参考資料: | 「ウイキペディア」 |
「世界史の窓」 | |
「日曜日の万年筆」著者:池波正太郎 【新潮社文庫】 | |
「仕掛人・藤枝梅安3 梅安最合傘」池波正太郎 【講談社文庫】 | |
「日本製紙連合会HP」 | |
「紙と印刷の文化記録:記憶と書物を担うもの」著者:尾鍋史彦 | |
「紙の歴史」著者:桑原隲蔵 | |
「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」著者:ウンベルト・エーコ | |
「文字と組織の世界史」著者:鈴木薫/td> | |
「筆者撮影画像」 |