『革命家・アメンホテプ4世』
古代エジプト第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世である。少年王ツタンカーメンの父であり、古代エジプト三大美女と言われるネフェルティティを妻とした。一般的に言えば、厄介な男性であり、別の意味では天才革命家である。なぜなら、彼は世界で初めて大規模な宗教改革を行ったファラオだったからである。
彼が生きた、新王国時代(紀元前1570年頃―紀元前1070年)の第18王朝は、古代エジプト史上最も繁栄した時期と言われているが、その1つ前の第二中間期(紀元前1782年頃―紀元前1570年頃)と呼ばれる時代にさかのぼって見るとその理由がわかる。
古代エジプト第2中間期は、第13王朝から第17王朝までの激動の時代である。
第13王朝時代(紀元前1803年頃―紀元前1649年頃)は、メンフィス(ナイル川中地域)近郊に首都を置き、エジプト全土の支配行っていた。平民出身の王が多く出て王権は弱かったが、官僚機構は機能して国家は安定していたとされる。しかし、王位継承が不安定で、中央政府の統制力を失い、この王朝末期にナイル・デルタの東部地域に流入した、カナン(シリア、ヨルダン、イスラエルなどの商業活動を中心に活動した)系の住民が支配者層を形成し、エジプトの社会や文化に多大な影響を与えながら、第14王朝が自立したとされている。この第14王朝の成立において、エジプトの統一が崩れ去ったのである。
第14王朝は、現在の研究者たちの考えでは、第13王朝末期と並存(第13王朝と第14王朝の成立年代はほぼ重なっている)しながら勢力を拡大していったと考えられている。
第14王朝時代(紀元前1805年頃―紀元前1649年頃)は、前述のとおり、カナン系の住民がナイル川デルタ地帯の東部に位置する、アヴァリスを拠点に自立した王朝である。第14王朝の王については、トリノ王名表に記載されている数名の王の中で、ネヘシ王(エジプト人の政府高官の息子と考えられている)が知られている。彼の治世は紀元前1705年頃とされており、当時ナイル・デルタ地域は長期にわたって飢饉や疫病が蔓延し、政治情勢の悪化や経済的危機に見舞われたことが判っている。その証拠としては、アヴァリス周辺の遺跡から発見された神殿や記念物に刻まれた記録、そして当時の地層の痕跡を分析した結果、長期の飢饉や疫病があった痕跡があることが判明した。しかもこれらの飢饉や疫病は、並立して存在していた第13王朝にも大きな打撃を与え、王権の弱体化、政治情勢の不安定化を招いた可能性がある。
これらの時代に、シリア、パレスチナに起源をもつセム族系民族とされる、ヒクソス(Hyksos=異国の支配者たち)がエジプトに侵入し、馬と戦車を使った戦術でナイル・デルタ東部地域を征服し、支第14王朝が滅び去り、第15王朝(紀元前1663年頃―紀元前1555年頃)が成立したのである。
この第15王朝(紀元前1663年頃―紀元前1555年頃)を立てた、シリア・パレスチナ地方出身とされるヒクソスによるエジプトの支配政権は、エジプトの支配体制に自国の文化や宗教を取り入れる傍らで、当時のエジプトの官僚組織を継承し、政権内部には多くのエジプト人の官僚が関わって実務を行っていたとされる。例えば、神殿や建築物にも新しいヒクソスの持つ技術を持ち込み、以後のエジプトの建設にも大きな影響を与えた。またアナトやバール神などの、自国の信仰をエジプトに持ち込み、新しい神々の信仰を取り入れさせた。これらの影響から、エジプト人は、ヒクソスという異民族の文化や宗教を知ることで、改めてエジプト独自の文化や宗教への強い思いを再認識し(古代エジプトのルネサンスと言えるかも?)、その意識を高める機会を得たのである。
この時代の遺跡からは、ヒクソスとエジプトの文化の融合を示すものがいくつか発見されている。例えば、渦巻き文様の装飾が施された土器や、アヴァリスの遺跡からは、シリア・パレスチナ地方の建築様式が感じられ、宗教儀式においては、ロバを犠牲にする儀式が行われた痕跡があって、パレスチナ地方の儀式の習慣が取り入れられていたことが伺える。
第16王朝(紀元前17世紀頃―紀元前16世紀頃)は、第2中間期の王朝で、ヒクソスの諸侯の寄せ集めが支配していた時期であるという説と、ヒクソスの侵略から逃れて、第13王朝の残存勢力がナイル川上流に移ったとされる説がある。どちらの説も、現在のカイロから650㎞離れたナイル川上流のテーベ(現在のルクソール)を本拠地として、上エジプトにおいて他の都市にも支配地域を広げたとされる王朝である。
第16王朝の衰退についても、2つの説があり、ヒクソスの勢力によりテーベ(現在のルクソール)が一時的に征服され滅亡したとされる説と、第17王朝の台頭によって、テーベ政権の支配下に入ったとする説である。
第17王朝(紀元前1663年頃―紀元前1570年頃)は、ヒクソスが下エジプト(現在のカイロ南部から地中海までのナイル川デルタ地帯)を支配していた第15王朝時代に、上エジプト(現在のカイロ南部からアスワン辺りまでの地域)のテーベを中心に成立した政権である。
第17王朝は、ヒクソス第15王朝に臣従並存しながら政権を運営していたが、ファラオ・セケンエンラー2世(紀元前年頃―紀元前年頃)が、ヒクソスに対して反乱を起こした。しかし、彼はその戦いにおいて戦死したことが判っている。1881年ルクソール西岸の遺跡Deir el-Bahri(北の修道院)で、セケンエンラー2世のミイラが発見された。ミイラの頭蓋骨には複数の致命的な傷跡があり、研究によれば、彼が戦場で捕えられて、処刑された可能性があると見られている。
セケンエンラー2世のあとを継いだのは、彼の兄弟か息子であるとされる、第17王朝最後のファラオ・カーメス(在位:紀元前1573年頃―紀元前1570年頃)である。カーメスは、ナイル川を北上し、ヒクソスの首都であるアヴァリスを攻め、大打撃を与えたが、陥落させるには至らなかった。しかし、彼はヌビア遠征を行うことで、勝利しその属国化を実行している。
カーメスの死後は、セケンエンラー2世の息子である、イアフメス1世(在位:紀元前1570年―紀元前1546年)が引き続きヒクソスと戦いを続行し、ついに念願のヒクソスのエジプト支配を奪回し、エジプトの再統一を果たしたのであった。第18王朝の幕開けであり、その彼がその初代ファラオとなった。
第18王朝(紀元前1570年頃―紀元前1293年頃)は、古代エジプト歴史上の最も重要でかつ繁栄をした王朝である。
その特徴をいくつか上げて見ることにしよう。
先ず、特徴として挙げられるのは、第13王朝以来カナン系やヒクソス系の外来政権が、エジプト王朝を支配していたが、逆にそのことがエジプト人独自の文化や宗教への強い思いを再認識させたのである。これが、所謂エジプトのレコンキスタ(国土回復)ともいうべき方向性に、舵をきるきっかけとなった。これを機に、エジプトは再び強力な国家として復活を遂げ、新しい力を得たのである。
建築関係では、第18王朝では多くの大規模な建築物が建てられた。中でもエジプト中王国時代のセンウセルト1世から始まった、ルクソールのカルナック神殿の建築は、その後も歴代ファラオが増改築を行ったが、第18王朝二代目ファラオ・アメンホテプ1世は拡張計画を開始し、聖舟祠堂や門を建築した。第4代ファラオ・トトメス1世は、第4塔門,第5塔門、中王国時代の神殿を囲む泥煉瓦周壁の修復強化作業や拡張工事を行った。また、第五代女王ハトシェプストは、第4塔門と第5塔門の間に、高さ30m、その重さ323トンのオベリスクを建てている。このオベリスクには、自分の称号、父であるトトメス1世とアメン=ラー神に捧げた銘文が刻まれている。さらに、トトメス3世は、カルナック神殿にAkh-menu「記念建造物のうち元も壮麗なもの」という意味の祝祭殿を拡張して建て、神殿の複合体の1部として重要な役割を果たしていた。
また、ルクソール神殿においても、第18王朝のファラオたちは多くの建設に力を入れている。アメンホテプ3世(在位:紀元前1390年―紀元前1352年頃)は、ルクソール神殿の建設を最初に始めた王である。彼はルクソール神殿の中心部分を建設した。しかし、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の時代に建設は中断されてしまった。そのアメンホテプ3世の後を受けて、建設を再開したのがツタンカーメン(在位:紀元前1336年―紀元前1327年頃)の時代だった。さらにそれを引き継いだのが第18王朝最後のファラオ・ホルエムへブ(在位:紀元前1323年―紀元前1295年頃)だった。ちなみに、ツタンカーメン(在位:紀元前1336年―紀元前1327年頃)は、ルクソール神殿コロネード(大列柱廊)も建設している。
アメンホテプ4世は、第18王朝の建築物の代表でもある、ルクソール神殿の建設を、中断してしまうファラオであり、これだけでも歴代ファラオの考えとは全く違う異質の王であったことが判る。何故なら、彼はアメン神とその神官団に対して、敵意ともいうべきアテン神への崇高なる唯一信仰を抱いていたからである。アメンホテプ4世(紀元前1362年頃―紀元前1333年頃)は、古代エジプト新王国時代第18王朝ファラオである。在位期間は、紀元前1353年頃から紀元前1336年頃、父がアメンホテプ3世、母親はティイとされている。そして配偶者は、ネフルティティである。
彼の治世の代表的なものが、何と言ってもエジプトの伝統的な多神教の歴史を塗り替える、唯一神アテン崇拝への宗教改革である。そのために、自分の名前であるアメンホテプ4世からアクエンアテンという名前にかえている。アメンホテプとは、「アメン神は満足している」という意味で、アクエンアテンとは、「アテン神に有益な者」という意味である。アメン神は古代エジプトの特にテーベ(現在のルクソール)の守護神として崇拝されてきた。アメンホテプ4世が名を変えた、アテン神というのは、太陽神であり彼が唯一神として崇拝する対象として選択した神である。つまりアメン神からアテン神に、崇拝対象を切り替えて、自分の名前も変えてアテン神に仕えることを宣言したのである。この改革は「アマルナ改革」と言われている。
アメンホテプ4世が、父親であるアメンホテプ3世から王位を継いだ、紀元前1353年頃は、首都はテーベにあり、その主要神であるアメン神はテーベのカルナック神殿を中心にアメン神官団がその祭司を司り、政治や経済に対しても大きな影響力を持っていた。アメン神官団はアメン神を盾にその力を誇示し、歴代の王から、金、銀、宝石、家畜、土地などの多くの寄進を受けて、神の宣託の代理人としての宗教儀式や祭事を取り仕切り、しかも豊富な財力によって、王以上ともいえる政治的権力と経済的権力を築き上げていたのでる。
このアメン神官団の有り余る力の誇示に対しての権力闘争は、決してアメンホテプ4世が始めたわけではなく、父であるアメンホテプ3世の頃からすでに始まっていた。アメンホテプ4世はファラオに即位後、父の意思を受け継ぎ、アメン神官団の権力を削ぐための宗教改革を行うことは、こうした時代背景を脱するための彼の悲願だったのである。
アメンホテプ4世は、最初に自身の名前を、「アメンホテプ」から「アクエンアテン」に変えた。つまり、「アメン神は満足している」から「アテン神に有益な者」に変更することで、自身から「アメン」を外し、自身を「アテン」に変え、アメン神を中心とした多神教国家から、太陽神を唯一神とする国家に変革するための強い意思表示をしたのである。
さらに、その意思を強固にするため、今までの首都であったテーベから、アケトアテン(テーベから北におよそ400㎞離れた、ナイル川沿いにある現在のエジプトのミニヤー県のアマルナ)に遷都した。
さらに彼は驚くべきことに、エジプト全土の神殿や墓の壁面に存在するアメン神の名前や図像を削り取らせ、可能な限りアメン神の神像や彫像を破壊するという、王の神に対する冒涜行為であり反乱ともいえる行動を起こした。そして究極の措置として、アメン神官団の解体とその職務の廃止を行うことで、彼らの権力を政治および宗教の舞台から削ぎ落したのである。
アクエンアテンの宗教改革は、芸術の新しい分野にも及んだ。後世に「アマルナ美術」と呼ばれる美術様式である。この内容について、詳細を教えてくれる書があるので紹介したい。
「アメンホテプ四世は、即位三年を記念してセド祭を行うことにした。この祭りは普通ファラオ即位三十年後に行い、その後は数年おきに行われるのが普通だ。だからセド祭を行なわずに死んだファラオはいくらもいる。それを三年で行うというのはいかにも早い。これは彼がこのセド祭を契機に国家宗教のアメンを離れ、アトンに移ることを決意したためだったらしい。その動機の一つがアメン神官団の力に対抗するため、との想像は許されよう。アメンホテプ四世はセド祭りの準備期間中、芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家を集めてその旨を徹底した。これまでのスポーツマン的姿の比較的画一な理想的ファラオ像は中止され、ありのままに描くことになった。しかし初期には行き過ぎもあり、これまでの伝統から離れられない者もありで、統一を達するにはさらに数年を要する。とはいえ、高い頬骨、厚い唇、尖って長い顎、狭い肩、やせた胸、出た腹と尻というアメンホテプ四世の姿の方向は決定された。」『古代エジプト 失われた世界の解読』著者:笈川博一
セド祭というのは、古代エジプトのファラオが在位中に行った、王位更新祭りのことで、ファラオの即位後30年目に始めて行われ、以後は3年ごとに繰り返し行われるのが原則なっていた。しかし厳密にそれが守られたわけではないようである。そのセド祭で、アクエンアテンが、即位後3年で行った理由としては、笈川氏が書いておられる通り、宗教改革を行うことへの強い決意表明なのであった。また、自分の統治の正当性、安定性の決意表明でもあり、加えて自分の信仰と統治は一体化したものであるという決意表明でもあったのである。
またアクエンアテンは、アテン神を唯一神として主教改革を行い、アテン神を称える「アテン賛歌」を書いている。
あなたは美しい、地平線のアテンよ。
生きるすべてのものの命を与える者よ。
あなたが昇ると、すべての国々が光に包まれる。
あなたの光は、すべての心を喜ばせる。
この詩を通じて、アテン神が全ての命に力を与えるという、偉大さを伝えようとしたのである。
アクエンアテンが、アケトアテンを建設することを思いついたのは、彼の治世5年目頃とされている。広大な土地に建設は急ピッチで進められ、治世から9年目頃には完成した。実際には完成の2年目から既に首都として使われていたようだ。ナイル川東岸に沿って13㎞に及ぶ広大な都市であった。首都機能としての、王宮、行政機関の建物、住居、特に宗教施設はアテン大神殿と小神殿を備え、周到な計画と努力が払われた様子がうかがえる。アケトアテンの宮殿や神殿には、アテン神を称える彫刻や壁画で飾られ、それらも従来のエジプトの芸術とは異なった、より自然でリアルな表現がなされていた。また、アクエンアテンの肖像画や家族の肖像画も、より人間らしい姿で描かれていた。
アクエンアテンは遷都の後、アテン神崇拝のための、大規模な宗教儀式を頻繁に行ったとされる。これまで神と人との仲介をするアメン神官団の役割を、アクエンアテンとネフェルティティが共に担った。宗教儀式には妻であるネフェルティティはもとより子供たちも参加した。彼のアケトアテンでの生活も、宗教改革の延長としてアテン神への崇拝と儀式に没頭し、反面政治や外交、特に国防に関しては関心を示さなかった。そのために、他国からの軍事支援要請には応じずに、黄金や物資を送ることで済ませた結果、アルム国やその他の従属国がエジプトから離れ、領土は縮小していった。
正妃ネフェルティティについても、少し触れてみたい。
ネフェルティティの出自は詳細な記録がなく、紀元前14世紀中頃に生まれたとされ、大神官アイの娘であるという説、ミタンニ王女タドゥキパダルという説などがある。結婚の詳細も不明で、アケトアテンに遷都して、アクエンアテンと共に統治し、二人には6人の娘が生まれたようだ。また、ネフェルティティは宗教改革をおこなったアクエンアテンの良き理解者として、その側にいて夫を支えていたと思われる。しかし、ネフェルティティの記録は、アクエンアテンの在位12年目までで、それ以後の記録が途絶えてしまっている。理由としては幾つかがあげられているが、正確な資料は何も残っていない。
その1つは、ネフェルティティが突然に亡くなったというのだ。そのためにアクエンアテンは絶望し、彼女のすべての歴史を封印したとされる説。
また、ネフェルティティは何らかの理由で、アクエンアテンの寵愛を失い、やはりその歴史に封印がなされたという説。
さらには、彼女は「アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン」という名前で、アクエンアテンの共同統治者となり、その名は消えて、アクエンアテン死後も権力者として政治手腕を振るったという説などがある。その根拠として、アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンというという名の登場時期が、ネフェルティティの名の消失時期と重なっているという説である。
そのことについて触れている記事を紹介しよう。
「アクエンアテンの治世第12年以後、アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテンというという共同統治王がアクエンアテンと並んで描かれるようになる。現在では、大方の歴史学者がこの共同統治王はネフェルティティその人であると見ている。」『ナショナル ジオグラフィック 別冊』【日経BPムック】
天才(多分)ファラオは、古代エジプトの歴史に宗教改革という特異な足跡を残し、紀元前1336年頃に崩御したとされる。
生前、彼は父であるアメンホテプ3世が、アテン神への強い崇拝心を持っていることを知っていた。しかし彼は、父がそれを唯一神として崇めることは、当時の多神教信仰が神官団を中心に民衆の支持の多数派を占め、政治の安定化に反すると考えていたことが分かっていたはずである。
それなのに息子はそれをあえて行った。妻ネフェルティティや家族とも、新都で生活の全てを打ち込んで、アテン神信仰の儀式などに没頭し、その結果彼は死後、今度は自分の息子から、手ひどい仕打ち受けることになる。これは後述したいと思う。
最後に、アクエンアテンが強い信念をもって、独断ともいえる宗教改革を行ったことは、果たしてどのように評価すべきなのか、それを検証してみたい。
先ず、アクエンアテン自身は、自分の改革をどのように考えていたのであろうか。彼は、父親が果たせなかった、アテン神崇拝を独自路線で唯一神として崇め奉り、強力な神官たちの権力を奪い取り、その組織も解体し、彼らの宗教行事の執行権や財物・土地などの寄進による蓄財の糸も断ち切った。そして、テーベを捨て、新しい自分の夢を実現するためのアケトアテンに遷都をした。美貌の妻(エジプト三大美人の1人)を迎え、数人の娘たちも生れ、そこで思い存分の宗教生活に没頭したのである。彼はエジプト最大の権力を持ち、日常生活も充実した生活を送っていた。
それでは、第三者の目で見た彼の評価はどうであったのか。
アクエンアテンの、宗教改革がもたらした社会への貢献と弊害の視点で見てみよう。
先ず社会貢献である。彼が行った宗教改革は、ある意味でいくつかの改革の理念を含んでいると思われる。宗教改革、政治改革、芸術改革である。
宗教改革は、従来のエジプトの多神教信仰を、唯一神アテン神に絞り、これまでの宗教の枠のとらえ方を変革したという、正否を超えた社会的変革への貢献である。
次に、政治改革はアクエンアテンが治世5年目頃から、事前に用意周到に計画し、テーベからアケトアテンへの遷都をしたことで、社会に大きな変革を起し、新しい政権の中央集権化の意識を知らしめたことの貢献である。
そして芸術改革は、アクエンアテンの治世において、独自の芸術の花を開かせたことである。アケトアテンは、前述笈川氏著記載のとおり「セド祭りの準備期間中、芸術の新機軸を打ち出し、宮廷芸術家を集めてその旨を徹底した。」のであり、さらに「アマルナ芸術」と呼ばれるようになる、1つの芸術の分野を確立したという貢献である。
それでは、社会的な弊害はどのあたりにあるのであろうか。先ず考えられるのが、宗教迫害、そして経済基盤への影響、さらに政治的悪影響があげられるだろう。
宗教的迫害が当時の社会的に与える影響は想像以上のものがあったと推測される。当時の社会生活は、神への信仰が人々の魂の救済と支えになっていたであろう。そのテーベを中心とした地域神であるアメン神への崇拝を禁止したばかりか、アメン神官団の組織を解体廃止し、唯物神であるアテン神への信仰を強制したのである。おそらく当時の人々にとっては神への冒涜に思えたに違いない。
また、新しい首都建設に要する費用は莫大である。
「太陽であり王でもあったアクエンアテンは、持続可能な支出と建築を行っていた。それ以前の第18王朝の王たちは、戦争や金鉱などからの収入により君主としての真価を証明したが、アクエンアテンは太陽信仰を広めるために財源には無頓着だった。エジプトは破産状態に陥っていた。」『ナショナル ジオグラフィック エジプトの女王 別冊』【日経BPムック】、つまり、アケトアテンは強い信念で宗教改革を断行し、国家を破綻状況に追い込んだのである。
政治的な影響においては、彼の宗教改革を中心とした行政に携わったのは、恐らく彼の政治方針に従う官僚集団と身内関連であったと推測できる。当時の権力構造は大きく変わったはずだ。この影響は、思うにうまく進むはずはないのである。国王は日々宗教儀式と神殿参拝に力を注ぎ、本来の祭りごとである執政の役目を怠った国に、進展があるはずはないのである。
以上、アクエンアテンの個人的な評価と、社会的な評価を簡単に分析してみたが、その結論は、彼の死後の歴史の流れがそれを物語っていると思われる。
アクエンアテンの子息、ファラオ・ツタンカーメンの父への評価が判る碑文がある。
「復古の碑(Stele of Restoration)」とう碑文は、元はカルナック神殿に設置されていたが、現在「エジプト考古学博物館(新大博物館のどちらか)」に展示されている。この碑文に以下の内容が刻まれている。アクエンアテン(父親)の宗教改革によって、エジプトの多くの神殿が荒廃したことや、父のアテン神唯一の信仰を止めて、アメン神はじめ伝統的な神々への信仰を復活させ、神殿の再建や、供物をささげるようにすること、さらにアクエンアテン以前のエジプト文化を取り戻すことで、社会が安定したことを強調するような内容が刻まれている。つまり、父親の生前の治世の全否定である。
ツタンカーメンが、父親の王としての実績を全否定した理由には、前述のとおりの社会的な弊害への対応として当然の判断であったと思われる。そしてその対応への、彼の肩を押した勢力(アメン神官団)がいたことは否めないと思われる。ツタンカーメンがファラオに即位したのが紀元前1334年頃で、アクエンアテンが崩御したのは紀元前1336年頃とされ、同紀元前1336年にアクエンアテンの次のファラオ・スメンクカーラー(即位名:アンクケペルウラー・ネフェルネフェルウアテン)が即位している。
つまり、アクエンアテンの次のファラオ・スメンクカーラーがもしネフェルティティであるならば、スメンクカーラーの治世およそ2年間は、アクエンアテンの意思を継ぐアテン神信仰は妻によって守られ、スメンクカーラー崩御後、息子ツタンカーメンの治世になって、今まで影を潜めていたアメン神官団の影響が及んで、再び多神教時代に戻ったことが伺えるのである。しかも、ツタンカーメンはその即位時の年齢が9歳であり、アメン神官団や官僚たちは躍起になって、アメンホテプ3世時代の政府組織に復帰させるべく動いたにちがいない。
さて、ここまでアメンホテプ4世の生涯について述べてきたが、彼は一体何者だったのであろうか。
これまでの歴史の中で、時代を築く力を持つ者は、その事業が果たして成功するかどうかは別として、強力なリーダーシップで物事を推し進める力を持っているものだ。
アメンホテプ4世(アクエンアテン)も、まさにその一人と言えるだろう。
私はアメンホテプ4世の宗教改革を考える時、古代ローマのカエサルのことを思い出すのである。カエサルは、元老院との確執が深まり、ローマに戻るかどうかの決断を迫られて、ローマの法律では軍を率いて超えることができない、ローマと属州ガリア・キサルピナの境界にあるルビコン川を渡るおりに発した言葉、「賽は投げられた」と言った。
まさに、アメンホテプ4世は、父が越え得なかった「ルビコン川」を渡り、従来の慣習に敢然と挑戦したのである。
(メムノンの巨像/顔がつぶれたアメンホテプ3世像/ルクソール)
(水を湛えるナイル川/ルクソール近郊)
(ナイル川の水辺の風景/クルーズ船上から)
(ワニのミイラ/コムオンボ神殿/アスワン)
参考資料: | ウィキペディア「古代エジプト・ファラオ一覧、その他」 |
「古代エジプト 失われた世界の解読」著者:笈川博一 | |
「ナショナル ジオグラフィック 別冊 エジプトの女王6人の支配者で知る新しい古代史」【日経BPムック】 | |
「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代の都市」【日経BPムック】 | |
「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代エジプト 誕生・栄華・混沌の地図」【日経BPムック】監修:河江 肖剰 | |
「ナショナル ジオグラフィック 別冊 古代エジプトの女王」著:カーラ・クーニー、翻訳:藤井留美、日本語版監修:河江 肖剰 | |
「ナショナル ジオグラフィック 天才って? 日本版」2017年5月号 | |
「NATIONAL GEOGRAPHIC」ホームページ | |
「日経IDラウンジ ナショナル ジオグラフィック 電子版」 | |
「古代女王物語」著者:酒井傳六 | |
「古代エジプト文明 世界史の潮流 大城道則」 |