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『プトレマイオス一世』


第一章 地中海覇権の確立に向けて



【ギリシア世界におけるマケドニアの抬頭】
 エジプト最後の王朝となったプトレマイオス王朝を語るには、まずマケドニア王国と、その帝国化の過程を見ていく必要がある。なぜなら、プトレマイオス王朝はエジプト人が築いた王朝ではなく、マケドニア人よって建てられた外来王朝だからである。
 マケドニア王国は、ピリッポス2世の治世に大きく飛躍を遂げた。その理由は、彼が断行した軍制改革により、ギリシア世界に対して圧倒的な軍事的優位を確立したためである。
 ここでは、その軍制改革の内容について簡潔に触れておきたい。
 ピリッポス2世が行った軍制改革には、三つの大きな改良点があった。
 一つ目は、ギリシア式ファランクスの改良点である。
 従来のギリシア式ファランクスは、重装歩兵(ホリプタイ)が密集し、楯と約2~3mの槍を突き出して前面に壁を作る隊形であった。ピリッポス2世は、この隊形を大幅に改良し、兵士が持つ槍を約5~6mの長槍サリッサに変更した。これにより、敵が接近する前に複数列から槍を突き出すことが可能となり、従来のギリシア軍よりも防御力と攻撃力の両面が飛躍的に向上した。
 二つ目は、マケドニアの軍を職業軍人化したことが挙げられる。これに対し、ギリシア諸都市の軍隊は、職人・農民・商人などの一般人が戦時に招集される市民兵(ホリプタイ)を中心としていた。彼らは自前の装備を持ち、限定的な訓練しか受けていなかったため、長期戦や高度な戦術運用には向いていなかった。一方で、職業軍人として訓練されたマケドニア兵は、統制の取れた隊列、高度な戦闘技術、長期遠征への耐性を身につけており、その戦闘力に圧倒的な差があるのは当然であった。
 三つめは、マケドニア軍は騎兵と歩兵の連携戦術を確立していたことが挙げられる。
 ピリッポス2世は、貴族騎兵(コンパニオン騎兵)と、重装歩兵を連携させる新しい戦術隊形を確立した。これは後にアレクサンドロス3世が完成させた「ハンマーとアンビル(槌と金床)」の原型となった。アンビル(重装歩兵)が敵の前進を正面で食い止める。そこにハンマー(騎兵)が敵の側面あるいは背後に突撃して、決定的な打撃を与えるのである。この二段構えの戦術は、後のアレクサンドロス三世(後に大王と呼ばれる)の無敗伝説を支える基盤となった。
 これらの軍制改革を経て、マケドニアはギリシア世界との決戦に臨んだのである。
 紀元前338年、カイロネイアの戦いが行われた。
 アテネ・テーベ連合軍は市民兵を中心とした軍隊であったが、職業軍人で構成されたマケドニア軍と交戦し、完敗を喫した。この戦いの勝利によって、ギリシア世界における軍事的主導権は完全にマケドニア王国に移った。戦後、ピリッポス2世はギリシア諸都市の代表をコリントスに招集し、コリントス同盟(ヘレニック同盟とも)を創設した。この同盟は、スパルタを除くほぼすべてのギリシア諸都市国家が加盟した、史上初のギリシア全域にまたがる政治・軍事連合であった。同盟の趣旨は「ギリシア諸都市の自治権の尊重」「相互不可侵の遵守」「加盟国間の紛争は同名評議会(シネドリオン)が裁定する」などの原則を掲げ、さらに対外戦争における総司令官(ヘゲモン)は、マケドニア王が指揮権を司るということが定められた。これにより、ピリッポスが事実上ギリシア世界の盟主となり、悲願である対ペルシア遠征に向けた戦略を本格化させる道筋が出来上がった。
 また、この戦いを境に、ギリシア世界における市民兵中心の軍隊は終焉を迎え、戦争は職業軍人(傭兵を含む)が担う時代へと移行していく。マケドニア軍の組織力と常備軍制度が、古代ギリシア世界の軍事構造を根本から変革した瞬間でもあった。
 こうしてマケドニア王国はギリシア世界に対する覇権を確立したが、その軍制改革の立役者であったピリッポス2世は、まさにこの絶頂期紀元前336年、娘クレオパトラの結婚式において暗殺され、突然この世を去ることとなった。

【マケドニア王の死】
 暗殺者はパウサニス・オレスティスという、王の親衛隊(ヘタイロイ)の一人であった。その動機については諸説あり、確定した理由は分かっていない。
 一つは、パウサニスがピリッポスの側近アッタロスの宴席で性的暴行受け、その訴えが十分に取り上げられなかったことへの恨みからとする説である。
 また、パウサニスの背後に複数の共犯者が存在したことから、外部勢力による政治的陰謀であったとする説も古代史家によって語られている。
 さらに、正妃オリンピュアスが、アレクサンドロスの地位を脅かす側室クレオパトラ・エウリュディケへの強い敵意から暗殺を画策したとする説もあり、真相は今なお謎に包まれている。
 王の死があまりに突然であったため、王位継承問題は一気に混乱へと陥った。
 アレクサンドロス3世は皇太子ではあったものの、側室クレオパトラ・エウリュディケは当時妊娠中であり、もし彼女が「純粋なマケドニア人」の男子を産めば、クレオパトラの叔父で政権内の実力者アッタロスが後見人として強力なライバルとなるのは必至であった。
 そこで、アレクサンドロスと母オリュンピアスは、アッタロス派を排除すべく迅速な行動を起こした。アレクサンドロスは、クレオパトラ・エウリュディケの叔父であるアッタロスを粛正し、クレオパトラ・エウリュディケ自身も処刑された(この処刑にはオリンピュアスが深く関与したと伝えられる)。
 さらに、ピリッポスの側近や王家の血統に関わる者のうち、アレクサンドロスに敵対する可能性のある人物を徹底的に排除し、宮廷内の反対勢力を一掃した。この迅速かつ果断な行動により、王の親衛隊(ヘタイロイ)とコンパニオン騎兵隊はアレクサンドロスへの支持と忠誠を誓い、彼は無事に王位を掌握することに成功したのである。
 加えて、アレクサンドロスは紀元前338年のカイロネイアの戦いにおいて、コンパニオン騎兵を率いてテーベの神聖隊(当時最強と謳われた精鋭部隊)を破るという輝かしい戦功を挙げていた。そのため兵士たちはすでに彼の軍事的才能よく知っており、この事実も王位継承に有利に導いたと考えられる。
 しかし、混乱はマケドニア国内だけにとどまらなかった。
 カイロネイアの戦い後、コリントス同盟によって一時的にギリシア世界の盟主となったピリッポスの突然の死は、ギリシア諸都市にも大きな動揺をもたらした。諸都市はこれを、マケドニアの支配から脱する千載一遇の好機と捉え、テーベ、スパルタをはじめとする複数のポリスが反乱の姿勢を見せたのである。
 この反乱に対し、アレクサンドロスは即位直後であったにもかかわらず、迅速に対応した。彼は軍を率いて南下し、まずテッサリアを制圧してその忠誠を誓わせるとともに、テーベに対し軍事力によって威圧した。ギリシア諸都市において、カイロネイアの戦いで神聖隊を破ったこの若き王の軍事的才能は広く知れ渡っており、抵抗の意志を失い、反乱の炎は瞬く間に鎮火された。こうしてギリシア世界は再びマケドニアの支配下に戻り、アレクサンドロスは父ピリッポスの残した覇権体制を確実なものとしたのである。

【ミエザの学園における教育】
 さて、ここで本稿の主人公の話に戻るために、少しだけ時を前に巻き戻しておきたい。
 アレクサンドロス3世は、13歳であった紀元前343年から紀元前340年、16歳になるまでの3年間、首都ベラの西方約30~40㎞に位置する、山と森に囲まれた静かな谷間の街ミエザで教育を受けた。しかもこの学園の指導者は、ギリシア世界で最も高名な哲学者の一人、アリストテレスであった。
 それでは、ピリッポス2世はなぜ王子の教育を首都ベラではなく、わざわざ首都から離れたミエザで行わせたのであろうか。そこには、王が息子アレクサンドロスに託した深い思惑が隠されていた。第一の理由として挙げられるのは、王子を宮廷の陰謀に巻き込ませたくないという強い意図である。王宮には貴族や官僚が集まり、派閥争いや権力闘争絶えず渦巻いていた。ピリッポスは、こうした政治的混乱から王子を隔離し、静かで安全な環境で王道を学ばせるのを最優先としたのである。さらにミエザは、アリストテレスという最高の師から最高の学問を受けるには理想的な場所であった。首都ベラから馬で半日ほどの距離にあり、王宮から完全に離れすぎることもなく、必要な時には連絡が届く絶妙な位置にあった。また、ミエザは古くから「ニンフの洞窟」を中心とする聖域として知られ、自然豊かな谷間が広がる静謐な土地であった。アリストテレスの教育方針である自然観察や思索をめぐらすには相応しい場所だった。このように、ミエザは政治的安全性、教育環境、地理的条件、そして宗教的な神聖さを兼ね備えた、王子教育のための最適な地であったのである。
 この学園で学んだのは、アレクサンドロスだけではない。
 ピリッポス2世は、王子とともにマケドニアの名門貴族の子弟を学ばせることで、将来の王の側近集団を育成し、王国の政治的安定を図るという明確な教育政策を持っていた。実際その学友たちは、後年アレクサンドロス大王の幕僚として名を馳せる人物ばかりである。判明している者だけでも、その名を挙げてみよう。
 へファイスティオン(最も親しい友人)、プトレマイオス(後のエジプト王)、カッサンドロス(後のマケドニア王)、リュシマコス(後のトラキア王)、ベルディッカス(後の摂政)、レオンナトス、ハルパロス(財務官)、ニカノル(パルメニオンの息子)、フィロタス(同じくパルメニオンの息子)などがそれである。これらの学友たちはすべてマケドニアの名門貴族の出身であり、アレクサンドロスの「友(ヘタイロイ)」として、教育を受け、寝食を共にしながら育てられた。ミエザでの共同生活は、彼らの間に強固な結束を生み、後の大遠征におけるアレクサンドロス軍の統率力と忠誠心の源泉となったのである。
 それでは次に、彼らが哲学者アリストテレスから受けた講義の内容について触れておきたい。
 アレクサンドロスと学友たちは、紀元前343年から340年までの3年間、当時のギリシア世界で最も高名と謳われた哲学アリストテレスから教育を受けた。しかも、その教育はマケドニア王ピリッポス2世の命によって特別に設けられたものであった。ピリッポスがこの教育に込めた目的は多岐にわたる。第一に、王子を宮廷の陰謀や派閥争いから隔離し、安全な場所で人格形成を行うことである。第二に、王子と将来側近となる貴族の子弟たちを同じ場所で教育し、同じ価値観と知的基盤を共有する結束力を持つ「エリート集団」として育て上げることであった。第三に、ギリシア文化の最高峰であるアリストテレスを招聘することで、マケドニアを地中海世界の文化的な中心へと押し上げる意図もあった。そして、なによりも重要であるのは、息子アレクサンドロスを「王の中の王」として育て、当代随一の支配者にふさわしい知性と徳を備えさせることであった。アレクサンドロスが受けた教育は、貴族子弟と同席する講義もあったと推測されるが、王子としての立場から、明らかに別メニューの個別指導が存在したと考えられる。
 教育科目は、文学・哲学・自然学・倫理学・政治学・地理・民族学・医学・軍学・行政学など多岐にわたり、さらにアレクサンドロスには王としての資質を磨くべく特別な個人指導が加えられたのである。
 ここで、アレクサンドロスと学友たちの教育を、推測できる範囲でカリキュラムごとに整理してみよう。
 まず、注目すべきはアリストテレスがアレクサンドロスの教育において何を根源的な課題とし据えたか、そして父ピリッポスがアリストテレスの教育に何を求めたかという点である。
 おそらくアレクサンドロスに対する個別指導の中心は、王権の正統性、統治と統御の倫理、支配者と被支配者の政治的融合、権力者の心理的な統御、演説理論と説得の技法。異文化統治の理念、戦略と政治の関係など、王として問われる本質的な課題であったに違いない。これらは、単なる学問の枠を超え、アレクサンドロスが後に世界帝国を築くうえで必要不可欠な「王道理念の教育」であり、貴族子弟の教育とは明確に異なる高度な内容を含むものであった。中でも特筆すべきは、アリストテレスが個別指導の一環として、特別に編集し注釈を加えたホメロスの『イーリアス』をアレクサンドロスに与えたことである。アレクサンドロスが生涯この書を携行したことはよく知られており、アリストテレスの個別教育が、彼の英雄観・倫理観・統治理念に深い影響を与えたことを示している。
 これに対して、学友たちの教育は王道を学ぶ王子の教育とは異なり、より実務的・制度的な内容が中心であった。すなわち、軍事組織の編成、戦闘時の戦略・戦術、軍事指揮官としての実務、国政にける各省庁の役割や行政実務など、将来マケドニア王国の官僚・軍人として必要となる知識と技能が重点的に享受されたのである。このように、ミエザの学園における教育は、王として王国(帝国)を統治するための哲学的・政治的教育を受けたアレクサンドロスと、軍人(将軍・司令官)や行政官として国家運営を支えるための実務教育を受けた貴族子弟とで、明確な二層構造をなすものであった。この教育体系は、後にアレクサンドロスが築くことになる、世界帝国の知的基盤となり、本人そして彼を支えた側近集団(ヘタイロイ)の結束力と能力の源泉となった。
 ここでプルタルコスが書すピリッポスとアレクサンドロス親子、そしてその学友たち(プトレマイオスを含む)を巻き込んだ逸話を紹介しておきたい。
 『あるときカリア総督のピクソダロスが、縁戚関係によってピリッポスとの同盟を実現しようとの思惑から、長女をピリッポスの息子アリダイオスに嫁入りさせようと思い立ち、その申し入れのためにアリストクリトスを遣わしてきた。するとアレクサンドロスのもとに、またしても母や友人たちが底意のある作り話を持ち込み、華やかで盛大な結婚に式典により、ピリッポスはアリダイオスを王位に就けようとしている、と吹き込んだ。これを聞いて心穏やかでないアレクサンドロスは、テッサロスという悲劇役者をカリアに遣わし、ピクソダロスに、庶子でしかも精神を病む男など相手にせず、むしろアレクサンドロスと婚姻関係を結ぶべきだと伝えさせた。ピクソダロスにも、こちらの縁談の方が格段に良いと思えた。ところがピリッポスはこの謀議に感づくと、パルメニオンの子でピロタスという、アレクサンドロスの親しい友人のひとりを引き連れ、アレクサンドロスの居室に乗り込んで、息子を厳しく叱責した。もしアレクサンドロスが、夷狄の王に奴隷として仕えるカリア人ごときの婿になりたいなどと念じているなら、みずからの生れへの裏切りであり、享受している地位への冒涜である、と言って罵ったのである。テッサロスについても、コリントスとネアルコス、さらにエリギュイオスとプトレマイオスはマケドニアから追放したが、いずれも後にアレクサンドロスが帰国させて名誉ある地位に就けてやった。』(プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳)
 この逸話は、紀元前340年から338年頃のマケドニアの宮廷で起きた出来事である。当時ピリッポス2世はギリシア世界で勢力を急速に拡大しており、周辺諸国はマケドニアとの姻戚関係を結ぶことで安全を確保しようと躍起になっていた。ここに登場するカリア総督ピクソダロスもその一人である。ピクソダロスはアケメネス朝ペルシアの属州総督であったが、ペルシア本国では王位継承をめぐる混乱が続き、地方総督の忠誠心が揺らぐ中で、カリアも独立の機運を強めていた。こうした不安定な状況下で、彼はマケドニア王家との縁戚関係を結ぶことによって、自らの地位と領土の安全を確保しようと考えたのである。そのためピクソダロスは、ピリッポスの側室の子であるアリダイオスを長女の婿に選んだ。ところが、この縁談を知ったアレクサンドロスの母オリュンピアスと一部の友人たちは、「ピリッポスはアリダイオスを王位につけようとしている」とアレクサンドロスに吹き込み、彼の不安を煽った。これを聞いたアレクサンドロスは激しく動揺し、独断で外交行動に出る。アレクサンドロスは悲劇役者テッサロスを密かにカリアへ送り、アリダイオスではなく、自分こそが婚姻相手としてふさわしいと伝えさせたのである。ピクソダロスもまた、この提案の方がより得策であると感じた。
 しかし、この密使の動きを察知したピリッポスは激怒し、パルメニオンの子ピロタスを伴ってアレクサンドロスの部屋に乗り込み、王子としての誇りを忘れた行為だと激しく叱責した。ピリッポスはこの行動を王家の威信を損なう重大な過ちとしてみなし、アレクサンドロスの周りにいた友人たちにも責任があると判断した。その結果、コリントス、ネアルコス、エリギュイオス、そしてプトレマイオスらは、王子に悪影響を与えたとしてマケドニアから追放されたのである。もっとも、彼らは後にアレクサンドロスが王位に就いた際に呼び戻され、それぞれが重要な地位に就けられた。以上が、プルタルコスが記した逸話の概要である。

【プトレマイオス一世】
 ここから、本稿の主人公であるプトレマイオス一世(以下「プトレマイオス」と記す)について語ることにしよう。
 プトレマイオスという人物の最大の特徴は、アルゲアス朝マケドニア王国が生んだ世界的英雄アレクサンドロス大王の側近であり、その遠征軍の一員として若き日々を過ごしたことである。しかし彼は、アレクサンドロスという圧倒的な光を放つ英雄の陰に隠れ、決して表舞台に立つことのない、控えめで地味な将軍として描かれることが多い。だが歴史は、英雄の死後に訪れた後継者争い(ディアドコイ戦争)の中で、プトレマイオスを突如として表舞台へと押し上げた。彼はエジプトを掌握し、外来王朝であるプトレマイオス朝を創設し、ファラオとして王権を確立したのである。
 そのため、彼がエジプトの支配者となって以降の治世については比較的豊富な史料が残されているが、それ以前、すなわちアレクサンドロス遠征軍の一武将としてのプトレマイオスについては、史料は驚くほど少ない。彼の名は、アレクサンドロスの輝かしい戦歴の陰にわずかに姿を見せるのみであり、断片的な記述からその人物像を再構成するほかない。
 しかし、史料が乏しいということは、彼が重要でなかったという意味ではない。むしろ、アレクサンドロスの側近として常に行動を共にし、遠征の最前線で任務を果たし続けたからこそ、後にエジプトを統治する力量を備えた人物へと成長したのである。本稿では、プトレマイオスの足跡を追うために、後世の文献や古代史家の記述を丹念に読み解き、散在する断片をつなぎ合わせて、その人物像を浮かび上がらせる作業を試みたい。
 本稿で主に参照する史料は、プルタルコス『英雄伝』、プルタルコス『アレクサンドロス大王伝』、イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』の四冊である。これらの史料を手がかりに、アレクサンドロスの陰に隠れながらも確かな存在感を放ち、やがてエジプトの王として歴史に名を刻むことになるプトレマイオスの姿を、可能な限り忠実に描き出していきたい。
 プトレマイオスは、紀元前367年頃、マケドニア王国の上層貴族(ヘタイロイ階級)に属する家系に生まれた。ミエザの学園で学び始めた時はすでに20歳前後の青年であり、アレクサンドロスより約13歳年上だったことが分かる。
 プトレマイオスの父はラゴス(Lagos)、母はアルシノエ(Arsinoe)である。父ラゴスの家系は、王家アルゲアス朝に次ぐ名門であり、軍事・行政の分野で重要な地位を占めていたとされる。暗殺されたピリッポス2世は、このアルゲアス朝の正統な王であり、その子アレクサンドロス3世も同じ王統に属していた。アルゲアス朝の祖先は、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの子孫アルゲウス(Argaeus)に由来すると信じられており、マケドニア王家の権威の源泉となっていた。
 プトレマイオス家は王家そのものではないものの、アルゲウス朝に次ぐ名門としてマケドニア史に名を刻む家柄であった。父ラゴスはピリッポス2世の信任厚い家臣であり、そのためプトレマイオスは幼い頃から宮廷に出入りし、自然と王子アレクサンドロスと接する環境に置かれていた。余談であるが、古代には「プトレマイオスはピリッポス2世の落胤である」という噂が流布していた。しかし現代の歴史学では、後世にプトレマイオス朝が自らの権威付けのために創作した政治的宣伝であると考えられている。
 とはいえ、アレクサンドロスとは大きく年齢が離れていたにもかかわらず、プトレマイオスがミエザの学園の選抜エリートに加えられたことは、彼が名門出身であるだけでなく、個人的にも優れた資質を備えていたことを示している。さらに、王宮に出入りする家柄であったことから、彼は王子に直接関わる立場にあって、将来もアレクサンドロスの周囲で重要な役割を担うことが期待されていたのであろう。
 前に記さなかったが、アレクサンドロスは紀元前340年、16歳でミエザにおけるアリストテレスの教育課程を終え、ベラの宮廷へ戻った。そこで彼は父ピリッポス2世のもと、政治・軍事の実務に触れ始め、王子としての役割を本格的に担うようになった。そのわずか二年後、紀元前338年、18歳のアレクサンドロスはカイロネイアの戦いに参戦した。この戦いについてはすでに述べたように、マケドニア軍はピリッポス2世による大規模な軍政改革を経て、ギリシア最強の常備軍へと生まれ変わっていた。歴史資料にアレクサンドロスが軍制改革の『立案者』として関わったという記述はないが、彼が改革の過程を父の側近くにいて学び、改革後の運用を深く理解していたことは確実である。特にピリッポスが完成させた「ハンマーとアンビル」の戦術体系は、アレクサンドロスにとって実戦で活かすべき最重要な課題であった。カイロネイアの戦いにおいて、アレクサンドロスは左翼のコンパニオン騎兵を率い、テーベの精鋭である神聖隊を撃破したのである。この突破が連合軍の戦列を崩壊させ、戦いの勝敗を決定づけたとされる。彼がこの戦術を熟知し、若くして確実に実践できたのは、父ピリッポスの軍制改革を深く理解し、その思想と構造を吸収していたからにほかならない。この勝利によって、アレクサンドロスはギリシア世界に「若き英雄」として名を轟かせ、後の王位継承においても大きな信頼を勝ち得たのである。
 ここで著者は,さらに推測を広げて見たい。
 それは、この若きコンパニオン騎兵の指揮官アレクサンドロスのすぐ側に、学友プトレマイオスもいたのではないか、という点である。
 カイロネイアの戦いは、ボイオティア地方・カイロネイア近郊の平野において行われた。左右を丘陵に挟まれたこの地形は、騎兵が機動力を最大限に発揮できる絶好の部隊であった。マケドニア軍の布陣は、中央に重装歩兵(ファランクス)、右翼中央寄りにピリッポス率いる重装歩兵、左翼にアレクサンドロス率いる推定1,800~2,000のコンパニオン騎兵を配置し、総兵力は3万~3万2千人であった。
 一方、ギリシア連合軍は、右翼にアテナイの重装歩兵、左翼にテーベの重装歩兵および精鋭の神聖隊(150組300名)を置き、総兵力は3万~3万5千人であった。
 戦況が動いたのは、ピリッポス率いる重装歩兵が、巧妙に偽装後退を始めた時である。アテナイ軍はこれを「郵政」と錯覚し、隊列を乱しながら前進した。その結果、戦場の重心が右翼へと大きく傾き、テーベ軍の左側面が無防備に露出する形となった。
 アレクサンドロスは馬上からこの一瞬の陣形の綻びを見逃さなかった。
 彼は鋭く「突撃」と号令し、自らを先頭にコンパニオン騎兵を楔形(くさび形)隊形に組ませ、テーベ軍前列の神聖隊とその側面の境界へ向けて一気に突入した。
 蹄の轟音が大地を震わせ、土煙が舞い上がる中、楔形の先端が神聖隊の密集陣形を切り裂いた。槍は折れ、盾が弾き飛び、精鋭と謳われた神聖隊は騎兵の突撃に耐えきれず隊列は崩壊し全滅した。この時、アレクサンドロスの背後を追いながら突撃に加わったプトレマイオスは、若き王子が激戦の中に見せた勇士を、勇士を、はっきりと目に焼き付けていたに違いない。後にエジプトの王となる彼が、アレクサンドロスの初陣の栄光を、この最前線で目撃していたと考えるのは、決して不自然ではないのである。
 ここで、古代史学者であり、古代ギリシア・マケドニア史の第一人者として知られるイアン・ウォーシントン(以降は、単に「ウォーシントン」と記す)が、『プトレマイオス一世』の「プトレマイオスの初期の功業」の章で、同じカイロネイアの戦いについて触れているので紹介したい。
 『プトレマイオスが二十九歳だった338年、フィリッポスとギリシア人はカイロネイアの決戦を戦った。当時十八歳だったアレクサンドロスはマケドニア側の左翼を指揮し、ギリシア側右翼のボイオティア軍を打ち負かし、有名なテーバイの神聖部隊(精鋭の歩兵部隊)を全滅させて、勇名を馳せた。会戦とその時までのプトレマイオス、双方の重要性を考えると、彼もこの戦闘に参加したに違いない。彼がどこに配置されたかはわからない。ある古代資料は、アレクサンドロスがフィリッポスの「最も経験豊富な将軍たち」に支援されたと述べており、これは通常パルメニオンとアンティパトロスを意味すると考えられている。プトレマイオスは彼らと格が違ったし、アレクサンドロスの下でさえ一度も将軍にならなかった。しかし二人の関係からして、おそらくフィリッポスは彼を若き後継者と共にマケドニアの左翼に配置したことだろう。』(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
 ウォーシントンも、同様にマケドニア軍左翼コンパニオン騎兵の指揮官アレクサンドロスのすぐ側に、プトレマイオスもいたことを記している。
 さらに、ウォーシントンが、プトレマイオスの人物像を詳しく書いているので紹介したい。
 『「プトレマイオスはアレクサンドロスの側近護衛官のひとりで、一流の兵士だったが、戦時よりも平時の手腕において有能であり、評判も高かった。振る舞いには節度があって愛想がよく、とりわけ親切で近づきやすく、王族の尊大さはいささかも帯びていなかった」「〔プトレマイオスは〕洞察力のある人物だったが、カリスマ性は持たなかった。彼はアレクサンドロス大王あるいは攻城者デメトリオスでさえも行ったようなやり方で、一般大衆を高揚させることはなかった。しかし彼は抜け目がなかった。二人のどちらも、その世代の他のいかなる指導者たちも理解しなかったことを、彼は理解していた。アレクサンドロスの帝国が一個のものとして生き残ることはないだろうということを、彼はある程度まで、意識的にせよ無意識的にせよ理解していた」。これら二つの評価  最初は古代作家によるもの、二つ目は現代の学者によるもの  は、エジプトの支配者プトレマイオスを、人として、兵士として、政治家として、そしてのちの王として、疑う余地なく称賛している。プトレマイオスは成人後の大半を、アレクサンドロス大王という傑出した人物の陰で生きてきた。」』、(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
 以上が、ウォーシントンの記すプトレマイオス像である。
 この筆致は、まるで繊細なギリシア彫刻を目の前に見るかのように、プトレマイオスという人物を恐ろしいほど鮮明に浮かび上がらせている。
 アレクサンドロス大王は、大帝国を築き上げた誰もが認めるカリスマ的英雄である。
 一方、デメトリオスは、ピリッポスの代からマケドニアを軍務で支えたアンティゴノスの息子であり、アレクサンドロス死後に始まる「ディアドコイ(継承者)戦争」における中心人物の一人であった。アンティゴノスは当時アジア全域を支配する最大勢力を誇り、その彼が、帝国統一の最大の障害とみていたのが、プトレマイオスである。地図見れば明らかなように、アンティゴノスが支配する小アジアとプトレマイオスのエジプトの間に位置するロドス島は、当時の海上貿易の要衝であり、強力な海軍力を備えていた。しかもロドスはプトレマイオス一世と緊密な同盟関係を結んでいたため、アンティゴノスはその勢力を削ぐべく、紀元前305年、息子デメトリオスにロドス遠征を命じたのである。
 デメトリオスはこの攻城戦で、地下道掘削や夜間の奇襲といった高度な戦術に加え、世界最大級の攻城兵器「へレポリス」を投入した。高さ約40m、幅約20m、九階建ての巨大攻城塔は青銅で装甲され、各階には投石器・弓兵・破壊槌が配置され、巨大な車輪で前進することができた。敵の度肝を抜くようなこの攻城戦は、デメトリオスがアレクサンドロスの後継者としての英雄的戦術を体現した人物であったことを示している。しかしながら、ロドスは強力な海軍力を背景に制海権を保持し続け、さらにプトレマイオスからの物資・援軍の支援が途絶えることはなかった。ロドス市民の高い士気も相まって、デメトリオスの遠征は最終的に失敗に終わる。そして紀元前301年、父アンティゴノスはカッサンドロス・リュシマコス・セレウコス連合軍とのイプソスの戦いで戦死し、アンティゴノス家による帝国統一の夢は潰えたのである。
 一方、プトレマイオスはカリスマ性こそ持たなかったが、抜け目のない現実主義者であった。ウォーシントンが述べるように、彼はアレクサンドロスの帝国が一つのまま存続することはないと、意識的にせよ無意識的にせよ理解していた。冷静な観察者として帝国の分裂を見抜き、「エジプトの確保」という最も堅実な戦略を選択したのである。彼は「帝国統一」ではなく「永続する一国」を選び、その結果としてプトレマイオス朝という三百年続く王朝を築き上げた。プトレマイオスは、アレクサンドロスやデメトリオスのようなカリスマを持つ人物ではなかったが、深い洞察力と現実主義に基づく型政能力において卓越していたことが分かる。
 ウォーシントンは、こうした点から、現代の学者たちがプトレマイオスを人として、兵士として、政治家として、そして王として疑う余地なく高く評価していると述べている。
 さらに、ウォーシントンの「プトレマイオスとは何者か?」と題した章から、彼の出自に関するものを抜粋してみよう。
 『初期ヘレニズム史において重要な役割を果たすようになり、エジプトにこれほど大きな影響を与えた人物にしては、プトレマイオスの生まれ、家族、教育、幼少期について、我々は何も知らないも同然である。実際、彼は十年にわたりアレクサンドロスと共にアジア遠征に従軍したが、プトレマイオスが関与したことがわかっている機会は、重要ではあってもごくわずかしかない。彼が舞台の袖から中央へ登場したのは、323年のアレクサンドロスの死後、ようやくエジプト総督になってからである。アレクサンドロスがもっと長生きし、彼の息子が王として後を継いでいたら、我々はプトレマイオスを、アレクサンドロスの大勢の取り巻きのひとりとしてしか知らなかったかもしれない。プトレマイオスはラゴスという名のマケドニア人の息子だと言われ、よってプトレマイオス朝のもうひとつの(そして実はより正確な)名前は、ラゴスの名を喚起させるラゴス朝だった。ラゴスは明らかに身分の低い家の一員であった。もしもこの情報が正しいなら、アルゲアス王家の縁戚でフィリッポス二世(在位359年―336年)の従姉妹だった可能性のあるアルシノエと結婚したことで、ラゴスの地位は上昇したに違いない。ラゴスとアルシノエは、マケドニア西方の一郷国であるエオルダイアに住んだが、後にマケドニアの首都ペラに移ったと思われる。そのペラで二人の息子プトレマイオスは教育を受けた。』(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
 ウォーシントンの記述から、プトレマイオスの人物像を分析してみよう。
 まず、彼が指摘するように、プトレマイオスの出自についてはほとんど何もわかっていない。後にエジプトを三百年間にわたり支配する王家の創設者となる人物としては、これは異例のことである。この点から推測されるのは、プトレマイオスの出自であるラゴス家が、マケドニアの名門貴族ではなかったということである。家系が歴史に記録されるほどの地位ではなかったため、後世に残る資料がほとんど存在しないのである。
 また、ウォーシントンは「アレクサンドロスの遠征に十年従軍したにもかかわらず、プトレマイオスの名が資料に現れる機会はごくわずかである」と述べている。これが示すのは、彼が前線で英雄的な活躍を見せた武将ではなかったという点である。名声を求めて突き進む性格ではなく、むしろ目立たぬ位置で状況を冷静に観察する「参謀型」の人物であったと考えられる。
 さらにウォーシントンは、「もしアレクサンドロスが長生きし、正当な後継者が帝国を継いでいたなら、プトレマイオスは単なる取り巻きの一人としてしか歴史に名は残らなかっただろう」と述べる。これは、プトレマイオスがアレクサンドロスの影に位置する人物であり、通常であれば歴史の表舞台に立つことはなかったことを意味している。しかし、アレクサンドロスの早すぎる死と帝国の混乱という歴史の転換点が、彼を表舞台へと押し上げたのである。プトレマイオスは、天才的英雄のそばでその思考や行動を冷静に読み取り、状況判断に優れた「秀才型の参謀」としての資質を備えた人物だったと言える。
 ウォーシントンはさらにプトレマイオスの父ラゴスについて「身分の低い家系であったが、王家の縁者アルシノエと結婚したことで地位が上昇した」と述べている。このことから、ラゴス家は結婚を契機に社会的地位を高め、首都ベラへ移住したと推測される。損結果、プトレマイオスは幼少期からアレクサンドロスの近くに侍り、王家と同じ教育を受ける機会を得た。教育を終え青年へと成長した後も、アレクサンドロスの側近として仕え続け、コンパニオン騎兵の一員としてとしてペルシア遠征に同行したと考えられる。
 以上を総合すると、プトレマイオスは低い家系に生まれながらも、父の代で王家との縁戚関係を得て地位を上昇させ、幼少期から王族と同じ教育環境に置かれた人物であった。
 英雄的な武功を誇るタイプではなかったが、冷静な観察力と状況判断に優れ、アレクサンドロスの側で静かに力を蓄えた「現実主義の参謀」であったことが、ウォーシントンの記述から浮かび上がってくるのである。

プトレマイオス1世の画像と貨幣(左から2番目)/グレコ・ローマン美術館/アレクサンドリア/筆者撮影

【ペルシア遠征開始】
 マケドニアの王を継ぎ、ギリシア世界の盟主としての地位を確立したアレクサンドロスは、いよいよペルシア遠征へと乗り出すことになる。ここでは、その遠征がどのような歴史的背景と動機から生まれたのかを整理しておきたい。
 マケドニアによるペルシア遠征の構想は、アレクサンドロス自身の発想ではなく、父ピリッポス2世の政治戦略に端を発している。ピリッポスは、ギリシア諸都市をコリントス同盟として統合し、その統一の大義名分として「打倒ペルシア」を掲げた。これは、かつてギリシア世界を脅かした「ペルシア戦争」の記憶を呼び起こし、ギリシア人の心を一つにまとめるための巧みな政治的手腕であったと考えられる。
 ギリシア世界にとってペルシアは、マラトン、テルモピュライ、サラミスといった戦いを通じて、彼らの脳裏に「宿敵」として焼き付けられていた。ピリッポス2世はこの歴史的感情を利用し、ギリシア世界の視線と不満を外に向けさせることで、マケドニア主導の統一を正当化したのである。加えて、当時のアケメネス朝ペルシアは、王位継承争いや地方総督の離反など、帝国としての弱体化が顕著になっていた。ピリッポスはこの国際情勢を鋭く見抜き、ギリシア世界の統一とペルシア遠征を同時に達成する壮大な計画を抱いていた。しかし、その実現を目前にして暗殺され、計画は中断された。
 アレクサンドロスは即位後、父の意思を継ぐことを自らの使命とし、ギリシア世界の盟主としてペルシア遠征を開始した。しかし、その根底には単なる「父の計画の継承」を超えた、若き王の強烈な野心を抱いていた。それは、衰退しつつあったアケメネス朝ペルシアを打倒し、ギリシア世界を超えた世界帝国を築き上げるという壮大な構想だった。
 その壮大な構想を実現するためには、何よりも強力で統制のとれた軍隊が不可欠であった。アレクサンドロス自身も、彼を支える幕僚たちも若い頃から戦場を経験しており、とりわけカイロネイアの戦いで得た実践経験は、彼らの軍事的自身と結束を強めることになった。アレクサンドロスが継承した軍隊は、父ピリッポス2世が改革によって鍛え上げた、当時ギリシア世界最強の軍である。その軍容は、伝統的な、重装歩兵(ホプリタイ)に加え、サリッサと呼ばれる長槍で武装したファランクス部隊、そしてアレクサンドロス自身が率いる高い機動力を誇るコンパニオン騎兵から構成されていた。さらに、マケドニア軍は当時としては極めて珍しく、工兵部隊や補給部隊を含む高度に組織化された軍隊であった。橋梁建設、包囲戦のための攻城機具、長距離遠征を支える兵站網など、軍事行動を支える体制が整っていたことは特筆に値する。こうした緻密な軍事的構成力は、父ピリッポス2世の軍制改革によって築かれたものであるが、アレクサンドロス自身の判断力や統率力の背景には、恩師アリストレテスから学んだ論理的思考や統治哲学が大きく影響していたと考えられる。
 こうした軍事的基盤を背景に、アレクサンドロスは独自の戦法である「ハンマーとアンビル戦術」を駆使した。すなわち、ファランクスが敵を正面から押さえ(アンビル=金床)、その隙を突いてコンパニオン騎兵が側面あるいは後方から突撃する(ハンマー=槌)。この戦術は彼の軍隊の機動力と統制力を最大限に活かすものであり、アレクサンドロス軍が当時世界最強の軍隊といわしめる要因である。こうして、アレクサンドロスは間違いなく当時世界最強の軍を率いていた。
 紀元前334年春、22歳のアレクサンドロスは軍と共にベラを出発し、へレスポントス(ダーダネルス海峡)のヨーロッパ側に位置するセストスへ向かった。そこから海峡を渡り、対岸の小アジア(現在のトルコのアジア側)にあるアビドスへ上陸した。
 実はこの渡海ルートは、紀元前480年、ペルシア王クセルクセスがギリシアへ侵攻した際に、アビドスとセストスの間に巨大な船橋を架けて通過したのと同じ地点である。アレクサンドロスは、かつてペルシアがギリシアへ侵攻した道を、「逆をたどる」ことで、今度はギリシア側がアジアへ進軍するという象徴的なメッセージを込めていたと言える。
 ウォーシントンによれば、アレクサンドロスが率いていた軍勢は、マケドニア軍とギリシア同盟軍を合わせて、歩兵約四万三千人、騎兵約五千五百人にのぼった。さらに、学者、料理人、医師、鍛冶屋、大工などの非戦闘員、そして軍艦約160隻と多数の他輸送船からなる艦隊が随伴していたと記している。
 このペルシア遠征は、単なる軍事行動ではなく、長期にわたる「帝国建設のための移動国家」ともいうべき性格を帯びていた。アレクサンドロスの軍勢が、これほど大規模で多様な構成をもって遠征を開始した事実は、彼が当初から短期決戦ではなく、アジア全域の支配を視野に入れた長期遠征を計画していたことを物語っている。
 ウォーシントンはさらに、小アジア側に到着した直後のアレクサンドロスの行動について、こう付け加えている。
 『実際に岸辺に飛び降りる前、アレクサンドロスは象徴として敵の土地へ槍を投げて刺したが、これは彼が全アジアを「槍で勝ち取った」領土と見なしたことを意味した。彼はそのすべてを征服するために、そしてそれを自分のものだと主張するために戦おうとしていた。これと同じ信条が彼の後継者たちの行動を支配し、彼らもまた帝国の分け前を槍で勝ち取ったものと見なした。これらの男たちはいかなる犠牲を払っても自分の領土をつかんで離さず、それを拡大しようと決意していた。アレクサンドロスの帝国観念を共有していたからで、それはプトレマイオスも同じだった。』(イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳)
 ウォーシントンは「それはプトレマイオスも同じだった。」と記している。アレクサンドロスの側近として常に幕営にあったプトレマイオスは、確かに大王の思想や信条を共有し、その行動原理を間近で理解していたと考えられる。
 紀元前334年、アレクサンドロスが小アジアで最初に遭遇した戦いが、グラニコス河畔の戦いであった。ここで彼が対峙したのは、ペルシア帝国のサトラップ軍(各地の総督が率いる地方軍)と、彼らに雇われたギリシア人傭兵である。
 ここでサトラップについて少し説明を加えておこう。
 アケメネス朝ペルシア帝国は、東は現在のパキスタン・カシミールから、西は現在のシリア・レヴァント、さらにエジプトに至るまでの広大な領域を支配していた。この広大な領域を統制するため、大王ダレイオス一世は紀元前513年頃、帝国を20のサトラペイア(総督領)に分割し、各地にサトラップ(総督)を任命した。サトラップは大王に服属しつつも、自治領では税の徴収、軍の召集、行政など、広範な統治権限を与えられていた。この統治制度が、いわゆるサトラップ制度である。したがって、アレクサンドロスがペルシア帝国と戦う際には、各地のサトラップが動員する地方軍も、重要な戦力として登場することになる。
 グラニコス河畔の戦いでは、アレクサンドロスは自ら騎兵を率いて渡河し、敵軍を撃破した。この勝利によって、小アジア西部のギリシア諸都市は次々とマケドニア側へと帰順していった。
 さらにアレクサンドロスは、小アジア西岸のイオニア地方にある重要都市ミレトスへ向かった。ミレトスがペルシア海軍の拠点となり、ギリシア本土への反撃基地として利用されることを防ぐためである。アレクサンドロス軍はミレトスを包囲し、最終的にこれを攻略してペルシア海軍の拠点化を阻止した。これにより、エーゲ海の制海権を確保するための初戦を制したことになる。
 続いて、カリア地方の要衝であるハリカルナッソスの攻囲戦が行われた。この都市は高く堅固な城壁を持ち、ペルシア駐留軍とギリシア人傭兵が守備していたため、対ギリシア反撃の拠点として強化されていた。アレクサンドロスは、小アジア西岸の安全を確保するため、長期戦を覚悟してでもこの要塞を攻略する必要があると判断した。
 アレクサンドロスは、ペルシア本土へ侵攻する過程で、背後に敵の拠点を残したまま内陸へ進む危険をよく理解していた。そのため、敵の拠点を徹底的に制圧し、補給線と制海権を確保しながら進軍するという、極めて合理的で計画的な戦略を遂行したのである。
 こうして、ハリカルナッソスの攻囲戦では、夜襲や火責めが繰り返され、激しい戦闘が続いた。しかし最終的には都市の大部分が破壊され、守備にあたっていたペルシア軍とギリシア人傭兵は撤退を余儀なくされた。これにより、小アジア西岸の安全はほぼ確保され、アレクサンドロスは内陸へ向けて進軍する態勢を整えることができた。
 紀元前333年、イッソス(現在のトルコ南部、地中海沿岸)において、イッソスの戦いが行われた。アレクサンドロスはペルシア王ダレイオス三世と初めて直接対決することとなった。アレクサンドロス軍約三万七千、ペルシア軍はそれを大きく上回る兵力を擁していたとされる。しかし、戦場は海と川に挟まれた狭い平地で、大兵力を展開するには不向きな地形であった。この地形的な制約が、結果としてマケドニア軍に有利に働いた。
 アレクサンドロスはこの戦いでも斜線陣(斜行陣形)を用いた。中央の歩兵ファランクスが前進して敵を引きつける一方で、右翼に布陣したアレクサンドロス自身が率いるコンパニオン騎兵が、槍の穂先となって敵中央へ斜めに突入したのである。密集して十分に展開できないダレイオス軍中央本陣は、この鋭い突撃によってほころびを生じ、やがて崩れ始めた。アレクサンドロスの騎兵が王の戦車に迫ると、ダレイオス三世は戦場から離脱した。王が逃走したことでペルシア軍全体の士気は崩壊し、軍は総崩れとなった。こうしてイッソスの戦いはアレクサンドロスの決定的勝利に終わり、ペルシア帝国の威信は大きく揺らぐこととなったのである。
 戦いに敗れたダレイオス三世は、戦場に王家の家族を置き去りにして逃走した。母・妻・子どもがアレクサンドロスの手に落ちたのである。この出来事は帝国の威信を大きく損ない、各地のサトラップ(総督)の忠誠心を揺るがせる要因となった。
 イッソスの戦いに勝利したアレクサンドロスは、内陸部へ進まず、海岸線に沿って南下した。彼の戦略は、依然として大きな戦力を保持していたペルシア海軍と正面から海戦を挑むのではなく、海軍が依存する軍港を奪い、補給と停泊の基盤を断つことで海軍そのものを無力化することにあった。
 紀元前332年、アレクサンドロスが南下するにつれ、フェニキアの主要都市──ビブロス、シドン、アルバラ、アラドスなど──は次々と降伏した。これらはペルシア海軍の主要な港湾都市であり、アレクサンドロスは戦わずしてその拠点を奪うことに成功したのである。
 ただし、フェニキア最大の海上都市ティルスだけは降伏を拒絶した。ティルスは本土から離れた島に築かれた難攻不落の要塞都市であり、ペルシア海軍の最後の重要拠点でもあった。これを放置すれば、ペルシア海軍が再び勢力を盛り返す可能性があった。
 アレクサンドロスはティルス攻略のため、本土から海へ向けて巨大な堤防(モーレ)を築き、攻城塔を備えた攻城兵器を前進させた。さらに、ギリシア同盟軍の艦隊とキプロス諸国の艦隊を呼び寄せ、海上からの封鎖も徹底した。こうしてティルス包囲戦が始まったのである。
 攻城戦は七か月に及ぶ激戦となったが、最終的には強固な城壁が破られ、海上封鎖によってペルシア海軍の補給路も断たれたことで、ティルスは陥落した。この勝利によってペルシア海軍は最後の港を失い、事実上壊滅したのである。こうしてペルシア帝国は海からの反撃手段を失い、地中海の制海権は完全にアレクサンドロスの手中に移ったのである。

〈第二章 アケメネス朝ペルシア崩壊〉に続く

ポンペイの柱(ローマ時代建造)/アレクサンドリア/エジプト/筆者撮影画像
アレクサンドリア/エジプト/筆者撮影画像
アレクサンドリア/エジプト/筆者撮影画像
出典:
Wikipedia
プルタルコス『英雄伝』、城江良和訳
プルタルコス『アレクサンドロス大王伝』、森谷公俊訳
イアン・ウォーシントン『プトレマイオス一世』、森谷公俊訳
クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』、谷栄一郎・上村健司訳
本村凌二『地中海世界の歴史2』
本村凌二『地中海世界の歴史4』
本村凌二『地中海世界の歴史6』
阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』
鈴木薫『帝国の崩壊』