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『中世スペインの平和的共存について』


(はじめに)
 スペインを旅した折、タホ川の対岸にある展望台から、小高い丘に美しく築かれたトレドの町並みを眺めながら、胸が高鳴るような感動を覚えたことがある。
トレド遠望/トレド/スペイン(著者撮影画像)
 なぜなら、この静かで荘厳な町並みの中に、かつてキリスト教・ユダヤ教・イスラーム教が一時的とはいえ共存し、互いの文化を尊重し合った稀有な時代が息づいているからである。
 711年、イスラーム教徒がイベリア半島に侵攻し、アストゥリアス地方を除くほぼ全域を支配した。その後、キリスト教勢力による国土回復運動(レコンキスタ)が進む中で、トレドはカスティーリャ王国の長期包囲に耐えかね、1085年に降伏した。しかし、後ウマイヤ朝最後のカリフ、ヒシャーム3世の廃位後も、セビリア、グラナダ、サラゴサなどにはタイファと呼ばれるイスラーム教の小王国がなお存在していた。
 1085年にトレドが再征服されると、この地では「トレド翻訳学派」と呼ばれる学者集団が活躍することになる。彼らはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒という宗教の枠を超えた組織であり、アラビア語で保存されていた古代ギリシアの文献をラテン語へ翻訳し、西欧世界へと知の遺産を橋渡しした。
 イベリア半島では、キリスト教徒による国土回復運動が激しさを増していたにもかかわらず、トレドでは宗教の違いを超えて文化遺産を守り、学問を継承しようとする営みが続けられていたのである。この歴史的事実の中には、宗教戦争(実際には政治・経済・領土など複雑な要因が絡む)を回避するための智恵が潜んでいるのではないかと、私は考えるようになった。
 711年のイスラーム教徒のイベリア半島侵攻という歴史的事実を前にして、私は「平和とは何か」を深く考えさせられた。平和を守るためには、過去の過ちを繰り返さないために、歴史に謙虚に学ぶ姿勢が不可欠である。国土回復運動の最中であっても、異なる宗教の人々が協力し合い、翻訳という文化創造の営みに携わっていたという事実は、私にとって感動以外の何ものでもなかった。
 この思いを、私はいつか文章として残したいと願い続けてきた。そして今、ようやくその機会が訪れたのである。

(イベリア半島の歴史)
 イベリア半島には、紀元前の古い時代から、ギリシャ人が「イベリア人」と呼んだ先住民が居住していた。その後、ピレネー山脈を越えて移住してきたケルト人(紀元前900〜650年頃)がイベリア人と同化し、いわゆる「ケルト=イベリア文化」が形成された。
 さらに、地中海交易で勢力を伸ばしていたフェニキア人が北アフリカに建設した都市国家カルタゴが、イベリア半島の沿岸都市を支配下に置くようになる。第一次ポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴは、失った勢力を補うため、イベリア半島の経営に一層力を注いだ。
 カルタゴの名将ハンニバル・バルカは、イベリアの拠点カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)からイベリア人傭兵を率い、ピレネー山脈とアルプス山脈を越えてイタリアへ侵攻したことはよく知られている。しかし、ハンニバルの智謀によって一時的に勝利を収めたものの、カルタゴ本国の支援不足などが響き、最終的にはローマに敗北した。第三次ポエニ戦争でもカルタゴはローマに破れ国そのものが滅亡した。その後、イベリア半島はローマ帝国の属州として組み込まれることとなった。
 ローマ帝国の支配下でイベリア半島は一定の安定を保っていたが、4〜5世紀になると、アジア系騎馬民族フン族の西進が引き金となり、ゲルマン民族の大移動が始まる。その中で西ゴート族がイベリア半島に定住し、西ゴート王国を建設した。
 560年にはトレドを都とし、さらにガリシア地方のスエボス王国(スエビ族)を併合して勢力を拡大した。西ゴート王国はキリスト教(アリウス派からカトリックへ改宗)を国教とし、イベリア半島の政治的中心として機能した。
 711年、北アフリカに勢力を広げていた後ウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世に仕える将軍ターリク・イブン・ズィヤード(ベルベル人とされる)が、ベルベル人兵を率いてジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に上陸した。
 グアダレーテ河畔の戦いで西ゴート王ロデリックが戦死すると、西ゴート王国は急速に崩壊し、イベリア半島は北部アストゥリアス地方を除くほぼ全域がイスラーム勢力の支配下に入った。
 711年の侵攻を理解するためには、イスラーム教徒がどのような宗教的・政治的背景を持っていたのかを知る必要がある。
 イスラーム教は唯一神アッラーを信じ、最後の預言者ムハンマドを通じて啓示された「コーラン」を神の言葉として受け入れる宗教である。偶像崇拝を否定し、政教一致の体制をとり、当時はカリフが政治的・宗教的権威を兼ね備えていた。
 622年、迫害を受けたムハンマドがメディナに移住して教団を設立した出来事(ヒジュラ)がイスラーム暦の元年とされる。ムハンマドの死後、正統カリフ時代にアラビア半島は統一され、ビザンツ帝国やササン朝ペルシアとの戦いを通じて、シリア・エジプト・イランへと勢力を拡大していった。
 661年、内戦を経てウマイヤ家がカリフ位を世襲し、ウマイヤ朝が成立した。首都はダマスカスに置かれ、イスラーム帝国は東西に大きく拡大した。しかし、カリフ継承問題をめぐる対立から、スンナ派とシーア派の分裂が生じ、内部矛盾が深まっていく。
 750年、アッバース家が反乱を起こし、ウマイヤ朝は滅亡した。王族の多くは殺害されたが、アブド=アッラフマーン1世だけが逃れて北アフリカに渡り、やがてイベリア半島へと向かった。アブド=アッラフマーン1世は、母がベルベル人であったこともあり、北アフリカのベルベル人勢力に迎えられ、755年にイベリア半島へ進出した。翌756年、コルドバで後ウマイヤ朝を樹立し、イスラーム勢力の中心を再興した。
 アブド=アッラフマーン3世の時代(10世紀)には最盛期を迎え、929年にはカリフを称し「西カリフ帝国」と呼ばれるほどの繁栄を誇った。コルドバは西方イスラーム文化の中心地となり、学問・哲学・医学・天文学などが大きく発展した。
 しかし、第三代カリフ・ヒシャーム3世の時代に地方勢力が反乱を起こし、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡。以後、セビリア、グラナダ、トレドなどにタイファ(小王国)が乱立し、キリスト教勢力の国土回復運動が勢いを増していく。
 イスラーム勢力が短期間で西アジア・北アフリカに広がった理由は、単なる軍事力だけではない。彼らは、異教徒に対して改宗を強制せず、人頭税(ジズヤ)を納めれば信仰を維持できた。また、ローマ帝国やササン朝の支配に不満を抱いていた住民が多かったこと、イスラーム勢力の受容を容易にした。さらに、イスラーム政権は征服地において、既存の行政制度や土地制度を柔軟に取り入れ、過度な破壊を避ける統治方針をとった。これにより、住民の生活は急激に変化せず、むしろ安定がもたらされたと感じる地域も少なくなかった。
 また、アラビア半島から地中海世界に広がる交易ネットワークを活かし、文化・学問・技術の交流が活発に行われたことも、イスラーム勢力の拡大を支えた重要な要因である。ギリシア哲学、ペルシアの行政制度、インドの数学など、多様な文明を吸収し融合させることで、イスラーム文明は高度な知的世界を築き上げた。

 スペインにおけるイスラーム支配も同様であった。
 堀田善衛氏が述べるように、コルドバではキリスト教会とモスクが同じ建物を共有した時期すらあった。
 「スペインのイスラム王朝には武断専制の風はなかった。彼らはローマの遺産を破壊しなかったように、教会を攻撃することもなく、西ゴート族のように略奪や放火、破壊を事とすることもなかった。そればかりではなく、たとえばコルドバのウマイア・カリフ王国は、はじめは聖ビセンテ教会と平和裡に交渉をして、この教会の建物の半分ほどを買いとって、そこで彼らの礼拝を行ったというのが歴史の伝える事実なのであった。この教会は、コルドバに現存していて、それはスペインの歴史を象徴するかのように、まず第一にローマ人によってヤーヌス神殿として建てられ、その遺跡に、後期ローマとビザンチン様式の混淆様式で建てられたものであった。ここで四十年間ものあいだ、常識的には二つの相容れぬ宗教とされていたものが、平和裡に共存していた。すなわち、聖書とコーランは、同じ建物を共用していたのである。その後の歴史が示すように、このような共存共用は人類の歴史でもまことに稀な例というべきものであろう」『ゴヤ』著者:堀田善衛
メスキータ(キリスト教会とモスクが共存している)/コルドバ/スペイン
 これは単なる寛容政策ではなく、宗教的多元性を前提とした都市運営が可能であったことを示す、人類史上きわめて稀な宗教共存の例である。
 この共存は永続したわけではないが、少なくとも一定期間、異なる宗教が互いの存在を認め合い、同じ都市空間で生活し、文化を育んだという事実は、歴史の中でも特筆すべき価値を持つ。
 一般に語られる「片手にコーラン、片手に剣」という比喩は、イスラーム支配の実態を正確に表しているとは言い難い。
 イスラーム文明はしばしば「融合文明」と呼ばれる。イスラーム教とアラビア語を基盤としつつ、征服地の文化――ギリシア、シリア、エジプト、ペルシア、インドなど――を積極的に取り込み、咀嚼し、独自の文明として再構築したからである。
 イスラーム教徒がイベリア半島に進出した後、キリスト教勢力による国土回復運動(レコンキスタ)が進み、1085年にカスティーリャ王国がトレドを奪回した。これがレコンキスタ本格化の象徴的な出来事であった。
 しかし、トレド奪回後に設立された翻訳学校では、宗教の違いを超えた協働が行われた。イスラーム教徒がアラビア語に翻訳し保存していた古代ギリシアの文献を、キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラーム教徒からなる「トレド翻訳学派」がラテン語へ翻訳し、西欧世界へと知の遺産を伝えたのである。
 イスラーム勢力がイベリア半島に進出すると、従来の西ゴート時代の住民に加え、アラブ人やベルベル人が新たな住民として加わった。キリスト教徒やユダヤ教徒からイスラーム教への改宗も増え、異民族間の婚姻も盛んになった。
 イスラーム教徒の中には、改宗した先住民を指す「ムラディー」という社会階層が生まれ、キリスト教徒(モサラベ)やユダヤ教徒は「ズィンミー」として保護され、一定の自治と信仰の自由が認められた。ただし、ジズヤ(人頭税)を納めることが条件であった。
 この多様な社会構成の中で、アラビア語(イスラム教徒)、ロマンス語(キリスト教徒)、ヘブライ語(ユダヤ教徒)が併用される多言語社会が形成された。
 イスラーム世界の高度な農業技術は、イベリア半島の風土を大きく変えた。灌漑技術の導入により乾燥した平野が肥沃な農地へと変貌し、サトウキビ、綿花、ザクロ、米、モモ、サフラン、オレンジ、アーモンド、イチジク、ブドウなど、多くの新しい作物が栽培されるようになった。
 都市部では繊維工業・製紙工業が発展し、絹製品、絨毯、陶器、皮革製品などが生産され、地中海交易を通じて東方イスラーム世界へ輸出された。アル=アンダルスは、経済的にも文化的にも繁栄した地域となった。
 レコンキスタ後もスペインに残留を許されたイスラーム教徒(ムデハル)が生み出した建築様式が「ムデハル様式」である。
 ムデハルとはアラビア語で「残留者」を意味する。
 ムデハル様式は、イスラーム建築の幾何学模様や装飾性と、キリスト教建築の構造が融合した独特の様式で、宗教対立を超えた文化的共存の象徴ともいえる。16世紀頃まで広く流行し、スペイン建築史に深い足跡を残した。
 また、後ウマイヤ朝がコルドバに再興された際、西ゴート時代の聖ビセンテ教会をイスラーム教徒が買い取り、モスクへと改築したことも、宗教共存の可能性を示す象徴的な出来事である。

(トレド翻訳学派の活躍)
暁の光を浴びるトレド/トレド/スペイン/著者撮影画像
 1086年にトレドがカスティーリャ王国に奪回されると、12〜13世紀にかけて「トレド翻訳学派」が活躍した。彼らはキリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラーム教徒からなる混合組織であり、アッバース朝の「智恵の館(バイト=アル=ヒクマ)」でアラビア語に翻訳されたギリシア古典を、さらにラテン語へ翻訳した。
 カスティーリャ王アルフォンソ10世の奨励により、カスティーリャ語(スペイン語)への翻訳も進み、セビリアなどにも翻訳拠点が設けられた。
 ユークリッド幾何学、プトレマイオスの天文学、アリストテレス哲学、医学、数学、農学など、膨大な知識が西欧へ流入し、これが「12世紀ルネッサンス」を生み出す原動力となった。14世紀のルネッサンスは、この12世紀の知的覚醒なしには成立しなかったとも言われる。14世紀イタリアで始まるルネッサンス(再生)の先駆けとして、12世紀の西欧では古代ギリシア・ローマ文化の復興が始まった。その最大の要因が、トレドやシチリアを経由して流入したアラビア語文献のラテン語翻訳である。
 「トレドを拠点としたギリシア・アラビア科学書の翻訳研究運動によって、ヨーロッパは近代科学の基盤となる思考様式を手に入れた」とされるように、当時のトレドは東西文化交流の中心地であり、ヨーロッパ近代の源泉地であった。

朝焼けのトレド/トレド/スペイン/著者撮影画像
 722年、アストゥリアス王国の建国者ペラーヨがコバドンガでウマイヤ朝軍を破った。この小規模な勝利が、後にレコンキスタの象徴的出発点とされる。
 1031年に後ウマイヤ朝が崩壊すると、トレド王国(ズンヌーン朝)が成立し、学問を奨励したアル・マアムーンのもとで図書館や古典収集が進んだ。しかし、1085年にカスティーリャ王国の長期包囲に屈し、トレドは陥落した。
 アルフォンソ6世はトレド入城後、キリスト教徒・イスラーム教徒・ユダヤ教徒の「三宗教の王」を称したと伝えられる。これは、トレドが多宗教共存の都市であったことを象徴している。

朝焼けのトレド/トレド/スペイン/著者撮影画像
 その後、ムワッヒド朝が衰退すると、アンダルスは第三次タイファ時代に入り、キリスト教勢力の攻勢が強まった。コルドバ、バレンシア、セビリアが次々と陥落し、1230年にはナスル朝(グラナダ王国)が成立する。
 以後、イベリア半島のイスラーム勢力はグラナダ王国のみとなり、ここでイスラーム建築の精華であるアルハンブラ宮殿が築かれた。

アルハンブラ宮殿/グラナダ/スペイン/著者撮影画像
 かつてイベリア半島を支配したイスラーム勢力は、タイファの分裂によって自ら結束を失い、キリスト教勢力の圧力に耐えられなくなっていったのである。
 イスラーム勢力が内部分裂を深めていく一方で、北部スペインのキリスト教諸国は、イスラーム勢力をイベリア半島から排除するという共通目的のもとに団結し、国土回復運動(レコンキスタ)を本格化させていった。
 イベリア半島に残された最後のイスラーム王朝は、ナスル朝グラナダ王国である。その滅亡の背景について、岩根圀和氏は次のように述べている。
 「こうして、グラナダ王国が末期的症状ともいうべき紛争状態におちこんでいるとき、イスラームにとって致命的となる事態がキリスト教世界に起きつつあった。カスティーリャ王国の王女イサベルとアラゴン連合王国の王子フェルナンドとの結婚である。」『物語スペインの歴史』、著者:岩根圀和
 この結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン連合王国が結びつき、イベリア半島最大の強国が誕生した。エンリケ4世の死後、イサベルがカスティーリャ女王イサベル1世として即位し、1479年にはフェルナンドがアラゴン王フェルナンド2世となったことで、両王国は事実上の統一を果たした。
 「かくして、カスティーリャ王国とアラゴン連合王国が合わさってイベリア半島随一の強国となり、半島の先端にひっかかるように残っているグラナダ王国にとってこれまでにない脅威となるのである。」『物語スペインの歴史』、著者:岩根圀和
 この時期、ナスル朝最後の王ボアブディル(ムハンマド11世)は、内紛と外敵の板挟みに苦しんでいた。岩根氏は彼を「愚鈍」と評するが、ワシントン・アーヴィングは『アルハンブラ物語』で、彼を「悲劇の王」として描いている。
 「狂人のような父王に投獄され、いつ処刑されるかという恐怖に怯えながら育った彼は、伯父の陰謀や宮廷内の血なまぐさい争いに翻弄され続けた。」『アルハンブラ物語』著者:W・アーヴィング

アルハンブラ宮殿からの眺め(右の建物の一角にW・アーヴィングが宿泊した)/グラナダ/スペイン/著者撮影画像
 ボアブディルは父王アブール・ハッサンに反旗を翻し、アルハンブラ宮殿を奪取したが、これはグラナダ王国の内部崩壊を決定づける行為となった。キリスト教勢力はこの混乱を好機と捉え、マラガ地方を徹底的に破壊しながら侵攻を進めた。
 叔父アズ・ザガールが奮戦して一時的に撃退したものの、ボアブディル自身はカスティーリャ軍との戦いで捕虜となり、フェルナンドの懐柔策に屈して従属を誓わされてしまう。
 ボアブディルは叔父アズ・ザガールとの共同戦線を拒み、キリスト教勢力に対抗する機会を失った。1487年には重要都市マラガが陥落し、アズ・ザガールは北アフリカへ追放された。
 その後、フェルナンド王は4万の歩兵と1万の騎兵からなる大軍を率いてグラナダ平原に侵攻し、長期包囲戦を展開した。イサベルとフェルナンドは兵糧攻めを徹底し、ついに 1492年1月2日、グラナダは開城した。
 711年のイスラーム勢力の上陸から約8世紀にわたるイスラーム支配は、ここに終焉を迎えた。

(敵対的共存)
 711年の侵攻から1492年のグラナダ陥落までの約800年間、イベリア半島ではイスラーム勢力とキリスト教勢力が、戦闘と共存を繰り返す「敵対的共存」の状態にあった。
 後ウマイヤ朝滅亡後、アル=アンダルスは第一次タイファ時代に入り、小王国が乱立した。これらの王国は結束を欠き、トレドがカスティーリャ王国に奪われると、ムラービト朝が救援に向かいサグラハスの戦いで勝利したが、長期的な統一には至らなかった。
 第二次・第三次タイファ時代と分裂が続く中、ムワッヒド朝もナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍に敗北し、イスラーム勢力は決定的に衰退した。
 一方、キリスト教勢力は「国土回復」という大義名分のもとに連携を強化し、軍事力と政治力を集中させて勢力を拡大していった。この構造的な違いこそが、両勢力の運命を分けたと言える。
 著者は、もしイスラーム勢力が生き残りを図るのであれば、次のような戦略的要因が必要だったのではないかと考える。
 第一に、タイファ化による兵力分散を避け、強固な連合体制を築くべきであったこと。分裂は軍事力の弱体化を招き、キリスト教勢力に対抗する力を奪った。
 第二に、イスラーム文明の豊かさを積極的に示し、民心を引きつける外交戦略を取るべきであったこと。アル=アンダルス高度な文化・学問・経済力は、十分に「魅力」となり得たが、それを政治的に生かしきれなかった。
 第三に、軍事対決一辺倒ではなく、キリスト教勢力との「敵対的共存」を制度化し、安定した関係を築く道を模索すべきであったことである。共存の枠組みを維持できていれば、イスラーム勢力の存続可能性はより高まっていたはずである。
 次にキリスト教勢力が勝利した戦略的要因を整理すると、以下のようになる。
 第一に、イスラーム勢力の分裂を好機と捉え、攻勢を強化したこと。敵の弱点を的確に突いた軍事行動が、レコンキスタを加速させた。
 第二に、国土回復運動の正当性を掲げ、諸王国の連携を強化したこと。宗教的・政治的な大義名分が、キリスト教勢力の結束を促したのである。
 第三に、必要に応じて共存政策を採り、内部の安定を図ったこと。イスラーム勢力は分裂によって弱体化し、キリスト教勢力は統合によって強化された。結果として、イスラーム勢力は分裂によって弱体化し、キリスト教勢力は統合によって強化された。
 「共存の可能性」のキーを握っていたのは、実際にはキリスト教側であったと言える。
 ナスル朝最後の王ボアブディルは、外交的にも軍事的にも不利な状況に追い込まれ、最終的に降伏せざるを得なかった。しかし、もしイスラーム勢力が「敵対的共存」を戦略として選び、結束を保っていたならば、別の未来があったのではないか――そう思うと、非常に残念で、胸が痛む。
 イスラーム勢力がイベリア半島に残した最大の遺産は、軍事的なものではなく、むしろ文化そのものであった。
 灌漑技術、農業、建築、哲学、医学、数学、天文学――そのすべてがスペイン文化に深く浸透し、アル=アンダルスは中世ヨーロッパにおける最も高度な文明圏の一つとなった。
 イスラーム世界は、古代ギリシアの哲学や科学をアラビア語に翻訳し、さらに独自の研究を加えて発展させた。アリストテレス哲学はイブン・ルシュド(アヴェロエス)によって再解釈され、医学はイブン・スィーナー(アヴィセンナ)の『医学典範』によって体系化され、数学は代数学(アルジャブル)として新たな段階に到達した。
 これらの知識は、トレドやシチリアを経由してラテン語に翻訳され、西欧世界へと流入した。
 古代ギリシア・ローマの知識は、イスラーム文明という“知の架け橋”を通じて再びヨーロッパに戻り、12世紀ルネッサンスを生み出す原動力となったのである。
 そしてこの知的覚醒は、後の14世紀イタリア・ルネッサンスへとつながっていった。
 また、イスラーム文明は建築や都市文化にも深い影響を残した。アルハンブラ宮殿に代表される幾何学的装飾、庭園文化、光と影を巧みに操る空間設計は、今日のスペイン文化の美意識にも息づいている。
 イスラーム勢力は政治的には滅びたが、その文化は血脈とともにスペインに残り、さらに西欧へ、そして世界へと広がっていった。
 その意味で、イスラーム文明は今も世界の文化の中に生き続けていると言えるだろう。
 そしてその遺産は、異なる文明が出会い、対立しながらも互いに融合し合うことで生まれた「共存の可能性」の証でもある。

(さいごに)
 本稿の題名『中世スペインの平和的共存』は、筆者が歴史を学ぶ際に常に念頭に置いてきた永遠の課題である。
 歴史とは、「学ぶべきもの」と「学ばれないまま繰り返されるもの」が常に交錯し、融合し、時に分離し、その本質をつかみきれない複雑な営みである。人類は歴史から多くを学ぶことができるにもかかわらず、しばしば学ばずに過ちを繰り返してきた。真実は時として人を傷つける。
 それと同じように、歴史に学ぶことが国家や民族の利害と相反する場合もある。平和を脅かす最大の要因は戦争である。戦争が悪であることは誰もが理解しているにもかかわらず、国家の利害を理由に「戦争は外交手段の一つ」として正当化され、数えきれない命が奪われてきた。
 人は反省することはできても、戦争そのものをやめることはできない。

出典:
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『スペイン史10講』著者:立石 博高
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トレド画像4枚:著者撮影画像
アルハンブラ宮殿画像2枚:著者撮影画像
メスキータ画像1枚:著者撮影画像